虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

片山元治くんがやってきた!

 ある日の晩、ひょこっと、片山元治くんがやって来た。艶のいい相変わらずの元気な精力的な顔があらわれた。「おお、飲むか?」「いや、今日は飲むために来たんやない」。そう言っておよそ2時間半、喋りまくって、帰っていった。

 「おら、家に “チョコレート工場” をつくったぞ」(なんや、それ?)「うん。おらは、10年間ベトナムでいろいろやりながら、同時に、このふるさとで息子たちやわれら百姓たちが、夢を持てる金儲けはないか、ずっと考え続けてきた。それを、見つけたんや。世界最強のムラ作り、ムラのビジネスが見つかった。それがチョコレート工房を手始めとする多種多様な “工房” 興しや」

 「ベトナムでの、カカオとの出会いは劇的やった。チョコレートは発酵食品やということにも驚かされたが、ベトナムカカオを原料とするチョコは実にうまいものができる。競争の激しい食品業界でもじゅうぶん生き残っていけるものが作れる」

 「チョコが成功すれば、冷凍菓子・トロピカルフルーツジャム・ジュース、和菓子、洋菓子、酒の肴、モーニングサプリメント、コーヒータイムサプリメント等々の新しい工房群がどんどん設立されるだろう。レストラン・ホテル、なんでもつながってくる。無茶々園版インダストリー4.0の始まりや」

 「町から人がいなくなり、役場・学校がなくなり、神社仏閣をどうするか。お祭りは・・・?老人の孤独死。無茶々園も地域づくりに奮闘してきたが、故郷崩壊は止まらない。故郷で生きたい。故郷で死にたい。我が故郷をふと思う人は多かろう。人には故郷が必要や。これは新しい故郷の創生なんや。故郷を出ていった子供達を帰郷させる。故郷を失った者たちもここに呼び込む。柑橘農業のほかに、もうひとつそれを補完する副業というか副基幹産業をつくりだすことこそ、いま必要なんや」

 「大正から昭和の初期、この地域では一番人口が多かったが、それはこの地域に多様なそれがあったからや。芋麦栽培と水田、養蚕、絣作り(縞売り)、煮干し作り、あのころは海では各種魚が豊富にとれた。山奥の海のない村や町で、冠婚葬祭がある時、その魚類を担いで持っていき、出稼ぎ板前もたくさんいた。まことにふるさとは活気に満ちていた。それに代わる産業起しがいるんや」

 「トマ・ピケティは、有名な  r 〉g不等式で、18世紀まで遡っての分析の結果、rの資本収益率が年に5%程度であるにもかかわらず、g(経済成長率)は1~2%しかなかったと指摘している。裕福な人(資産を持っている人)はより裕福になり、労働でしか富を得られない人は相対的にいつまでも裕福になれないちゅうことや。われわれは儲ける道を探さなければならん。百姓も儲けて資産をつくれるようにしなけりゃならん。」

 「都市の市民たちにも資本を出してもらい、協同で国際田舎システムをつくるようにしたい。」

 「次第に “農協化” しつつある無茶々園の活性化のためにも、おらはこれを提案しているつもりや」

 「とにもかくにも、これからおらは、“老害” をまき散らしながら生きてゆく。三途の川をわたっていくのはそれからや」

 えとせとら、エトセトラ。彼の話は熱い。そして、尽きない。わが家の茶の間の空気までもが沸騰したようだった。

 無茶々園の組織の中に、「妄想コンドルの会」というのがある。初代会長は宇都宮利治さんで、シイタケ栽培や炭焼き、梅づくりの導入などをやってきた。片山元治くんは4代目の会長になったという。(妄想を「猛創」に変えたとか)。なかなかいいポジションを得たな、と思う。経済面のみならず人材確保面でも関係組織との連携面等でもとても有利だからだ。活躍を祈りたい。

 50年近く前無茶々園を創った時もそうであったが、今もなおこれほど熱く厚く深くあけはまの町づくりを考えている者はいない。片山くんの方向性は間違っていないと思う。

 近く「猛創コンドルの会」の発会式総会をやるという。楽しみだ。

 

 最後に、彼がくれた「資料」の中に胸にジンとくる文章があったのでそれを掲載させていただく。(無茶々園は、彼がつくった「資料」をぜひこの機会に本にしていただきたい。それは絶対にわれわれの “未来” を創る。)

 「皆が元治をどう評価しているかは、人の評に任します。片山家の畑は草ぼうぼうとよく言われた。それでも収量はトップクラスであったと言える。皆は畑を綺麗にするが、私は摘果、根虫、施肥、剪定に力を注いだ。草刈りは年に2回が大半。予想収量が実際とほとんど狂わなかったのはわが家と上田家だった。無茶々園の生産技術・販売は殆ど元治の担当であった。万が一、技術で間違いがあったら誰もついてこないであろう。そうなれば私の村つくりは終わりだ。従って、無茶々園の農業技術は誰よりも必死に勉強した。色々な書物を読み、先人たちに直接学んだ。なぜならば、農薬散布が当たり前の時代に無農薬栽培をやるのだから、無茶苦茶な話だった。新しい肥料、技術は納得がいくまで我が家で確認して普及した。誰よりも慎重に進めた。片山農園はテスト農場であり、モデル農場だった。少しのソソウも無茶々園壊滅につながる。十二指腸が何度も出血した。75歳になった。私のムラ作りは正しかったと60%の自信で言える反面、コンピューター・AIの進化で、経済発展が複雑化し、田舎生活も多様化、都市化してともすれば御先がみえなくなってしまった。悩みに悩んだ、苦しみに苦しんだ。後期高齢者となった仲間が死に始めた、体も思うように動かなくなった。ボケも静かに進行している。人間は不思議なもので、三途の川を渡り始めると、脳みそのキレが良くなる部分が出てくる。仏陀の倫理観の世界で、残日を仲良く楽しく、心志に生きることを学んだ。さあ!!最後の生き様を見せてチョコ事業に取り組もう・・・。」

 

                        (2024・4・27)