虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

ウクライナが、心配だ

 ロシアの侵略によって始まったロシアーウクライナ戦争が2年になる。ウクライナにとって芳しくない戦況が報じられるようになっている。ウクライナが負ければこの世から正義が滅びる。人類の数少ない希望の一つが失われる。

 以下は、現状を理解するために、わたしが読んだ新聞や雑誌からの引用です。どれが誰の「言」かは煩瑣なので(まことに失礼ではありますが)いちいちことわりませんのでよろしくご理解ください。これはわたし自身が納得するためのものです。よかったらおつきあいください。

朝日新聞

・同紙の佐藤優氏へのインタビュー記事

・「世界」1月号の松里公孝氏の論考

・同3月号の伊東孝之氏の論考

 

■戦況はどうなっているのか

ウクライナ軍は17日ロシアの進撃を食い止める要衝だった東部ドネツク州アウジーイウカから撤退すると表明した。ウクライナ軍は今後防戦一方の戦い方を余儀なくされるだろう。

・二〇二三年六月五日から開始されたウクライナ軍の反転攻勢は失敗した。反転攻勢の目標は、ロシア内地とクリミアを陸上で繋ぐ回廊を切断すること、言い換えればウクライナ軍がアゾフ海に到達することだった。ウクライナ軍はロシア軍を押し返すことができなかった。ウクライナ軍はこの反転攻勢によって不可逆喪失(死者と重症者の合計)を九万人出している。

BBCの報道によれば、ニ〇二三年前半で手足切断したウクライナ傷痍兵の数は一万五〇〇〇人に達している。医学の水準がまったく違ったにもかかわらず、第二次世界大戦全期間に手足切断したイギリス軍人の総数は一万二〇〇〇人であった。ウクライナがいかに無謀な人海戦術を展開しているかということである。

・「早くやめないと、ウクライナ黒海に面した領域が全部ロシアにとられる可能性がある。米国の軍事支援が先細り、ウクライナは完全に弾切れを起こしています。」

・露ウ戦争は膨大な人命の犠牲を生んでいる。アルジャジーラ紙はロシア軍の戦死者を約五万人と推定している。ウクライナ側の喪失(戦死者、重症者の合計)は、おそらく二〇万人を超える。特にウクライナ側は、すでに民族の再生産が妨げられるほどの犠牲である。

■ロシアはどうか

・生活雑感を述べると、スーパーマーケットは商品で溢れかえっており、西側の制裁効果は全くない。物価はほぼ日本並み。ロシア人の平均月収は九〇〇ドル強で共稼ぎが原則なので、生活は楽ではないが、困窮というレベルではない。

・制裁で外国人観光客が来なくなったことは大打撃のはずだが、その分、国内観光客が増えたので困らなかったという。カフェやレストランは深夜まで賑わっており、COVID-19中の日本のようなことはない。

・ロシア政府は、銃後の市民生活に悪影響を及ぼさない程度に戦闘規模を調整している。テレビを見ていても、報道番組を覗けば普通の探偵もの、歌謡、スポーツなどばかりで、これが戦争中の国のテレビとはとても思えない。

・ロシア政府は、二〇二二年秋のハルキウ州、へルソン州からの敗退の際、戦線を立て直すために約三〇万人を徴兵した。その後は徴兵は行わず、二〇二三年に入ってから一一月初旬までに志願・契約のみで四一万人の兵士を確保したと誇っている。ロシア政府は国民、若者の愛国心の高揚に一定成功しているとみなすべきだろう。

・二〇二二年二月の開戦後、「こんなことなら、(ユーロマイダン革命直後、ウクライナの軍事力がまだ弱かった)二〇一四年にやっちゃえばよかったのに」という意見がロシアのマスコミや政治家の間で広がった。対話の余地は全くない。

プリゴジンの反乱のような右派・好戦派からのプーチン政権批判があったが、先日の反体制派の指導者ナワリヌイ氏の獄死(おそらく殺害されたのだろうと言われている)などから推察すれば、ロシア国内にも戦争反対、プーチン批判勢力もかなりの数がいると思われる。

停戦の道はないのか

・「今秋の米大統領選でトランプ前大統領が当選するような事態になれば、完全にはしごを外された形になる。ロシアは手加減しないでしょう。だから早く停戦に持っていかないと」

・「変化が起きるとしたらウクライナの中からでしょう。ゼレンスキー政権である限り無理です。彼は4州だけでなくクリミアまでの解放を勝敗ラインにした。それを達成できないと敗北を認めたことになります。」

・「4州併合によってロシアの目標があいまいになってしまった。(中略)プーチン大統領は勝敗ラインを明確にしなくなった。実効支配の領域が開戦時より少しでも多ければ、当初目的は達成できたという形でいつでも停戦できるということです。率直に言ってこれは予測していませんでした。」

ウクライナは軍事費どころか年金や公務員給与も西側からの援助で賄っている状況なので、案外唐突に停戦が実現する可能性もあると私は思う。

・高齢者にまともな年金も払えない貧しいウクライナ国家に、(戦争で負傷した)これらの青年のまだ何十年もある人生の面倒が見られるのか。二〇万人の子どもが父親を失ったとすれば、誰が彼らを大学まで出すのか。ロシアに勝ってロシアの賠償金で出すのか。「ウクライナは正義のために戦え」などと言っている人たちが、カンパして出すのか。ウクライナに問題が起きた時だけウクライナに関心を向けるのはやめてもらいたい。ウクライナの本当の苦しみは、この戦争が終わった時に始まるのである。

・停戦交渉に正議論を持ち込むと歴史の議論になり、きりがなくなるので、持ち込むべきではないのである。(中略)新たな戦争を防ぐためにも、露ウ戦争は止めなければならないのである。

■それでも、戦争は続く

・ロシアはその後も四州以外のハリキウ州に軍を送っている。ウクライナ各地を爆撃し、民間人を殺し続けている。併合を認めなければ、痛い目に遭うぞ、併合地を取り戻そうとすれば核兵器を使うぞという脅かしである。

・いずれにせよロシアが何を求めているかは明らかだ。それはロシア人・ロシア語話者に正義を回復するということではない。ウクライナの非軍事化でもない。非ナチ化はもちろんない。ある時点までは中立化を求めていたが、それも自身の行動によって断念せざるを得なくなった。残るのは、プーチンが当初口にすることさえ憚ったあからさまな領土要求である。それを具体的に明示したのが、えせ住民投票に基づく四州の併合だった。

・国連は機能不全に陥っているが、今日の世界平和の基礎はやはり国連憲章にある。国連憲章は加盟国の主権平等の原則に基礎をおき、武力による威嚇または行使を禁じている。ロシアはこの国連憲章の基本原則を踏みにじったが、これを看過すれば、将来の戦争の種を蒔くことになろう。

・かつてフランスの哲学者サルトルは、ベトナム戦争に際して、核兵器を「歴史にノーを突きつける兵器」と特徴づけた。そこにこの兵器の特殊性がある。その前に立ち竦むならば、歴史は止まる。ベトナム人の知恵に学んで、立ち竦むのではなく、いかにして核保有国の裏をかいて、抵抗を続けるかを考えるべきだ。

 ここからは、わたしの思いだが、一日も早い停戦を祈る気持ちはつのるが、どうやったらそれが実現するのかを思う時、天を仰いでしまう。

 欧米のウクライナへの支援疲れが言われるようになっている。アメリカ議会は援助資金を出すことを渋っている。ウクライナ国民の戦争疲れも顕著になっている。若者の徴兵拒否の動きも出るようになっていると聞く。ウクライナとその国民のためにもならない戦争の段階が来ているような気がしてならない。

 かと言って欧米(NATO)が参戦してウクライナと共に戦えば、それこそ第三次世界大戦になってしまう。論理的に言えば(それだけで言えば)そうすべきだというのが正しいのであろうが。

 ウクライナの納得できる停戦案など果たしてあるのか。ロシアの一方的決定に身を任せるしかないのか。

 わたしにはわからない。

                        (2024・2・22)

 

 

 

 

こんなこと、あんなこと

 2月10日と11日は、俵津地区産業文化祭でした。

 例年のごとく、老人クラブも一室をいただき、スペースをつくりました。今年は従来1階和室の一部屋からもう一部屋使っていいということになり倍の空間が得られました。これは大きな意味をもちました。

 まず、展示物の多様性とゆったり展示です。会員のつくった編み物、絵、鉢植え植物、お手玉、古い徳利、などが持ち寄られました。中でも昨年の「じじばばスーパー演芸会」の全出場者それぞれの雄姿を写した写真展示は、俵津老人クラブの華やかさ・パワフルさを空間いっぱいに充満させたのでした。

 また、わたしたちのスペースを「老人喫茶」にしよう、ということで広いテーブルをつくり、コーヒーとお茶・お菓子をふんだんに用意し、看板を出し、来館者によびかけました。多くの方が来てくださり、楽しく談笑していかれました。昔話や時事問題など話に花が咲きました。

 9日の準備から11日の片づけ、その後の仕出し弁当での昼食会までの3日間、役員みんな本当に濃密な時を過ごしました。昼食会の時のことです。尾下容子さんが立ち上がりました。「みんながこんなに仲良くなれたのだから、どうでしょう。1泊2日で旅行をしませんか!」。門家久子さんが拍手します。伊勢富雄さんと永山福重さんが応援演説(?!)します。あまりに突然のことで戸惑い顔の人もおりましたが、すぐに決定です。なんということでしょう!!

 「餅まき」もありました!例年の古希会の人たちがやるという形は崩れましたが、センターとスマイルの共同で実施です。スマイル会長の西田初敏くんのあいさつの後、盛大に餅・菓子・手ぬぐい・手袋などがまかれました。

 永山福重さんが提案した「総会時の余興・カラオケ会」は、1月17日の役員会で「やろう!」ということになりました。問題は、はたして飲食を伴った「総会」が4月14日の時点でできるか、ということです。コロナ第10波がどの程度の収まりを見せているか、にかかっていますが、飲食をしない総会という形がつくれるかどうか、ということもそろそろ考えていかなければいけない段階に来ていることは間違いないでしょう。

 老人クラブは、総会の日に会員全員に弁当(とお茶)を配ることをずっと続けてきました。その弁当を持って参加者に2階大ホールの総会会場に上がっていただく段取りでした。コロナでそれが出来なくなって早4年。今年はどうなるのでしょう?3月26日の決算役員会で最終決定がなされます。

 話は突然変わりますが、昨年のNHK大河ドラマ『どうする家康』はまことにつまらなかったですねえ。人気アイドル・松潤(嵐の松本潤)を主役にしたことでこんな脚本になったのでしょうか。

 関ヶ原の合戦とその後の大坂の陣まで延々と1年かけてやるというのに、すっかり退屈してしまいました。戦国時代の合戦ばかりの大河には、みんなもう飽き飽きしていると思います。

 それは夏ぐらいまででさっさと片づけて、わたしとしては作家の門井慶喜さんが『江戸を建てる』で描いたあの関東平野を作り変えた「大改造劇」を取り入れてほしかった。それこそが「どうする?!」にふさわしいドラマだったんじゃないでしょうか。知られつくした「家康」にまだ比較的人口に膾炙することのなかった分野は、ここじゃないでしょうか。東京湾に流れ込んでいた利根川を大改修して千葉へ向けた。湿地帯で入り江が奥深くまで入り込んでいて飲み水確保に苦労したこの地に上水道をつくった。武蔵野を切り拓き低地や湾岸を埋め立て広大な平地を作り出した。江戸城を中心にした武家屋敷や町人町の配置。産業起し。その他もろもろ。そうした「江戸のまちづくり」を克明にドラマにしてほしかった。

 今年の大河『光る君へ』も、今までのところ、面白くないですね。失礼ですが、脚本が面白くない、主役の二人ミスキャストでは?なんて思ってしまいます。三谷幸喜の『鎌倉殿の13人』『真田丸』、おもしろかった!俳優たちまで面白がって演技を楽しんでいるのがこちらまで伝わって来た!ワクワクしましたねえ。

 何とかしていただきたい。日曜の夜の年寄りの楽しみをつくっていただきたい。と、思う今日この頃です。

 父母逝きてのちの歳月冬菫  (大村市)小谷一夫

 こんな俳句が先日の朝日俳壇に載っていました。私事で恐縮ですが、昨年9月母が他界しました。やはり父母二人共を失うということには特別の感懐があります。両親を無事(?!)見送れたということの安堵もあります。そしてあれやこれや・・・。

 まあそれはそれとして、このブログのテーマである「まちづくり」に関して母のことを少し書かせていただきましょうか。母は青春時代、八人の兄弟姉妹で家族劇団をつくって、あの八千代座で舞台に上がったというのです。「たわらづの花売り娘」だったかという脚本を自分で書き、家族だけで演じたというのです。青年団から頼まれてやったと言っていましたが、大好評だったとか。生前自慢げに語っておりました。そういうことを許した面白くて自由な雰囲気のあった俵津がいいな、とわたしは母たちのことより(それも今思えば大したことだとは思いますが)そっちを思ったのです。長崎東海さんが毎年正月に自ら主宰して「滑稽婦人大会」を、自分で建てた“公会堂”でやっていたという話を彼の日誌で知りましたが、その頃からの伝統が根付いていたのでしょうか。

 なんかもう一作つくってやった、ということも話していましたがそれはわすれました。父も映画好きでした。八千代座にかかっていた映画は必ず見に行っていたようです。この俵津にそんな時代があったのですねえ。

 ついでですから、母のお茶目な面のはなしも。わたしが中一の頃のことです。当時とってもらっていた「中一コース」(現GAKKEN)の俳句欄を目ざとく見つけた俳句好きの母、「おまえの名前を貸してくれ」と言って勝手に自作の俳句を応募したのです(いや、させられたのです)。で、結果は見事(!)特選!(なんちゅうこっちゃ!)

 病める祖母われにすがりて菊ながむ

 俳句欄のトップにこれが載っていた時、目がくらみました。しかも祖母がわたしにすがって座敷から庭の菊を眺めているというシチュエーションの挿絵つきでした。賞品としてわたしに万年筆が送られてきたのでした。これ犯罪ですよね(!)でももう時効ですよね?。これぜんぜん自慢話じゃないです。あまりにソーカイですからずっと覚えていたことです。(ちなみにわたしに俳句の才能はまったくありません)

 旧農協本所横の「ゆめさく・スマイル公園」(まだ名前がないようなのでわたしが勝手につけました)内に「東屋(あずまや)」が建ちました。散歩中の年寄りが立ち寄ってくつろげる場所が出来ました。公園自体は子どもたちが飛び回って遊べるほどの広さはありませんが、子供たちが親たちや地域の人たちと触れ合える場にもなったらいいなと思います。夏の夜にはビヤガーデンなんか開いてもらえるといいと思いますね。

                      (2024・2・19)

 

これは「ジェノサイド」ではないか。

 これはまさしく「ジェノサイド」だ、と思った。パレスチナ自治区・ガザを攻撃するイスラエルの行為に対してだ。第二次世界大戦時、アウシュヴィッツで600万人(その内100万人は子ども)のユダヤ人を殺害したナチスの行為(ホロコースト)とどこが違うというのだろう。ユダヤ人の国(厳密には違うかもしれないが)イスラエルが、かつてのナチス・ドイツと同じことをしている。

 あろうことかイスラエルの国連代表は「ハマスナチスだ」と声高に叫んでいるという。イスラエルにとって「ハマス」は、いや「自由と平等を求めるパレスチナ人はみな、テロリストである」なのだ。

 イスラエルの攻撃は無差別だ。戦闘員(ハマス)も非戦闘員もない。老人や女性・子供もない。病院だろうが何だろうがかまうことはない。イスラエルの司法相は「パレスチナ人の女たちは『その腹の中で蝮(まむし)を育てると言って、女性や子供の殺戮を正当化した』」。子供はまた将来イスラエルに刃向かうハマスの戦闘員になるからともいう。(「」は早大教授・岡真理氏。『世界』1月号)

 さらに恐ろしいのは、ガザ地区を囲う、「天井のない監獄」といわれる由縁の、壁(隔離壁)だ。ナチスの「ガス室」と本質的にどこが違うのか。

 わたしの友が、そのブログ・「私の映画案内」で、このパレスチナ自治区・ガザとヨルダン川西岸で起こっている「悲惨極まりない状況」について論考をあげている。(2023/11/26「獺祭の徒然なるままにNo.9、ハマスは本当にテロリストでナチスなのか?」)。スゴイ文だ。皆さんにもぜひ読んでいただきたい(右のリンクから入って頂きたい)。

 友は、テーマの答えを「ガザにおけるパレスチナ人の状況を考えるとき、はっきりと彼らの行為を非難することができない」と言って、イスラエルの苛烈なパレスチナ支配の状況を列挙している。これが本当に物事を深く考える理性ある者の答えだろう。わたしは深く同感した。わたしはこの文からガザで起こっていることを考えるようになった。

 先に引用した岡真理氏は、「『抵抗暴力』は『対抗暴力』である。対抗暴力には、それを生じせしめるに至る先行する暴力がある。何もないところに突然、降って湧くわけではない。」と言っている。例として、フランスによる百数十年に及ぶアルジェリア支配、日本による朝鮮・台湾支配(集団虐殺)によって起こった反乱をあげて、こう言う。「イスラエルによる七十五年間の止むことのない民族浄化の暴力がなければ、占領がなければ、アパルトヘイトがなければ、ハマースも、「十月七日」もない。」。「ハマス主導によるガザの戦闘員たちによる十月七日の越境奇襲攻撃を、それが生起する歴史的文脈—パレスチナにおける『ユダヤ国家』の建設が、入植者植民地主義による侵略に他ならないという事実—を捨象して『ハマスのテロ』と言ったり、『これはイスラエル自衛戦争だ』と言ったりしてはならない。」「今、ガザで起きていること、それは植民地支配という歴史的暴力からの解放を求める被植民者たちの抵抗と、それを殲滅せんとする植民地国家が、その本性をもはや隠すこともせずに繰り出すむき出しの暴力のあいだの植民地戦争である。」。

 イスラエルのネタニヤフ首相の言動を見ていると、これは正しく的を射ている認識だとわたしは思う。

 「私の映画案内」の友は、イギリスBBCの報道姿勢を教えてくれている。「BBC放送は彼らをテロリストと呼ばない、ましてやナチスなどと表現することもない」「誰かをテロリストと呼ぶことは、どちらかの肩を持つことになる」ということなのだ。「BBCは、ハマス武装蜂起の要因は、今年にはいって過去最高のパレスチナ人の死亡者がヨルダン川西岸で出ていることも重要な一因ではないかと報じている。」。成熟した理性的な大人のいるメディアだと思う。

 日本のメディアの報道とは雲泥の差があるように思う。

 事態の正しい認識がなければ、解決の道も探れない。

 第二次世界大戦後、イスラエル国家の建設と維持を支持し続けてきたアメリカや西欧諸国。日本は中東においては中立的態度を堅持すると言いながら、上川外相は2023年11月3日テルアビブを訪れイスラエルの外相と会談し、ハマスの攻撃は「テロ」であり、「断固非難」するなどと語って、世界中から批判された。

 ガザがこれだけ凄惨で過酷な状況にあるのにG7などの主要国は、即時停戦を働きかけられない。(ウクライナのゼレンスキー大統領が早い時期にイスラエル支持を表明したのには、本当にがっかりした。)

 そんな中で、国連のグテーレス事務総長の発言は、本当に素晴らしい勇気あるものだった。(「ハマスによる攻撃は理由もなく起きたわけではないことを認識することも重要である」「パレスチナの人たちは五十六年間、息苦しい占領下に置かれてきた」)。拒否権を持つ5大国に押しつぶされるような国連運営の中で、よく言えたとわたしは感動を覚えた。(わたしは「拒否権」制度は廃止すべきだと思う。「総会」を国連の最高議決機関にしなくてはいけないと思う。)

 ロシア・ウクライナ戦争でも戦争反対・即時停戦に賛意を示した国が、グローバルサウスと呼ばれる諸国をはじめ過半を示すようになった時代、世界は今回も多くの国が即時停戦を求める意思表示をしている。国際世論は大きく変わり始めている。パックス・アメリカーナアメリカによる平和)が終わった時代。自立を模索する国々が自己主張を恐れることなくする時代になったのだ。日本も「世界世論」をつくることのできる国になって欲しい。

 なんとしても、恒久的な停戦をまずやらなければならない。その上で、パレスチナイスラエルの二国家が共存できる道を探らなくてはならない。今度こそ根本的な解決をしなくてはならない、と思う。

 友のブログに教えられ刺激されて、とりあえずのわたしの思いを記してみた。

                          (2024・2・5)

わたしの初夢

 公民館に隣接する空き家と空き地が、老人会に無償提供された。どうも、漏れ聞くところによると、わたしのブログの以前の記事(2022・02・19「空き家と廃園は「コモン」に」)が影響を与えたらしい。

 老人会では、早速会議を開き、これをありがたく拝受することにし、利用計画(改造・リホーム計画)を次の様に決めた。

①入口に土間(三和土)をつくり、真ん中に「薪ストーブ」を置き、炊事施設を備える。薪ストーブの周りには椅子を並べる。

②「囲炉裏」の間をつくる。天井は剥ぎ、梁をむき出しにする(①も)。囲炉裏には自在鉤を吊り、鉄瓶をかける。

③「カラオケ・ルーム」をつくる。もちろん完全防音室だ。

④外の空き地は、やわらかい土を入れ、芝生を貼る。財産区間伐材を利用したテーブルと椅子を置く。

⑤空き地の端には「カマド小屋」を建てる。

 直ちに資金集めの活動が開始された。老人会会員、俵津有志、東京と大阪の俵津会会員、友愛の精神を持つ俵津の支援者等々のみなさんから3千万近い資金がすぐに集まった。

 そして、俵津の建築関係者、一般住民のボランティアの方々の八面六臂の活躍で、3か月も経たないうちに、それは出来上がった。

 毎日二人が朝8時から夕方5時までつめる。月60人体制だ。これで年間回していく。仲良し二人がいれば、その友達や知り合いが集まって来るだろう 。話に花が咲くだろう。人が集まれば、番の二人も時間は自由になる。用があれば途中で帰ってもいい。みんなが無理なく自由に楽しく使えるようにしたらいい。

 薪ストーブや囲炉裏で、もちを焼こうか、めざしを焼こうか、焼き芋しようか、あれをつくろか、これもつくってみようか、という話になるだろう。長い昭和を生きてきた老人たちの独壇場の世界が繰り広げられるだろう。

 面白がって、若い人たちも寄ってくるかもしれない。子供達をつれたお母さんたちも来るかもしれない。

 5時以降は予約制にして、集まりたい人がやればいい。酒盛りも大いに結構だ。

 マキ(焚き木)は、解体された家の廃材や大工さんの作業場から出るハギレをもらえばいい。杉やヒノキの枝打ち材をもらってもいい。間伐したミカンの木でもいい。そのような話は人が集まれば必ずオラが持ってくる、わたしも持ってくる、という話になるもんだ。

 土間や囲炉裏の間は利用価値が高い。正月飾りの稲わら細工をしてもいい。竹細工、カズラ細工などもできる場になる。あれやこれや話して、小遣い稼ぎのできる方策を編み出せるかもしれない。

 お金を稼げるようになれば、みんなで食事に出かけたり、一泊旅行も楽しめるようにもなるだろう。俵津老人の世界がぐ~んと大きく広がってくる。

 子供に温かい燃える火を見ながら昔話を聞かせる場にもなる。演出効果は抜群の舞台となる。

 むかし、俵津には「はなし」のうまい人たちが大勢いた。佐藤深志さん、宇都宮英利さん、田中恒利さん、綿木史郎さん、・・・こうした「語り部」とも言える人たちの存在は地域にとって貴重だ。今もきっといるに違いない。

 ここは何より、話しの場、なのだ。はなしをしなければならない。俵津の歴史、さまざまな人物伝、滑稽な話、子供の頃の話、青年団時代の話、恋した話、昔話、苦労した話、金儲けの話、世の中の話、年金の話、生活防衛・やりくりの話、趣味の話、病気をした話、戦争の話、まちづくりの話、子や孫の話、ご先祖様のこと、農業のこと、真珠のこと、人生のはなし、この町の行く末の話・・・エトセトラ、えとせとら。

 たとえば、こんな話題も出るかもしれない。南海トラフ地震による津波で、俵津の建物が根こそぎもっていかれた時(そういうことのないことを祈るが)、次に備えるために巨大な何メートルもあるような防潮堤を築くべきか否か?東北大震災で被災した多くの海岸の町が、それを建設しているのを見てどう思うか?わたしなら宮城の女川町のように築かない道を選ぶが(海の見えない俵津のくらしは、わたしには考えられない)、みんなはどうなんだろう?。(国や県から強制された時、NOと言える主体は日頃から話しておかなくては作れないようにわたしには思えてならない。)

 カラオケルーム。ゴルフ・パチンコ・サテライトでの競輪、競艇、競馬・・などなど遊びは様々あるが、最も手軽でお金のかからないのがカラオケだろう。喉や肺を鍛え、健康にいいのも魅力だ。ストレス解消にもなる。友達作りにもいい。ここで、大いに声を張り上げてほしい。(カラオケに飽きたらファションショーをやったり、仮装大会をやったり、漫才や講談などいろいろな楽しみ方を開発したらいいと思う。)

 もちろん「通信カラオケ」を備える。利用料はやはり取った方がいい(1回200円くらいでいいのではないか。)。飲み物・食べ物は各自の持ち込みで。自主的・自律的にやろう。

 カマド小屋。むかし子供の頃、竈で炊いたご飯はうまかったねえ。あの味が忘れられない。特に鍋底にできる焦げメシは絶品だった。今の子供たちにも食べさせてやりたい。年寄りたちも懐かしい思いを持っているだろう。

 飯を炊く竈2つとも一つ、大鍋でお茶などを煎るおおきな竈がほしい。

 これらは災害時に停電した時にも役立つ。

 芝生の庭。ゆったりと仲間と語りながら、お茶しませんか。寝そべって、深呼吸しませんか。

 年寄り、もうあんまり働くのやめましょう。10時や3時には山にいても、降りてきて休みましょう。

 シマトネリコの木も5本植えた。夏にはカブトムシがわんさかやって来るだろう。親子連れでわんさか人が来るだろう。

 

 そんなこんなで、俵津が変わった夢を見た。たわらづライフがとてもとても愉快になった夢を見た。

 朝の光が差し込んでわたしの顔をまぶしく照らした。目が覚めた。夢だった。

 

                       (2024・1・31)

 

あんなこと こんなこと

 2024年(令和6年)は、「辰年はゆれる」と言われるその言葉通りに大激震から始まった。元日の能登半島地震、2日の羽田空港の航空機事故。まさかこんなことが・・・。

 厳寒の能登地震は悲惨だ。一瞬にして人命と暮らし(衣・食・住・仕事・・)を奪われた能登の人たち。その辛さ・苦しさは、いかばかりだろう。あの日から1カ月になろうとしているが復興支援の手は充分に届いているのだろうか。わたしの目には、石川県も政府もなぜか、どこか、対応が鈍いように映る。

 政治家も「裏金作り」に勤しむ暇があったら、身一つで能登へ出かけたらどうか、とさへ思う。

 そして、わたしが切実に思ったのは、「これは他人ごとではない。これは明日のわたしたち自身の身の上だ。」ということだ。南海トラフ地震が起これば、全く同じことが起こる。山は崩れ、道路は寸断され、家屋は倒壊し、津波に跡形もなくもっていかれ、・・・。俵津は孤立するだろう。間違いなくそうなる。さらに、伊方原発が被害を受ければ、事態はこの上なく深刻なものになるに違いない。あの原発「避難計画」などはまさしく「絵に描いた餅」になることが明確化した。

 よりいっそう少子高齢化・人口減少が進んだ将来では、もはや支援の手も届かなくなっているかもしれない。

 能登半島地震は、わたしたちに、この国の恐ろしい現実と未来の姿を突きつけた。

 

※ もし、お暇でしたら、わたしの以前の記事読んでいただけませんか(2020・04・01「俵津は、滅びない!」)。

 大地動乱の時代の南海・東南海・東海・首都直下の広域にわたる大地震の予測と対策について、地震学者の石橋克彦氏が描かれた雑誌記事を抜粋したものです。この「対策」を日本がとれば、過疎や消滅危機に苦しむ地域は滅びないし、日本も新しいステージに飛躍できると思って取り上げたのでした。

 今回の政府や石川県の地震対応を見ている限り、政府には「政策」を変える気は全くないことが分かります。能登は見捨てられるのではないか?そんな気さえわたしにはします。つまるところそれは、全国の俵津のような津々浦々の小さな町も、ということでしょう。わたしたちは今こそ、深く考えなければ、と思います。

 ずいぶん長いご無沙汰でした。申し訳ありません。

 後期高齢者になったわたしには、昨夏からの半年間は身も心もなかなかに “たいへん” な期間でした。夏の「沸騰」する猛暑(しかも少雨)。母の終末期の看取りと葬儀。まったく経験したことのない秋の(「大」の字をを付けてもいいような)旱魃(秋ひでり)。カン水作業に追われる毎日(クーラーのない園地の柑橘樹は枯死寸前でした)。さすがのわたしも体調不良をおこしてしまいました。体力・気力の減退・・ヒロウコンパイです。そして、迎えた収穫の季節。ホント忙しかったです。(まだポンカンの収穫が終わってないようなテイタラクです。)

 トシには勝てませんなあ。体調はすっかり良くなりました。またボツボツ、ブログ再稼働します。おつきあいください。

 俵津の「まちおこし」に動きがありました。以前このブログで紹介しておりました「ゆめさく」の “夢起こし” がいよいよ始まったのです!(2022・12・13に書いた「“ゆめさく”の夢よ、咲け!」をご覧ください。)

 まずは、昨秋、彼女たちが書き、全戸配布した文書から読んでください。

 

                                                                                ゆめさくからのお知らせVol.1

俵津地区の皆様へ

 現在、旧JA明浜支所を皆様が集まれる場所に改築しています。

 一階にお年寄りが身体を動かせるジム、そして喫茶店。二階に大人のジム、そして子供達の遊びを通して体力を作るジム。街の人達が気軽に品物を出せるミニ道の駅。

 そんな人と人が交流できる場所に今、生まれ変わらせようとしています。

 何もない俵津にこんな場所が出来たら少しでも楽しくなるのではないか?そして、体力を付ける事が健康で長生きをサポートし、病気にもなりにくい、病院代もかからない、子供たちにもこれから先、生き抜く力を養わせたい、そんな思いを皆んなで持ちました。そして今に至っています。来年にはオープンする予定です。

 皆様にも色々ご協力願うと思いますが、何卒よろしくお願いいたします。

 PS、また写真が撮れましたら掲載させて頂きます。

                         ゆめさく屋

 

 すでに、屋根の防水工事を終え、内装工事も着々進展しています。「年寄り向けのジム」には、「ヘルストロン治療器」を10台ほど置くそうです。あの宇和の「気さくなスーパー木村チェーン」前の以前激安酒店だった所にある評判のあれです。現在俵津からもかなりの人が毎日通っておりますので、出来たあかつきには結構人が集まりそうです。彼女たち、なかなかいい所に目を付けたなと思います。

 海側の駐車場だった所は様相一変、公園になっております。スマイルとの共同事業です。花畑の囲いのブロックには小中学生と市民が描いた絵が華やかに彩られています。人を寄せる工夫がすみずみまで計算されています。

 ここを起点に、俵津がすこしでも発展する事を祈ります。

 12月22日、今冬最初の雪(けっこう大雪といっていい雪でした)のあと、車が通れるようになった時、友人二人と宇和の市役所横に新しくできた「ゆるりあん」へ行って来ました。二階の飲食店で“ブリの照り焼き定食”を食べ、城川郷の銘酒“尾根越えて”を飲みながら(両方とも格別の味でした)語り合いました。そこを出た後は隣のカフェでコーヒーを注文し、テーブルと椅子がたくさん置かれた憩いのスペースで話の続きです。師走のひととき、都合3時間ほどほっこりと気持ちのいい心豊かな時間を過ごしました。

 「ゆるりあん」はわたしはじめての体験。いい所が出来たな、と思いました。何年か前、東京練馬の区役所を訪れたことがありましたが、そこはまことに区民のための楽園の様なところでした。一階はホールになっていてグランドピアノが置かれ、区民が演奏会をやっておりました。障がいを持つ人たちが経営するカフェ(軽食堂)があり、会議室がいくつもある、もちろん最上階には展望のいい食堂がありました。今、公共建築の設計思想はこのようになっているんだなといたく感心させられたことでした。西予市もその流れに乗った(規模は小さくても)施設をつくったのだなと了解したのでした。

 12月20日、藤本義男くんが亡くなりました。わたしより一つ下で、享年74。無茶々園俵津支部の仲間でした。ハワイも一緒に行きました。寂しい限りです。こころから冥福を祈ります。

 1月7日。俵津老人クラブの新年会が宮崎旅館で行われました。コロナの第10波は広がっていますが、みんなもう恐れなくなりました。やはり仲間と飲む酒はいいものです。二次会には「うきな」へ行きました。そこで、前会長の永山福重さんが「四月の総会の余興で〈カラオケ会〉をやろうじゃないか!」と言い出しました。趣旨はこうです。

・今まで総会の余興は、文化協会(俵津支部)にお願いしていたが、協会が著しい人数減少でやれなくなったので、老人クラブが自前でやらざるをえなくなった。

・誰かに何かをやってもらって、それを見て楽しむという旧来の老人(クラブ)のありかたを見直す時期に来ているのではないか。今の老人は若く元気で自分でやって自ら楽しむ能力を十分持っている。老人自ら舞台に上がって自分で楽しむスタイルをつくろうじゃないか。

・自分が会長の二期4年間は、コロナで総会がやれなかった。今年は何としてもやってもらいたい!盛り上げるための起爆剤をつくろう!また、年々総会参加者が減っている中で、一人でも多く参加者を増やす手立てもいる。それがこの「カラオケ会」だ。

・そして、もっともっと楽しい老人クラブをつくろう!もっともっと役員や会員同士が仲良くなろう!

 熱い前会長の言葉にみんな感動したのでした。うららの春、面白いことが起こりそうです。たわらづライフ、ますます楽しくなりそうです。

 

 そういうわけで、今年もよろしく。

                      (2024・1・24)

 

 

 

 

 

80のばあちゃんが娘になった!今年の「じじばばー」は—

10月8日に行った「じじばばスーパー演芸会・2023」について書いておきます。プログラムを見ながら、順を追って。

                   ◆

❤「来賓祝辞」。今年は「公民館」が「地域づくり活動センター」になった記念の年です。センター長の濱田直浩氏にお願いしました。

❤あけはま座の「長崎東海・俵津ものがたり」。これは前回触れました。

❤オープニング「皆の衆」の役員全員合唱。これは9月20日の役員会で発案された企画です。これで、役員全員が出演参加できるかたちをつくれたこと、とてもよかったと思います。明るい法被を着て舞台と会場通路に分かれて並び、うちわで手を叩きながら観客と一緒に尾下キクミさんに唱和する。と、そこに、大ハプニングが。なんと、去りかけたあけはま座の面々が舞い戻り、会場前面に並んで踊り始めたのです!役員もつられて通路を踊り歩く。いやはや、思わぬ賑やかで華やかなオープニングになりました。

❤カラオケ。今年は昨年より歌い手が13人も減りました。年寄りになると体調からなんから色々と事情が出て来るもんなんです。それで、フルコース歌っていただくことにしました。

❤さあ、「あじさい娘」の登場です!片岡春江さん・尾下容子さん・永山ナカ子さん・川端捷代さんの役員4人が結成したグループです。「血液ガタガタ」という歌に合わせて、それぞれA型・B型・O型・AB型に扮した4人が自ら振り付けた滑稽な踊りを踊っていくのです。そこにそれぞれからむ男性2人(伊勢富雄さん・網干利喜夫さん)。会場は大爆笑。演じた4人のばあちゃんは、頬を紅潮させ一気にむかしの娘さんになっていました。いやいやいや、こんなのがいいのです!いいのです!

 ちなみに、「あじさい娘」というグループ名はわたしがつけさせていただきました。「俵津あじさいロード」を作るために献身的に活躍されてきた彼女たちにはこの名がふさわしいのではないかと、敬意をこめて。

❤婦人会の出し物。今年は川崎美里婦人会長に無理を言って、参加していただきました。様々な出し物に酔いしれ、笑い転げたあとの緊張をときほぐす「ちょこっと体操」をやっていただきました。ほんとうにありがたいことです。来年もおねがいします。

                   ◆

10分間の休憩の後はいよいよ第2部です。

❤今年もゆめさく一座はやってくれました!「水戸黄門」パート2です!脚本は昨年の宇都宮末夫さんのものを踏まえ、宇都宮由美子さんが書いてくれました。真珠の横流しを企む悪代官と悪徳商人越後屋の悪を懲らしめる黄門様ご一行の物語です。役者ぞろいの一座に今年はセンター職員の伊藤夕子さんも加わっていただき花を添えていただきました。

ゆめさく一座、ますます快調です!一座のみんなは、「うきな」で“うちあげ”もやったそうです。チョー盛り上がって、もう1回やるそうです!

❤今年は、宇都宮末夫さんのギター演奏のほかに、新たに西村初美さんが「オカリナ演奏」、山下省三さんが「尺八演奏」を披露してくれました。こういう新しい演目が次から次と出てくるようになるのは本当に嬉しいものですね。

❤中学3年生の佐藤歌さんの「フラダンス」。ほんとうに素晴らしかった!彼女が小学生の時に演じた時も見ましたが、より洗練されたみごとなダンスになっていました。佐藤茂直さんのお孫さんです。茂直さんによると、歌さんは福島のあの「フラガール」になりたいと言っているそうです。わたしも見た蒼井優主演の映画『フラガール』、あの世界へ!です。彼女には才能を感じます。是非実現させてください。

 こういうふうに才能ある、将来ある若者に発表の場を提供できることも、「じじばばー」の役割であり、老人クラブの役割であることに思いをいたせることができること、わたしたちの喜びであり誇りです。

❤永山福重前会長が昨年、「俵津を元気にしたい!俵津を活性化したい!」と言われておりましたが、微力ながらそこへ向けての老人パワーを発揮できたのではないでしょうか。

 公民館、いや俵津地域づくり活動センターにみんなが集まり、そこを中心にして老若男女が力を合わせて“たわらづパラダイス”を創っていけたら!と思います。

                  ◆

 伊勢富雄副会長が、こんなことを言っていました。

「町民運動会がやれなくなって、他の行事もだんだん縮小傾向にある中で、この「じじばば」は俵津地区民の大事な行事になってきつつあるんじゃないか。これを大事に地域全体のイベントにしていくことが俵津地区発展の活性化につながっていくのではないかと思う」。

 来年も、もしやれるとしたら、老人クラブ会員だけでなく全戸に案内状を配って、年寄りも若いもんも子供も、みんなに来てもらって賑やかにやりたいですね。

 芸ごころあるとわたしがにらんでいる天晴農園の面々にも出てもらいたい。千葉から移住してきた山下夫妻にも。その他のみんなにも「じじばばー」を開放したい! 

 夢が、広がります!

 今日は俵津の秋祭りの日です!絶好の祭り日和です!

                     (2023・10・22)

「じじばばー」に東海先生登場!

 10月8日の「じじばばスーパー演芸会・2023」、あけはま座「朗読劇」・プロジェクター紙芝居の2年目には、『長崎東海・俵津ものがたり』をやっていただきました。紙芝居製作が成った今年、俵津の人たちに東海先生を知っていただく絶好の機会だと思ったからです。

 あけはま座の登場の前に、長崎東海研究会会長の山下重政くんが「東海先生紹介」をしました。その際、会場に配布した資料をここに掲載しておきます。山下くんが中浦靖二くんと二人で作ったものです。

 

          『赤ひげ先生』長崎東海

ながさき とうかい   文久3年 昭和3年

長崎   東海    (1863~1928) 医師

 

高知県高岡郡仁井田村松葉川(元窪川町 現四万十町)出身。明治35年に俵津に東和病院を開業し卯之町、山田、皆江、等様々な地域に開院。

『巧言して患者を迎えず、去る者は追わず、来るものは拒まず、貧乏人は銭取らず』を実践し村内はもとより郡内外の人々に慕われた。

豪放な性格と相まって外科医術に優れ、北里柴三郎に師事して年に一度は北里研究所での上京研修を怠らなかった。また政治・芸術・殖産等多方面に置いても多才な人物であり地域の発展に寄与している。特に生涯を明浜地域の医療に尽くし昭和3年2月25日、64歳で没した。

住民の手により俵津(大浦)を一望できるお大師様近くの墓所にて俵津を見守るかの様に静かに眠っている。

 

 皆さん牧野富太郎(まきのとみたろう)博士を知っていますか?高知県佐川町に1862年(文久2年)に生まれ、1957年(昭和32年)に94歳で亡くなった植物学者です。前月迄放送されていたNHKの朝ドラ『らんまん』の主人公槙野万太郎(まきのまんたろう)のモデルとなった人物で独学で植物の知識を身につけ植物分類学の研究に打ち込み新種や新品種など1500種以上の植物を命名し、日本植物分類学の基礎を築いた一人として知られています。

 今日は奇しくも同県の佐川町より南西に約60㎞位離れている松葉川で文久3年11月29日に生まれた長崎東海先生の話です。ほぼ同年代にて高知で幼少青年期を過ごしています。俵津人にとっては長崎東海先生は牧野博士に引けを取らないほどの偉人です。

私の小さい頃、『昔長崎と言う偉いお医者さんがシンタの沼地を埋め「長崎新田」を作った』と聞かされました。

 後年「明浜町誌」が発行され40歳で俵津に来て「東和病院」を開業され亡くなるまで続けられました。

 病院の創立10周年を記念して大浦にあった俵津尋常小学校に門柱を寄贈され、昭和41年明浜町教育委員会の要請により明浜東中に移転、さらに明浜中学校に統合されると昭和61年俵津小学校に、平成29年小学校の統合により明浜小学校になるや門柱を廃棄する事になりました。

 そこで私の同級生4人(プラス故酒井節子/宇都宮氏康/日越三雄)が中心となり門柱存続の寄付を募り、俵津地区及び関係者の協力を得て明浜小学校の裏門に平成29年9月24日に門柱と記念碑を設置する事が出来ました。

 その折、高知市在住の長崎家の御子孫を探し出す事が出来ご臨席頂く事が出来ました。その時に東海先生の日誌が存在する事がわかりました。それから日誌は西予市に寄贈され「長崎東海日誌研究会」(愛媛医療史研究者/冨長泰行・宇都宮氏康・市職員/浅井裕史課長・市学芸員別宮博明・山下重政・中浦靖二)を発足し日記の翻刻から始め現在に至っています。

 日誌は医療日誌であること等から『他人には見せるな』と書いていますが医療史の観点からはとても重要な資料だと思われます。一部参考までに、医療行為(診察地域)としては俵津を中心に旧東宇和郡全域、旧吉田町全域、三瓶町全域に渡っています。

 特に俵津地区は私が見る限り現住民の1/3は関係があるかなと思います。その為日誌全文の公表は難しいと思われます。

 この日誌には、医療の他、天気、天災(地震等)、産業、文化、交通等多岐に渡って記されています。従ってこれらをどの様に残して行くかが大切な事だと思います。

 それでは、固い話はこれくらいにして長崎東海先生のエピソードたっぷりの紙芝居をお楽しみ下さい。

 

morino-shimafukurouから

 ・東海先生は、あの牧野博士とほぼ同年(1年違い)に生まれていたんですね。なん  でここに牧野富太郎が、と思いましたが二人の苦心の発見!ですね!。

 ・長崎東海先生を知らない人、知ってても名前くらいで詳しく知らない人は、この俵津で確実に増えています。日本で数少ない「医療日誌」を残した人物として全国区になりうる東海先生は、わたしたちが誇れる人です。もっともっと普及活動をしていきたいですね。

 ・長崎東海研究会は、これから「日誌」の出版を目指す段階を迎えます。が、これは容易なことではありません。気の遠くなるような手間とお金がかかります。まさに大事業です。みなさまのご理解とご支援を何卒宜しくお願い致します。

                       (2023・10・20)