虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

「第5回じじばばスーパー演芸会」プログラム

●morinoshimafukurou(森のシマフクロウ)より

 昨日、俵津地域づくり活動センター大ホールにて、午後1時から、「第5回じじばばスーパー演芸会」が行われました。雨にもかかわらず、昨年よりは少ないですが、それでもまずまずの入りでした。やはり過去4回の実績で ❝楽しい会❞ であることが周知徹底されていたからでしょうか。

 今までで一番面白かった、という人がいるくらいの盛会でした。婦人会・ゆめさく・笑丸等の若い人たちも、華やかな衣装を凝らしていただいて奇抜な演出の舞台を繰り広げて下さって大変盛り上げていただきました。

 永山福重さんの企画したテープや紙吹雪のサプライズ応援もあり、客席と舞台が一体となった和気あいあいのムード溢れた会場には歓びと充実感がみなぎっていました。

 あらためて、この大会の大きな力を感じた一日でした。

 以下恒例に従って「プログラム」を掲載させていただきます。

                  ■ 

 

              2026・9・27

          第5回じじばばスーパー演芸会 プログラム

 

                          主催:俵津老人クラブ

             協賛:俵津地域づくり活動センター・俵津スマイル

                俵津区長会・俵津婦人会・ゆめさく・笑丸

・開会の辞 (司会:稲葉 真実)

・会長挨拶 伊勢富雄

・来賓挨拶 酒井宇之吉(西予市議会議員)

・来賓紹介 (司会:稲葉 真実)

・石川 智也 駐在所長(西予警察署 防犯 交通安全について)

 

                  第1部

(司会進行:横山三恵子・稲葉真実)

◆オープニング

  N&O(西田初敏&尾下容子)  芸者ワルツ

◆カラオケ 

 1、宇都宮 頼男  紫陽花のひと(北山たけし)

 2、中村 ひづる  流恋草(香西かほり)

 3、宇都宮 敦   愛はかげろう(雅夢)

 4、宇都宮 英美  哀愁列車(三橋美智也)

 5、藤本 三保   カサブランカグッバイ(鳥羽一郎)

 6、市川 以世男&美代香(デュエット)  櫂(原田ゆかり 香田晋)

 7、東 新三    倖せさがして(五木ひろし)

 8、小島 里世&宇都宮 由美子(デュエット)  喝采(ちあきなおみ)

 9、石川 智也  愛は花 君はその種子(都はるみ)

 10、笑丸    ①め組のひと(ラッツ&スター)②UFO(ピンク・レディー)          ③2億4千万の瞳ーエキゾチック・ジャパン(郷ひろみ)④それが大事(大事MANブラザーズバンド)

◆アサイデショー(腹話術)  浅井裕史

 

                (休憩) 10分

 

                 第2部

 

◆踊り

 俵津婦人会  ダンシングヒーロー(荻野目洋子)

◆カラオケ

 1、酒井 由紀  紅の舟唄(北見恭子)

 2、山岡 清二  指輪(森進一)

 3、尾下 キクミ さだめ川(ちあきなおみ)

 4、宇都宮 氏康  こしの都(五木ひろし)

 5、浜田 直浩&山下 一彦(デュエット)  女のみち(ぴんから兄弟)

 6、山口 孝子  はがゆい唇(高橋真梨子)

 7、中村 祐一  時よ君は美しい(堀内孝雄)

 8、横山 三恵子 高校三年生(舟木一夫) 

 9、尾下 和弥  恋唄(前川清)

 10、山下 教子  無法松の一生(度胸千両入り)(村田英雄) 

 11、武田 由美  海岸物語(北原ミレイ)

◆寸劇

 ゆめさく一座  ペッパー警部(ピンクレディー)

◆老人クラブ

 チャンチキおけさ・松の木小唄

 

◆閉会  

 ・閉会の辞(司会 稲葉 真実)

 ・閉会挨拶(副会長 西田 初敏)

 

注)粗品を演芸会終了後にお渡ししますので、最後まで楽しんで下さい。

       ・観客のみなさまは出口の受付にて

       ・出演者の皆様は舞台南側受付にて

(本年は抽選会を行いません。ご了承ください) 

 

                         (2026・9・28)

【寄稿】長崎東海日誌について ㉚

長崎東海日誌について〓

○大正10年日誌

【「道路問題、女学校問題、乾繭庫」の「三問題」】

前々年に郡会議員に就任し、前年には海岸同盟会(高山、狩江、俵津、玉津の各村による同盟会)の会長にも就任した東海は、この年も大いに活動をしています。当年は特に、これまでに引き続いて「道路問題」、前年から動きが見られる「女学校問題」、この年の郡会で取り上げられた「乾繭庫」(かんけんこ)の「三問題」(3/24付)に関わっています。この三問題については展開が複雑ですので、時系列に沿ってそれぞれの動きを見ていきます。

 

(道路委員会と海岸同盟会)

1月20日、23日、30日に道路委員会が村役場で開かれ東海も出席しています。前回示した通り、この会合は明治44年頃から定期的に開かれているものです。俵津を取り巻く道路問題について協議したものと思われます。

その後、2月1日には海岸同盟会が開かれています。高山、狩江、玉津、俵津の各村長と、郡議や有志など十数名が出席しています。この会は前年に道路同盟の目的で組織されたものですが、前年秋に同会が宇和町長から「女学校ニ就テノ説明」を受けたことで女学校設立に関しても協力することになったようで(前回参照)、この日の会合では「宇和町俵津間道路、海岸線」と「宇和町申込ノ女学校設立」について審議しています。「決議書ヲ作リ各員ニ配布ス、本会ニ満足ナル決議ヲ了シ」と書いていますので、本来の目的である道路問題に加えて、女学校設立についても同会は支持する方針に決まったようです。

 

(郡会)

2月21日から郡会が始まります。この郡会では「道路問題、女学校問題、乾繭庫」の「三問題」が主な議題となったようです。しかし、24日付で「東西海岸種々議案ニ就キ折合付カズ、休会トナル、是道路問題、女学校問題、乾繭庫、三問題ノ為感情衝突シ、(略)行悩メリ」との記述があります。25日も「前日ノ通リノ情態ニテ本日モ休会トナル」、26日も「遂ニ郡会モ開カズ、三問題下交渉混雑セリ」、27日も「問題ニ付解決付カズ、郡役所ニ出デ明日ヨリ二日間休会」、28日も「前記ノ如ク休会セリ」、3月1日も「休会」と、東部と西部とで三問題について意見が衝突し、なかなか郡会が進まないようすを記しています。3月2日になって「此日郡会開会、党議確定、第二読会原案通リ確定セリ」と、ようやく郡会が再開され、この日は

二読会まで通っています。そして3月3日、「此日郡会開会、積年ノ希望タル宇和町俵津間道路問題モ本日確定、総工費予算三十四万余円、六ヶ年継続工事、郡道として通過セリ、之我党々議ニ〓(して)大ニ快感セリ、当夜松屋ニテ懇親会アリ、自分モ道路件ニ付一条ノ挨拶的演説ヲナス」と、無事に宇和町俵津間道路問題は確定して、この日郡会は閉会しています。

その後3月7日には村役場で道路委員会があり、東海は出席して「郡会ノ経過」を報告しています。

以上からは、郡会では東部と西部とで「感情衝突」はあったものの、宇和町俵津間道路問題に関しては無事議決され、総工費340,000円余りの6か年継続事業で郡道として整備することが決まったことがわかります。この宇和町俵津間道路については、今までも見てきた通り東海ら政友派の「積年ノ希望」の党議であり、これが無事通過したことを東海は「大ニ快感セリ」と記しています。この後は具体的に工事へ向けて進んでいきます。一方で、女学校問題、乾繭庫問題についてはこの郡会ではあまり進展がなかったのか、詳しくは書かれていません。

 

(トンネル測量)

4月18日付で「出張中ノ宇都宮村長宇和町ヨリ電話アリ、坂本技師明日俵津ニ至ル、測量杭六百入用ノ〓(こと)通知アリ、道路ノ件之ヨリ着手期近シ」との記述があります。いよいよ工事(測量)着手が近づいていることがわかります。翌19日付では「本日トン子測量係四名俵津ニ来リ、伊井ニ止宿ス」との記述があり、この日以降でトンネルの測量が始まったようです。4月30日には「川又(金太郎)郡長、大松(折三郎)技師、郡参事会員一行」が道路視察のために来村し、東海らは歓迎会を伊井旅館で開いています。5月2日にも「トン子ル測量ニ従事セル県庁ヨリノ技術員一行」(4名)を招待して、俵津からは伊藤直三郎、山下三松らが同席して一宴を開いています。この宴のことを東海は「道路開鑿着手ノ熱心ノ意ヲ表スル為」と

書いています。解釈が少し難しいですが、道路開鑿に対する俵津の本気を示すために技術員一行を招待した、とも読めそうです。いわゆる接待でしょうか。

この後しばらく関係する記述が途絶えています。

(道路実測)

しばらく経った8月24日付で、「本日ハ卯ノ町俵津間道路実測ノ為大松一行来リ、着手ノ第一日ニ〓(して)、本宅ト二宮トノ間ヨリ伊藤邸ノ後ロヨリ天能園ヲ抜ケ学校方面ニ至ル道路確定シ」との記述があります。これはトンネル部ではなく大浦付近の道路測量のことと思われます(地元の方はわかりますでしょうか?)。「着手ノ第一日」ですのでこの日から大浦辺りでも測量がスタートしたようです。なお、2日後の26日には「大浦裡道路落成式」が開かれている記述がありますが、24日の記述との関係は今のところわかりません。ほかにも、9月20日には長山重太郎らと「道路ノ件」で協議している記述もあります。

日誌では、郡会後は道路に関する記述が減っており、上述のように何か動きがあった時だけ事実を淡々と記す程度になっています。

 

(非公式臨時郡会「卯ノ町高等女学校創立問題ト野村繭穀倉庫問題」)

10月12日、10時から郡役所で「非公式臨時郡会」が開かれ東海も出席しています。この会での議題は「卯ノ町高等女学校創立問題ト野村繭穀倉庫問題」となっています。卯之町俵津間道路問題は先の郡会で片が付いたので、この会では残る二問題を議論したようです。しかし、東海は「余リ重大問題トモ認メズ、故ニ(宇都宮)村長ニ托シ」て午後の会を欠席しています。あまり重大問題とも思わなかった理由については日誌では書いていません。そして、野村繭穀倉庫(乾繭庫)問題についてはこの記述を最後に東海日誌ではこれ以降出てきません。この年4月(もしくは大正12年)から東宇和郡購買販売利用組合が「生繭市場・乾繭農業倉庫業務」の経営を始めたため(『愛媛県史 社会経済1 農林水産』を参照)、この問題については

一応の決着が付いたためかもしれません。

 

(海岸同盟会「海岸道路測量ノ件」と「宇和高等女学校創立ノ件」)

10月15日、村役場で「海岸四ヶ村同盟会」(海岸同盟会)が開かれます。東海も出席しています。この会では「高等女学校ノ件、海岸道路概則ノ件」を協議しています。この「海岸道路」は宇和町俵津間道路とは異なる「海岸線」の道路のことで、ために海岸同盟会(関係四ヶ村)において協議されたものと思われます(前述の2/1の海岸同盟会も同様)。この会では合わせて高等女学校についても協議しています。ちなみにこの日東海は会長の改選を申し出ていますが、高山村が欠席していたため次会へと見送られています。同月28日にも「午后川又郡長、清水與一郎、外一名来リ、四ヶ村々長、郡会議員集合、宇和高等女学校創立ノ件ニ付協議ス」との記述があり、この時は特に「宇和高等女学校創立ノ件」のみを協議しています。同

問題の進捗が見え始めています。

 

(臨時郡会「高等女学校設立ノ件」)

10月30日、臨時郡会が開かれます。日誌では「議案ハ高等学校設立ノ件」と記していますが、これは「高等女学校設立ノ件」の書き間違いと思われます。「東部西部ニ別レ容易ニ決セズ」と、この日も東西で意見が対立したようですが、詳しくは書いていません。翌31日も「前日ノ如ク東西分レ」対立が続いたようですが、ようやく夜になってまとまり、「原案ヲ賛成シ閉会」しています。これで高等女学校設立について郡の方針がまとまったようです。しかし道路問題に対するほどの熱意は東海にはなかったらしく、とてもあっさりとした記述で終わっています。

ちなみに、この臨時郡会時に東海は郡会議長に就任する予定でしたが、自身の病気のために辞退しています(東海日誌について〓で少し紹介)。

 

(その後)

臨時郡会後は関係する記述がさらに少なくなり、12月2日に「道路件ニ付(海岸線ノ〓(こと))海岸同盟会」が開かれた記述(この会で東海は会長を辞退しようとしましたが、会員の希望により続けることになっています)、同月3日に「高等女学校創立ノ件」で郡長から東海へ照会があるも中村重三が代理で卯之町へ行った記述、同月10日付で「道路会」が開かれた記述があるのみです。

 

【俵津婦人会】

3月10日付で「学校ニ俵津婦人会発会式アリ、出席、一条ノ演説ヲナス」との記述があります(当年日誌ではこの記述のみ)。この俵津婦人会については、『明浜こぼれ話 郷土史片々録』には「俵津婦人会は大正十一年三月一日新設され次第に充実し(略)」との記載があり、東海日誌の記述との相違が見られます。留意しておきたいと思います(『明浜町誌』には記載がありません)。

 

【俵津公会堂】

この年俵津に公会堂が設置されます。日誌にも関係する記述が見られますので紹介します。

(ちなみに、『明浜町誌』には「大正10年建築俵津公会堂」の写真がありますが、公会堂そのものについての記載がありません。そして、ちょうどのタイミングでこのブログ主様が関係する記事をアップされています。)

(筋の「折藁会社」の建物買い受け)

5月20日付で「当夜本宅ニテ筋折藁会社家屋(解散ニテ売家トナル)ニ付公会堂ニ買受協議ヲナス、伊藤直三郎及自分等ガ中心トナリ」との記述、翌21日付では「昨日協議ノ筋折藁会社家屋実見ノ為、伊藤、山下、木崎筋行」との記述があります。筋にあった「折藁会社」が解散して建物が売家となっていたらしく、この建物を俵津の公会堂として買い受けるための協議を東海と伊藤直三郎が中心となって行い、伊藤らは建物を実際に見に行ったようです。6月2日にも「公開(会)堂ノ件」を伊藤や山下三松と協議している記述があります。

(「組株」募集、創立へ)

6月7日、東海は伊藤とともに製糸社や大浦の有志を訪問して「公開(会)堂創立ニ付組株」を募っています。公会堂設立のために組合のようなものを作り、資金を募ったものと思われます。翌8日も東海、伊藤、山下の3名で大浦・新田・脇などへ戸別訪問をし、この日の夜には「創立ニ付」協議を行っています。続く9日も「公開(会)堂設立ニ付奔走、尽力中」と書いています。そしてこの日の夜、東海本宅で「創立総会」を16名(+東海、伊藤、山下)の参加者で開いています。10日も「公会堂設立会員」がまだ不足しているということで追加の募集を続け、「満足ナル結果ヲ得タリ」と記しています。また、この日は「五名協議会」(伊藤直三郎、長崎東海、中井繁次郎、山下三松、宇都宮茂)を開いて、伊藤を「組長」に選定し、

「会計、設計、工事等ノ協議」をしています。その後も、11日付で「公開(会)堂ノ要務」の記述、18日及び21日にも伊藤、山下と協議をしている記述があります。

 

(家屋の移転、工事)

7月9日付で「本日筋ノ家屋、即公会堂移転ニ着手シ、瓦障子廻リ船ニテ取来ル」、同月14日付でも「公会堂家材船ニテ送リ来リ、本宅浜ニ積ム」との記述があります。7月の中旬までには筋の家屋(元折藁会社の建物)は解体されてその部材が俵津へ搬入されたようです。同月20日付で「天能園ノ家ハ本日(略)家コワシヲナシタリ、公開堂式地入用ノ為メ早ク除キタリ」との記述があります。「天能園ノ家」とは大正5年に構えられた東海宅の部屋(移築された隠居)のことと思われ、公会堂用にこの部屋の敷地(一部か)が提供されたように読めます(※)。その後8月12日付では「天能園公会堂建築中ノ状態ヲ視察シ」とありますので、この頃には公会堂の建築が始まっています。同月25日付では「早朝公会堂ニ至リ大工左官ノ工事作業ヲ

視察ス」とあり、工事は進んでいるようです。そして10月3日付で「天能園ニ至リ公会堂引渡ヲ受ク、伊ト、山下仝道ナリ」と記しています。この頃に公会堂の建築は終了して完成したようです。同月7日、8日には視察に行っています。

(※)部屋には東海の母が住んでいましたが、前々年に死去し空き家となっていたものと思われます。この建物は取り壊しましたが、敷地内に別の「部屋」(のちに「別邸」「別荘」とも表記)を建てることになったようで、9月14日に「天能園部屋再築入札」を行っています。同月24日には建築を開始し、10月下旬頃まで「別邸」「別荘」の建築工事の記述が散見されます。11月11日付では「天能園閑光亭ノ左官壁塗ヲ始ム」との記述があり、その後12月7日にはこの「天能園閑光亭」で知人らと会食をしていますので、この時までに完成したようで、この新しい部屋=別荘は「閑光亭」と称されたものと思われます(翌年以降は「其日庵」と改称した可能性あり)。

 

(完成後の公会堂の利用と落成式)

10月10日に海岸医会が公会堂で開かれています。これが「公会堂建築始メテノ公会ナリ」と東海は記しています。翌11日には愛国婦人会俵津区総会が開かれています。

11月2日付で『午後、公会堂に「該堂(=公会堂)組合主」20数名が集まって落成式について協議し、諸報告もした。その後宴会となって将来について協議するところも多くあった。落成式は来る19日に挙行することとなった』と記しています。落成式前日の18日には式に向けて朝から餅つきなどの準備に忙しくするようすを記しています。

そして11月19日、俵津公会堂の落成式が午後5時から始まります。肝心の会場は日誌では書かれていませんが、まず間違いなく公会堂かと思われます。建築委員の報告があり、伊藤の挨拶、次いで郡長代理、警察署長代理ほかの祝辞のあと、大浦子供芝居の余興などがあったようです。出席者は約80名と記しています。

日誌ではこれ以降公会堂の記述が度々出てきて、大いに利用されていることが確認できます。

 

【女子火災予防組合】

この年俵津では「女子火災予防組合」が設立されています。日誌でも関係する記述が確認できます。

6月2日付で「大石部長(筆者注:卯之町警察署大石盛輝警部補のことか)女子火災予防組合創立ノ件ニ付来談アリ」、3日付でも「卯之町警察ヨリ横田巡査来談アリ(女子火災ヨ防組合ノ件)」という記述があります。4日付では「吉野卯之町警察署長来ル、磯野部長来ル、本日ノ女子火災予防組合設立ノ件ニ付協議セラル、之ニ付尽力ス、十一時頃学校講堂ニ於テ発会式アリ、自分ノ一条ノ演説ヲナス、会スル者約三百ノ女子ト見受ケ、盛会ヲ極メ、署長満足セリ、当夜伊井ニ於テ慰労会ヲナス、会スル者約二十名、自分モ出席ス」とあります。6月2,3日に卯之町警察署から署長・署員が俵津へやって来て「女子火災予防組合創立」のことを東海らと協議し、東海もこれに尽力して、6月4日には女子火災予防組合が設立されて卯之町警察

署長臨席の下で発会式が開かれたように読めます。同月14日付では「女子消防組合役員会」が村役場で開かれ東海も出席している記述があります。ここでは「女子消防組合」と書かれていますが、「女子火災予防組合」のことと解釈して良さそうです。

2か月ほど経った8月7日、この日小林一男県警察部長が俵津を訪れます。日誌では同日付で「本県警察部長従五位小林一男殿一行来村記、予告ノ通リ」と記していますが、この後は空白となっており記述がありません(後欠)。しかし、日誌とは別に「従五位小林一男来村記」が残されており、この別紙から当日のもようを知ることができます。この「来村記」によると、この日の小林の来村の目的は「日本全国ニナキ女子火災予防組合組織」(「天下ノ誉声高ク」とも記しています)と「海岸四ヶ村地形・民状」の視察を兼ねたものでした。視察の一行は5名ほどで、午後3時過ぎに「県有汽船愛媛丸」で俵津に到着し、有志や「女子火災予防組合役員一同」が出迎えています。その後有志80名ほどの出席で「村衙楼上」において「歓迎

披露宴」が開かれ、小林らの演説が行われています。その後一行は東海本宅に引き上げて「更ニ女子火災組役員一般ニ対シ訓授」があったと記しています。この小林の来村について東海は「俵津ノ名誉」と記しています。

(『明浜町誌』との比較)

『明浜町誌』では「大正一〇年七月、村内の主婦を以て女子火災予防組合を設立。八月七日俵津公会堂においてときの小林県警察部長臨席の上、その結成式を挙行した。」との記載があります。合わせて紹介されている「警察部長揮毫の書」(「女子火防隊創設の書」とも)の東海による添付文では「大正十年八月七日公会堂ニ於テ盛大ナル発会式ヲ挙行ス」と記されています。

一方、東海日誌では、6月4日に「学校講堂」で「女子火災予防組合」の「発会式」が開かれている記述があります。8月7日の小林警察部長の来村は、「日本全国ニナキ女子火災予防組合組織」と「海岸四ヶ村ノ地形・民状視察」が目的で、「村衙楼上」で「歓迎披露宴」があり、その後東海「本宅」で「女子火災組役員一般ニ対シ訓授」があったと記していますが、「結成式」や「発会式」には言及していません。また、8月7日の段階で公会堂はまだ完成に至っていません(前項)。

東海日誌(「来村記」)の記述と『明浜町誌』の記載に相違が見られるようです。留意しておきたいと思います。

 

【滑稽婦人大笑会と納涼会と盆踊りのこと】

滑稽婦人大笑会は例年通り1月2日に開かれています。この年で通算9回目です。会場は東海宅大広間で、内容はほぼ例年通りです。参加者数の記述はありませんが、「脇ヨリハ新入六・七名増加ス」とありますので前年よりは増えたようです。

納涼会についても例年通り開かれています。当年は7月28日に開かれ、通算5回目です。会場は東海本宅2階で、参加者は60~70名ほど。内容は、こちらもほぼ例年通りです。

大笑会、納涼会は例年通りの内容での実施が確認できますが、盆踊りに関する記述が当年日誌には見られません(この年は8月18日が旧暦7月15日)。次年以降の日誌では記述が確認できますので、当年は実施しなかったのではなく日誌に書いていないだけかもしれません。なお、8月26日付、27日付で少し気になる記述があります。8月26日付では「今夕大浦裡道路落成式ニ付案内ヲ受ケタレ〓病気ノ為欠席ス、余興大浦式盆踊アリシトナリ」とあり、「大浦式盆踊」という書き方がされています。翌27日付でも「今夕大浦踊連卯ノ町ニ行キ踊リシガ、非常ノ人気ナリシト云フ」とあります。大浦の盆踊りが何か特徴的だったのでしょうか。この大浦の盆踊りについては次年以降も注意したい記述があり、このことは次回以降で紹介します。

 

【神祭日の変更と学校運動会】

この年俵津では神祭(秋祭り)の日が変更されています。神祭日の変更はこれまでも度々行われており、東海日誌から確認できるものを整理しますと、それまで旧暦11月15日だったものが明治41年には12月15日に変更され、さらに明治43年には11月2日に変更されています(東海日誌について⑲で紹介)。そして当年(大正10年)再び変更されることとなり、当年日誌の10月25日付で「昨年迄ハ十一月二日ナリシガ、本年ヨリ狩江ト合併、祭日変更」(昨年までは11月2日だったが、本年より狩江と合わせて祭日を変更)したことと、そのために「狩江ヨリ来客」がなかったことを記しています。神祭当日のようすは「神輿ハ待合前ノ埋立地ニ来ル、丑鬼、鹿ノ子踊ハ例ノ通リ、本年ハ屋隊小供芝居、小供甚句、踊等ハ皆大浦組ノミ、脇・新田何

ニモヤラズ」と記しています。狩江からの来客はありませんでしたが、東海宅には玉津や卯之町などから多くの来客があったようで、『かなり忙しかった』とも記しています。

前年までは神祭日の翌日に「学校運動会」が開催されていました。神祭日の変更に合わせて当年の学校運動会も神祭日(10/25)の翌日、すなわち10月26日に変更となっています。この日付で「晴、学校運動会ハ例年ノ通リ神祭日ノ翌日ナリ、父兄其他ノ見物多、不景気ト称ヘナガラ年々美服ヲ装ヒ競争状態ナリシ」と、不景気とは言いながら父兄は年々美しい服を装って競争状態だ、と書いています。当時の運動会の光景が目に浮かびませんか?

 

【養蚕のこと】

当年も春蚕を手掛けていることが確認できます。4月下旬から5月中に記述が確認できます。

夏蚕については、8月14日付で「目下夏蚕最中ナリ、本宅ニハ本年夏蚕ヲ止メ秋蚕ノ目的ナリ」との記述があり、長崎家では夏蚕は中止し秋蚕を手掛ける予定だったように読めます。しかしその後養蚕に関する記述が見られず、秋蚕も中止した可能性があります。

 

【船のこと】

これまで同様、通年で鶴島丸を東海はよく利用しています。5月下旬には東海は母の埋骨式のために高知へと行っていますが、その際には第十二宇和島丸(宇和島→宿毛)を利用しています。これらは宇和島運輸の船です。

俵津近隣の船では、狩江発動船春洋丸が散発的に確認でき、東海も利用しています。高山を拠点とする乕丸、高山丸も当年日誌では1件ずつ記述が確認できますが、東海は利用していません。前年組織された玉津運輸会社の玉津丸はほぼ通年で航行しており、東海も利用しています。

ほかには、扶桑丸(宿毛→久礼)(土佐沿岸汽船)、大分丸(宇和島→吉田)(大阪商船)、御荘丸(宇和島→九州?)(南予運輸)などの船も確認でき、東海や家族が利用しています。

また、8月7日には警察船愛媛丸も俵津に入港していることが確認できます(前述)。

 

【モーターボート千鳥号】

前年導入した自家用船のモーターボート「千鳥号」は、当年日誌でも5月~10月初旬の間で記述が確認できます。前年と同じく修繕を時々加えながら、往診に利用し、送迎にも利用し、人にも貸しています。北は高山、南は宇和島まで行っているようです。

 

 

当年日誌にはほかにも、4月下旬の「宇喜五郡聯合共進会」(宇和島町で開催、東海も見物)の記述、5月下旬の母の高知での埋骨式の記述、7月24日に軍艦(奥浦沖に投錨中の長門と扶桑)を見物する記述、8月1日には宇和島市制が敷かれ山村豊次郎町長に祝電を出した記述などがあります。また、9月2日付で「東和病院組織変更ノ熟考案」を村会に伝える記述があり、この病院組織変更については次年以降で度々日誌に出てくるようになります。

当年日誌は12月に入って文字数が極端に少なくなっており、年末の数日間は記述がありません。また、当年日誌以降は文字数が減少傾向となっていきます。東海の体調が影響しているのかもしれません。

(本文中敬称略)

 

                        (2026・9・26)

宇都宮末夫くんのこと。

 9月20日。年下の畏友・宇都宮末夫くんが逝った。享年76。哀悼が尽きない。残念である。

 死の2日前、虫の知らせというのかなぜだか胸さわぎがして、吉田病院に入院中の彼を見舞った。元気そうで、「医者が家に帰れるようになるよと言っているので、帰ったら一杯やろう」と言って握手を求めてきたので握り返すと力強い返しがあった。これならまだしばらく大丈夫だろうと思ったが、あまりの事態の急変に驚いた。

 翌夕の通夜に参列したが、その会葬礼状に大変感動した。おそらく末夫くんの文才を受け継いだ娘の真梨子さんが書かれたものだろう。

 

「在りし日の面影は皆の胸にいつまでも」

好奇心旺盛で、興味を持ったことはどんどん取り入れていた父。元々は青果店を営んでおりましたがその傍らミカンの栽培をするようになり、美味しく育てるために勉強。またパソコン関係の本を買ってプログラミングの仕方を学び、ネット販売をするためのホームページを開設しました。カメラやギター、読書に熱中していた様子も父らしく感じます。またお酒が大好きで、焼酎を少しずつ飲みながらギターをポロンポロンと弾くのも楽しみのひとつでした。これからもきっとお酒を味わうのでしょう。市場へ行かなければと最後まで仕事のことも気にかけていましたが、何も心配せずゆっくり休んでほしいと願っています。~子供一同。令和八年九月二十日、宇都宮末夫は、享年七十六歳にて生涯を閉じました。生前ご厚情を賜りました皆様へ、深く感謝申し上げます。略儀ながら書状をもってお礼申し上げます。

 

◆

 彼は、こよなく「新田」を愛した男であった。

 新田愛が高じて当時の若者であるわれわれに向かって、新田改革のグループ「新田こせがれ会」を作ることを求めて実現させた。〈ロッジせせらぎ〉はわれわれの梁山泊だった。「同質性からの脱却を!」と口角泡を飛ばして弁舌した。

 三代続いたのち途切れていた新田選出町会議員をこの仲間から出そう!と熱く語って奔走しもした。

 「新田ふるさとまつり」の活躍も忘れられない。特に「狩渡橋情話」という芝居台本を3年にわたって書き続け演出し、俵津中のひとびとに涙させたことはいまだに皆の胸に熱いまま残っている。われわれは「新田の近松門左衛門」と呼んで彼を称えた。

 俵津老人クラブの「じじばばスーパー演芸会」もお世話になった。第1回大会での〈ゆめさく一座〉の芝居「水戸黄門」の台本は彼の作である。ギター演奏で出演もしてくれた。

 彼はまた、酒を飲むところのないこの俵津で「居酒屋・鉄平」を開店した。先見的な試みをいとも簡単に実行して見せる男でもあった。そこで語られる司馬遼太郎論は刺激に満ちていた。みんなの心は震えた。

 われわれは、彼とともに、とてもいい〈人生の時〉を過ごした。

 ほんとうに、俵津にとって必要な男であった、と今こころから思う。

◆

 あらためて特筆したいのは、娘さんの文章の中にもあった〈ホームページ〉の中の「田舎便り」(メールマガジン)である。「田舎暮らしを楽しもう」と題された月一で連綿と綴られたエッセイである。

 実に味わい深い文章で、ウイットに富み、諧謔(ユーモア)に溢れた、世相を批判する時は辛辣に的を射抜き、縦横無尽に歴史を往還するような魅力に満ちた世界をつくりあげていた。

 今年の3月に配信したものが絶筆となったが、再開を心待ちにしている人は多かっただろう。

 末夫くんは以前わたしに「自分の本を自費出版したい」と言っていた。3人の子供さんたちにお願いしたい。末夫くんのパソコンにはおそらく沢山の文章が残されていることだろうと思う。どうかそれを編集して一冊の本に仕上げていただけないだろうか。

 きっとみんな俵津での「田舎暮らし」が楽しくなるだろう。心温まる俵津の昔に出会うだろう。忘れていた人情の世界に出会うだろう。そして、未来への展望が開けてくるだろう。末夫くんの文章世界には「懐かしい未来」がある。

 ほんの一面だが(わたしの関心の強い分野に過ぎないが)、少しでも末夫くんを知っていただくために、令和6年8月30日に配信したもの(「貧しい農村」)の一節をここに引用しておきたい。新田を愛し、俵津を愛した末夫くんは、こんなふうに体の中に怒りを内蔵し、俵津の現状を深く憂えていた。

 (わたしのこのブログの右の〈リンク欄〉のトップに掲げているので、そこから入って見て下さい!また、わたしのブログにも数回〈胡瓜〉の筆名で寄稿してくれています。)

 

 世界は中世から抜け出してきたようなトランプ・プーチン・習近平の三人組にかき回され、田舎暮らしを楽しもうなどと呑気なことを言っていられるような、状況ではなくなりつつある。
 明治維新後田舎は兵士の供給地であった。日清・日露・太平洋戦争とどれほどの兵士が、出征していったことか。そしてどれほどの人が帰らぬ人となったことか。そして戦後は高度経済成長を支える労働力の供給地として、経済成長を旗印に百万馬力のポンプで吸い上げるように若い衆たちを、都会暮らしに流し込んだ。
 その結果残されたものは貧しい農村とジジ・ババ、だけである。
 何もかも失われていく農村の、全村老人ホームかと思わせるような佇まいに、明るい未来を見つけ出すのは、困難である。
 一昨年村にただ一店舗残っていたAコープが閉店した。唯一憩いの場でもあった場所を失い、しかも買い物弱者となった高齢者は行き場を失い、ただ一店舗ほそぼそと営業を続ける私の店に、足を向けざるを得なくなった。
 そこで交わされる会話はとめどもなく他愛のないもので、誰かが亡くなったとか入院したとか膝が痛いとか、およそ聞いていて楽しいものではない。とは言えそんな会話を通じて互いの身を案じその境遇を互いに慰めあうのもまた、田舎暮らしの一端ではある。

 本当に俵津は惜しい人物をなくした。しかし、「在りし日の面影は皆の胸にいつまでも」である。こころから冥福を祈る。

 

                         (2026・9・23)

「手本」は、東海さん。―新しい「議員像」をつくるために

 やっと、やっと、雨が降りました。7月初めに早い梅雨明けがあってから2ヶ月、5,6ミリの雨が3回ほどあったものの(それでもとても嬉しかった!)後は干天・猛暑の連続。ミカンのかん水に追われる日々でした。老いの体にはさすがに堪えました。(しばらくゆっくり休みたいです。が、摘果が待ってます!)

 

 いま、福岡県議会が揺れています。議長ポストをめぐる金銭授受疑惑や高額な海外視察など「政治とカネ」にまつわる問題で、です。一地方の問題に過ぎないと思われたものが、今や全国ニュースとして日本をにぎわせています。

 こう言っては何ですが、地方議会、弛緩しきっているように感じます(国会もですが)。わが西予市議会ではこんなことはないでしょうが、それでも議会や議員について、これでいいのかな とか もうちょっとなんとかならないのかな とかいう気持ちはわたしにもあります。頑張っている議員さんに失礼であることは重々承知してはいるのですが。

 この違和感はどこから来るのだろう?と考えてみました。そして思い至ったのは、わたしの抱く「議員像」と違うからかもしれない、ということでした。

 わたしはこのブログの2回前の記事(2026・7・22「議員と語ろう!会」へ行く)で、その最後の所でわたしの抱く議員像というか、こうあって欲しいと思う議員さんの在り方を少しスケッチふうに書いておきました。それはセンター職員や地域の人たちと一緒になって〈まちづくり〉に汗をかく議員の姿でした。また、その前の記事(2026・7・15「ある地方議員の叫び」)では、宮崎県のある地方議員の書いた文章を紹介させていただきました。これも、住民の心の底からの声をくみ取り、自分のものとする、熱意ある真摯な態度を持つ新しい議員像を提示するものでした。

◆

 わたしから見える議員さんたちの態度・言動は、どうもこういう姿からはかけ離れている、そんな気がしてならないのです(わたしの誤解だったらごめんなさい)。

 確かに議員さんは、議場で市から提示される議案を審議するのが仕事でしょう。でも、加速度的に衰退していく現在の地方では、こうした従来通りの議員さんの在り方からテイクオフ(離陸)しないと、地方は興らないのでは、と思われてなりません。

 

 さて、ここでやっと、タイトルの「東海さん」が登場します。わたしは長崎東海の中に、「理想の議員像=人間像」を見ます。東海さんを現代に蘇らせなくてはなりません(とも、思います)。

 東海さんは文久3年(1863年)高知窪川生まれの医者。明治35年(1902年)、39歳の時俵津へ移住してきます。昭和3年(1928年)に没するまで、ここ俵津を拠点にして、医療活動のみならず、〈地域興し活動家〉とでも呼ぶしかないような八面六臂の活躍を展開します。

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 移住5年を経ずして地域住民の信頼を得た東海さんは「俵津の主要人物として」村会議員・郡会議員に押し上げられます。以後ずっとその要職を務めたわけではありませんが、医者をしながらよくもまああれほどの議員活動が出来たものだなあと驚嘆します。   特に明治九年以来俵津村がほそぼそと続けていた俵津・宇和線道路工事を県の事業に昇格させた手腕は見事でした。これによって一挙に(現在の)県道45号線への道が開かれたのでした。

 当時は俵津‐宇和線のみならず俵津‐吉田線や宇和・野村・城川の道もほとんどが未開発。東宇和郡の大きな課題でした。また、海の船舶航路も開かれていませんでした。東海さんはその海の航路開拓にも大きな役割を果たしました。宇和島・吉田・俵津・狩江・高山・三瓶・八幡浜間の海の汽船航路ができたことがどれほどこの地域の発展に貢献して来たか、考えて見て下さい。

◆

 東海さんは、自分の医療活動を俵津に限定していません(ここが素晴らしいのです)。前にも書きましたが、東海さんは俵津に来て「海」を発見したのです。この海を利用すれば俵津を円の中心にして360度の自分の領域を創ることが出来る。東宇和郡は山ですから無理としても(それは馬・駕籠・人力車を利用)、現明浜の全地域・三瓶・玉津・白浦・吉田・戸島・日振島等へは船で行ける。東海さんの地理感覚はとても優れている。東海さんの活動は当然それらの地域の人たちを俵津へ呼び寄せます。俵津はこの地域の要衝にさえなっていたように感じられます。

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 東海さんはまた俵津で数々の偉業を成し遂げます。当時旧市川商店あたりから宮崎川までは浅瀬か湿地帯であったのでしょうが、これを1町5反(1.5ヘクタール)も自費で埋め立てたのです。俵津住民の居住域を拡大したのです。何という情熱・エネルギーでしょう。

 これも自費でですが、なんと〈公会堂〉の建設までやりました。現在の駐在所の場所です。わたしの子どもの頃にも、そこはやはり駐在所として使われていて、矢野さんという方がおられました。その娘が同級生でした。地域に開放したその公会堂ではおそらく様々な住民活動が展開されたことでしょう。

 東海さんは、文化活動に積極的でした。「婦人滑稽大笑大会」を自ら企画し自前の運営・開催をやっています。今わたしたちがやっている「じじばばスーパー演芸会」のようなものでしょうか。これの婦人版といったところでしょうか。自分の病院であり居宅である大きな建物の中でやるのです。その模様は、このブログで長崎東海研究会の会員の方が寄稿していただいている「長崎東海日誌について」㉘を見ていただくとよく分かります。東海さんによって、この俵津がどれほど活性化したか、楽しい町になっていったかということがよくわかります。

 ちなみに、東海さんの病院は現在の俵津自動車整備工場(三好恭弘くん宅)の所にありました。わたしの親戚の家です。小学生の頃時々行きましたが、元は立花旅館という旅館だったそうで、それを東海さんが買い入れたという事ですから、それはそれは広い家でした。二階は襖を外せば100人くらいは優にはいれたでしょう。あそこでやったんでしょうね。東海さんの診察室だった祇園町通り側の二階の部屋は按摩さんに貸していましたが、上部が丸まった都会的なガラス窓が印象的でよく覚えています。(従兄の弘巳さんが60数年前、工場をつくるとき残念ながら解体したのでその家は今は残っていません)。

 東海さんの話題は尽きないですが、このほかにも産婆さんの養成をしたり、当時大浦にあった小学校に門柱を寄贈したり(これは今明浜小学校にあります)、青年教育をしたり、相撲興行をやったり、養蚕業をやったり、何かあると自ら企画して地域の人たちと祝宴をあげたり・・・と実に多方面の活動をしています。趣味も書画骨董の自作・収集から何から多彩です。

 「長崎東海日誌について」を書いてくださっている方がこんな感慨をもらされています。「東海さんの本業は何なのか、わからなくなる時があります。それだけいろいろなことに関与され尽力されています。日誌でも時々出てくる「有志」という存在、そのものかな・・・と時々考えます。」

◆

 以上わたしの描いた東海さんはほんの素描ですが、いかがでしょうか?型破りともいえるようなその存在。東海さんは確実に俵津を良くしました。こんな方が今いてくれたら!、と思います。

 別に私費・私財を投じて何かをなせ、と言っているのではありません。お金の問題は東海さんの時代よりみんなが何百倍も豊かになった現在ではさまざまな調達方法があるでしょう。問題は、人の情熱・エネルギー・行動力・構想力・夢みる能力・現状をあきらめない力・人の結集力・人間の魅力などなどです。

 そう考えれば、東海さんは議員さんのみならず、〈まちづくり〉にかかわるわたしたちみんなの「手本」になるのではないでしょうか。

 わたしたちは今、東海さんを詳しく知るための大事な大きなテキストを持っています。このブログに連載中の「長崎東海日誌について」です。

 長崎東海研究会の会員の方が渾身の力を込めて書いてくださっています。東海さんの膨大な日誌を1年ごとに、しかも事項ごとにわかりやすくまとめて書いてくださっているのでとても理解が進みます。例えば直近の㉘㉙を見て下さい。【再び郡会議員に】【道路のこと】【第7回滑稽婦人大笑会】などといった小見出しがあります。これで自分の興味に従って読むことも可能になります。

 西予市議会議員や市理事者の方のみならず、多くの西予市民・俵津の方々に読んでいただきたいものです。

◆

 東海さんは〈移住者〉です。これがとても大事なことです。(わたしは以前東海さんは〈客神〉だと言ったことがありました。)東海さんの高知で生きた40年あまりのことはわかりませんが(その時代の日誌が発見されたらいいですね)、東海さんは、この俵津で大輪の花を咲かせたように思います。

 俵津とその周辺の可能性を、これほど見事に理解し変えた人が他にいたでしょうか。移住者だからこそ見えたのでしょう。出来たのでしょう。日誌でわたしたちはそのことを認識できます。

 いやいや俵津にも俵津製糸工場を創設するような優れた人達が大勢いました。農家も桑・芋・麦・米等々の栽培田畑を天まで耕して元気溌剌でした。俵津全体が歓声をあげていました。活気にあふれていました。だから、東海さんのような方を呼べたのでしょう。東海さんも来たのでしょう。俵津人の大いなる能力でしょう。素晴らしいコラボ、だったと思います。

 さて、東海さんを手本にして、わたしたち、どこへ向かいましょうか。

                                                                                            (2026・9・7)

●追記

 東海さんは、俵津の気の合う愉快な仲間たちと、もっともっと愉快な楽しい俵津をつくろうとしたんじゃないでしょうか。高知時代の日誌が明治34年の一年分だけありますが、そこにはここにスケッチしたようなことは書かれていませんので、わたしにはそんなふうに感じられるのです。

 東海さんは、頭の中に〈まちづくり〉の想念(発想)が湧くと、もう何でも社会化しようとするんですね。つまり俵津のみんなで楽しもうとするんです。家一軒分の値段がするフォーン型ラジオなんかも俵津のみんなを喜ばせるために東京から買って来たんじゃないでしょうかね。

 東海さんが埋め立てた1町5反の土地、あれ何をしようとして埋め立てたんでしょうね。わたしは思うんです。より立派な大きい公会堂、現代の公民館のようなものをイメージしていたんじゃないでしょうかね。そこでさまざまな〈楽しいこと〉を、俵津のみんなともっと大規模にやろうとしたんじゃないでしょうか。そして、自分の書画の作品や集めた骨董品なども展示しようとしたんじゃないでしょうかね。

 東海さんは〈夢追い人〉だったんじゃないでしょうか。

廃校後の小中学校の利用策について

 俵津区代表区長の西田初敏くんが、この間こんなことを言っていました。

 「新たな俵津の課題ができた。五年後に明浜の小中学校が共に廃校になり、西予市では宇和と野村とに一校ずつに統合されることになるが、その廃校後の明浜小・中学校をどう利用していくか、今から考えておかないといけなくなった。」

 

 別に彼に頼まれたわけではありません。でも、このブログは「まちづくり」が主要テーマなので、課題があるとついつい自分の案をあれこれ考えてしまうクセがついてしまいました。今日はそのことを書いてみます。

◆

 さて、わたしならどのような案を出すか。・・・うーん・・・わからない。思案投げ首ですが、しょうがない。「移住者」に丸投げして見てはどうでしょうか。

 

 まず、「俵津ホームページ」(刷新が必要です!)や「センターだより」「スマイルだより」あるいは市の広報などを通して、俵津(明浜)への移住を全国民に呼びかけます。その時に、小中学校の利用(法)をあなたにおまかせします!と訴えるのです。面白がって意欲ある人たちがわんさか押し寄せるような気がします(そんなわけない?!)。

 前にも書きましたが、すべてのお膳立てをしてハイ来てください、というやり方はどうも時代にそぐわないような気がします。都市から田舎を目指す人たちは、自分の能力を田舎で発揮したいと思っている意欲ある人たちです。その人たちのチャレンジ精神や場所をあらかじめ奪うようなことをしてはいけないと思うのです。

 関係者の皆さんは直ちに行動してください。代表区長は先頭に立って音頭を取ってください。意欲ある・魅力ある面白人間たちがゾクゾクと全国から「下見」に来るに違いありません(そんなわけない??!)。

 まあものはためしです。やってみてはいかがでしょうか。

◆

 それがだめだったら、どうしましょうか?ヒマですから、それも考えておきますか!うーん・・・?!

 まず、平凡ですが俵津の偉人館(資料館・作品館・歴史館)にしてはいかがでしょう。長崎東海・井上和・田中恒利・伊井庄五・・。歴史があってこの町がある。長い人々の営み・つながりがあって現在・今がある。古きを訪ねて新しきを想う。学校の1教室か2教室でいい。それにあてませんか。

◆

次は、やっぱり工房ですね。狩江笑学校には酒井建設の酒井久夫くんの木工房があります。そのように、お菓子工房・服飾工房・陶芸工房などなどさまざまある(これからもできる)工房群の集積場所にできるといいですね。夢ある個人がいきいきと生きる。楽しく生きる。そういう場所にしたいですね。

  ああそうです。パン工房やビール工房もいいですね。(地元の菌を使える人がいるといいですね)。

◆

 そして、そう、宿泊施設。あるといいですね。

 俵津は海で遊べる町です。ヨット・カヌー・ウインドサーフィン・釣り・貝

堀り・海草取りなど海で遊んだ後、泊まって夜も食事やみんなとの談話を楽しむ、そんな場所にしたい。夏の海の家的な使い方もできるかも。

 宇和海を魚を増やす研究をする場所として、実験場として、携わる人たちが泊まり込みで働く場所にしたい。

 野福峠の桜などで俵津を愛する人たちが、泊まる場所として提供したい。

 今はあるのかどうかわかりませんが、昔ユースホステルというのがあって、旅をする若者にとってとても便利でした。全国の若者が交流できるところでもありました。そんな施設になるといいですね。

 スポーツクラブや文化クラブの合宿所として利用していただくというのはどうでしょう。

 どこかの劇団なんかが練習のための合宿をして、体育館でリハーサルをやってわたしたちに見せていただけませんでしょうかね。

 全国の人によびかけて、いらない本を全部送って(贈って)いただいたらどうでしょう!数万冊の蔵書を持つ図書館ができます!知的資源、必要です!重要です!

 もちろん、俵津出身者でいまは故郷の家がない人、還暦や古希等で同級会のために帰省した人たちが気軽に利用できる所にもしたいですね。

 俵津が魅力的になれば宿泊者は増やせるかもしれませんね。俵津のあの文教(京)エリアは広いし素敵な空間だと思います。

◆

 何かのNPOやボランティアの方たちが、この施設を利用して、何かをするところにできないでしょうか。「何か」については全くわかりませんが、何かが、あるような気はするのですが・・・(!)。

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 南海トラフ地震後の避難場所として使う。

 この建物は堅牢ですから、たとえ震度7の揺れに遭っても、10メートルの津波に襲われても、建物自体は残っている可能性はあるかもしれません。もし残っていたらという話ですが・・・。一般のわたしたちの住居のほとんどは喪失するでしょうから、ここを復興拠点にすることを考えておいてもいいかもしれません。

 自然エネルギー施設や蓄電池の備えを今からしておきたいものです。

◆

 わたしなんかが思いつくのはこれくらいでしょうか。

 思いますが、これからの学校統合によって、廃校になる小中学校は相当の数に上ると思われます。これは単に小さな学校区の問題ではないと思うのです。やはり、これは市が、ちゃんとしかるべき部署をつくって人員を配置して、これからの市政の方向付けをして、その中で廃校を使って、どう魅力的な市づくりをやっていくかを考えなければならない問題だと、わたしは思います。廃校舎は、別の面から見れば、まことに魅力的な〈まちづくり資源〉なのですから。

 全国の自治体でも同じ課題を抱えている所は多いと思います。行政機関だったらそういう事例を調べるのは簡単だと思います。西予市でも取り入れることが出来そうな事例があれば採用していいのではないでしょうか。前述したように移住促進策の一環にも積極的に利用していただきたいと思います。

 ◆

 聞くところによると、狩江笑学校の年間維持管理費は100万円くらいだそうです。明浜小中学校はおそらくその数倍かかるでしょう。この問題をクリアできる使い方を編み出す必要はあります。でも、そこでオノノイテしまうようではもう西予市の未来はないも同然でしょう。西予市の覚悟といったものを見せて欲しいものです。

 都市にいる地方移住希望者が、西予市を選んでくれる決め手を西予市は持っているでしょうか。ジオパークなどはありますが残念ながら私たちの市のランクはそれほどではないのではないでしょうか。どうやってそれを高めればいいのか、それをみんなで考え続けることが大切だと思います。

 その時、コモン(共有地・共有財)をつくる!という意識を持つ、ということがとても大事なことだと強く感じています。コモンを多く持つまちは豊かになれる。

俵津には150ヘクタールの財産区有林があります。これが大切なコモンであるという認識が近年住民の間で失われつつありますが、かつて昭和20年代に建てられた俵津中学校はこの資金と材木が利用されました。いつかまた必ず役に立つ時が来ると思います。大浦集会所や新田集会所も立派なコモンです。残念ながらこれもあまり使われなくなりました。大浦集会所はほどなく解体されるそうです。

もう一度これらコモンを、新たな時代のコモンにしていく使い方をみんなで考え積極的に利用がなされるなら、俵津は活性化していくと思います。

そういう一環として、明浜小中学校の校舎・体育館・グランドをトータルに考えて、コモン化していきたいものです。

◆

 それにしても、学校がなくなる、ということは、とても残念です。寂しい、虚しい。狩江や高山や宮之浦や田の浜の人たちは、すでにそれを経験しているわけです。旧明浜町域から完全に教育施設がなくなります。こうやって過疎化がさらに進み、地域が衰退していくのかと思うとやり切れない思いが募ります。

 でも、みんなで考えましょう。話し合いましょう。思いをぶつけあうだけでもいいのではないでしょうか。

(2026・8・29)

【寄稿】長崎東海日誌について ㉙

 

長崎東海日誌について〓

○大正9年日誌

【滑稽婦人大笑会】

例年通り正月2日に開いています。この年で通算8回目です。記述は簡潔で、「始終滑稽的ニ出デ、坐客ヲシテ臍ヲヨレシム」「献酬、大笑、快酔ノ情況例年ニ劣ラサル盛会ナリシ」と記す程度です。参加者は50名弱でした。ところで、当年日誌の最後に「笑会経費」のメモ書きがあります。「東川二斗、肴取合物、当時魚類高価ニテ橋本、市長ノ尽力ニテ安価ニ済ム」(東川(日本酒)2斗、酒肴は取り合わせもの、この頃魚類が高価で橋本瀧三と市川長太郎の尽力で安く済んだ)。翌3日にも勧酒宴を開いており、大笑会と合わせた経費を『酒(東川)が約4斗、肴は約30円、白米は6斗、そのほか諸雑費あり』と記しています。

 

【郡会のこと】

前年東海は8年ぶりに郡会議員に就任しました(前回参照)。当年の郡議会は1月24日に開会し2月2日に閉会しています。日誌ではこの議会に関する記述はほぼ道路関係のものに限られています。東海が特にこの問題に取り組んだ結果だと思われます(次項で紹介)。10月3,4日には臨時郡会が開かれていますが、こちらはあまり詳しく書いていません。

 

【道路のこと】

当年日誌では道路に関する記述が多く見られます。時系列に沿って見ていきます。

(海岸同盟会(海岸四ヶ村有志会)を組織)

1月20日夜、村役場で「道路会」が開かれ東海も出席しています。この道路会は明治44年ごろから日誌で確認できるほぼ定例化した会合です。これに加えて、翌21日には俵津が発起した道路同盟会(海岸四ヶ村有志会とも)が俵津村役場で開かれています。この会合では「海岸同盟会」(道路期成同盟会)を組織して仮規則を作成し、役員選挙も行われています。東海が会長に、山内定吉(郡議、玉津)が副会長に選ばれ、海岸の四ヶ村それぞれの村長が幹事となっています。

(東宇和郡議会)

1月24日からは郡会が始まります。25日は休会ですが、この日宇和町と海岸各村の村長、郡議、有志が郡長宅を訪問して「道路件」について意見を聞いています。27日の郡会では理事者から「土木案ノ諮問案」が提出され、議会では28日~30日の間を休会として調査することが決まります。東部議員は海岸の、西部議員は東部の路線視察をすることとなりましたが、これは「道路法発布」に基づく視察であると明記しています。

28日からは郡議による「地方視察」(路線視察)が行われます。東海は西部議員なので本来ならば東部(今の野村、城川方面)を視察するはずなのですが、前回東部を視察していたため(東海日誌について⑱(明治42年日誌)を参照)東部視察を取り止めて、「三瓶トン子ル」を視察しています。これは東海の単独行動のようです。早朝から人力車を雇って視察をしています。この際の記述が興味深いものとなっています。「山田登リ道路粗悪ニ〓(して)車夫大ニ困難ス、隧道半ニ至レバ暗黒トナリ、通行人ノ衝突スル程ニ〓(して)、婦人抔ハ恐怖シ旧道ヲ通行スト聞ケリ、灯火ノ必要アリ、延長百数十間ナリ、卯ノ町ヨリ往復三時間余ヲ費セリ」。トンネルはできているもののそこまでの道が「粗悪」で、しかもトンネル内は真っ暗で

通行人同士が衝突する有様で、婦人などは怖がって旧道を通っているらしく、『トンネル内に灯火(照明)が必要だ』と東海は記しています。

視察を終えて郡会再開後、31日の夜に「俵津路線モ党議ト〓(して)改修ニ決シ、答申案ヲ作ル」と、政友派は俵津道路改修を党議と定めて答申案を作っています。翌2月1日の夜も土木案について政友派で協議をしている記述があります。2日も早朝から政友派は松屋に集合して土木案の答申案を作成し、その後午後1時から開会の郡会に出席します。郡予算案を議了したのちに答申案を提出し、俵津道路改修の答申案は議決されます。「俵津線ハ両派共之オ容レ、郡ノ東西ヲ問ハス同情セラレシハ俵津村ノ幸福ナリ」。俵津道路改修が正式に郡の方針となり、俵津村の幸福だ、と東海は喜んでいます。午後6時に郡会は閉会。夜には松屋で政友会大会が開かれ、その後の懇親会では「自分ハ俵津線ノ答申案ニ提出セラレシヲ喜ビ、直ニ百円ヲ

党費ノ中ニ寄附申込ヲナシ」と、事の進捗に喜んだ東海は100円を党に寄付することを申し出ています。

(郡会後)

郡会閉会後の2月3日、松本猶太郎(県議、下宇和)、緒方陸朗(郡会議長、野村)ほか郡議、宇都宮茂(俵津村長)、東海らは郡役所に行き、俵津道路改修の「大々的尽力」を依頼しています。5日には俵津村役場で開かれた道路委員会に出席して郡会の報告をしています。また、この時に「俵津道路ノ件」も協議したようですが、具体的に何を協議したのかは記していません。同月19日付でも「野村緒方陸朗氏、皆田松本猶太郎氏等ト俵津道路ノ為電話数回ニ〓(して)大ニ時間ヲ費セリ」と、俵津道路改修について何らかの協議を電話でしている記述があります。

(「村民ノ依托ニ拠リ」松山・県庁行き)

2月22日付で『村民の依頼により俵津道路改修運動のため松山に出発した』という記述が出てきます。5日の村の道路委員会で決められたのかもしれません。この松山行きには緒方陸朗も同行します。23日には松山に入り、清家俊三弁護士(県議、宇和島)とも合流し、3人で県庁の土木課などに行き運動を開始しています。24日も県庁に行き「各課訪問」をしています。また、この日付で「三井工業会社ノ鈴木達蔵氏ヲ訪ヒ、測量ニ関スル件ニ付交渉ス」との記述があり、これも道路に関係するものと思われます。25日にも県庁に行き、土木課に加えて馬渡俊雄知事を訪問しています。この日付で「道路改修ニ就テハ県庁ノ改修意見ニ決シ、大ニ満足セリ」との記述があります。県庁でも俵津道路改修の意見に決まったようで、東海はこの

ことに満足しています。1日挟んだ27日にも県庁に行き、内務部長と土木課長を訪ねて「トン子ル測量」の交渉をしています。坂本土木技師(坂本一平か)などにも面会して「俵津線トン子ル丈ノ測量ニ就キ県庁ノ信用者ヲ遣向ケル〓(こと)」が決定し、以上の運動を以て「是ニテ松山出張要件ハ一先終了」と記しています。

東海は松山での運動を終えて3月1日に俵津に帰ります。3月3日、村役場で開かれた蚕業講話会に林鉉吉郡長が参加したため東海宅で郡長歓迎会が開かれますが、この席上で東海は郡長に「道路問題ニ付多大ノ尽力アリシヲ謝シ、且自分ガ出庁シタル経過ヲ報告セリ」と、それまでの尽力を謝するとともに松山行きの経過を報告しています。4日の夜には東海は村の政友会員を自宅に招き「道路運動ノ経過」などを談じています。11日午後には村役場で「道路会」があり、東海はこれに出席して「先般県庁行ノ経過報告」をしています。いずれも県庁での運動結果の地元への報告です。

その後3月27日付で県参事会員が「ノブクトン子ル」の視察に来る記述がありますが、東海はこれには同行せず、俵津からは代理者(日誌原文には「山下・立花」とあり)が対応したようです。

この後半年以上日誌では道路関係の記述は出てきません。

(10月以降の動向)

10月3,4日に臨時郡会が開かれていますが、この郡会では道路関係の記述は見られません。11月3日には卯之町で「道路ノ件ニ付郡有志ト協議」が行われたようですが、あまり詳しく書いていません。11月11日にも村役場の依頼により村会で「俵津道線ニ付運動経過及方法説明」をしていますが、こちらも詳しい記述にはなっていません。

(再び松山で「道路運動」)

12月に入って、東海は自身の受診と「道路(宇和町俵津間)運動」を兼ねて旅行に出ています。5日には県庁に行き、池ノ内土木課長(池内勉)と坂本技師(坂本一平か)に面談して俵津道路の「申込」をしています。翌6日も「道路運動多忙」と記しています。7日には坂本技師が「俵津道路検査」のために松山を出発して俵津に向かう記述がありますが、坂本技師のその後の動向は日誌では書かれていません。この記述を最後に年内は道路関係の記述は見られなくなります。

以上からは、東海が海岸同盟会の会長且つ郡議として俵津道路改修(の陳情、交渉活動)にかなりの尽力をしたことが言えると思います。道路に関する記述は翌年以降も引き続き見られます。

 

【女学校設立問題】

当年日誌から「実科女学校設立問題」「女学校問題」の記述が見られ始めます。これは2年後の大正11年に開校する県立東宇和高等女学校に関するものと思われます。

1月18日付で、『明日宇和町役場で「実科女学校設立問題」を協議する予定で、俵津を代表して出席するため卯之町松屋に宿泊した』という趣旨の記述が出てきます。これが東海日誌での「女学校」に関する記述の初出です(ちなみに、翌日の会議は悪天候のため延期となっています)。その後、郡会開会中の1月26日に宇和町役場で西部有志会が開かれ「女学校問題」について協議した旨の記述も見られます。

8月24日には松本馬太郎(宇和町長)、稲垣熊一(この頃中川村議)、井上峻治(この頃郡参事会員)らが「女学校設立問題」について協議のため俵津にやって来る記述もあります。この日東海は所用で宇和島行きのために不在で、山下(三松か)と中村(重三か)に対応を依頼しています。

9月18日にも、俵津村役場で開かれた海岸同盟会(道路関係)に合わせて松本馬太郎、井上峻治が俵津へやって来て「女学校ニ就テノ説明」を海岸同盟会へ行った、という趣旨の記述があります。

日誌での記述は断片的ですが、女学校設立に関して何らかの動きがこの年から始まったことは確かなようです。

 

【南予五郡重要物産共進会】

3月24日から28日の5日間、卯之町で「南予五郡重要物産共進会」(『東宇和案内記』(大正9年、井尻義雄著)には「宇喜五郡共進会」ともあり)が開かれたようです。日誌にも関係する記述が見られます。

まず、3月16日付で「海南新聞社ノ久保田氏来談、五郡展覧会広告ノ件ニ付相談アリ」との記述が出てきます。18日付では「此日五郡共進会出品ノ画ヲ揮セリ」との記述、21日付では「卯之町ニ開会ノ五郡展覧共進会出品ニ付朝ヨリ取懸リ、山下三松氏ヲ雇ヒ、亀居ニ出品荷物ヲ持タセ」出発させた記述がありますので、東海も「画」を出品したようです。23日付でも「卯ノ町共進会陳列品ノ人形製作ニ付沖村栄吉ヲ派シ着手セシム」との記述があり、東海かあるいは俵津の誰かが「人形」を出品したように読めます。

3月24日から「南豫五郡重要物産第二展覧共進会」が始まります。日誌からは、「宇和校、即第一会場」(3/24付)、「上宇和校ナル教育・衛生展覧会」、「第二会場ナル郡役所楼上」、「畜産会場」(以上3/25付)の4つの会場が確認でき、東海もそれぞれに見物に行っています。26日付では「此日書画刀剣類ヲ沖村、亀居ニ持運バセ宇ノ町共進会ヘ出品ス」とありますので、東海は追加で書画、刀剣類を出品したことがわかります。この共進会は28日に閉会しますが、期間中は天候があまり良くなかったらしく「雨天勝ニテ当局者並ニ見物(人)ノ失望思ヒヤラル」と記しています。東海も雨天と体調不良のため24日、25日のみの見物で終わっています。

 

【宇和島でのコレラ流行】

(7月初旬~8月初旬の宇和島での流行)

7月6日付で『宇和島でコレラが5,6名発生した。そのため宇和島に行く乗客がなく、玉津丸・春洋丸は当分航海を見合わせているため不便甚だしい』という記述があります。翌7日付でも「コレラ各所ニ発生ノ声アリ」、11日付では『宇和島のコレラは増加して28,9名に達した。死亡率が高いため工女や雇人などは宇和島を立ち去って大影響を及ぼしつつある』といった記述があります。13日付でも「コレラ流行ノ声高シ」と記しています。この頃にはコレラ流行を警戒し「一村閉鎖」や「出入閉鎖」の措置が近隣の村で見られるようになります。17日付では『高山、狩江などは一村閉鎖して出入りを禁じ、このため外来患者もやや減少した。発動船は航行を中止し、わずかに玉津丸と鶴島丸が航行しているが、これも乗客がないため一時中

止するかもしれないとのこと』といった記述、翌18日付でも「各村出入閉鎖ノ有様」との記述があり、行動制限がかけられていることがわかります。21日付では「高山ニコレラ発生ノ声高シ」とも書かれていますが、これに関する記述が以降は見えず、実際には発生していなかったものと思われます。同じ21日には「学校」で神部啓次郎卯之町署長らによる衛生講話が開かれています(東海は欠席)。これもコレラ流行に関するものかもしれません。その後も、25日付で「各村流行病ノ声高キ」の記述、27日には「宇和島ニテコレラ再流行シ、地方ノ警戒厳重ナリ」と、再び宇和島でコレラが再流行した記述があります。その後2週間ほど経った8月12日付で、前日から宇和島入りしていた東海は「宇和島ハ虎疫ノ為大打撃ヲ受ケ市中寂シ、

虎病終リテ九日目ナリト云フ」と記しています。宇和島ではコレラの大打撃を受けて町が寂しい状況であること、8月の初旬にはコレラが終息していたことが分かります。これ以降コレラ流行に関する記述は当年日誌では見られません。

(「コレラ予防注射」)

宇和島でコレラが発生して流行の兆しを見せ始めた状況を受けて、俵津村ではコレラ予防注射を実施することになったようです(東和病院が実施)。7月14日には俵津製糸工場で工女160名に対して、15日には徳長寺で脇・新田の希望者に対して、16日には地蔵院で大浦の希望者に対して、それぞれ1回目の予防注射を実施しています。7月18日には東海自身も北里研究所製のコレラワクチン(1回目)を接種しています。さらに、20日には製糸工場で工女に、22日には徳長寺で脇の住民に、23日には地蔵院で大浦の住民に、24日には東海自身に、それぞれ2回目のコレラ予防注射を実施しています(東海の2回目も北里研究所製)。その後も、8月3日に東海自身の3回目、8日には家族に2回目(1回目の実施日は不明)の予防注射をしていることが確認

できます。

以上、東海日誌での記述からすると、7月初旬以降8月初旬にかけて宇和島でコレラが流行し、近隣の村々も警戒態勢を敷いていたことがわかります。一方で、『愛媛県史』には大正9年9月以降に北宇和郡(宇和島地方)でコレラが猛威を振るって喜多郡、温泉郡に蔓延したとの記載があり、時期に2か月ほどのズレがあります。7月の流行がいったん治まって9月に再び流行したのか。まったく別個の流行なのか。注意しておきたい記述だと考えます。

 

【納涼会】

当年の納涼会は、当初8月8日に予定していましたが雨のために延期し、8月14日に実施しています。この年で通算4回目です。会場は東海本宅2階で、参加者は70名弱。今回の意匠は、部屋にバベ(ウバメガシ)、芝、芦、松などを飾って、氷塊の大玉3つを置き、50ワット2個と30ワット数個の電球を設置し、加えて夜間の注意用に提灯も準備するというものでした。少しあっさりとした風景ですが、前年の送電開始に伴い電球を設置しているのが特徴と言えます。また、納涼台(おそらくベランダのようなもの)にも電気を点火したらしく「余程注目ノ価アリ」と東海は自信満々に記しています。この頃は前項で紹介した通り南予地方でコレラが流行していたために生魚を食べるのを禁止されていたようで、合わせて夏ということもあり『大

いに宴席の注意を要する時季だ』と記しています。そのため用意した料理を「納凉ニ適シタル氷、金時、西瓜、素麺、其他煮附物ヲ以主肴トセリ」と限定しています。会は夕方から開始して、夜12時に閉会しています。「一同愉快ニ閉会ス」と参加者も大満足でした。

 

【盆踊り】

この年は8月27日が旧暦7月14日にあたり、俵津では翌日にかけて盆踊りが実施されています。

27日夜には脇・大浦ともに「埋立地」で盆踊りを実施し、東海は例年通り寄付したことにより特別に見物席で待遇を受けて見物しています。人出が多かったようで「大人気、他村ヨリノ見物夥シ」と記しています。翌28日も脇・大浦ともに盆踊りが行われたようですが、この日は会場が別だったのか、東海は先に往診のついでに脇の盆踊りを「特別見物場」から見物し、その後大浦の「盆踊場」に行き同じく「特別桟式(敷)」で待遇を受けて見物しています。特に脇の踊りについては「異装踊ノ内病院職員診察ノ模型等一笑セリ」とも書いており、仮装盆踊り風なようすを伝えています(病院職員の診察の模型もあって笑ってしまった、とも記しています)。いずれも「当夜モ他村ヨリノ見物船数十艘ニ〓(して)、頗ル盛也」とその盛

況ぶりを記しています。

 

【松本仙挙のこと】

前年の日誌では大きな動きがなかったので紹介していませんでしたが、この年は1月27日付で「当夜松本氏ノ病気ナル〓(こと)緒方氏ヨリ聞キ驚ケリ、京都ノ病院ニ入院セシトカヤ」との記述が出てきます。この日は郡会会期中で、夜の懇親会の際に緒方陸朗から話を聞いて東海は驚いています。しかしこれ以降仙挙の病気に関係する記述は見られず、一過性なものだったのかもしれません。

この記述からずいぶんと経った11月26日付で「本日松本仙挙氏来訪、当分本宅ニテ画会ヲ催シ滞在ノ筈」という記述があり、仙挙が俵津へやって来て当分の間東海本宅で画会を催しながら滞在する予定であることが記されています。12月1日付でも「松本氏揮毫中ニテ出入人多シ」との記述があり、仙挙目当てに多くの人が東海宅に出入りしているようすを記しています。翌12月2日以降東海は旅行に出て自宅を留守にしますが、自宅に戻った19日付で「不在中ハ松本仙挙氏滞在、画会アリ」との記述があり、東海不在中も仙挙は東海宅に滞在して画会を開いていたようです。そして翌20日付で「松本仙挙氏ハ本日午后筋ニ渡リ帰京ノ途ニ就ケリ」と仙挙が京都へと帰ったことが記されています。ほぼ1ヶ月仙挙は東海宅に滞在していたことに

なります。東海と仙挙の関係が垣間見えるようです。

 

【養蚕のこと】

この年も長崎家が養蚕を手掛けていたことが確認できます。

春蚕については4月下旬~5月下旬の間で記述が確認でき、繭については「摂津渡」とありますので摂津製糸(宇和分工場か?)に売り渡したものと思われます。7月下旬になると「早秋蚕」が発生し、8月中旬ごろに上蔟を迎えています。「本年秋蚕ハ繭価下落」して「繭買」が一人も来ないとも記しています。その後9月に入るとすぐに「晩秋蚕」が始まり、下旬には上蔟を迎えています。この頃には繭価が上向いて売買契約が成立したと書いています。なお、「早秋蚕」「晩秋蚕」という言葉は当年日誌で初めて出てくるもので、繭価を考慮してか、例年より時期を少しずらして養蚕を行ったようにも見えます。

 

【船のこと】

この年は、俵津近海は主に鶴島丸が航行しています。鶴丸、第二鶴島丸もそれぞれ1件のみ記述が確認できます。いずれも宇和島運輸の船です。

瀬戸内海航路では、宇和島運輸の船で第十三宇和島丸(高浜→吉田)と第十四宇和島丸(別府→吉田)が、大阪商船の船では宮崎丸(吉田→高浜)と群山丸(吉田→高浜)がそれぞれ確認でき、いずれも東海は利用しています。

地元の狩江発動船の春洋丸(前々回、前回を参照)も8月23日付で確認できます。「本日ヨリ久シク休航セシ春洋丸宇和島行ヲ始メタリ」と書いていますので、コレラ流行の影響で長らく休航していたものと思われます。

また、3月31日付で『今日玉津村で御手洗勘寸計氏が大株主となって「玉津運輸会社」を組織し、新造船である発動船玉津丸の進水式の案内があった。同船で迎えに来たので玉津へ出発した』との記述があります。4月4日には「本日初航海ノ玉津丸」で啓海(息子)が宇和島へ向かったことが記されています。この日が玉津丸の初航海だったようです。その後は9月25日付まで玉津丸の記述が確認でき、東海や家族などが度々利用しています。この玉津運輸会社については『明浜町誌』に少し紹介されています。

ほかには、3月23日付で「ツシマ丸」(高山→俵津)、8月31日付で「徳島丸」(吉田→?)の船も出てきますが、詳細は不明です。

 

【ボート千鳥号】

この年東海は自家用船「千鳥号」を導入しています。

3月9日、東海は「東京日之出商会」へ「エビンルード式モータ」を550円で注文しています。3月23日には高山宮之浦の船大工田中大六と「ボート造船」の契約を500円でしています。同じ日には日之出商会から「エビンルード式モータ」が着荷しています。

4月に入ってからは、田中が造船したボートにエビンルード式モータを取り付けようと知己の大工などに依頼するものの、うまくいかない記述が散見されます。4月23日付では田中大六、市川長太郎、狩浜の斎藤長松らと「造船及器械適用ノ〓(こと)」で打合せをしている記述があります。その後5月28日付で田中大六らがボートと一緒にやって来て「俄ニ進水式ヲナス」と書いていますので、ボート造船を担当した田中や狩浜の斎藤らによりモータの取り付けに成功したようで、この日無事に進水しています。この時東海はボートに「千鳥号」と名付けています。

5月30日には「午后ボートニテ各所ヘ迂廻遊船ス」と書いており、この日が運転開始日のようです。翌31日には深浦への往診にボートで行っています。

この日以降千鳥号は日誌に度々登場し、遠くは宇和島へも行っています。概ね天候に支障のない日に利用しているようです。要請があれば人にも貸しています。なお、10月10日には前日死去した母の柩をボートに乗せて火葬場まで運ぶ記述があり、東海に何らかの思いがあったのかもしれません。

その後も千鳥号はその都度修繕を加えながら利用され、当年日誌では11月5日付まで確認できます(翌年の日誌でも確認できます)。

 

当年日誌にはほかにも、3月31日の「改正県医師会」創立に関する記述(代理で土居実馬が関係会合に出席)や、5月10日実施の第14回衆議院議員総選挙の記述(東海も大いに運動)、10月9日には東海の母が死去する記述などがあります。また、8月~11月の期間で「埋立」「病院修繕」「天能園道路」など各種の工事を集中的に行っている記述もあります。

(本文中敬称略)

 

                         (2026・8・24)

【寄稿】長崎東海日誌について ㉘

長崎東海日誌について〓

○大正8年日誌

【正月】

(「一大紀念ノ年」の「祝賀会」)

1月1日、東海は午前10時から俵津校で開かれた拝賀式に出席します。元旦の拝賀式への参加は毎年の恒例です。式場で東海は居合わせた宇都宮茂村長と「祝賀会」を開催すべく打ち合わせをしています。この「祝賀会」は、第一次世界大戦の講話が成立し、また「旧暦廃止案出テ一大改革」をする「一大紀念ノ年」でもあるとして、多くの有志とともにこの年の将来に祝意を表そうとするものでした。東海は式辞の際に祝賀会の開催を拝賀式の参列者に提案しています。

東海提案の「祝賀会」は実行に移され、午後4時から村役場で開かれました。しかし、雨天であったことに加えて勧誘活動も不足していたため、脇・新田からわずか18名の参加に留まり、「甚振ハズ、大ニ遺憾トセリ」と失敗に終わったことを残念がっています。また、『自分の不徳であることとこの会に賛同しない村民に対して心を痛めた。ほかでこのような宴会でもあればともかく、(村民が)国家観念に冷ややかなことを遺憾に思う』とも記しています。時代的な背景が垣間見えると同時に、一般村民と村有志との間に意識の隔たりがあることを伺わせるような記述です。

(第七回滑稽婦人大笑会)

翌2日は例年通り滑稽婦人大笑会が開かれています。当年で7回目です。『自分は第10回まで続ける考えで、大いに奨励して、(前年の東京行きの際に)福引用のちょっとした景品なども買って帰ってきた』『木崎喜三郎はこの会に大々的な賛同を示してくれて、特に20個の赤張り吊り行灯を自作して贈ってきてくれた』『招待の婦人連がこの会に期待して喜び勇んで来会してくれるのは自家の栄誉だ』と記しています。東海も有志もこの会の実施にはとても前向きで、婦人連もとても楽しみにしているようすが読み取れます。

この年の大笑会は午後5時~6時頃に始まり、参加者は70~80名ほどでした。「大浦・新田ハ異装シテ乗込ム」とありますので、大浦・新田からの参加者は自宅から仮装しての参加で、気合が入っています。会場は東海本宅二階で、2ヶ所にガス灯を灯し、木崎から寄贈を受けた「釣角行灯」(前述)も設置し、その光景は「頗ル賞観」されたと書いています。メイン会場は大広間でここを「婦人席」とし、「表八畳ノ間」は「男子席」、そのほかの部屋は芸の打合せ部屋としています。舞踏や小唄など各自が得意とする座芸が繰り広げられ、そのようすを「各自競争的ニ〓(して)絶間ナシ」(それぞれが競争して絶え間がない)と記しています。用意された料理は「会席配膳」のようです。途中で休憩時間が設けられ、その際には煮沸消毒

済みの銅貨や銀貨、「陶器ノ七福神」などを餡として入れた「握リ寿司」が配られています(景品付きの寿司?)。「配膳ニ忙シク、又喰フニモ忙シ、大笑シツゝ皆滑稽的ナリ」。前日の祝賀会とは異なって大いに盛り上り、夜1時頃に閉会しています。

翌3日は雪が降り「一面ノ銀世界」となったようです。この日は前日に大笑会を手伝ってくれた人や病院職員などと「雪見且慰労」の宴を開き、三味太鼓に興じています。「昨夜ニ続グ愉々快々ノ間」に1日を終えたと記しています。

 

【養蚕のこと】

この年は、長崎家は養蚕を手掛けていることが日誌から確実に言えます。春蚕(4月下旬~5月下旬)、夏蚕(7月下旬~8月中旬)ともに手掛けています。8月13日付で(自家の)「秋蚕上蔟中」との記述がありますが、これは夏蚕の書き間違いと思われます。秋蚕については記述がありません。

また、5月14日付で「養蚕期一周間、学校休業也」、翌15日付でも「学校ハ半休トナリ、養蚕真最中」との記述が出てきます。14日付の「一周間」は、養蚕期に入っておよそ7日目という意味かと思われます(5月6,7日頃から養蚕期となっています)。学校が14日は終日休業で15日は半休となったということですが、養蚕期に学校が休みになるという記述は東海日誌ではこれが初出です。

 

【納涼会のこと】

大正6年に第1回として開始した納涼会は、この年も8月20日に開かれています。『電灯工事の完成に合わせてもう少し早く開催するつもりだったが、1週間以上待っても工事は完成に至らず、やむを得ずガス灯、ランプ、提灯を以て開催した』ということを記しています(電灯工事については後述)。会場は東海宅2階で、今回も「二階大広間ヨリ仲坐ニ氷塊ヲ吊シ、又桶ニ据付ケ冷ヲ取リ、松ノ緑葉ヲ飾リ、各国旗ヲ張廻シ、坐中ニ西瓜数十ヲ投飛シ」(二階大広間から中座に氷塊を吊るして、桶にも氷を入れて冷を取り、松の緑葉を飾って、国旗を部屋に張回し、スイカ数十個を投げ飛ばす)という大掛かりな意匠となっています。参加者は80名ほどで、夕方6時頃から開かれています。三味線と蓄音機を入れて勝手自由の座芸が繰り広

げられ、夜12時頃に閉会しています。「暑サヲ打忘レ一同快トシ」「主客ノ満足スル所ナリ」。参加者は暑さも忘れてとても満足したようです。

 

【電灯と盆踊りのこと】

(この年の盆について)

当年は閏月が入り、8月8月は旧7月13日にあたり日誌では「第一盆期」と記しています。9月9日は旧閏7月15日で、俵津ではこの日を正式な盆として扱ったようです。

(送電まで)

前々回紹介した送電についてはこの年に大きく動きます。

まず、2月6日付で東海が宇和島入りしたついでに水電社に行った記述がありますが、何をしたかは書かれていません。その後しばらく目立った記述は途絶えます。

6月23日付で「宇和水電会社ノ事務員仲田兼雄氏来訪セリ、電灯架設ニ工夫ヲ連レ来リ、着手セリ」(宇和水電の仲田事務員が来た。電灯架設の作業員を連れて来て、工事に着手した)との記述が出てきます。この日から電灯工事が始まったもようです。24日には「点灯数申込書調査」が行われ、東海は「本宅、部屋、天能園、病院、分病室等」で計26ヶ所の申し込みをしています。25日付では「受負師佐々木某」(7/10付では「電灯工事係」との肩書)の名前が見えます。26日には「病院本宅共電灯取付工事」をし「両方ニテ二十灯」という記述が確認できます。この頃以降仲田、佐々木とも俵津に滞在しています。7月27日付で「本宅附近電灯柱本日立ツ」という記述があり、工事は着々と進んでいることがわかります。8月5日、仲田兼雄

の送別会が福島肴屋で開かれています。この頃に仲田は宇和島へ帰ったようです。

8月18日付で「盆踊奨励ノ為大浦・脇両部落ヘ五円宛寄附ヲナス」との記述が出てきます。これは例年の盆踊りに対する寄付です。ところが、22日付では『「電灯点火式ノ余興」として踊り(盆踊り)を催すこととなり、各部落で盛んに稽古が始まっている』という記述があり、合わせて「多分一周間内ニ点火ノ運トナル見込ミ」と記しています。電灯工事の完成が盆の頃と被りそうなため、例年の盆踊りに加えて「電灯点火式ノ余興」でも踊り(盆踊り)を実施しようと計画したようです。

8月26日夜、東海が伊藤直三郎方に誘われて行くと『「水電ノ山本武平、佐々木外一名」が同席していてともに饗応を受けた』という記述があります。佐々木は前述の電灯工事係です。山本武平は明治44年頃から東海と交流のあることが日誌で確認できる吉田の人です(2人とも書画骨董を趣味としています)。山本はこの記述以降、俵津の「水電」「給電所」の山本として日誌に登場しますので、仲田兼雄と入れ替わりで俵津に入ったものと思われます(大正11年8月に八幡浜に転任となるまで)。

(「送電トナリ点火」)

そして、8月28日。この日の夕方俵津で電灯が灯ります。日誌では「本日午后四時半俵津送電トナリ点火セリ、万才・・・・・」とだけ書いています。この短い文章に東海の感慨が込められているように思います。

(盆踊り)

送電開始の翌日8月29日付で「今夜脇踊届ヲ自分ノ名義ニテ届出デシカ、明夜ニ延期スル事トナル」との記述があります。翌30日付では「当夜脇・大浦両部落ニテ手踊(即盆踊アリ)、自分催主トナリ届出タリ」との記述があります。これらは例年の盆踊りに関する記述で、29日の脇の踊りを翌日に延期して30日に脇・大浦合同で踊りを実施したということです。いずれも東海が催主となっています。

(電灯祝賀会と余興の踊り)

8月31日。この日「電灯祝賀会」が村役場で開かれます。参加者は80名で、宇和水電本社から小倉鎮太郎(支配人)と仲田兼雄が、「当所事務所」(俵津)からは山本武平ほか3名が臨席します。東海は「発企人惣代」として挨拶をしています。祝賀会は夜8時に終わり、その後「片ノ浜埋立地」で「盆式手踊」が行われます。「電灯点火式ノ余興」の踊りです。新田・脇・大浦合併で、踊り手は「五十燭二ヶ、百燭一ヶノ電灯ノ下」(50ワット2個、100ワット1個の電灯の下)で踊ったらしく、「一大壮観ヲ呈シ、スバラシキ〓(こと)」と東海は激賞しています。この日は参観人も多く、「人気盛ニ〓(して)参観人山ヲナシ、殆ンド二千人以上ト見受ケタリ、玉津、狩江ヨリ来場スル船数知レズ」と、2千人を超える見物人があったと記してい

ます。俵津への送電開始という一大事がちょうど盆のころと重なったことで、例年より盛大な盆踊りとなったようです。

日誌ではこの年6月下旬の工事開始から8月末の電灯祝賀会までの動きが大まかに読み取れます。『明浜町誌』にも電気に関する記載がありますが、東海日誌から新しく判明する事実もあるように思います。

 

【再び郡会議員に】

この年9月25日に県議選が実施されます。東海も政友会派として運動し、同派の公認候補が当選を果たしています。その後すぐに東宇和郡議選が実施されますが、この郡議選に東海は村の有志の依頼により出馬することになります。

9月27日、村役場で開かれた郡会議員選挙(9月30日実施)の候補者予選会で東海が公認され、交渉員が東海宅にやって来ます。東海は「熟考ノ上明朝廻答スル」とこの日は回答を保留しています。熟考の結果、翌28日朝に東海は「諾」の返事をします。この段階では俵津村で公認を受けた立候補者は東海一人(政友派)で、当選がほぼ確実でした。ところが29日の朝、突然大浦の某が「大浦ヲ根居トシテ私生的候補者」となり東海の「向ヲ張リ」運動を開始します。この突然の動きに東海派は「警戒、注意ヲ払ヘリ」と記しています。選挙当日の30日付では、「少年輩ハ自転車」で某派の「運動盛ナリ」と記しています。東海は『一人舞台と思っていたところ、某が憲政派を標榜して運動を始めたので捨て置くわけにもいかず、政友派は「

注意的運動」をした。(当日)午前2時頃まで「注意」し、朝になってからも有志や「青年」と警戒した』と書いています。この「注意的運動」や「注意」が具体的にどういった行動なのかは日誌からはわかりません。しかし、某は憲政派と称しているものの公認のようでもなく、また、某には「少年輩」が付き東海には「青年」が付き、というように、若い世代で割れているように読み取れます。投票結果は総数102票の内、東海が64票、某が37票、ほか1票で東海が当選します。東海は当選したものの、『某は何の野心があって突然に出馬したのだろう。自分もこの「抵抗運動」には少なからず苦痛を受け、将来忘れるはずもない恨み事となった・・・』と戸惑いを記しています。

その後、東海は10月29日の臨時郡会に臨みます。この郡会では役員選挙が開かれ、「議長ハ二年交代トシ、初年ヲ緒方陸郎氏、二年目ヨリ向ヲ自分ニ決定ス、以下副議長、参事会員皆二年交代トシ、夫々決定ス」と記しています。議長を2年交代として、初年(初めの2年という意味か)を緒方陸朗(野村)、2年目(続く2年という意味か)からを東海がそれぞれ務めることが決まっています(※)。

選挙時のごたごたはありましたが、東海は明治44年以来8年ぶりに郡議に就任し、この後再び郡議としての活動を展開していきます。

(※)大正10年日誌を調べてみますと、10月30日付で『今日から約束通り自分が議長となるはずも、この頃は病気で務め難く、次の通常郡会まで緒方に継続を頼んだ』旨の記述があり、この時は議長職に就くのを病気のため保留したようです。なお、翌大正11年5月中旬の記述では東海が議長であることを示す記述があります。

 

【道路のこと】

(知事巡視に合わせて「陳述」)

7月7日、この年4月に愛媛県知事に就任した馬渡(まわたり)俊雄が東宇和郡に巡視に来ます。卯之町繭売買所で官民歓迎会が開かれ、東海も参加しています。翌8日、今度は野村の嬉野亭で「知事及東部有志歓迎会」が開かれ、この会にも東海は参加しています。この野村での歓迎会時に東海は芝鉄治(高川村の人。前回参照)と一緒に知事に面談し、「俵津卯ノ町間道路問題」について「陳述」しています。この芝鉄治との陳情行動は前年から引き続くものです。

(「道路法ニ付郡民大会」)

10月4日、卯之町栄座で「民力涵養講演会」が開かれ、東海は参加しています。その後夕方に郡役所で開かれた「道路法ニ付郡民大会」にも東海は参加しています。この大会では「県道編入運動員ト〓(して)路線選定ノ委員八名」を選定しており、東海も委員に選ばれます。また同会では「俵津線モ将来県道ト〓(して)運動ス可キ資格アリ」と決議されており、このことを「大ニ満足セリ」と東海は書いています。

この「道路法ニ付郡民大会」は民力涵養運動(第一次世界大戦後の社会教化運動)の一環で実施されたものと思われます。この郡民大会において、東海が俵津線の県道編入運動員に選ばれたこと、俵津線の県道昇格運動が決定されたことはいずれも留意しておきたい記述です。

(「空気入人力車」と道路事情)

10月23日付で「空気入人力車購求(大阪関原店)、吉田上リニテ、取寄ノ為亀井ヲ派ス、午后ノ鶴島丸ニテ荷物ニ付添俵津上リ、取立完全ナルヲ認ム」との記述があります。大阪の関原店(関原利兵衛)から購入した「空気入人力車」が吉田に到着し、吉田からは亀井(辰見亀井、東和病院の車夫・下男)が荷物(人力車)に付き添って俵津へ到着した、という趣旨の記述です(それまでは明治44年10月に同じ大阪関原利兵衛から購入した人力車を利用していました)。翌24日付では「空気入新調ノ人力車ヲ取組タリ」と書いていますので、到着した人力車は組み立て式のように読めます。27日には新田への求診に「新調空気入自用人力車」の乗り始めをし、「菅別荘」(菅幸松の別荘か)まで試乗しています。

10月28日、新しい人力車を船に積んで深浦へ往診に出かけます。往診後は「玉津道路」を吉田に出て、「吉田・卯ノ町間ノ県道」を迂回して卯之町入りします(翌日の臨時郡会出席のため卯之町入り(前述))。この卯之町入りにわざわざ新調の人力車で向かったのは「車体検査ヲ受クル為」でした。しかし、臨時郡会の翌日(30日)に卯之町警察署へ行き車体検査を申し込んだところ「自用車トシテ検査ヲ要セズ」とのことで、検査を受けずして俵津への帰途に就くことになります。その際の人力車での移動について東海は次のように記しています。「卯ノ町坂ヲ車ニテ越セシ故、二分乗車、八分歩行、大ニ疲労セリ」。28日の「卯ノ町坂」=「吉田・卯ノ町間ノ県道」ルートは人力車に乗って通れたものの、帰りの野福峠は「二分乗

車、八分歩行」(2割は乗車、8割は歩行)で、人力車に人を乗せて通ることのできる箇所がルート全体の2割ほどだったとの記述となっています。まだ改良が進んでいないこの頃の道路事情がわかります。

ちなみに、それまで使用していた人力車は11月11日に玉津の浜田耕吉(医者)に40円で譲っています。

 

【駕籠のこと】

9月26日付で次のような記述があります。「仲屋喜久造氏ハ旧藩主伊達侯ヨリ石崎忠八氏方ヘ譲リアリシ駕ノ買受ヲナシ、当地ニ持来リ、交渉ノ結果之ヲ求ム」。石崎忠八(宇和島の実業家)に譲られていた旧藩主伊達家の駕籠を仲屋喜久造(宇和島丸之内の指物商)が買い受けて、俵津に持って来て東海と交渉した結果、東海がこの駕籠を購入したと書いています。10月16日付では、宇都宮友吉(この頃卯之町在住)と「駕ノ修繕其他小細工」の約束をしている記述があります。この「駕」は9/26付と同じものと思われます。その後11月4日に宇都宮友吉が駕籠の修繕に取り掛かり、7日に修繕を終えた記述があります。

この駕籠については東海日誌研究会の会合で山下会長が指摘され、その後いろいろ調べてみましたが、今のところよくわかっていません。

ちなみに、翌大正9年日誌では1月22日付で「駕修繕成リ落成」した記述があり、この駕籠の可能性があります。その後3月23日付で「横山氏ニ古駕譲渡ノ約束成リ、送リ船ニ托シ仝氏ニ送附ス」との記述があります(横山友郷はこの頃狩浜の医者)。それまで東海が使用していた古い駕籠は狩浜の同業者横山へ譲り、東海は新たに修繕成った(元伊達家のものかもしれない)駕籠を使用した可能性があります。留意しておきたい記述です。

 

【船のこと】

この年は主に鶴島丸が俵津近海を航行しています。第二鶴島丸も俵津に入港していますが、当年日誌で確認できる記述は2件のみです。また、11月9日付以降では鶴丸という船も見られるようになります。いずれも宇和島運輸の船で、東海や家族も利用しています。

地元の船としては、「俵津発動船大漁丸」(前年日誌では「大浦発動船大漁丸」表記)と春洋丸(狩江発動船)が前年に続き航行中です。

瀬戸内海航路では、前年と同じく第十三宇和島丸(神戸→吉田)、第十五宇和島丸(大阪~吉田・宇和島)の記述があります(宇和島運輸の船)。また、高浜→吉田で愛媛丸(大阪汽船)を、三津~宇品では人丸を東海はそれぞれ利用しています。

ほかには、10月2日付で『病院の東隣にある旧校舎を肥料会社として、第十多加丸という船が来た。肥料を積んで臭気を四方に散らして閉口した』という旨の記述も出てきます。これの第十多加丸は荷船のようです。

 

【そのほか】

(革のこと)

大正6年に妻を亡くした革(東海の息子)はこの年再婚します。革は1月下旬に一時帰国し、その後俵津滞在中に「求妻」活動を行い、3月28日に結婚式。4月5日には早々に夫婦でアメリカに向けて出発し、5月28日にはアメリカに到着しています。この流れは大正6年時と同じです。

(「出宇加養」)

東海はこの年秋ごろから体調を崩し、11月25日~12月23日の間宇和島で療養しています。東海の自宅以外での長期療養は初めてのことです。

(医師会のこと)

海岸医会の記述内容は例年と変わりませんが、郡医師会については、11月15日付で東宇和郡医師会が開かれた際に「此度改正医師法ニ付旧会ヲ解散シ新ニ医師会ヲ成立セシメタリ」との記述があります。この年に医師法が改正されて「郡市区医師会と道府県医師会は強制設立とされ,法人格が与えられ」る動きがあるのですが(『日本医師会通史』)、これに合わせた東宇和郡での動向かと思われます。県内の改正医師法に係る動向については『愛媛県史 社会経済6 社会』にも詳しく記載がありますのでそちらをご参照ください。

(本文中敬称略)

                        (2026・7・29)