長崎東海日誌について〓
○大正8年日誌
【正月】
(「一大紀念ノ年」の「祝賀会」)
1月1日、東海は午前10時から俵津校で開かれた拝賀式に出席します。元旦の拝賀式への参加は毎年の恒例です。式場で東海は居合わせた宇都宮茂村長と「祝賀会」を開催すべく打ち合わせをしています。この「祝賀会」は、第一次世界大戦の講話が成立し、また「旧暦廃止案出テ一大改革」をする「一大紀念ノ年」でもあるとして、多くの有志とともにこの年の将来に祝意を表そうとするものでした。東海は式辞の際に祝賀会の開催を拝賀式の参列者に提案しています。
東海提案の「祝賀会」は実行に移され、午後4時から村役場で開かれました。しかし、雨天であったことに加えて勧誘活動も不足していたため、脇・新田からわずか18名の参加に留まり、「甚振ハズ、大ニ遺憾トセリ」と失敗に終わったことを残念がっています。また、『自分の不徳であることとこの会に賛同しない村民に対して心を痛めた。ほかでこのような宴会でもあればともかく、(村民が)国家観念に冷ややかなことを遺憾に思う』とも記しています。時代的な背景が垣間見えると同時に、一般村民と村有志との間に意識の隔たりがあることを伺わせるような記述です。
(第七回滑稽婦人大笑会)
翌2日は例年通り滑稽婦人大笑会が開かれています。当年で7回目です。『自分は第10回まで続ける考えで、大いに奨励して、(前年の東京行きの際に)福引用のちょっとした景品なども買って帰ってきた』『木崎喜三郎はこの会に大々的な賛同を示してくれて、特に20個の赤張り吊り行灯を自作して贈ってきてくれた』『招待の婦人連がこの会に期待して喜び勇んで来会してくれるのは自家の栄誉だ』と記しています。東海も有志もこの会の実施にはとても前向きで、婦人連もとても楽しみにしているようすが読み取れます。
この年の大笑会は午後5時~6時頃に始まり、参加者は70~80名ほどでした。「大浦・新田ハ異装シテ乗込ム」とありますので、大浦・新田からの参加者は自宅から仮装しての参加で、気合が入っています。会場は東海本宅二階で、2ヶ所にガス灯を灯し、木崎から寄贈を受けた「釣角行灯」(前述)も設置し、その光景は「頗ル賞観」されたと書いています。メイン会場は大広間でここを「婦人席」とし、「表八畳ノ間」は「男子席」、そのほかの部屋は芸の打合せ部屋としています。舞踏や小唄など各自が得意とする座芸が繰り広げられ、そのようすを「各自競争的ニ〓(して)絶間ナシ」(それぞれが競争して絶え間がない)と記しています。用意された料理は「会席配膳」のようです。途中で休憩時間が設けられ、その際には煮沸消毒
済みの銅貨や銀貨、「陶器ノ七福神」などを餡として入れた「握リ寿司」が配られています(景品付きの寿司?)。「配膳ニ忙シク、又喰フニモ忙シ、大笑シツゝ皆滑稽的ナリ」。前日の祝賀会とは異なって大いに盛り上り、夜1時頃に閉会しています。
翌3日は雪が降り「一面ノ銀世界」となったようです。この日は前日に大笑会を手伝ってくれた人や病院職員などと「雪見且慰労」の宴を開き、三味太鼓に興じています。「昨夜ニ続グ愉々快々ノ間」に1日を終えたと記しています。
【養蚕のこと】
この年は、長崎家は養蚕を手掛けていることが日誌から確実に言えます。春蚕(4月下旬~5月下旬)、夏蚕(7月下旬~8月中旬)ともに手掛けています。8月13日付で(自家の)「秋蚕上蔟中」との記述がありますが、これは夏蚕の書き間違いと思われます。秋蚕については記述がありません。
また、5月14日付で「養蚕期一周間、学校休業也」、翌15日付でも「学校ハ半休トナリ、養蚕真最中」との記述が出てきます。14日付の「一周間」は、養蚕期に入っておよそ7日目という意味かと思われます(5月6,7日頃から養蚕期となっています)。学校が14日は終日休業で15日は半休となったということですが、養蚕期に学校が休みになるという記述は東海日誌ではこれが初出です。
【納涼会のこと】
大正6年に第1回として開始した納涼会は、この年も8月20日に開かれています。『電灯工事の完成に合わせてもう少し早く開催するつもりだったが、1週間以上待っても工事は完成に至らず、やむを得ずガス灯、ランプ、提灯を以て開催した』ということを記しています(電灯工事については後述)。会場は東海宅2階で、今回も「二階大広間ヨリ仲坐ニ氷塊ヲ吊シ、又桶ニ据付ケ冷ヲ取リ、松ノ緑葉ヲ飾リ、各国旗ヲ張廻シ、坐中ニ西瓜数十ヲ投飛シ」(二階大広間から中座に氷塊を吊るして、桶にも氷を入れて冷を取り、松の緑葉を飾って、国旗を部屋に張回し、スイカ数十個を投げ飛ばす)という大掛かりな意匠となっています。参加者は80名ほどで、夕方6時頃から開かれています。三味線と蓄音機を入れて勝手自由の座芸が繰り広
げられ、夜12時頃に閉会しています。「暑サヲ打忘レ一同快トシ」「主客ノ満足スル所ナリ」。参加者は暑さも忘れてとても満足したようです。
【電灯と盆踊りのこと】
(この年の盆について)
当年は閏月が入り、8月8月は旧7月13日にあたり日誌では「第一盆期」と記しています。9月9日は旧閏7月15日で、俵津ではこの日を正式な盆として扱ったようです。
(送電まで)
前々回紹介した送電についてはこの年に大きく動きます。
まず、2月6日付で東海が宇和島入りしたついでに水電社に行った記述がありますが、何をしたかは書かれていません。その後しばらく目立った記述は途絶えます。
6月23日付で「宇和水電会社ノ事務員仲田兼雄氏来訪セリ、電灯架設ニ工夫ヲ連レ来リ、着手セリ」(宇和水電の仲田事務員が来た。電灯架設の作業員を連れて来て、工事に着手した)との記述が出てきます。この日から電灯工事が始まったもようです。24日には「点灯数申込書調査」が行われ、東海は「本宅、部屋、天能園、病院、分病室等」で計26ヶ所の申し込みをしています。25日付では「受負師佐々木某」(7/10付では「電灯工事係」との肩書)の名前が見えます。26日には「病院本宅共電灯取付工事」をし「両方ニテ二十灯」という記述が確認できます。この頃以降仲田、佐々木とも俵津に滞在しています。7月27日付で「本宅附近電灯柱本日立ツ」という記述があり、工事は着々と進んでいることがわかります。8月5日、仲田兼雄
の送別会が福島肴屋で開かれています。この頃に仲田は宇和島へ帰ったようです。
8月18日付で「盆踊奨励ノ為大浦・脇両部落ヘ五円宛寄附ヲナス」との記述が出てきます。これは例年の盆踊りに対する寄付です。ところが、22日付では『「電灯点火式ノ余興」として踊り(盆踊り)を催すこととなり、各部落で盛んに稽古が始まっている』という記述があり、合わせて「多分一周間内ニ点火ノ運トナル見込ミ」と記しています。電灯工事の完成が盆の頃と被りそうなため、例年の盆踊りに加えて「電灯点火式ノ余興」でも踊り(盆踊り)を実施しようと計画したようです。
8月26日夜、東海が伊藤直三郎方に誘われて行くと『「水電ノ山本武平、佐々木外一名」が同席していてともに饗応を受けた』という記述があります。佐々木は前述の電灯工事係です。山本武平は明治44年頃から東海と交流のあることが日誌で確認できる吉田の人です(2人とも書画骨董を趣味としています)。山本はこの記述以降、俵津の「水電」「給電所」の山本として日誌に登場しますので、仲田兼雄と入れ替わりで俵津に入ったものと思われます(大正11年8月に八幡浜に転任となるまで)。
(「送電トナリ点火」)
そして、8月28日。この日の夕方俵津で電灯が灯ります。日誌では「本日午后四時半俵津送電トナリ点火セリ、万才・・・・・」とだけ書いています。この短い文章に東海の感慨が込められているように思います。
(盆踊り)
送電開始の翌日8月29日付で「今夜脇踊届ヲ自分ノ名義ニテ届出デシカ、明夜ニ延期スル事トナル」との記述があります。翌30日付では「当夜脇・大浦両部落ニテ手踊(即盆踊アリ)、自分催主トナリ届出タリ」との記述があります。これらは例年の盆踊りに関する記述で、29日の脇の踊りを翌日に延期して30日に脇・大浦合同で踊りを実施したということです。いずれも東海が催主となっています。
(電灯祝賀会と余興の踊り)
8月31日。この日「電灯祝賀会」が村役場で開かれます。参加者は80名で、宇和水電本社から小倉鎮太郎(支配人)と仲田兼雄が、「当所事務所」(俵津)からは山本武平ほか3名が臨席します。東海は「発企人惣代」として挨拶をしています。祝賀会は夜8時に終わり、その後「片ノ浜埋立地」で「盆式手踊」が行われます。「電灯点火式ノ余興」の踊りです。新田・脇・大浦合併で、踊り手は「五十燭二ヶ、百燭一ヶノ電灯ノ下」(50ワット2個、100ワット1個の電灯の下)で踊ったらしく、「一大壮観ヲ呈シ、スバラシキ〓(こと)」と東海は激賞しています。この日は参観人も多く、「人気盛ニ〓(して)参観人山ヲナシ、殆ンド二千人以上ト見受ケタリ、玉津、狩江ヨリ来場スル船数知レズ」と、2千人を超える見物人があったと記してい
ます。俵津への送電開始という一大事がちょうど盆のころと重なったことで、例年より盛大な盆踊りとなったようです。
日誌ではこの年6月下旬の工事開始から8月末の電灯祝賀会までの動きが大まかに読み取れます。『明浜町誌』にも電気に関する記載がありますが、東海日誌から新しく判明する事実もあるように思います。
【再び郡会議員に】
この年9月25日に県議選が実施されます。東海も政友会派として運動し、同派の公認候補が当選を果たしています。その後すぐに東宇和郡議選が実施されますが、この郡議選に東海は村の有志の依頼により出馬することになります。
9月27日、村役場で開かれた郡会議員選挙(9月30日実施)の候補者予選会で東海が公認され、交渉員が東海宅にやって来ます。東海は「熟考ノ上明朝廻答スル」とこの日は回答を保留しています。熟考の結果、翌28日朝に東海は「諾」の返事をします。この段階では俵津村で公認を受けた立候補者は東海一人(政友派)で、当選がほぼ確実でした。ところが29日の朝、突然大浦の某が「大浦ヲ根居トシテ私生的候補者」となり東海の「向ヲ張リ」運動を開始します。この突然の動きに東海派は「警戒、注意ヲ払ヘリ」と記しています。選挙当日の30日付では、「少年輩ハ自転車」で某派の「運動盛ナリ」と記しています。東海は『一人舞台と思っていたところ、某が憲政派を標榜して運動を始めたので捨て置くわけにもいかず、政友派は「
注意的運動」をした。(当日)午前2時頃まで「注意」し、朝になってからも有志や「青年」と警戒した』と書いています。この「注意的運動」や「注意」が具体的にどういった行動なのかは日誌からはわかりません。しかし、某は憲政派と称しているものの公認のようでもなく、また、某には「少年輩」が付き東海には「青年」が付き、というように、若い世代で割れているように読み取れます。投票結果は総数102票の内、東海が64票、某が37票、ほか1票で東海が当選します。東海は当選したものの、『某は何の野心があって突然に出馬したのだろう。自分もこの「抵抗運動」には少なからず苦痛を受け、将来忘れるはずもない恨み事となった・・・』と戸惑いを記しています。
その後、東海は10月29日の臨時郡会に臨みます。この郡会では役員選挙が開かれ、「議長ハ二年交代トシ、初年ヲ緒方陸郎氏、二年目ヨリ向ヲ自分ニ決定ス、以下副議長、参事会員皆二年交代トシ、夫々決定ス」と記しています。議長を2年交代として、初年(初めの2年という意味か)を緒方陸朗(野村)、2年目(続く2年という意味か)からを東海がそれぞれ務めることが決まっています(※)。
選挙時のごたごたはありましたが、東海は明治44年以来8年ぶりに郡議に就任し、この後再び郡議としての活動を展開していきます。
(※)大正10年日誌を調べてみますと、10月30日付で『今日から約束通り自分が議長となるはずも、この頃は病気で務め難く、次の通常郡会まで緒方に継続を頼んだ』旨の記述があり、この時は議長職に就くのを病気のため保留したようです。なお、翌大正11年5月中旬の記述では東海が議長であることを示す記述があります。
【道路のこと】
(知事巡視に合わせて「陳述」)
7月7日、この年4月に愛媛県知事に就任した馬渡(まわたり)俊雄が東宇和郡に巡視に来ます。卯之町繭売買所で官民歓迎会が開かれ、東海も参加しています。翌8日、今度は野村の嬉野亭で「知事及東部有志歓迎会」が開かれ、この会にも東海は参加しています。この野村での歓迎会時に東海は芝鉄治(高川村の人。前回参照)と一緒に知事に面談し、「俵津卯ノ町間道路問題」について「陳述」しています。この芝鉄治との陳情行動は前年から引き続くものです。
(「道路法ニ付郡民大会」)
10月4日、卯之町栄座で「民力涵養講演会」が開かれ、東海は参加しています。その後夕方に郡役所で開かれた「道路法ニ付郡民大会」にも東海は参加しています。この大会では「県道編入運動員ト〓(して)路線選定ノ委員八名」を選定しており、東海も委員に選ばれます。また同会では「俵津線モ将来県道ト〓(して)運動ス可キ資格アリ」と決議されており、このことを「大ニ満足セリ」と東海は書いています。
この「道路法ニ付郡民大会」は民力涵養運動(第一次世界大戦後の社会教化運動)の一環で実施されたものと思われます。この郡民大会において、東海が俵津線の県道編入運動員に選ばれたこと、俵津線の県道昇格運動が決定されたことはいずれも留意しておきたい記述です。
(「空気入人力車」と道路事情)
10月23日付で「空気入人力車購求(大阪関原店)、吉田上リニテ、取寄ノ為亀井ヲ派ス、午后ノ鶴島丸ニテ荷物ニ付添俵津上リ、取立完全ナルヲ認ム」との記述があります。大阪の関原店(関原利兵衛)から購入した「空気入人力車」が吉田に到着し、吉田からは亀井(辰見亀井、東和病院の車夫・下男)が荷物(人力車)に付き添って俵津へ到着した、という趣旨の記述です(それまでは明治44年10月に同じ大阪関原利兵衛から購入した人力車を利用していました)。翌24日付では「空気入新調ノ人力車ヲ取組タリ」と書いていますので、到着した人力車は組み立て式のように読めます。27日には新田への求診に「新調空気入自用人力車」の乗り始めをし、「菅別荘」(菅幸松の別荘か)まで試乗しています。
10月28日、新しい人力車を船に積んで深浦へ往診に出かけます。往診後は「玉津道路」を吉田に出て、「吉田・卯ノ町間ノ県道」を迂回して卯之町入りします(翌日の臨時郡会出席のため卯之町入り(前述))。この卯之町入りにわざわざ新調の人力車で向かったのは「車体検査ヲ受クル為」でした。しかし、臨時郡会の翌日(30日)に卯之町警察署へ行き車体検査を申し込んだところ「自用車トシテ検査ヲ要セズ」とのことで、検査を受けずして俵津への帰途に就くことになります。その際の人力車での移動について東海は次のように記しています。「卯ノ町坂ヲ車ニテ越セシ故、二分乗車、八分歩行、大ニ疲労セリ」。28日の「卯ノ町坂」=「吉田・卯ノ町間ノ県道」ルートは人力車に乗って通れたものの、帰りの野福峠は「二分乗
車、八分歩行」(2割は乗車、8割は歩行)で、人力車に人を乗せて通ることのできる箇所がルート全体の2割ほどだったとの記述となっています。まだ改良が進んでいないこの頃の道路事情がわかります。
ちなみに、それまで使用していた人力車は11月11日に玉津の浜田耕吉(医者)に40円で譲っています。
【駕籠のこと】
9月26日付で次のような記述があります。「仲屋喜久造氏ハ旧藩主伊達侯ヨリ石崎忠八氏方ヘ譲リアリシ駕ノ買受ヲナシ、当地ニ持来リ、交渉ノ結果之ヲ求ム」。石崎忠八(宇和島の実業家)に譲られていた旧藩主伊達家の駕籠を仲屋喜久造(宇和島丸之内の指物商)が買い受けて、俵津に持って来て東海と交渉した結果、東海がこの駕籠を購入したと書いています。10月16日付では、宇都宮友吉(この頃卯之町在住)と「駕ノ修繕其他小細工」の約束をしている記述があります。この「駕」は9/26付と同じものと思われます。その後11月4日に宇都宮友吉が駕籠の修繕に取り掛かり、7日に修繕を終えた記述があります。
この駕籠については東海日誌研究会の会合で山下会長が指摘され、その後いろいろ調べてみましたが、今のところよくわかっていません。
ちなみに、翌大正9年日誌では1月22日付で「駕修繕成リ落成」した記述があり、この駕籠の可能性があります。その後3月23日付で「横山氏ニ古駕譲渡ノ約束成リ、送リ船ニ托シ仝氏ニ送附ス」との記述があります(横山友郷はこの頃狩浜の医者)。それまで東海が使用していた古い駕籠は狩浜の同業者横山へ譲り、東海は新たに修繕成った(元伊達家のものかもしれない)駕籠を使用した可能性があります。留意しておきたい記述です。
【船のこと】
この年は主に鶴島丸が俵津近海を航行しています。第二鶴島丸も俵津に入港していますが、当年日誌で確認できる記述は2件のみです。また、11月9日付以降では鶴丸という船も見られるようになります。いずれも宇和島運輸の船で、東海や家族も利用しています。
地元の船としては、「俵津発動船大漁丸」(前年日誌では「大浦発動船大漁丸」表記)と春洋丸(狩江発動船)が前年に続き航行中です。
瀬戸内海航路では、前年と同じく第十三宇和島丸(神戸→吉田)、第十五宇和島丸(大阪~吉田・宇和島)の記述があります(宇和島運輸の船)。また、高浜→吉田で愛媛丸(大阪汽船)を、三津~宇品では人丸を東海はそれぞれ利用しています。
ほかには、10月2日付で『病院の東隣にある旧校舎を肥料会社として、第十多加丸という船が来た。肥料を積んで臭気を四方に散らして閉口した』という旨の記述も出てきます。これの第十多加丸は荷船のようです。
【そのほか】
(革のこと)
大正6年に妻を亡くした革(東海の息子)はこの年再婚します。革は1月下旬に一時帰国し、その後俵津滞在中に「求妻」活動を行い、3月28日に結婚式。4月5日には早々に夫婦でアメリカに向けて出発し、5月28日にはアメリカに到着しています。この流れは大正6年時と同じです。
(「出宇加養」)
東海はこの年秋ごろから体調を崩し、11月25日~12月23日の間宇和島で療養しています。東海の自宅以外での長期療養は初めてのことです。
(医師会のこと)
海岸医会の記述内容は例年と変わりませんが、郡医師会については、11月15日付で東宇和郡医師会が開かれた際に「此度改正医師法ニ付旧会ヲ解散シ新ニ医師会ヲ成立セシメタリ」との記述があります。この年に医師法が改正されて「郡市区医師会と道府県医師会は強制設立とされ,法人格が与えられ」る動きがあるのですが(『日本医師会通史』)、これに合わせた東宇和郡での動向かと思われます。県内の改正医師法に係る動向については『愛媛県史 社会経済6 社会』にも詳しく記載がありますのでそちらをご参照ください。
(本文中敬称略)
(2026・7・29)