虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

こんなこと、あんなこと

 2月10日と11日は、俵津地区産業文化祭でした。

 例年のごとく、老人クラブも一室をいただき、スペースをつくりました。今年は従来1階和室の一部屋からもう一部屋使っていいということになり倍の空間が得られました。これは大きな意味をもちました。

 まず、展示物の多様性とゆったり展示です。会員のつくった編み物、絵、鉢植え植物、お手玉、古い徳利、などが持ち寄られました。中でも昨年の「じじばばスーパー演芸会」の全出場者それぞれの雄姿を写した写真展示は、俵津老人クラブの華やかさ・パワフルさを空間いっぱいに充満させたのでした。

 また、わたしたちのスペースを「老人喫茶」にしよう、ということで広いテーブルをつくり、コーヒーとお茶・お菓子をふんだんに用意し、看板を出し、来館者によびかけました。多くの方が来てくださり、楽しく談笑していかれました。昔話や時事問題など話に花が咲きました。

 9日の準備から11日の片づけ、その後の仕出し弁当での昼食会までの3日間、役員みんな本当に濃密な時を過ごしました。昼食会の時のことです。尾下容子さんが立ち上がりました。「みんながこんなに仲良くなれたのだから、どうでしょう。1泊2日で旅行をしませんか!」。門家久子さんが拍手します。伊勢富雄さんと永山福重さんが応援演説(?!)します。あまりに突然のことで戸惑い顔の人もおりましたが、すぐに決定です。なんということでしょう!!

 「餅まき」もありました!例年の古希会の人たちがやるという形は崩れましたが、センターとスマイルの共同で実施です。スマイル会長の西田初敏くんのあいさつの後、盛大に餅・菓子・手ぬぐい・手袋などがまかれました。

 永山福重さんが提案した「総会時の余興・カラオケ会」は、1月17日の役員会で「やろう!」ということになりました。問題は、はたして飲食を伴った「総会」が4月14日の時点でできるか、ということです。コロナ第10波がどの程度の収まりを見せているか、にかかっていますが、飲食をしない総会という形がつくれるかどうか、ということもそろそろ考えていかなければいけない段階に来ていることは間違いないでしょう。

 老人クラブは、総会の日に会員全員に弁当(とお茶)を配ることをずっと続けてきました。その弁当を持って参加者に2階大ホールの総会会場に上がっていただく段取りでした。コロナでそれが出来なくなって早4年。今年はどうなるのでしょう?3月26日の決算役員会で最終決定がなされます。

 話は突然変わりますが、昨年のNHK大河ドラマ『どうする家康』はまことにつまらなかったですねえ。人気アイドル・松潤(嵐の松本潤)を主役にしたことでこんな脚本になったのでしょうか。

 関ヶ原の合戦とその後の大坂の陣まで延々と1年かけてやるというのに、すっかり退屈してしまいました。戦国時代の合戦ばかりの大河には、みんなもう飽き飽きしていると思います。

 それは夏ぐらいまででさっさと片づけて、わたしとしては作家の門井慶喜さんが『江戸を建てる』で描いたあの関東平野を作り変えた「大改造劇」を取り入れてほしかった。それこそが「どうする?!」にふさわしいドラマだったんじゃないでしょうか。知られつくした「家康」にまだ比較的人口に膾炙することのなかった分野は、ここじゃないでしょうか。東京湾に流れ込んでいた利根川を大改修して千葉へ向けた。湿地帯で入り江が奥深くまで入り込んでいて飲み水確保に苦労したこの地に上水道をつくった。武蔵野を切り拓き低地や湾岸を埋め立て広大な平地を作り出した。江戸城を中心にした武家屋敷や町人町の配置。産業起し。その他もろもろ。そうした「江戸のまちづくり」を克明にドラマにしてほしかった。

 今年の大河『光る君へ』も、今までのところ、面白くないですね。失礼ですが、脚本が面白くない、主役の二人ミスキャストでは?なんて思ってしまいます。三谷幸喜の『鎌倉殿の13人』『真田丸』、おもしろかった!俳優たちまで面白がって演技を楽しんでいるのがこちらまで伝わって来た!ワクワクしましたねえ。

 何とかしていただきたい。日曜の夜の年寄りの楽しみをつくっていただきたい。と、思う今日この頃です。

 父母逝きてのちの歳月冬菫  (大村市)小谷一夫

 こんな俳句が先日の朝日俳壇に載っていました。私事で恐縮ですが、昨年9月母が他界しました。やはり父母二人共を失うということには特別の感懐があります。両親を無事(?!)見送れたということの安堵もあります。そしてあれやこれや・・・。

 まあそれはそれとして、このブログのテーマである「まちづくり」に関して母のことを少し書かせていただきましょうか。母は青春時代、八人の兄弟姉妹で家族劇団をつくって、あの八千代座で舞台に上がったというのです。「たわらづの花売り娘」だったかという脚本を自分で書き、家族だけで演じたというのです。青年団から頼まれてやったと言っていましたが、大好評だったとか。生前自慢げに語っておりました。そういうことを許した面白くて自由な雰囲気のあった俵津がいいな、とわたしは母たちのことより(それも今思えば大したことだとは思いますが)そっちを思ったのです。長崎東海さんが毎年正月に自ら主宰して「滑稽婦人大笑大会」を、自分で建てた“公会堂”でやっていたという話を彼の日誌で知りましたが、その頃からの伝統が根付いていたのでしょうか。

 ちなみに「家族劇団」はその他にも「石童丸」「父帰る」(菊池寛の戯曲の翻案)などもやったそうです。母はわたしが小学生の頃にはマドロス姿をして藤島桓夫の「帰りの港」なんかを公民館で歌っていたこともありました。

 父も映画好きでした。八千代座にかかっていた映画は必ず見に行っていたようです。この俵津にそんな時代があったのですねえ。

 ついでですから、母のお茶目な面のはなしも。わたしが中一の頃のことです。当時とってもらっていた「中一コース」(現GAKKEN)の俳句欄を目ざとく見つけた俳句好きの母、「おまえの名前を貸してくれ」と言って勝手に自作の俳句を応募したのです(いや、させられたのです)。で、結果は見事(!)特選!(なんちゅうこっちゃ!)

 病める祖母われにすがりて菊ながむ

 俳句欄のトップにこれが載っていた時、目がくらみました。しかも祖母がわたしにすがって座敷から庭の菊を眺めているというシチュエーションの挿絵つきでした。賞品としてわたしに万年筆が送られてきたのでした。これ犯罪ですよね(!)でももう時効ですよね?。これぜんぜん自慢話じゃないです。あまりにソーカイですからずっと覚えていたことです。(ちなみにわたしに俳句の才能はまったくありません)

 旧農協本所横の「ゆめさく・スマイル公園」(まだ名前がないようなのでわたしが勝手につけました)内に「東屋(あずまや)」が建ちました。散歩中の年寄りが立ち寄ってくつろげる場所が出来ました。公園自体は子どもたちが飛び回って遊べるほどの広さはありませんが、子供たちが親たちや地域の人たちと触れ合える場にもなったらいいなと思います。夏の夜にはビヤガーデンなんか開いてもらえるといいと思いますね。

                      (2024・2・19)