虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

八月十五日に

 
 

 パソコンがこわれた、というのか何というのか使えなくなってしまいました。ひと月くらいブログにタッチできない状態がつづきました。いま息子に直してもらっていますが、わたしがパスワードを書いた紙をなくしてしまったのでなかなか大変そうです。とうとう息子のパソコンを借りてこの原稿記事を書く羽目に。メールなども仮のものを設定してくれていますが、あまり使う気になれません(みなさまには迷惑かけています。申し訳ありません。)。中国製のレノボを使っていますが、割と調子がいいので気に入っていたのですが。その前のデルやhp(ヒューレット・パッカード)よりは性能よかったですね。それにしてもパソコンの寿命短くなっているような気がしてなりません。やれやれ。いやはやなんとも。 

 やっと記事を書く気になったのですが、終戦記念日の8月15日にノートに書きかけていたものがありましたので、それを補足して掲載させていただくことにします。ご寛恕のほどを。 

 

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 今日は八月十五日。戦後81回目の終戦記念日。毎年しているように、今年も早朝、狩浜のお伊勢山にある慰霊塔にお参りしてきました。81年前もこうだったかと思わせるような晴天で太陽がぎらぎら。見下ろす海もおだやかで島影もくっきり。この地から見る海はなぜだか水平線が丸いように感じられます。それが戦地だった太平洋につながっているのだということを思い起こさせます。 

 塔内に入って記帳します。私より前に来た人の数を数えてみますと50名くらい。年々少なくなっているのを感じます。線香をつけ神棚に向かって手を合わせます。心が鎮まるひと時です。 

 参拝が終わった後は毎年そうしているように、明浜町遺族会が平成十六年三月に建立した「戦没者芳名」碑を見ます。明浜町の戦没者452名の名前が刻まれています。俵津地区130名、狩江地区109名、高山地区91名、宮野浦地区60名、田之浜地区62名。 

 眺めながら毎年何らかの感慨を催しますが、今年思ったのは、この内の何名が戦って命を落とした本当の意味での❝戦死者❞だったのだろうか、ということでした。 

 先の大戦での日本人の死者数は310万人といいます。軍人・軍属が230万人、民間人が80万人。しかも、日本軍兵士戦没者の6割以上が戦って死んだのではなく、病死や餓死だったといいます。さらにしかも、終戦(敗戦)1年前の1944年1月1日以降の戦死者のパーセンテージが87.6パーセントといいます。 

 この数字を単純に明浜町の戦没者に当てはめると(小数点以下切り上げ)、270人が病死・餓死、396人が1944年以降に戦没、ということになります。わたしは天を仰ぎます。虚しさ・絶望感がこみ上げてきます。どうして戦争を始めたのか。どうしてもっと早く戦争をやめられなかったのか。 

 『宗教の戦争協力と天皇制』『虐殺と日本民族』という2冊の本を書き上げ、2020年1月8日に亡くなった友人・若尾健一くんがこんなことをその著で書いています。「「国体護持」を優先する天皇の戦争終結の決断が早ければ、多くの大日本帝国の兵士や国民は死ななくて済んだし、アジアの民衆もまた殺されなくて済んだ。」 

 昭和17(1942)年のミッドウェー海戦で大敗した時、あるいは翌年の日独伊三国同盟を結んでいたイタリアが無条件降伏した時に止めていれば、と(こんなことを言ってもただ虚しい限りですが)思います。もちろんその前の朝鮮・中国への侵略が許されるはずはありませんが。

 ※ ウィキペディア によりますと、アジア・太平洋戦争の犠牲者の総数は2500万人から3000万人ということです。そのすべてを日本軍がやったのかどうかは記していませんが、とにもかくにも日本はとんでもないことをしたのだと思います。

  

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 わたしにはこの戦争で亡くなった伯(叔)父(父の兄弟)が二人います。わが家の墓所に(父が建てた)その墓碑が立っています。尖塔の両側にそれぞれの墓碑銘が刻まれています(原文はカタカナです)。 

・兄 

陸軍伍長 

 昭和十年十二月現役兵として歩兵第八十聯隊に入隊 昭和十二年六月帰休除隊 同年七月十二日支那事変に応召 直ちに前線部隊に配属 十数度に及ぶ戦斗に参加    幾多の武勲を樹てたるも 昭和十四年七月七日 山西省塔の高地の戦斗に於いて勇戦奮斗中 敵弾により壮烈なる戦死を遂げらる 生前の勲功に依り功七級金鵄勲章並に勲八等白色桐葉章を授け賜ふ 

                享年二十五歳 

 

・弟 

陸軍軍属 

 昭和十八年陽春大同開運株式会社機関部員として入社 間もなく船舶と共に徴用軍属となり 第四船舶輸送司令部付を 命せられ南方作戦に参加 軍需輸送に従事中 昭和十九年一月十六日 アドミラルテイ諸島近海に 敵襲を受け戦死を遂ぐ 生前の勲功に依り勲八等白色桐葉章を授け賜ふ 

                      享年十九歳 

 

 父の兄の方は、昭和十四年の戦死だから仕方ない(仕方なくない)が、弟の方は帝国政府が早期の戦争終結をしていれば、助かった命のはず。二人ともあまりに若すぎる死。何と言ったらいいのか。戦争を知らないわたしでもいまだに痛切な思いはこみ上げてきます。 

 

■ 

 ノートに書いていたのはここまでです。 

 8月15日は、やはり、不戦の誓いをする日として、(わたしは)大切にしなければならないと思います。「戦後○○年」という言い方も、いろいろ言う人がいますが、やはり、言い続けることは必要だと思います。 

 高市首相や小泉防衛大臣の言動を見ていると、とても不安になります。この人たちは戦争へ向かってまっしぐら、という気さへしてきます。とても嫌な気がしてきます。近所付き合いさえまともにできないのか、近所とさえ仲良くできないのか、と思うとあまりの幼さに落胆します。これが日本政府のトップなのかと思うと、夢も希望も無くなります。 

 日本は(絶対に)戦争のできない国、戦争をすれば(必ず)敗ける国、という認識をみんながもう一度徹底的にするべきだと思います。そこから、もう一度この国を立て直すしかない。進路を決め直すしかない。 

 日本は資源のない国です。日本政府は中国を敵視して軍備増強していますが、中国は日本と戦争する場合兵器を使う必要は全くない。シーレーンを抑えて食料や石油や天然ガス等が日本に入らないようにすればいい。レアアースや抗生物質の原料や化学肥料の原料であるリン酸等の日本への輸出を止めればいい。 

 戦前、日本とアメリカの国力の差、GDPの差は4倍もありました。現在の中国はそれ以上あります。勝てるわけがありません。 

 世界は刻々と変わっています。アメリカ(トランプ)は、中国・ロシアと3国で世界を分割しようとしているようです。この間の米中首脳会談でトランプは習近平にこう言いました。 

 「80数年前、中国とアメリカの人民は肩を並べて日本の軍国主義の侵略者と戦った。この血と火によって鍛えられた友情は世代をこえて受け継がれていく。中国は大戦中の連合国だった。共通の利益の追求は、第二次世界大戦で我々を同盟国にしたように、多くの違いを乗り越え、両国民を結びつけるだろう。」 

 米中は急速に歩み寄っています。日本(高市首相)は梯子を外されました。この冷厳な事実を深刻に受け止めて、平和路線に進路を変えましょう。トランプがそうしているのですから、平然と中国と仲良くしましょう。北朝鮮ともロシアとも仲良くしていいのではありませんか。独自の主体的外交を展開しましょう。 

 わたしたちの国・日本、来年はGDP、インドとイギリスに抜かれて世界6位に落ちるそうです。GDPばかりを国力の指標にする必要はないとおもいますが、当面やはり一人当たりのGDPは上がったほうがいいと思います。昨年の新生児出生数は66万人だったそうですが、結婚を望み子供を望む人たちが十分な報酬を得て、それなりの広さの住居をもてて、安心して暮らせる豊かな制度をもった国を作ってほしいと思います。そして、生まれた子供たちが戦争に行かなくていい国にしていただきたいと思います。 

 日本列島を本当の意味で、強く豊かにしていただきたい。「強い」とか「豊か」という言葉には、十分な注意が必要だと思いながら、それでもそう思います。 

                         (2026・11・2) 

 

  

  

   

長崎東海日誌について ㉛ 


長崎東海日誌について〓
○大正11年日誌
【体調の悪化】
当年ごろから東海の体調が悪化しているようです。日誌の冒頭に次のような記述があります。「本年ノ日誌ハ病気ノ為明細ニ記録スル〓(こと)能ハサルノミナラズ、静養ノ目的ニハ返テ小害トナルニ付、日誌ニ重キヲ置カズ、数十年ノ連続書載ニ対シ俄然中止スルヲ惜ミ、其概略ヲ記録スルノミ、中ニハ脱洩ノ事共多カル可キト思考ス」。また、5月23日付では、日誌本文に加えて自覚の症状を記し、続けて「必要且特記ス可キ〓(こと)ノミヲ記スル〓(こと)トス、明治廿二年此方一日モ欠記セシ〓(こと)ナカリシガ、昨十年下半期ヨリ自体病気ノ為自然怠気トナリ、(略)特記ス可キ事柄ナケレバ記入セサル日アルベシ」(※1)と書いています(東海日誌について②でも紹介)。体調が悪いので詳しくは書けないこと、書き漏らしが多いか
もしれないこと、必要且つ特記すべきことのみ記すこと、などと記しています。実際に当年日誌では1月7日付以降2月中の記述がなく、11月19~20日も「脱稿」(この場合は書き漏らしの意)とのみ書いて記述がありません。逆に言いますと、それ以外の日は文章量にバラつきはありますが記述はあります。
(※)『明治22年以来これまで一日も書き漏らすことはなかったが…』との記述がありますので、東海は日誌を明治22年から書き続けていたようです。しかし、現存している日誌は明治34年以降のものとなっており、十数年分の日誌は今のところ行方がわかっていません。

【郡会のこと】
(郡会議長就任)
前述の通り1月7日~2月中は記述がありませんので、例年2~3月頃に開かれている郡会の記述が当年日誌にはありません。この郡会で東海は議長に就任したはずですが(東海日誌について〓を参照)、残念ながら就任時のようすを確認できません。
5月中旬、東海は「卯之町俵津間ノ隧道ノ件」「道路件」の請願、陳情などのため松山で活動をしています(後述)。同月15日の夜に東海は「梅乃舎」(二番町梅の家か)に県議らを招待して宴会を開いていますが、この席上で「自分ハ郡会議長ト〓(して)(略)挨拶ヲ述ベ」と記しています。これが東海日誌において東海自身が郡会議長であることを確認できる初出の記述です。
(臨時郡会)
10月25日には臨時郡会が開かれています。東海は体調が悪かったものの「自分ハ議長ナル故欠席スル能ハズ出席」と無理をして出席しています。この臨時郡会は同日中に「第三読会ヲ了シ、閉会ヲ告グ」と閉会しています。12月15日にも臨時郡会が開かれています。「三時頃開会(自分ハ議長席ニ就ク)」し、この日のうちに第三読会まで終えて午後5時に閉会しています。その後松屋旅館で郡長の招待により郡議、郡吏員、県議などが集まり宴会を開いていますが、この席上で東海は「議員一同ヲ代表シ礼辞挨拶」を述べています。いずれも郡会議長としての務めです。
ちなみに、郡制は翌年(大正12年)廃止されますので、東海は東宇和郡議会の最後の議長ということになります。

【5月13日~18日松山行き(道路&鉄道)】
(「卯之町俵津間ノ隧道ノ件」「道路件」の請願・陳情)
5月12日付。この日東海に松山滞在中の川又金太郎郡長と松本猶太郎県議(下宇和)から、「隧道(トン子ル)事件」のことで松山に来るように、と「急ニ電話」での依頼があります。これを受けて翌13日昼前に松山入りした東海は、松本と合流し、稲垣熊市(元郡議でこの頃中川村議)も加えて県庁土木課に行き、池内勉課長、坂本技師(一平か)と面会しています。目的を「卯之町・俵津間ノ隧道ノ件請願、陳情」と書いています。この席には宇都宮茂村長も同席しています。翌々日の15日にも再び松本、稲垣と3人で県庁土木課へ行き、宇都宮村長も同席して、池内課長、坂本技師に面会し「道路件陳情多々」と記しています。この日の夜には県議らと「梅乃舎」で宴会を開いており、この席で東海は「郡会議長」として挨拶を行っ
ています(前述)。16日付では「隧道事件ハ大略県土(木)課ニ徹底」したと書いています。「隧道事件」は県(土木課)主導でなされることを確認したかのようなニュアンスの記述となっていますが、日誌から詳細は読み取れません。
この辺りの事情は少し複雑です。これまでの東海日誌からは、卯之町俵津間道路については、それまでの運動や関係者との調整を経て前年の3月郡会で郡道として整備することが決定したことが確認できます(前回までを参照)。ところが、この郡会直後の同年5月28日付の県告示第235号では「宇和・俵津線」が県道として認定されていることが確認できます(第二次、修正)(『県史』など)。以上からすると、当該道路が郡道として整備することが郡会で決まったあとで県道としての認定(修正採用)がなされ、この流れを受けての再応の請願、陳情がこの時の松山行きだったのかもしれません(あるいは「隧道」と「道路」とを分けて考える必要があるのかもしれません)。
地元自治体史を確認してみますと、『明浜町誌』所収の「年表」には「大正一二 四月一日、宇和~俵津線県道編入」とあり、『宇和町誌』所収の年表では「大正一二 郡道宇和俵津線、県道に編入される」とあります。特に『宇和町誌』の表現がわかりやすく、東海日誌の記述も合わせて考えると、当該道路は一旦郡道としての整備が決定したものの(大正11年)、その直後の県の認定に合わせて県道へ編入する流れとなった(大正12年)、と解釈できそうです。あわせて翌年の郡制廃止の事情もあります。
この道路事情について、筆者は不勉強で詳細を詰めることができず、今回は東海日誌から読み取れる範囲内で書いています。
いずれにしても、この卯之町俵津間道路(隧道)に東海も多大な尽力をしたことは確実に言えると思います。東海日誌ではこの後(特に大正13年以降)当該道路は「県道」としての記述へと変わっていきます。
(大村鉄道建設局長の宇和島視察への対応)
5月16日に隧道関係の請願、陳情を終えた東海は俵津へ帰ろうとしますが、「此度大村鉄道建設局長来県ニ付、東宇和郡ヲ代表シ仝氏ノ来松ニ際シ出迎ヲ依頼シタキ急電話アリ」(大村鋿太郎鉄道省建設局長が来県するため、東宇和郡を代表して松山での出迎えを依頼したい、との急電話があり)、東海は松山滞在を決めます。誰からの電話かは書いていません。
翌17日、大村局長が夜9時に松山「きどや」に投宿したとの連絡があり、東海はきどやに向かいます。大村局長は床に就いていましたが、起きて東海に面会をしてくれました。その理由を「自分ハ東宇和郡ヲ代表シ、且郡会議長ノ名刺ヲ通ジタルニ依ルナルベシ」と書いています。「面会ノ栄」、「感謝セザルヲ得ン」と記しています。面会後は翌日の大村の宇和島方面視察に同行するための準備(と自身の帰途の準備)をしています。
翌18日、大村一行は松山を出発します。一行はまずは八幡浜へ行き、その後卯之町を経由して宇和島で一泊の予定と記しています。大村一行の車に、東海ら(岡田久一郎(魚成村長)、「山内」(山下の誤記か)惣川村長など)は別の「自働車」で大洲まで随行し、大洲で別れて東海らは先に卯之町入りします。東海は郡役所に行って前日までの松山での活動の報告をし、大村一行の到着を待ちます。警察署長、郡長らは貸切自動車で大江橋付近まで出て、同所で大村一行を出迎えています。郡役所では茶菓を準備して大村の到着を待っていましたが、調整がうまくいっていなかったのでしょうか、大村は郡役所(卯之町)に立ち寄ることなくそのまま素通りして宇和島へと行ってしまいました。「一同呆然、不平ノ声高シ」となりま
したが、「致方ナシ」ということで、そのまま卯之町松屋で松本、稲垣、岡田、東海の慰労会となり、この日のうちに東海は俵津へと帰っています。
さて、この東海の松山行きについては、前半は隧道(道路)関係、後半は鉄道関係の活動と分けることができます。隧道(道路)関係については前述の通りですが、鉄道関係については、魚成と惣川の村長が途中まで同行していることや、この頃の鉄道敷設を巡る政治的な動向を考えると、鉄道敷設法別表の103号・104号の問題が想起されます(今回は詳しくはやりません)。一連の東海の活動は「東宇和郡ヲ代表」、「郡会議長」と自ら記している通り、東宇和郡代表としてのものでした。
ちなみに、この半年後の11月22日に大木鉄道大臣が宇和島に来訪する記述がありますが、このことは後述します。

【県参事会員の道路視察とその後】
先の松山での請願、陳情の結果を受けてでしょうか、6月初旬に県参事会員が来村し「道路ヲ視察」しています。まず6月5日付で、県参事会員来村のための臨時土木委員会が開かれ東海が宇和島までの「出迎員」に選ばれた、という記述があります。翌6日、東海は昼頃から宇和島に入って待機しますが、この日は時間の都合などで俵津入りできず1日延期となっています。7日、東海は県参事会員一行と一緒に愛媛丸で俵津に入ります。一行は東海本宅で休憩後、「公会堂ニ至ル、道路ヲ視察シ」と書いていますので、前年完成の公会堂を見て、続いて道路を視察したようです。視察には川又郡長、重見卯之町署長、郡視学、俵津村議や有志などが同行しています。この「道路」は具体的にどこの道路のことか日誌には書いていませんが、

前述の松山での活動などこれまでの流れを考えると卯之町俵津間道路の視察と解釈してよさそうです。視察のあとには宴会となり、高山・狩江・玉津の各村長、郡議なども合流して「地方談」をしたと書いています。
その後、2ヶ月ほど経った8月10日付で大松(折三郎)技師(東宇和郡道路技手)が来訪したという記述がありますが、詳細は不明です。
10月27日付で印象深い記述があります。この日「本郡東部宇和川、黒瀬川橋梁」(宇和川橋)の落成式がありました。県庁からは坂本技師と池内土木課長(代理)が出席したようです。東海も出席する予定でしたが天候不良と自身の病気のため欠席し、祝電に代えています。この落成式の二次会は卯之町松屋で開かれ、これには東海は参加しています。この会場で東海は坂本技師に俵津道路のことについて「彼是嘆願」しています。関係者に会うたびに俵津道路のことを念押しで依頼しているようです。この席上で東海は変わった余興をしています。自身の駕籠を会場に曳き入れて「此駕ハトン子ル迄ノ命哉」(この駕籠はトンネルまでの命かな)と狂歌を叫んだ、というものです(※)。参加者一同は「拍采」(拍手喝采)。一見突飛な

行動に見えますが、東海はこの余興について次のように書いています。「之モ一村公益ヲ思フ為ナリシ」(これも村の為を思ってのことだ)。東海の思いがよく表れている一文かと思います。
年末の12月22日付では「起工着手ノ道路ヲ視察シ」とあり、道路工事は継続していることが確認できます。
(※)トンネルが出来て道路が整備されればこの駕籠は必要なくなる。だから早く整備しよう!という意味かと思います。

【大木鉄道大臣の来宇(11/22)と摂政宮(皇太子)宇和島行啓(11/25)】
この年の11月下旬には、22日に大木遠吉鉄道大臣の宇和島来訪、25日には摂政宮(時の皇太子。後の昭和天皇)の宇和島行啓など、重要人物が宇和島入りしています。日誌にも関係する記述が見られます。
(摂政宮宇和島行啓に関する注意講話)
10月19日、学校講堂で衛生講話も兼ねて摂政宮の宇和島行啓に関する注意講話が郡書記、卯之町警察署長によってなされています。東海も兎苗(妻)と一緒に参加しています。
(鉄道大臣来宇)
一ヶ月ほど経った11月21日、卯之町で鉄道同盟会が開かれています。東海は病気のため欠席しますが、代わりに「電話ニテ郡長トノ会話」はしているようです。翌22日、この日大木鉄道大臣が宇和島入りし、公会堂(宇和島)で歓迎会が開かれます。東海はこの歓迎会に「郡会議長且ツ同盟会理事ト〓(して)」出席しています。この頃の東海は鉄道同盟会理事の肩書も持っていたようです。歓迎会では大木大臣の「鉄道談」があり、この会での記念撮影に東海も加わっています。
(皇太子殿下宇和島行啓)
23日、東海は一旦俵津へ帰ろうとしたようですが、悪天候のため船が出ずそのまま宇和島に滞在しています。24日も終日滞在しています。この日、俵津からは東海の家族などが「明廿五日皇太子殿下御来市拝観ノ為」宇和島入りしています。また、行啓前日の宇和島市内のようすを「大多忙」と記しています。
そして11月25日、皇太子宇和島行啓の当日。この日の宇和島のようすを日誌では次のように記しています。「皇太子殿下御入艦(イセ艦)、御上陸、人出十五万ト称ス、当時ノ新聞ニ明記セリ」。皇太子は「伊勢」で入艦し、上陸。15万人の人出があったと書いています(この数値は新聞記事を参照したようです)。また、「郡会議長トシ御機嫌奉信、中学校内」とも書いています。東海は東宇和郡会議長として中学校(現宇和島東高)で皇太子に「御機嫌奉信」(奉伺)したようです。これは重要な記述のように思います。宇和島では「種々ノ催シ」が皇太子に供されたようで、その後夕方には土佐へと向けて「御出艦」しています。ちなみに、皇太子の宇和島行啓を拝観するため東和病院は「総出」となりこの日は留守となった、と

も記しています。

【滑稽婦人大笑会と納涼会と盆踊りのこと】
(滑稽婦人大笑会)
当年も例年通り1月2日に滑稽婦人大笑会を開催しています。これで通算10回目です。「第十回笑会ニ〓(して)、即十ヶ年間毎年一月二日ヲ以開催シ、爰ニ第十回ニ至リシヲ祝シ、本年ヲ以一先笑会ヲ終リ、他ニ良法方ヲ設ケ之ニ換フル策ヲ講ス可シト述ベ挨拶セリ」(「毎年1月2日に開催してきたが、第10回に至ったのを祝して本年でひとまず笑会を終え、これに代わるほかの良い方法を考えよう」と挨拶した)と書いています。10回を区切りにこの年で大笑会は終了することになりました。次年以降の日誌でも大笑会の記述は出てきません。記念すべき10回目で最後の大笑会ですが、日誌では「会スル人昨年ノ通リナリ」とある以外は詳しくは書かれておらず、あっさりとした記述で終わっています。
(納涼会)
この年は納涼会の記述が確認できません。次年以降も記述が出てきませんので、前年の第5回を区切りに終わらせたものと思われます。
(盆踊り)
前年日誌には記述のなかった盆踊りですが、当年日誌では実施されていることが確認できます。
この年は9月4日が旧暦の7月13日で、この日付で「大浦・脇共盆踊盛ナリ」と書かれています。続く5日、6日も(雨は降ったようですが)踊りは実施され、5日に東海は「大浦・脇踊」へ2円ずつ寄付しています。6日付では「見物人是又大寄ノ噺」と見物人が多かったようすを記しています。
さらに9月10日夜にも「脇・大浦共盆踊」が実施されています。ちょうどこの日は日曜日にあたりますので、より多くの参加者を見込んで追加で実施されたのかもしれません。東海はまず8時過ぎに脇の「踊場」に見物に行き、この時「金二円・酒二升」を寄付しています。その後10時過ぎには大浦へ見物に行き、脇同様に寄付をしています。この日の大浦の盆踊りについて、東海は次のように記しています。「大浦ハ本年ハ地蔵院ニ舞台様ノ者ヲ造リ、之ニテ踊ラシム、殆ンド芝居見物様ノ感アリ、踊子十五・六以上ノ者ニテ、芝居化スルノ恐レアリ、盆踊ヲ脱スルノ感アリ」(大浦は今年は地蔵院に舞台のようなものを作ってそこで踊らせている。ほとんど芝居見物のような感じがした。踊り子は15,6歳以上の者で、芝居化するおそれ
がある。盆踊りを逸脱してしまいそうな感じだ…)。純粋な盆踊りから脱して芝居化しそうな大浦の盆踊りに対して東海は危機感を抱いているように読めます。留意しておきたい記述です。次年の日誌でも大浦の盆踊りに関する記述が確認できますので、これは次回で紹介します。

【亥の子】
俵津では亥の子は明治44年に一度廃止されていましたが(東海日誌について⑳を参照)、この年には久しぶりに記述が出てきます。12月9日付で「当夜亥ノ子搗キ数組来リ道路混雑セリ」。当年日誌ではこの1件のみですが、次年以降も亥の子の記述が出てくるようになります。

【俵津公会堂】
前年に東海らの尽力により設置された俵津公会堂はこの年も大いに利用されています。
日誌からは、養蚕組合(3/11)や海岸医会(4/15)などの会合に、浪花節興行(4/24)や書画器物入札会(6/28ほか)などのイベントに、某家の葬儀(5/6)や新築・結婚宴会(5/28)などの冠婚葬祭に、祇園祭の宴会(4/11)や村有志の忘年会(12/22)などの宴会などに利用されている記述が確認できます。ちなみに、5月14日夜(道路関係の陳情で松山滞在中(前述))には知事を訪ねて「公会堂記念額面」の揮毫を依頼した記述がありますので、俵津公会堂の表札は知事(宮崎通之助)の筆によるものであったと思われます。

【養蚕のこと】
当年も長崎家では養蚕を手掛けています。
4月下旬~5月下旬の春蚕の記述、8月初旬~中旬の夏蚕の記述、9月中旬~10月初旬の秋蚕の記述それぞれが確認できます。春蚕は「天候良順ニ付繭ハ上作ナラン、又価モ意外好景気ナラント予想セリ」「繭ノ景気ヨク、百目一円三十一銭ニ買約アリ(俵津製糸)」とあり、高値で取引されたことが確認できます。一方で秋蚕は「本年秋蚕ハ一般不成績ノ噺計リナリ」、「本年秋蚕一般悪結果ナリ」とあり、「死虫多シ」とも書いています。天候によるものか、蚕病によるものかは日誌からはわかりませんが、この年の秋蚕の成績は良くなかったようです。

【船のこと】
当年はほぼ通年で鶴島丸を、5月下旬以降はこれに加えて大福丸を東海はよく利用しています。また、第十三宇和島丸(吉田→今治、高浜)、第十二宇和島丸(吉田→臼杵)、第十四宇和島丸(別府→吉田)も東海は利用しています。これらは宇和島運輸の船です。
近隣の船では、下泊を拠点とする三島丸、玉津運輸会社の玉津丸、狩江発動船の春洋丸と海進丸も確認できます。これらは八幡浜~宇和島航路のようです。合わせて南予運輸(御荘)の御荘丸(家族などが九州行きで利用)も確認できます。
前年同様、警察船愛媛丸も俵津に入港しています。

【千鳥号(モーターボート)】
大正9年から稼働を開始した東海のモーターボート「千鳥号」ですが、当年日誌には記述がほとんど出てきません。当年はそもそも稼働しなかったようで、10月9日付で「ボート川入レ」「川ニ登シ置ク〓(こと)ニシタリ」と書かれています。12月19日付では「モータボートノ件閉口セリ」との記述がありますので、何らかの問題が生じて陸揚げとなっていたのかもしれません。

【「病院ノ整理」「病院将来談」「病院改革案」のこと】
当年ごろから東海は東和病院の「整理」「改革」を考えていたことが日誌から確認できます。
7月10日夕方、東海は伊藤直三郎を自宅に招いて「病院ノ整理」ほかについて相談しています。しばらく経って、12月12日には東海は村の有志を自宅に招き忘年会を開いていますが、この席で「兼テ目論見中ノ病院将来談、即拡張談」をしたところ、「委員ヲ選ビ調査スル〓(こと)」となり、菅徳三郎など6名の委員と、伊藤直三郎など3名の相談役がその場で決まっています。23日夜には東海本宅で「病院改革案ノ第二回委員会」を開いています。これは12日の忘年会席上での協議に続くものと思われます。この日付で「別ニ記録書ニ明記」と記していますが、この「記録書」はいまのところ存在が確認できていません。4日後の27日にも伊藤、木崎喜三郎らと本宅で「病院案件ニ付協議」をしています。この時は「書類等ヲ作製シ、具体
案トナシ」と「病院案件」に関する書類を作成しています。これに続いて「来ル一月五日更ニ協議会ヲ開ク筈」との記述があり、次回の協議会を年明け1月5日に開くことを取り決めています。関係する記述は当年日誌ではこれで終わっています。この件の記述は散発的で且つあまり詳しく書いていませんので動向を追うのが難しいのですが、次年以降も記述が確認できます。

当年日誌にはほかにも、吉田病院開院式に出席した記述(4/6)、菊池武範から「氷片入魔法ビン」2個が送られてきた記述(8/15)、「埋立」が「大略」完成した記述(8/25)、明治43年から所有していた遊漁鑑札を返納した記述(10/14)、「忠魂碑」に寄付し「忠魂碑台」に揮毫をした記述(10月~12月)などがあります。
(本文中敬称略)

「第5回じじばばスーパー演芸会」プログラム

●morinoshimafukurou(森のシマフクロウ)より

 昨日、俵津地域づくり活動センター大ホールにて、午後1時から、「第5回じじばばスーパー演芸会」が行われました。雨にもかかわらず、昨年よりは少ないですが、それでもまずまずの入りでした。やはり過去4回の実績で ❝楽しい会❞ であることが周知徹底されていたからでしょうか。

 今までで一番面白かった、という人がいるくらいの盛会でした。婦人会・ゆめさく・笑丸等の若い人たちも、華やかな衣装を凝らしていただいて奇抜な演出の舞台を繰り広げて下さって大変盛り上げていただきました。

 永山福重さんの企画したテープや紙吹雪のサプライズ応援もあり、客席と舞台が一体となった和気あいあいのムード溢れた会場には歓びと充実感がみなぎっていました。

 あらためて、この大会の大きな力を感じた一日でした。

 以下恒例に従って「プログラム」を掲載させていただきます。

                  ■ 

 

              2026・9・27

          第5回じじばばスーパー演芸会 プログラム

 

                          主催:俵津老人クラブ

             協賛:俵津地域づくり活動センター・俵津スマイル

                俵津区長会・俵津婦人会・ゆめさく・笑丸

・開会の辞 (司会:稲葉 真実)

・会長挨拶 伊勢富雄

・来賓挨拶 酒井宇之吉(西予市議会議員)

・来賓紹介 (司会:稲葉 真実)

・石川 智也 駐在所長(西予警察署 防犯 交通安全について)

 

                  第1部

(司会進行:横山三恵子・稲葉真実)

◆オープニング

  N&O(西田初敏&尾下容子)  芸者ワルツ

◆カラオケ 

 1、宇都宮 頼男  紫陽花のひと(北山たけし)

 2、中村 ひづる  流恋草(香西かほり)

 3、宇都宮 敦   愛はかげろう(雅夢)

 4、宇都宮 英美  哀愁列車(三橋美智也)

 5、藤本 三保   カサブランカグッバイ(鳥羽一郎)

 6、市川 以世男&美代香(デュエット)  櫂(原田ゆかり 香田晋)

 7、東 新三    倖せさがして(五木ひろし)

 8、小島 里世&宇都宮 由美子(デュエット)  喝采(ちあきなおみ)

 9、石川 智也  愛は花 君はその種子(都はるみ)

 10、笑丸    ①め組のひと(ラッツ&スター)②UFO(ピンク・レディー)          ③2億4千万の瞳ーエキゾチック・ジャパン(郷ひろみ)④それが大事(大事MANブラザーズバンド)

◆アサイデショー(腹話術)  浅井裕史

 

                (休憩) 10分

 

                 第2部

 

◆踊り

 俵津婦人会  ダンシングヒーロー(荻野目洋子)

◆カラオケ

 1、酒井 由紀  紅の舟唄(北見恭子)

 2、山岡 清二  指輪(森進一)

 3、尾下 キクミ さだめ川(ちあきなおみ)

 4、宇都宮 氏康  こしの都(五木ひろし)

 5、浜田 直浩&山下 一彦(デュエット)  女のみち(ぴんから兄弟)

 6、山口 孝子  はがゆい唇(高橋真梨子)

 7、中村 祐一  時よ君は美しい(堀内孝雄)

 8、横山 三恵子 高校三年生(舟木一夫) 

 9、尾下 和弥  恋唄(前川清)

 10、山下 教子  無法松の一生(度胸千両入り)(村田英雄) 

 11、武田 由美  海岸物語(北原ミレイ)

◆寸劇

 ゆめさく一座  ペッパー警部(ピンクレディー)

◆老人クラブ

 チャンチキおけさ・松の木小唄

 

◆閉会  

 ・閉会の辞(司会 稲葉 真実)

 ・閉会挨拶(副会長 西田 初敏)

 

注)粗品を演芸会終了後にお渡ししますので、最後まで楽しんで下さい。

       ・観客のみなさまは出口の受付にて

       ・出演者の皆様は舞台南側受付にて

(本年は抽選会を行いません。ご了承ください) 

 

                         (2026・9・28)

【寄稿】長崎東海日誌について ㉚

長崎東海日誌について〓

○大正10年日誌

【「道路問題、女学校問題、乾繭庫」の「三問題」】

前々年に郡会議員に就任し、前年には海岸同盟会(高山、狩江、俵津、玉津の各村による同盟会)の会長にも就任した東海は、この年も大いに活動をしています。当年は特に、これまでに引き続いて「道路問題」、前年から動きが見られる「女学校問題」、この年の郡会で取り上げられた「乾繭庫」(かんけんこ)の「三問題」(3/24付)に関わっています。この三問題については展開が複雑ですので、時系列に沿ってそれぞれの動きを見ていきます。

 

(道路委員会と海岸同盟会)

1月20日、23日、30日に道路委員会が村役場で開かれ東海も出席しています。前回示した通り、この会合は明治44年頃から定期的に開かれているものです。俵津を取り巻く道路問題について協議したものと思われます。

その後、2月1日には海岸同盟会が開かれています。高山、狩江、玉津、俵津の各村長と、郡議や有志など十数名が出席しています。この会は前年に道路同盟の目的で組織されたものですが、前年秋に同会が宇和町長から「女学校ニ就テノ説明」を受けたことで女学校設立に関しても協力することになったようで(前回参照)、この日の会合では「宇和町俵津間道路、海岸線」と「宇和町申込ノ女学校設立」について審議しています。「決議書ヲ作リ各員ニ配布ス、本会ニ満足ナル決議ヲ了シ」と書いていますので、本来の目的である道路問題に加えて、女学校設立についても同会は支持する方針に決まったようです。

 

(郡会)

2月21日から郡会が始まります。この郡会では「道路問題、女学校問題、乾繭庫」の「三問題」が主な議題となったようです。しかし、24日付で「東西海岸種々議案ニ就キ折合付カズ、休会トナル、是道路問題、女学校問題、乾繭庫、三問題ノ為感情衝突シ、(略)行悩メリ」との記述があります。25日も「前日ノ通リノ情態ニテ本日モ休会トナル」、26日も「遂ニ郡会モ開カズ、三問題下交渉混雑セリ」、27日も「問題ニ付解決付カズ、郡役所ニ出デ明日ヨリ二日間休会」、28日も「前記ノ如ク休会セリ」、3月1日も「休会」と、東部と西部とで三問題について意見が衝突し、なかなか郡会が進まないようすを記しています。3月2日になって「此日郡会開会、党議確定、第二読会原案通リ確定セリ」と、ようやく郡会が再開され、この日は

二読会まで通っています。そして3月3日、「此日郡会開会、積年ノ希望タル宇和町俵津間道路問題モ本日確定、総工費予算三十四万余円、六ヶ年継続工事、郡道として通過セリ、之我党々議ニ〓(して)大ニ快感セリ、当夜松屋ニテ懇親会アリ、自分モ道路件ニ付一条ノ挨拶的演説ヲナス」と、無事に宇和町俵津間道路問題は確定して、この日郡会は閉会しています。

その後3月7日には村役場で道路委員会があり、東海は出席して「郡会ノ経過」を報告しています。

以上からは、郡会では東部と西部とで「感情衝突」はあったものの、宇和町俵津間道路問題に関しては無事議決され、総工費340,000円余りの6か年継続事業で郡道として整備することが決まったことがわかります。この宇和町俵津間道路については、今までも見てきた通り東海ら政友派の「積年ノ希望」の党議であり、これが無事通過したことを東海は「大ニ快感セリ」と記しています。この後は具体的に工事へ向けて進んでいきます。一方で、女学校問題、乾繭庫問題についてはこの郡会ではあまり進展がなかったのか、詳しくは書かれていません。

 

(トンネル測量)

4月18日付で「出張中ノ宇都宮村長宇和町ヨリ電話アリ、坂本技師明日俵津ニ至ル、測量杭六百入用ノ〓(こと)通知アリ、道路ノ件之ヨリ着手期近シ」との記述があります。いよいよ工事(測量)着手が近づいていることがわかります。翌19日付では「本日トン子測量係四名俵津ニ来リ、伊井ニ止宿ス」との記述があり、この日以降でトンネルの測量が始まったようです。4月30日には「川又(金太郎)郡長、大松(折三郎)技師、郡参事会員一行」が道路視察のために来村し、東海らは歓迎会を伊井旅館で開いています。5月2日にも「トン子ル測量ニ従事セル県庁ヨリノ技術員一行」(4名)を招待して、俵津からは伊藤直三郎、山下三松らが同席して一宴を開いています。この宴のことを東海は「道路開鑿着手ノ熱心ノ意ヲ表スル為」と

書いています。解釈が少し難しいですが、道路開鑿に対する俵津の本気を示すために技術員一行を招待した、とも読めそうです。いわゆる接待でしょうか。

この後しばらく関係する記述が途絶えています。

(道路実測)

しばらく経った8月24日付で、「本日ハ卯ノ町俵津間道路実測ノ為大松一行来リ、着手ノ第一日ニ〓(して)、本宅ト二宮トノ間ヨリ伊藤邸ノ後ロヨリ天能園ヲ抜ケ学校方面ニ至ル道路確定シ」との記述があります。これはトンネル部ではなく大浦付近の道路測量のことと思われます(地元の方はわかりますでしょうか?)。「着手ノ第一日」ですのでこの日から大浦辺りでも測量がスタートしたようです。なお、2日後の26日には「大浦裡道路落成式」が開かれている記述がありますが、24日の記述との関係は今のところわかりません。ほかにも、9月20日には長山重太郎らと「道路ノ件」で協議している記述もあります。

日誌では、郡会後は道路に関する記述が減っており、上述のように何か動きがあった時だけ事実を淡々と記す程度になっています。

 

(非公式臨時郡会「卯ノ町高等女学校創立問題ト野村繭穀倉庫問題」)

10月12日、10時から郡役所で「非公式臨時郡会」が開かれ東海も出席しています。この会での議題は「卯ノ町高等女学校創立問題ト野村繭穀倉庫問題」となっています。卯之町俵津間道路問題は先の郡会で片が付いたので、この会では残る二問題を議論したようです。しかし、東海は「余リ重大問題トモ認メズ、故ニ(宇都宮)村長ニ托シ」て午後の会を欠席しています。あまり重大問題とも思わなかった理由については日誌では書いていません。そして、野村繭穀倉庫(乾繭庫)問題についてはこの記述を最後に東海日誌ではこれ以降出てきません。この年4月(もしくは大正12年)から東宇和郡購買販売利用組合が「生繭市場・乾繭農業倉庫業務」の経営を始めたため(『愛媛県史 社会経済1 農林水産』を参照)、この問題については

一応の決着が付いたためかもしれません。

 

(海岸同盟会「海岸道路測量ノ件」と「宇和高等女学校創立ノ件」)

10月15日、村役場で「海岸四ヶ村同盟会」(海岸同盟会)が開かれます。東海も出席しています。この会では「高等女学校ノ件、海岸道路概則ノ件」を協議しています。この「海岸道路」は宇和町俵津間道路とは異なる「海岸線」の道路のことで、ために海岸同盟会(関係四ヶ村)において協議されたものと思われます(前述の2/1の海岸同盟会も同様)。この会では合わせて高等女学校についても協議しています。ちなみにこの日東海は会長の改選を申し出ていますが、高山村が欠席していたため次会へと見送られています。同月28日にも「午后川又郡長、清水與一郎、外一名来リ、四ヶ村々長、郡会議員集合、宇和高等女学校創立ノ件ニ付協議ス」との記述があり、この時は特に「宇和高等女学校創立ノ件」のみを協議しています。同

問題の進捗が見え始めています。

 

(臨時郡会「高等女学校設立ノ件」)

10月30日、臨時郡会が開かれます。日誌では「議案ハ高等学校設立ノ件」と記していますが、これは「高等女学校設立ノ件」の書き間違いと思われます。「東部西部ニ別レ容易ニ決セズ」と、この日も東西で意見が対立したようですが、詳しくは書いていません。翌31日も「前日ノ如ク東西分レ」対立が続いたようですが、ようやく夜になってまとまり、「原案ヲ賛成シ閉会」しています。これで高等女学校設立について郡の方針がまとまったようです。しかし道路問題に対するほどの熱意は東海にはなかったらしく、とてもあっさりとした記述で終わっています。

ちなみに、この臨時郡会時に東海は郡会議長に就任する予定でしたが、自身の病気のために辞退しています(東海日誌について〓で少し紹介)。

 

(その後)

臨時郡会後は関係する記述がさらに少なくなり、12月2日に「道路件ニ付(海岸線ノ〓(こと))海岸同盟会」が開かれた記述(この会で東海は会長を辞退しようとしましたが、会員の希望により続けることになっています)、同月3日に「高等女学校創立ノ件」で郡長から東海へ照会があるも中村重三が代理で卯之町へ行った記述、同月10日付で「道路会」が開かれた記述があるのみです。

 

【俵津婦人会】

3月10日付で「学校ニ俵津婦人会発会式アリ、出席、一条ノ演説ヲナス」との記述があります(当年日誌ではこの記述のみ)。この俵津婦人会については、『明浜こぼれ話 郷土史片々録』には「俵津婦人会は大正十一年三月一日新設され次第に充実し(略)」との記載があり、東海日誌の記述との相違が見られます。留意しておきたいと思います(『明浜町誌』には記載がありません)。

 

【俵津公会堂】

この年俵津に公会堂が設置されます。日誌にも関係する記述が見られますので紹介します。

(ちなみに、『明浜町誌』には「大正10年建築俵津公会堂」の写真がありますが、公会堂そのものについての記載がありません。そして、ちょうどのタイミングでこのブログ主様が関係する記事をアップされています。)

(筋の「折藁会社」の建物買い受け)

5月20日付で「当夜本宅ニテ筋折藁会社家屋(解散ニテ売家トナル)ニ付公会堂ニ買受協議ヲナス、伊藤直三郎及自分等ガ中心トナリ」との記述、翌21日付では「昨日協議ノ筋折藁会社家屋実見ノ為、伊藤、山下、木崎筋行」との記述があります。筋にあった「折藁会社」が解散して建物が売家となっていたらしく、この建物を俵津の公会堂として買い受けるための協議を東海と伊藤直三郎が中心となって行い、伊藤らは建物を実際に見に行ったようです。6月2日にも「公開(会)堂ノ件」を伊藤や山下三松と協議している記述があります。

(「組株」募集、創立へ)

6月7日、東海は伊藤とともに製糸社や大浦の有志を訪問して「公開(会)堂創立ニ付組株」を募っています。公会堂設立のために組合のようなものを作り、資金を募ったものと思われます。翌8日も東海、伊藤、山下の3名で大浦・新田・脇などへ戸別訪問をし、この日の夜には「創立ニ付」協議を行っています。続く9日も「公開(会)堂設立ニ付奔走、尽力中」と書いています。そしてこの日の夜、東海本宅で「創立総会」を16名(+東海、伊藤、山下)の参加者で開いています。10日も「公会堂設立会員」がまだ不足しているということで追加の募集を続け、「満足ナル結果ヲ得タリ」と記しています。また、この日は「五名協議会」(伊藤直三郎、長崎東海、中井繁次郎、山下三松、宇都宮茂)を開いて、伊藤を「組長」に選定し、

「会計、設計、工事等ノ協議」をしています。その後も、11日付で「公開(会)堂ノ要務」の記述、18日及び21日にも伊藤、山下と協議をしている記述があります。

 

(家屋の移転、工事)

7月9日付で「本日筋ノ家屋、即公会堂移転ニ着手シ、瓦障子廻リ船ニテ取来ル」、同月14日付でも「公会堂家材船ニテ送リ来リ、本宅浜ニ積ム」との記述があります。7月の中旬までには筋の家屋(元折藁会社の建物)は解体されてその部材が俵津へ搬入されたようです。同月20日付で「天能園ノ家ハ本日(略)家コワシヲナシタリ、公開堂式地入用ノ為メ早ク除キタリ」との記述があります。「天能園ノ家」とは大正5年に構えられた東海宅の部屋(移築された隠居)のことと思われ、公会堂用にこの部屋の敷地(一部か)が提供されたように読めます(※)。その後8月12日付では「天能園公会堂建築中ノ状態ヲ視察シ」とありますので、この頃には公会堂の建築が始まっています。同月25日付では「早朝公会堂ニ至リ大工左官ノ工事作業ヲ

視察ス」とあり、工事は進んでいるようです。そして10月3日付で「天能園ニ至リ公会堂引渡ヲ受ク、伊ト、山下仝道ナリ」と記しています。この頃に公会堂の建築は終了して完成したようです。同月7日、8日には視察に行っています。

(※)部屋には東海の母が住んでいましたが、前々年に死去し空き家となっていたものと思われます。この建物は取り壊しましたが、敷地内に別の「部屋」(のちに「別邸」「別荘」とも表記)を建てることになったようで、9月14日に「天能園部屋再築入札」を行っています。同月24日には建築を開始し、10月下旬頃まで「別邸」「別荘」の建築工事の記述が散見されます。11月11日付では「天能園閑光亭ノ左官壁塗ヲ始ム」との記述があり、その後12月7日にはこの「天能園閑光亭」で知人らと会食をしていますので、この時までに完成したようで、この新しい部屋=別荘は「閑光亭」と称されたものと思われます(翌年以降は「其日庵」と改称した可能性あり)。

 

(完成後の公会堂の利用と落成式)

10月10日に海岸医会が公会堂で開かれています。これが「公会堂建築始メテノ公会ナリ」と東海は記しています。翌11日には愛国婦人会俵津区総会が開かれています。

11月2日付で『午後、公会堂に「該堂(=公会堂)組合主」20数名が集まって落成式について協議し、諸報告もした。その後宴会となって将来について協議するところも多くあった。落成式は来る19日に挙行することとなった』と記しています。落成式前日の18日には式に向けて朝から餅つきなどの準備に忙しくするようすを記しています。

そして11月19日、俵津公会堂の落成式が午後5時から始まります。肝心の会場は日誌では書かれていませんが、まず間違いなく公会堂かと思われます。建築委員の報告があり、伊藤の挨拶、次いで郡長代理、警察署長代理ほかの祝辞のあと、大浦子供芝居の余興などがあったようです。出席者は約80名と記しています。

日誌ではこれ以降公会堂の記述が度々出てきて、大いに利用されていることが確認できます。

 

【女子火災予防組合】

この年俵津では「女子火災予防組合」が設立されています。日誌でも関係する記述が確認できます。

6月2日付で「大石部長(筆者注:卯之町警察署大石盛輝警部補のことか)女子火災予防組合創立ノ件ニ付来談アリ」、3日付でも「卯之町警察ヨリ横田巡査来談アリ(女子火災ヨ防組合ノ件)」という記述があります。4日付では「吉野卯之町警察署長来ル、磯野部長来ル、本日ノ女子火災予防組合設立ノ件ニ付協議セラル、之ニ付尽力ス、十一時頃学校講堂ニ於テ発会式アリ、自分ノ一条ノ演説ヲナス、会スル者約三百ノ女子ト見受ケ、盛会ヲ極メ、署長満足セリ、当夜伊井ニ於テ慰労会ヲナス、会スル者約二十名、自分モ出席ス」とあります。6月2,3日に卯之町警察署から署長・署員が俵津へやって来て「女子火災予防組合創立」のことを東海らと協議し、東海もこれに尽力して、6月4日には女子火災予防組合が設立されて卯之町警察

署長臨席の下で発会式が開かれたように読めます。同月14日付では「女子消防組合役員会」が村役場で開かれ東海も出席している記述があります。ここでは「女子消防組合」と書かれていますが、「女子火災予防組合」のことと解釈して良さそうです。

2か月ほど経った8月7日、この日小林一男県警察部長が俵津を訪れます。日誌では同日付で「本県警察部長従五位小林一男殿一行来村記、予告ノ通リ」と記していますが、この後は空白となっており記述がありません(後欠)。しかし、日誌とは別に「従五位小林一男来村記」が残されており、この別紙から当日のもようを知ることができます。この「来村記」によると、この日の小林の来村の目的は「日本全国ニナキ女子火災予防組合組織」(「天下ノ誉声高ク」とも記しています)と「海岸四ヶ村地形・民状」の視察を兼ねたものでした。視察の一行は5名ほどで、午後3時過ぎに「県有汽船愛媛丸」で俵津に到着し、有志や「女子火災予防組合役員一同」が出迎えています。その後有志80名ほどの出席で「村衙楼上」において「歓迎

披露宴」が開かれ、小林らの演説が行われています。その後一行は東海本宅に引き上げて「更ニ女子火災組役員一般ニ対シ訓授」があったと記しています。この小林の来村について東海は「俵津ノ名誉」と記しています。

(『明浜町誌』との比較)

『明浜町誌』では「大正一〇年七月、村内の主婦を以て女子火災予防組合を設立。八月七日俵津公会堂においてときの小林県警察部長臨席の上、その結成式を挙行した。」との記載があります。合わせて紹介されている「警察部長揮毫の書」(「女子火防隊創設の書」とも)の東海による添付文では「大正十年八月七日公会堂ニ於テ盛大ナル発会式ヲ挙行ス」と記されています。

一方、東海日誌では、6月4日に「学校講堂」で「女子火災予防組合」の「発会式」が開かれている記述があります。8月7日の小林警察部長の来村は、「日本全国ニナキ女子火災予防組合組織」と「海岸四ヶ村ノ地形・民状視察」が目的で、「村衙楼上」で「歓迎披露宴」があり、その後東海「本宅」で「女子火災組役員一般ニ対シ訓授」があったと記していますが、「結成式」や「発会式」には言及していません。また、8月7日の段階で公会堂はまだ完成に至っていません(前項)。

東海日誌(「来村記」)の記述と『明浜町誌』の記載に相違が見られるようです。留意しておきたいと思います。

 

【滑稽婦人大笑会と納涼会と盆踊りのこと】

滑稽婦人大笑会は例年通り1月2日に開かれています。この年で通算9回目です。会場は東海宅大広間で、内容はほぼ例年通りです。参加者数の記述はありませんが、「脇ヨリハ新入六・七名増加ス」とありますので前年よりは増えたようです。

納涼会についても例年通り開かれています。当年は7月28日に開かれ、通算5回目です。会場は東海本宅2階で、参加者は60~70名ほど。内容は、こちらもほぼ例年通りです。

大笑会、納涼会は例年通りの内容での実施が確認できますが、盆踊りに関する記述が当年日誌には見られません(この年は8月18日が旧暦7月15日)。次年以降の日誌では記述が確認できますので、当年は実施しなかったのではなく日誌に書いていないだけかもしれません。なお、8月26日付、27日付で少し気になる記述があります。8月26日付では「今夕大浦裡道路落成式ニ付案内ヲ受ケタレ〓病気ノ為欠席ス、余興大浦式盆踊アリシトナリ」とあり、「大浦式盆踊」という書き方がされています。翌27日付でも「今夕大浦踊連卯ノ町ニ行キ踊リシガ、非常ノ人気ナリシト云フ」とあります。大浦の盆踊りが何か特徴的だったのでしょうか。この大浦の盆踊りについては次年以降も注意したい記述があり、このことは次回以降で紹介します。

 

【神祭日の変更と学校運動会】

この年俵津では神祭(秋祭り)の日が変更されています。神祭日の変更はこれまでも度々行われており、東海日誌から確認できるものを整理しますと、それまで旧暦11月15日だったものが明治41年には12月15日に変更され、さらに明治43年には11月2日に変更されています(東海日誌について⑲で紹介)。そして当年(大正10年)再び変更されることとなり、当年日誌の10月25日付で「昨年迄ハ十一月二日ナリシガ、本年ヨリ狩江ト合併、祭日変更」(昨年までは11月2日だったが、本年より狩江と合わせて祭日を変更)したことと、そのために「狩江ヨリ来客」がなかったことを記しています。神祭当日のようすは「神輿ハ待合前ノ埋立地ニ来ル、丑鬼、鹿ノ子踊ハ例ノ通リ、本年ハ屋隊小供芝居、小供甚句、踊等ハ皆大浦組ノミ、脇・新田何

ニモヤラズ」と記しています。狩江からの来客はありませんでしたが、東海宅には玉津や卯之町などから多くの来客があったようで、『かなり忙しかった』とも記しています。

前年までは神祭日の翌日に「学校運動会」が開催されていました。神祭日の変更に合わせて当年の学校運動会も神祭日(10/25)の翌日、すなわち10月26日に変更となっています。この日付で「晴、学校運動会ハ例年ノ通リ神祭日ノ翌日ナリ、父兄其他ノ見物多、不景気ト称ヘナガラ年々美服ヲ装ヒ競争状態ナリシ」と、不景気とは言いながら父兄は年々美しい服を装って競争状態だ、と書いています。当時の運動会の光景が目に浮かびませんか?

 

【養蚕のこと】

当年も春蚕を手掛けていることが確認できます。4月下旬から5月中に記述が確認できます。

夏蚕については、8月14日付で「目下夏蚕最中ナリ、本宅ニハ本年夏蚕ヲ止メ秋蚕ノ目的ナリ」との記述があり、長崎家では夏蚕は中止し秋蚕を手掛ける予定だったように読めます。しかしその後養蚕に関する記述が見られず、秋蚕も中止した可能性があります。

 

【船のこと】

これまで同様、通年で鶴島丸を東海はよく利用しています。5月下旬には東海は母の埋骨式のために高知へと行っていますが、その際には第十二宇和島丸(宇和島→宿毛)を利用しています。これらは宇和島運輸の船です。

俵津近隣の船では、狩江発動船春洋丸が散発的に確認でき、東海も利用しています。高山を拠点とする乕丸、高山丸も当年日誌では1件ずつ記述が確認できますが、東海は利用していません。前年組織された玉津運輸会社の玉津丸はほぼ通年で航行しており、東海も利用しています。

ほかには、扶桑丸(宿毛→久礼)(土佐沿岸汽船)、大分丸(宇和島→吉田)(大阪商船)、御荘丸(宇和島→九州?)(南予運輸)などの船も確認でき、東海や家族が利用しています。

また、8月7日には警察船愛媛丸も俵津に入港していることが確認できます(前述)。

 

【モーターボート千鳥号】

前年導入した自家用船のモーターボート「千鳥号」は、当年日誌でも5月~10月初旬の間で記述が確認できます。前年と同じく修繕を時々加えながら、往診に利用し、送迎にも利用し、人にも貸しています。北は高山、南は宇和島まで行っているようです。

 

 

当年日誌にはほかにも、4月下旬の「宇喜五郡聯合共進会」(宇和島町で開催、東海も見物)の記述、5月下旬の母の高知での埋骨式の記述、7月24日に軍艦(奥浦沖に投錨中の長門と扶桑)を見物する記述、8月1日には宇和島市制が敷かれ山村豊次郎町長に祝電を出した記述などがあります。また、9月2日付で「東和病院組織変更ノ熟考案」を村会に伝える記述があり、この病院組織変更については次年以降で度々日誌に出てくるようになります。

当年日誌は12月に入って文字数が極端に少なくなっており、年末の数日間は記述がありません。また、当年日誌以降は文字数が減少傾向となっていきます。東海の体調が影響しているのかもしれません。

(本文中敬称略)

 

                        (2026・9・26)

宇都宮末夫くんのこと。

 9月20日。年下の畏友・宇都宮末夫くんが逝った。享年76。哀悼が尽きない。残念である。

 死の2日前、虫の知らせというのかなぜだか胸さわぎがして、吉田病院に入院中の彼を見舞った。元気そうで、「医者が家に帰れるようになるよと言っているので、帰ったら一杯やろう」と言って握手を求めてきたので握り返すと力強い返しがあった。これならまだしばらく大丈夫だろうと思ったが、あまりの事態の急変に驚いた。

 翌夕の通夜に参列したが、その会葬礼状に大変感動した。おそらく末夫くんの文才を受け継いだ娘の真梨子さんが書かれたものだろう。

 

「在りし日の面影は皆の胸にいつまでも」

好奇心旺盛で、興味を持ったことはどんどん取り入れていた父。元々は青果店を営んでおりましたがその傍らミカンの栽培をするようになり、美味しく育てるために勉強。またパソコン関係の本を買ってプログラミングの仕方を学び、ネット販売をするためのホームページを開設しました。カメラやギター、読書に熱中していた様子も父らしく感じます。またお酒が大好きで、焼酎を少しずつ飲みながらギターをポロンポロンと弾くのも楽しみのひとつでした。これからもきっとお酒を味わうのでしょう。市場へ行かなければと最後まで仕事のことも気にかけていましたが、何も心配せずゆっくり休んでほしいと願っています。~子供一同。令和八年九月二十日、宇都宮末夫は、享年七十六歳にて生涯を閉じました。生前ご厚情を賜りました皆様へ、深く感謝申し上げます。略儀ながら書状をもってお礼申し上げます。

 

◆

 彼は、こよなく「新田」を愛した男であった。

 新田愛が高じて当時の若者であるわれわれに向かって、新田改革のグループ「新田こせがれ会」を作ることを求めて実現させた。〈ロッジせせらぎ〉はわれわれの梁山泊だった。「同質性からの脱却を!」と口角泡を飛ばして弁舌した。

 三代続いたのち途切れていた新田選出町会議員をこの仲間から出そう!と熱く語って奔走しもした。

 「新田ふるさとまつり」の活躍も忘れられない。特に「狩渡橋情話」という芝居台本を3年にわたって書き続け演出し、俵津中のひとびとに涙させたことはいまだに皆の胸に熱いまま残っている。われわれは「新田の近松門左衛門」と呼んで彼を称えた。

 俵津老人クラブの「じじばばスーパー演芸会」もお世話になった。第1回大会での〈ゆめさく一座〉の芝居「水戸黄門」の台本は彼の作である。ギター演奏で出演もしてくれた。

 彼はまた、酒を飲むところのないこの俵津で「居酒屋・鉄平」を開店した。先見的な試みをいとも簡単に実行して見せる男でもあった。そこで語られる司馬遼太郎論は刺激に満ちていた。みんなの心は震えた。

 われわれは、彼とともに、とてもいい〈人生の時〉を過ごした。

 ほんとうに、俵津にとって必要な男であった、と今こころから思う。

◆

 あらためて特筆したいのは、娘さんの文章の中にもあった〈ホームページ〉の中の「田舎便り」(メールマガジン)である。「田舎暮らしを楽しもう」と題された月一で連綿と綴られたエッセイである。

 実に味わい深い文章で、ウイットに富み、諧謔(ユーモア)に溢れた、世相を批判する時は辛辣に的を射抜き、縦横無尽に歴史を往還するような魅力に満ちた世界をつくりあげていた。

 今年の3月に配信したものが絶筆となったが、再開を心待ちにしている人は多かっただろう。

 末夫くんは以前わたしに「自分の本を自費出版したい」と言っていた。3人の子供さんたちにお願いしたい。末夫くんのパソコンにはおそらく沢山の文章が残されていることだろうと思う。どうかそれを編集して一冊の本に仕上げていただけないだろうか。

 きっとみんな俵津での「田舎暮らし」が楽しくなるだろう。心温まる俵津の昔に出会うだろう。忘れていた人情の世界に出会うだろう。そして、未来への展望が開けてくるだろう。末夫くんの文章世界には「懐かしい未来」がある。

 ほんの一面だが(わたしの関心の強い分野に過ぎないが)、少しでも末夫くんを知っていただくために、令和6年8月30日に配信したもの(「貧しい農村」)の一節をここに引用しておきたい。新田を愛し、俵津を愛した末夫くんは、こんなふうに体の中に怒りを内蔵し、俵津の現状を深く憂えていた。

 (全文を読みたい方は、わたしのこのブログの右の〈リンク欄〉のトップに掲げているので、そこから入って見て下さい!また、わたしのブログにも数回〈胡瓜〉の筆名で寄稿してくれています。検索して見てください。)

 

 「世界は中世から抜け出してきたようなトランプ・プーチン・習近平の三人組にかき回され、田舎暮らしを楽しもうなどと呑気なことを言っていられるような、状況ではなくなりつつある。
 明治維新後田舎は兵士の供給地であった。日清・日露・太平洋戦争とどれほどの兵士が、出征していったことか。そしてどれほどの人が帰らぬ人となったことか。そして戦後は高度経済成長を支える労働力の供給地として、経済成長を旗印に百万馬力のポンプで吸い上げるように若い衆たちを、都会暮らしに流し込んだ。
 その結果残されたものは貧しい農村とジジ・ババ、だけである。
 何もかも失われていく農村の、全村老人ホームかと思わせるような佇まいに、明るい未来を見つけ出すのは、困難である。
 一昨年村にただ一店舗残っていたAコープが閉店した。唯一憩いの場でもあった場所を失い、しかも買い物弱者となった高齢者は行き場を失い、ただ一店舗ほそぼそと営業を続ける私の店に、足を向けざるを得なくなった。
 そこで交わされる会話はとめどもなく他愛のないもので、誰かが亡くなったとか入院したとか膝が痛いとか、およそ聞いていて楽しいものではない。とは言えそんな会話を通じて互いの身を案じその境遇を互いに慰めあうのもまた、田舎暮らしの一端ではある。」

 本当に俵津は惜しい人物をなくした。しかし、「在りし日の面影は皆の胸にいつまでも」である。こころから冥福を祈る。

 

                         (2026・9・23)

「手本」は、東海さん。―新しい「議員像」をつくるために

 やっと、やっと、雨が降りました。7月初めに早い梅雨明けがあってから2ヶ月、5,6ミリの雨が3回ほどあったものの(それでもとても嬉しかった!)後は干天・猛暑の連続。ミカンのかん水に追われる日々でした。老いの体にはさすがに堪えました。(しばらくゆっくり休みたいです。が、摘果が待ってます!)

 

 いま、福岡県議会が揺れています。議長ポストをめぐる金銭授受疑惑や高額な海外視察など「政治とカネ」にまつわる問題で、です。一地方の問題に過ぎないと思われたものが、今や全国ニュースとして日本をにぎわせています。

 こう言っては何ですが、地方議会、弛緩しきっているように感じます(国会もですが)。わが西予市議会ではこんなことはないでしょうが、それでも議会や議員について、これでいいのかな とか もうちょっとなんとかならないのかな とかいう気持ちはわたしにもあります。頑張っている議員さんに失礼であることは重々承知してはいるのですが。

 この違和感はどこから来るのだろう?と考えてみました。そして思い至ったのは、わたしの抱く「議員像」と違うからかもしれない、ということでした。

 わたしはこのブログの2回前の記事(2026・7・22「議員と語ろう!会」へ行く)で、その最後の所でわたしの抱く議員像というか、こうあって欲しいと思う議員さんの在り方を少しスケッチふうに書いておきました。それはセンター職員や地域の人たちと一緒になって〈まちづくり〉に汗をかく議員の姿でした。また、その前の記事(2026・7・15「ある地方議員の叫び」)では、宮崎県のある地方議員の書いた文章を紹介させていただきました。これも、住民の心の底からの声をくみ取り、自分のものとする、熱意ある真摯な態度を持つ新しい議員像を提示するものでした。

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 わたしから見える議員さんたちの態度・言動は、どうもこういう姿からはかけ離れている、そんな気がしてならないのです(わたしの誤解だったらごめんなさい)。

 確かに議員さんは、議場で市から提示される議案を審議するのが仕事でしょう。でも、加速度的に衰退していく現在の地方では、こうした従来通りの議員さんの在り方からテイクオフ(離陸)しないと、地方は興らないのでは、と思われてなりません。

 

 さて、ここでやっと、タイトルの「東海さん」が登場します。わたしは長崎東海の中に、「理想の議員像=人間像」を見ます。東海さんを現代に蘇らせなくてはなりません(とも、思います)。

 東海さんは文久3年(1863年)高知窪川生まれの医者。明治35年(1902年)、39歳の時俵津へ移住してきます。昭和3年(1928年)に没するまで、ここ俵津を拠点にして、医療活動のみならず、〈地域興し活動家〉とでも呼ぶしかないような八面六臂の活躍を展開します。

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 移住5年を経ずして地域住民の信頼を得た東海さんは「俵津の主要人物として」村会議員・郡会議員に押し上げられます。以後ずっとその要職を務めたわけではありませんが、医者をしながらよくもまああれほどの議員活動が出来たものだなあと驚嘆します。   特に明治九年以来俵津村がほそぼそと続けていた俵津・宇和線道路工事を県の事業に昇格させた手腕は見事でした。これによって一挙に(現在の)県道45号線への道が開かれたのでした。

 当時は俵津‐宇和線のみならず俵津‐吉田線や宇和・野村・城川の道もほとんどが未開発。東宇和郡の大きな課題でした。また、海の船舶航路も開かれていませんでした。東海さんはその海の航路開拓にも大きな役割を果たしました。宇和島・吉田・俵津・狩江・高山・三瓶・八幡浜間の海の汽船航路ができたことがどれほどこの地域の発展に貢献して来たか、考えて見て下さい。

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 東海さんは、自分の医療活動を俵津に限定していません(ここが素晴らしいのです)。前にも書きましたが、東海さんは俵津に来て「海」を発見したのです。この海を利用すれば俵津を円の中心にして360度の自分の領域を創ることが出来る。東宇和郡は山ですから無理としても(それは馬・駕籠・人力車を利用)、現明浜の全地域・三瓶・玉津・白浦・吉田・戸島・日振島等へは船で行ける。東海さんの地理感覚はとても優れている。東海さんの活動は当然それらの地域の人たちを俵津へ呼び寄せます。俵津はこの地域の要衝にさえなっていたように感じられます。

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 東海さんはまた俵津で数々の偉業を成し遂げます。当時旧市川商店あたりから宮崎川までは浅瀬か湿地帯であったのでしょうが、これを1町5反(1.5ヘクタール)も自費で埋め立てたのです。俵津住民の居住域を拡大したのです。何という情熱・エネルギーでしょう。

 これも自費でですが、なんと〈公会堂〉の建設までやりました。現在の駐在所の場所です。わたしの子どもの頃にも、そこはやはり駐在所として使われていて、矢野さんという方がおられました。その娘が同級生でした。地域に開放したその公会堂ではおそらく様々な住民活動が展開されたことでしょう。

 東海さんは、文化活動に積極的でした。「婦人滑稽大笑大会」を自ら企画し自前の運営・開催をやっています。今わたしたちがやっている「じじばばスーパー演芸会」のようなものでしょうか。これの婦人版といったところでしょうか。自分の病院であり居宅である大きな建物の中でやるのです。その模様は、このブログで長崎東海研究会の会員の方が寄稿していただいている「長崎東海日誌について」㉘を見ていただくとよく分かります。東海さんによって、この俵津がどれほど活性化したか、楽しい町になっていったかということがよくわかります。

 ちなみに、東海さんの病院は現在の俵津自動車整備工場(三好恭弘くん宅)の所にありました。わたしの親戚の家です。小学生の頃時々行きましたが、元は立花旅館という旅館だったそうで、それを東海さんが買い入れたという事ですから、それはそれは広い家でした。二階は襖を外せば100人くらいは優にはいれたでしょう。あそこでやったんでしょうね。東海さんの診察室だった祇園町通り側の二階の部屋は按摩さんに貸していましたが、上部が丸まった都会的なガラス窓が印象的でよく覚えています。(従兄の弘巳さんが60数年前、工場をつくるとき残念ながら解体したのでその家は今は残っていません)。

 東海さんの話題は尽きないですが、このほかにも産婆さんの養成をしたり、当時大浦にあった小学校に門柱を寄贈したり(これは今明浜小学校にあります)、青年教育をしたり、相撲興行をやったり、養蚕業をやったり、何かあると自ら企画して地域の人たちと祝宴をあげたり・・・と実に多方面の活動をしています。趣味も書画骨董の自作・収集から何から多彩です。

 「長崎東海日誌について」を書いてくださっている方がこんな感慨をもらされています。「東海さんの本業は何なのか、わからなくなる時があります。それだけいろいろなことに関与され尽力されています。日誌でも時々出てくる「有志」という存在、そのものかな・・・と時々考えます。」

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 以上わたしの描いた東海さんはほんの素描ですが、いかがでしょうか?型破りともいえるようなその存在。東海さんは確実に俵津を良くしました。こんな方が今いてくれたら!、と思います。

 別に私費・私財を投じて何かをなせ、と言っているのではありません。お金の問題は東海さんの時代よりみんなが何百倍も豊かになった現在ではさまざまな調達方法があるでしょう。問題は、人の情熱・エネルギー・行動力・構想力・夢みる能力・現状をあきらめない力・人の結集力・人間の魅力などなどです。

 そう考えれば、東海さんは議員さんのみならず、〈まちづくり〉にかかわるわたしたちみんなの「手本」になるのではないでしょうか。

 わたしたちは今、東海さんを詳しく知るための大事な大きなテキストを持っています。このブログに連載中の「長崎東海日誌について」です。

 長崎東海研究会の会員の方が渾身の力を込めて書いてくださっています。東海さんの膨大な日誌を1年ごとに、しかも事項ごとにわかりやすくまとめて書いてくださっているのでとても理解が進みます。例えば直近の㉘㉙を見て下さい。【再び郡会議員に】【道路のこと】【第7回滑稽婦人大笑会】などといった小見出しがあります。これで自分の興味に従って読むことも可能になります。

 西予市議会議員や市理事者の方のみならず、多くの西予市民・俵津の方々に読んでいただきたいものです。

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 東海さんは〈移住者〉です。これがとても大事なことです。(わたしは以前東海さんは〈客神〉だと言ったことがありました。)東海さんの高知で生きた40年あまりのことはわかりませんが(その時代の日誌が発見されたらいいですね)、東海さんは、この俵津で大輪の花を咲かせたように思います。

 俵津とその周辺の可能性を、これほど見事に理解し変えた人が他にいたでしょうか。移住者だからこそ見えたのでしょう。出来たのでしょう。日誌でわたしたちはそのことを認識できます。

 いやいや俵津にも俵津製糸工場を創設するような優れた人達が大勢いました。農家も桑・芋・麦・米等々の栽培田畑を天まで耕して元気溌剌でした。俵津全体が歓声をあげていました。活気にあふれていました。だから、東海さんのような方を呼べたのでしょう。東海さんも来たのでしょう。俵津人の大いなる能力でしょう。素晴らしいコラボ、だったと思います。

 さて、東海さんを手本にして、わたしたち、どこへ向かいましょうか。

                                                                                            (2026・9・7)

●追記

 東海さんは、俵津の気の合う愉快な仲間たちと、もっともっと愉快な楽しい俵津をつくろうとしたんじゃないでしょうか。高知時代の日誌が明治34年の一年分だけありますが、そこにはここにスケッチしたようなことは書かれていませんので、わたしにはそんなふうに感じられるのです。

 東海さんは、頭の中に〈まちづくり〉の想念(発想)が湧くと、もう何でも社会化しようとするんですね。つまり俵津のみんなで楽しもうとするんです。家一軒分の値段がするフォーン型ラジオなんかも俵津のみんなを喜ばせるために東京から買って来たんじゃないでしょうかね。

 東海さんが埋め立てた1町5反の土地、あれ何をしようとして埋め立てたんでしょうね。わたしは思うんです。より立派な大きい公会堂、現代の公民館のようなものをイメージしていたんじゃないでしょうかね。そこでさまざまな〈楽しいこと〉を、俵津のみんなともっと大規模にやろうとしたんじゃないでしょうか。そして、自分の書画の作品や集めた骨董品なども展示しようとしたんじゃないでしょうかね。

 東海さんは〈夢追い人〉だったんじゃないでしょうか。

廃校後の小中学校の利用策について

 俵津区代表区長の西田初敏くんが、この間こんなことを言っていました。

 「新たな俵津の課題ができた。五年後に明浜の小中学校が共に廃校になり、西予市では宇和と野村とに一校ずつに統合されることになるが、その廃校後の明浜小・中学校をどう利用していくか、今から考えておかないといけなくなった。」

 

 別に彼に頼まれたわけではありません。でも、このブログは「まちづくり」が主要テーマなので、課題があるとついつい自分の案をあれこれ考えてしまうクセがついてしまいました。今日はそのことを書いてみます。

◆

 さて、わたしならどのような案を出すか。・・・うーん・・・わからない。思案投げ首ですが、しょうがない。「移住者」に丸投げして見てはどうでしょうか。

 

 まず、「俵津ホームページ」(刷新が必要です!)や「センターだより」「スマイルだより」あるいは市の広報などを通して、俵津(明浜)への移住を全国民に呼びかけます。その時に、小中学校の利用(法)をあなたにおまかせします!と訴えるのです。面白がって意欲ある人たちがわんさか押し寄せるような気がします(そんなわけない?!)。

 前にも書きましたが、すべてのお膳立てをしてハイ来てください、というやり方はどうも時代にそぐわないような気がします。都市から田舎を目指す人たちは、自分の能力を田舎で発揮したいと思っている意欲ある人たちです。その人たちのチャレンジ精神や場所をあらかじめ奪うようなことをしてはいけないと思うのです。

 関係者の皆さんは直ちに行動してください。代表区長は先頭に立って音頭を取ってください。意欲ある・魅力ある面白人間たちがゾクゾクと全国から「下見」に来るに違いありません(そんなわけない??!)。

 まあものはためしです。やってみてはいかがでしょうか。

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 それがだめだったら、どうしましょうか?ヒマですから、それも考えておきますか!うーん・・・?!

 まず、平凡ですが俵津の偉人館(資料館・作品館・歴史館)にしてはいかがでしょう。長崎東海・井上和・田中恒利・伊井庄五・・。歴史があってこの町がある。長い人々の営み・つながりがあって現在・今がある。古きを訪ねて新しきを想う。学校の1教室か2教室でいい。それにあてませんか。

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次は、やっぱり工房ですね。狩江笑学校には酒井建設の酒井久夫くんの木工房があります。そのように、お菓子工房・服飾工房・陶芸工房などなどさまざまある(これからもできる)工房群の集積場所にできるといいですね。夢ある個人がいきいきと生きる。楽しく生きる。そういう場所にしたいですね。

  ああそうです。パン工房やビール工房もいいですね。(地元の菌を使える人がいるといいですね)。

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 そして、そう、宿泊施設。あるといいですね。

 俵津は海で遊べる町です。ヨット・カヌー・ウインドサーフィン・釣り・貝

堀り・海草取りなど海で遊んだ後、泊まって夜も食事やみんなとの談話を楽しむ、そんな場所にしたい。夏の海の家的な使い方もできるかも。

 宇和海を魚を増やす研究をする場所として、実験場として、携わる人たちが泊まり込みで働く場所にしたい。

 野福峠の桜などで俵津を愛する人たちが、泊まる場所として提供したい。

 今はあるのかどうかわかりませんが、昔ユースホステルというのがあって、旅をする若者にとってとても便利でした。全国の若者が交流できるところでもありました。そんな施設になるといいですね。

 スポーツクラブや文化クラブの合宿所として利用していただくというのはどうでしょう。

 どこかの劇団なんかが練習のための合宿をして、体育館でリハーサルをやってわたしたちに見せていただけませんでしょうかね。

 全国の人によびかけて、いらない本を全部送って(贈って)いただいたらどうでしょう!数万冊の蔵書を持つ図書館ができます!知的資源、必要です!重要です!

 もちろん、俵津出身者でいまは故郷の家がない人、還暦や古希等で同級会のために帰省した人たちが気軽に利用できる所にもしたいですね。

 俵津が魅力的になれば宿泊者は増やせるかもしれませんね。俵津のあの文教(京)エリアは広いし素敵な空間だと思います。

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 何かのNPOやボランティアの方たちが、この施設を利用して、何かをするところにできないでしょうか。「何か」については全くわかりませんが、何かが、あるような気はするのですが・・・(!)。

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 南海トラフ地震後の避難場所として使う。

 この建物は堅牢ですから、たとえ震度7の揺れに遭っても、10メートルの津波に襲われても、建物自体は残っている可能性はあるかもしれません。もし残っていたらという話ですが・・・。一般のわたしたちの住居のほとんどは喪失するでしょうから、ここを復興拠点にすることを考えておいてもいいかもしれません。

 自然エネルギー施設や蓄電池の備えを今からしておきたいものです。

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 わたしなんかが思いつくのはこれくらいでしょうか。

 思いますが、これからの学校統合によって、廃校になる小中学校は相当の数に上ると思われます。これは単に小さな学校区の問題ではないと思うのです。やはり、これは市が、ちゃんとしかるべき部署をつくって人員を配置して、これからの市政の方向付けをして、その中で廃校を使って、どう魅力的な市づくりをやっていくかを考えなければならない問題だと、わたしは思います。廃校舎は、別の面から見れば、まことに魅力的な〈まちづくり資源〉なのですから。

 全国の自治体でも同じ課題を抱えている所は多いと思います。行政機関だったらそういう事例を調べるのは簡単だと思います。西予市でも取り入れることが出来そうな事例があれば採用していいのではないでしょうか。前述したように移住促進策の一環にも積極的に利用していただきたいと思います。

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 聞くところによると、狩江笑学校の年間維持管理費は100万円くらいだそうです。明浜小中学校はおそらくその数倍かかるでしょう。この問題をクリアできる使い方を編み出す必要はあります。でも、そこでオノノイテしまうようではもう西予市の未来はないも同然でしょう。西予市の覚悟といったものを見せて欲しいものです。

 都市にいる地方移住希望者が、西予市を選んでくれる決め手を西予市は持っているでしょうか。ジオパークなどはありますが残念ながら私たちの市のランクはそれほどではないのではないでしょうか。どうやってそれを高めればいいのか、それをみんなで考え続けることが大切だと思います。

 その時、コモン(共有地・共有財)をつくる!という意識を持つ、ということがとても大事なことだと強く感じています。コモンを多く持つまちは豊かになれる。

俵津には150ヘクタールの財産区有林があります。これが大切なコモンであるという認識が近年住民の間で失われつつありますが、かつて昭和20年代に建てられた俵津中学校はこの資金と材木が利用されました。いつかまた必ず役に立つ時が来ると思います。大浦集会所や新田集会所も立派なコモンです。残念ながらこれもあまり使われなくなりました。大浦集会所はほどなく解体されるそうです。

もう一度これらコモンを、新たな時代のコモンにしていく使い方をみんなで考え積極的に利用がなされるなら、俵津は活性化していくと思います。

そういう一環として、明浜小中学校の校舎・体育館・グランドをトータルに考えて、コモン化していきたいものです。

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 それにしても、学校がなくなる、ということは、とても残念です。寂しい、虚しい。狩江や高山や宮之浦や田の浜の人たちは、すでにそれを経験しているわけです。旧明浜町域から完全に教育施設がなくなります。こうやって過疎化がさらに進み、地域が衰退していくのかと思うとやり切れない思いが募ります。

 でも、みんなで考えましょう。話し合いましょう。思いをぶつけあうだけでもいいのではないでしょうか。

(2026・8・29)