長崎東海日誌について〓
○大正10年日誌
【「道路問題、女学校問題、乾繭庫」の「三問題」】
前々年に郡会議員に就任し、前年には海岸同盟会(高山、狩江、俵津、玉津の各村による同盟会)の会長にも就任した東海は、この年も大いに活動をしています。当年は特に、これまでに引き続いて「道路問題」、前年から動きが見られる「女学校問題」、この年の郡会で取り上げられた「乾繭庫」(かんけんこ)の「三問題」(3/24付)に関わっています。この三問題については展開が複雑ですので、時系列に沿ってそれぞれの動きを見ていきます。
(道路委員会と海岸同盟会)
1月20日、23日、30日に道路委員会が村役場で開かれ東海も出席しています。前回示した通り、この会合は明治44年頃から定期的に開かれているものです。俵津を取り巻く道路問題について協議したものと思われます。
その後、2月1日には海岸同盟会が開かれています。高山、狩江、玉津、俵津の各村長と、郡議や有志など十数名が出席しています。この会は前年に道路同盟の目的で組織されたものですが、前年秋に同会が宇和町長から「女学校ニ就テノ説明」を受けたことで女学校設立に関しても協力することになったようで(前回参照)、この日の会合では「宇和町俵津間道路、海岸線」と「宇和町申込ノ女学校設立」について審議しています。「決議書ヲ作リ各員ニ配布ス、本会ニ満足ナル決議ヲ了シ」と書いていますので、本来の目的である道路問題に加えて、女学校設立についても同会は支持する方針に決まったようです。
(郡会)
2月21日から郡会が始まります。この郡会では「道路問題、女学校問題、乾繭庫」の「三問題」が主な議題となったようです。しかし、24日付で「東西海岸種々議案ニ就キ折合付カズ、休会トナル、是道路問題、女学校問題、乾繭庫、三問題ノ為感情衝突シ、(略)行悩メリ」との記述があります。25日も「前日ノ通リノ情態ニテ本日モ休会トナル」、26日も「遂ニ郡会モ開カズ、三問題下交渉混雑セリ」、27日も「問題ニ付解決付カズ、郡役所ニ出デ明日ヨリ二日間休会」、28日も「前記ノ如ク休会セリ」、3月1日も「休会」と、東部と西部とで三問題について意見が衝突し、なかなか郡会が進まないようすを記しています。3月2日になって「此日郡会開会、党議確定、第二読会原案通リ確定セリ」と、ようやく郡会が再開され、この日は
二読会まで通っています。そして3月3日、「此日郡会開会、積年ノ希望タル宇和町俵津間道路問題モ本日確定、総工費予算三十四万余円、六ヶ年継続工事、郡道として通過セリ、之我党々議ニ〓(して)大ニ快感セリ、当夜松屋ニテ懇親会アリ、自分モ道路件ニ付一条ノ挨拶的演説ヲナス」と、無事に宇和町俵津間道路問題は確定して、この日郡会は閉会しています。
その後3月7日には村役場で道路委員会があり、東海は出席して「郡会ノ経過」を報告しています。
以上からは、郡会では東部と西部とで「感情衝突」はあったものの、宇和町俵津間道路問題に関しては無事議決され、総工費340,000円余りの6か年継続事業で郡道として整備することが決まったことがわかります。この宇和町俵津間道路については、今までも見てきた通り東海ら政友派の「積年ノ希望」の党議であり、これが無事通過したことを東海は「大ニ快感セリ」と記しています。この後は具体的に工事へ向けて進んでいきます。一方で、女学校問題、乾繭庫問題についてはこの郡会ではあまり進展がなかったのか、詳しくは書かれていません。
(トンネル測量)
4月18日付で「出張中ノ宇都宮村長宇和町ヨリ電話アリ、坂本技師明日俵津ニ至ル、測量杭六百入用ノ〓(こと)通知アリ、道路ノ件之ヨリ着手期近シ」との記述があります。いよいよ工事(測量)着手が近づいていることがわかります。翌19日付では「本日トン子測量係四名俵津ニ来リ、伊井ニ止宿ス」との記述があり、この日以降でトンネルの測量が始まったようです。4月30日には「川又(金太郎)郡長、大松(折三郎)技師、郡参事会員一行」が道路視察のために来村し、東海らは歓迎会を伊井旅館で開いています。5月2日にも「トン子ル測量ニ従事セル県庁ヨリノ技術員一行」(4名)を招待して、俵津からは伊藤直三郎、山下三松らが同席して一宴を開いています。この宴のことを東海は「道路開鑿着手ノ熱心ノ意ヲ表スル為」と
書いています。解釈が少し難しいですが、道路開鑿に対する俵津の本気を示すために技術員一行を招待した、とも読めそうです。いわゆる接待でしょうか。
この後しばらく関係する記述が途絶えています。
(道路実測)
しばらく経った8月24日付で、「本日ハ卯ノ町俵津間道路実測ノ為大松一行来リ、着手ノ第一日ニ〓(して)、本宅ト二宮トノ間ヨリ伊藤邸ノ後ロヨリ天能園ヲ抜ケ学校方面ニ至ル道路確定シ」との記述があります。これはトンネル部ではなく大浦付近の道路測量のことと思われます(地元の方はわかりますでしょうか?)。「着手ノ第一日」ですのでこの日から大浦辺りでも測量がスタートしたようです。なお、2日後の26日には「大浦裡道路落成式」が開かれている記述がありますが、24日の記述との関係は今のところわかりません。ほかにも、9月20日には長山重太郎らと「道路ノ件」で協議している記述もあります。
日誌では、郡会後は道路に関する記述が減っており、上述のように何か動きがあった時だけ事実を淡々と記す程度になっています。
(非公式臨時郡会「卯ノ町高等女学校創立問題ト野村繭穀倉庫問題」)
10月12日、10時から郡役所で「非公式臨時郡会」が開かれ東海も出席しています。この会での議題は「卯ノ町高等女学校創立問題ト野村繭穀倉庫問題」となっています。卯之町俵津間道路問題は先の郡会で片が付いたので、この会では残る二問題を議論したようです。しかし、東海は「余リ重大問題トモ認メズ、故ニ(宇都宮)村長ニ托シ」て午後の会を欠席しています。あまり重大問題とも思わなかった理由については日誌では書いていません。そして、野村繭穀倉庫(乾繭庫)問題についてはこの記述を最後に東海日誌ではこれ以降出てきません。この年4月(もしくは大正12年)から東宇和郡購買販売利用組合が「生繭市場・乾繭農業倉庫業務」の経営を始めたため(『愛媛県史 社会経済1 農林水産』を参照)、この問題については
一応の決着が付いたためかもしれません。
(海岸同盟会「海岸道路測量ノ件」と「宇和高等女学校創立ノ件」)
10月15日、村役場で「海岸四ヶ村同盟会」(海岸同盟会)が開かれます。東海も出席しています。この会では「高等女学校ノ件、海岸道路概則ノ件」を協議しています。この「海岸道路」は宇和町俵津間道路とは異なる「海岸線」の道路のことで、ために海岸同盟会(関係四ヶ村)において協議されたものと思われます(前述の2/1の海岸同盟会も同様)。この会では合わせて高等女学校についても協議しています。ちなみにこの日東海は会長の改選を申し出ていますが、高山村が欠席していたため次会へと見送られています。同月28日にも「午后川又郡長、清水與一郎、外一名来リ、四ヶ村々長、郡会議員集合、宇和高等女学校創立ノ件ニ付協議ス」との記述があり、この時は特に「宇和高等女学校創立ノ件」のみを協議しています。同
問題の進捗が見え始めています。
(臨時郡会「高等女学校設立ノ件」)
10月30日、臨時郡会が開かれます。日誌では「議案ハ高等学校設立ノ件」と記していますが、これは「高等女学校設立ノ件」の書き間違いと思われます。「東部西部ニ別レ容易ニ決セズ」と、この日も東西で意見が対立したようですが、詳しくは書いていません。翌31日も「前日ノ如ク東西分レ」対立が続いたようですが、ようやく夜になってまとまり、「原案ヲ賛成シ閉会」しています。これで高等女学校設立について郡の方針がまとまったようです。しかし道路問題に対するほどの熱意は東海にはなかったらしく、とてもあっさりとした記述で終わっています。
ちなみに、この臨時郡会時に東海は郡会議長に就任する予定でしたが、自身の病気のために辞退しています(東海日誌について〓で少し紹介)。
(その後)
臨時郡会後は関係する記述がさらに少なくなり、12月2日に「道路件ニ付(海岸線ノ〓(こと))海岸同盟会」が開かれた記述(この会で東海は会長を辞退しようとしましたが、会員の希望により続けることになっています)、同月3日に「高等女学校創立ノ件」で郡長から東海へ照会があるも中村重三が代理で卯之町へ行った記述、同月10日付で「道路会」が開かれた記述があるのみです。
【俵津婦人会】
3月10日付で「学校ニ俵津婦人会発会式アリ、出席、一条ノ演説ヲナス」との記述があります(当年日誌ではこの記述のみ)。この俵津婦人会については、『明浜こぼれ話 郷土史片々録』には「俵津婦人会は大正十一年三月一日新設され次第に充実し(略)」との記載があり、東海日誌の記述との相違が見られます。留意しておきたいと思います(『明浜町誌』には記載がありません)。
【俵津公会堂】
この年俵津に公会堂が設置されます。日誌にも関係する記述が見られますので紹介します。
(ちなみに、『明浜町誌』には「大正10年建築俵津公会堂」の写真がありますが、公会堂そのものについての記載がありません。そして、ちょうどのタイミングでこのブログ主様が関係する記事をアップされています。)
(筋の「折藁会社」の建物買い受け)
5月20日付で「当夜本宅ニテ筋折藁会社家屋(解散ニテ売家トナル)ニ付公会堂ニ買受協議ヲナス、伊藤直三郎及自分等ガ中心トナリ」との記述、翌21日付では「昨日協議ノ筋折藁会社家屋実見ノ為、伊藤、山下、木崎筋行」との記述があります。筋にあった「折藁会社」が解散して建物が売家となっていたらしく、この建物を俵津の公会堂として買い受けるための協議を東海と伊藤直三郎が中心となって行い、伊藤らは建物を実際に見に行ったようです。6月2日にも「公開(会)堂ノ件」を伊藤や山下三松と協議している記述があります。
(「組株」募集、創立へ)
6月7日、東海は伊藤とともに製糸社や大浦の有志を訪問して「公開(会)堂創立ニ付組株」を募っています。公会堂設立のために組合のようなものを作り、資金を募ったものと思われます。翌8日も東海、伊藤、山下の3名で大浦・新田・脇などへ戸別訪問をし、この日の夜には「創立ニ付」協議を行っています。続く9日も「公開(会)堂設立ニ付奔走、尽力中」と書いています。そしてこの日の夜、東海本宅で「創立総会」を16名(+東海、伊藤、山下)の参加者で開いています。10日も「公会堂設立会員」がまだ不足しているということで追加の募集を続け、「満足ナル結果ヲ得タリ」と記しています。また、この日は「五名協議会」(伊藤直三郎、長崎東海、中井繁次郎、山下三松、宇都宮茂)を開いて、伊藤を「組長」に選定し、
「会計、設計、工事等ノ協議」をしています。その後も、11日付で「公開(会)堂ノ要務」の記述、18日及び21日にも伊藤、山下と協議をしている記述があります。
(家屋の移転、工事)
7月9日付で「本日筋ノ家屋、即公会堂移転ニ着手シ、瓦障子廻リ船ニテ取来ル」、同月14日付でも「公会堂家材船ニテ送リ来リ、本宅浜ニ積ム」との記述があります。7月の中旬までには筋の家屋(元折藁会社の建物)は解体されてその部材が俵津へ搬入されたようです。同月20日付で「天能園ノ家ハ本日(略)家コワシヲナシタリ、公開堂式地入用ノ為メ早ク除キタリ」との記述があります。「天能園ノ家」とは大正5年に構えられた東海宅の部屋(移築された隠居)のことと思われ、公会堂用にこの部屋の敷地(一部か)が提供されたように読めます(※)。その後8月12日付では「天能園公会堂建築中ノ状態ヲ視察シ」とありますので、この頃には公会堂の建築が始まっています。同月25日付では「早朝公会堂ニ至リ大工左官ノ工事作業ヲ
視察ス」とあり、工事は進んでいるようです。そして10月3日付で「天能園ニ至リ公会堂引渡ヲ受ク、伊ト、山下仝道ナリ」と記しています。この頃に公会堂の建築は終了して完成したようです。同月7日、8日には視察に行っています。
(※)部屋には東海の母が住んでいましたが、前々年に死去し空き家となっていたものと思われます。この建物は取り壊しましたが、敷地内に別の「部屋」(のちに「別邸」「別荘」とも表記)を建てることになったようで、9月14日に「天能園部屋再築入札」を行っています。同月24日には建築を開始し、10月下旬頃まで「別邸」「別荘」の建築工事の記述が散見されます。11月11日付では「天能園閑光亭ノ左官壁塗ヲ始ム」との記述があり、その後12月7日にはこの「天能園閑光亭」で知人らと会食をしていますので、この時までに完成したようで、この新しい部屋=別荘は「閑光亭」と称されたものと思われます(翌年以降は「其日庵」と改称した可能性あり)。
(完成後の公会堂の利用と落成式)
10月10日に海岸医会が公会堂で開かれています。これが「公会堂建築始メテノ公会ナリ」と東海は記しています。翌11日には愛国婦人会俵津区総会が開かれています。
11月2日付で『午後、公会堂に「該堂(=公会堂)組合主」20数名が集まって落成式について協議し、諸報告もした。その後宴会となって将来について協議するところも多くあった。落成式は来る19日に挙行することとなった』と記しています。落成式前日の18日には式に向けて朝から餅つきなどの準備に忙しくするようすを記しています。
そして11月19日、俵津公会堂の落成式が午後5時から始まります。肝心の会場は日誌では書かれていませんが、まず間違いなく公会堂かと思われます。建築委員の報告があり、伊藤の挨拶、次いで郡長代理、警察署長代理ほかの祝辞のあと、大浦子供芝居の余興などがあったようです。出席者は約80名と記しています。
日誌ではこれ以降公会堂の記述が度々出てきて、大いに利用されていることが確認できます。
【女子火災予防組合】
この年俵津では「女子火災予防組合」が設立されています。日誌でも関係する記述が確認できます。
6月2日付で「大石部長(筆者注:卯之町警察署大石盛輝警部補のことか)女子火災予防組合創立ノ件ニ付来談アリ」、3日付でも「卯之町警察ヨリ横田巡査来談アリ(女子火災ヨ防組合ノ件)」という記述があります。4日付では「吉野卯之町警察署長来ル、磯野部長来ル、本日ノ女子火災予防組合設立ノ件ニ付協議セラル、之ニ付尽力ス、十一時頃学校講堂ニ於テ発会式アリ、自分ノ一条ノ演説ヲナス、会スル者約三百ノ女子ト見受ケ、盛会ヲ極メ、署長満足セリ、当夜伊井ニ於テ慰労会ヲナス、会スル者約二十名、自分モ出席ス」とあります。6月2,3日に卯之町警察署から署長・署員が俵津へやって来て「女子火災予防組合創立」のことを東海らと協議し、東海もこれに尽力して、6月4日には女子火災予防組合が設立されて卯之町警察
署長臨席の下で発会式が開かれたように読めます。同月14日付では「女子消防組合役員会」が村役場で開かれ東海も出席している記述があります。ここでは「女子消防組合」と書かれていますが、「女子火災予防組合」のことと解釈して良さそうです。
2か月ほど経った8月7日、この日小林一男県警察部長が俵津を訪れます。日誌では同日付で「本県警察部長従五位小林一男殿一行来村記、予告ノ通リ」と記していますが、この後は空白となっており記述がありません(後欠)。しかし、日誌とは別に「従五位小林一男来村記」が残されており、この別紙から当日のもようを知ることができます。この「来村記」によると、この日の小林の来村の目的は「日本全国ニナキ女子火災予防組合組織」(「天下ノ誉声高ク」とも記しています)と「海岸四ヶ村地形・民状」の視察を兼ねたものでした。視察の一行は5名ほどで、午後3時過ぎに「県有汽船愛媛丸」で俵津に到着し、有志や「女子火災予防組合役員一同」が出迎えています。その後有志80名ほどの出席で「村衙楼上」において「歓迎
披露宴」が開かれ、小林らの演説が行われています。その後一行は東海本宅に引き上げて「更ニ女子火災組役員一般ニ対シ訓授」があったと記しています。この小林の来村について東海は「俵津ノ名誉」と記しています。
(『明浜町誌』との比較)
『明浜町誌』では「大正一〇年七月、村内の主婦を以て女子火災予防組合を設立。八月七日俵津公会堂においてときの小林県警察部長臨席の上、その結成式を挙行した。」との記載があります。合わせて紹介されている「警察部長揮毫の書」(「女子火防隊創設の書」とも)の東海による添付文では「大正十年八月七日公会堂ニ於テ盛大ナル発会式ヲ挙行ス」と記されています。
一方、東海日誌では、6月4日に「学校講堂」で「女子火災予防組合」の「発会式」が開かれている記述があります。8月7日の小林警察部長の来村は、「日本全国ニナキ女子火災予防組合組織」と「海岸四ヶ村ノ地形・民状視察」が目的で、「村衙楼上」で「歓迎披露宴」があり、その後東海「本宅」で「女子火災組役員一般ニ対シ訓授」があったと記していますが、「結成式」や「発会式」には言及していません。また、8月7日の段階で公会堂はまだ完成に至っていません(前項)。
東海日誌(「来村記」)の記述と『明浜町誌』の記載に相違が見られるようです。留意しておきたいと思います。
【滑稽婦人大笑会と納涼会と盆踊りのこと】
滑稽婦人大笑会は例年通り1月2日に開かれています。この年で通算9回目です。会場は東海宅大広間で、内容はほぼ例年通りです。参加者数の記述はありませんが、「脇ヨリハ新入六・七名増加ス」とありますので前年よりは増えたようです。
納涼会についても例年通り開かれています。当年は7月28日に開かれ、通算5回目です。会場は東海本宅2階で、参加者は60~70名ほど。内容は、こちらもほぼ例年通りです。
大笑会、納涼会は例年通りの内容での実施が確認できますが、盆踊りに関する記述が当年日誌には見られません(この年は8月18日が旧暦7月15日)。次年以降の日誌では記述が確認できますので、当年は実施しなかったのではなく日誌に書いていないだけかもしれません。なお、8月26日付、27日付で少し気になる記述があります。8月26日付では「今夕大浦裡道路落成式ニ付案内ヲ受ケタレ〓病気ノ為欠席ス、余興大浦式盆踊アリシトナリ」とあり、「大浦式盆踊」という書き方がされています。翌27日付でも「今夕大浦踊連卯ノ町ニ行キ踊リシガ、非常ノ人気ナリシト云フ」とあります。大浦の盆踊りが何か特徴的だったのでしょうか。この大浦の盆踊りについては次年以降も注意したい記述があり、このことは次回以降で紹介します。
【神祭日の変更と学校運動会】
この年俵津では神祭(秋祭り)の日が変更されています。神祭日の変更はこれまでも度々行われており、東海日誌から確認できるものを整理しますと、それまで旧暦11月15日だったものが明治41年には12月15日に変更され、さらに明治43年には11月2日に変更されています(東海日誌について⑲で紹介)。そして当年(大正10年)再び変更されることとなり、当年日誌の10月25日付で「昨年迄ハ十一月二日ナリシガ、本年ヨリ狩江ト合併、祭日変更」(昨年までは11月2日だったが、本年より狩江と合わせて祭日を変更)したことと、そのために「狩江ヨリ来客」がなかったことを記しています。神祭当日のようすは「神輿ハ待合前ノ埋立地ニ来ル、丑鬼、鹿ノ子踊ハ例ノ通リ、本年ハ屋隊小供芝居、小供甚句、踊等ハ皆大浦組ノミ、脇・新田何
ニモヤラズ」と記しています。狩江からの来客はありませんでしたが、東海宅には玉津や卯之町などから多くの来客があったようで、『かなり忙しかった』とも記しています。
前年までは神祭日の翌日に「学校運動会」が開催されていました。神祭日の変更に合わせて当年の学校運動会も神祭日(10/25)の翌日、すなわち10月26日に変更となっています。この日付で「晴、学校運動会ハ例年ノ通リ神祭日ノ翌日ナリ、父兄其他ノ見物多、不景気ト称ヘナガラ年々美服ヲ装ヒ競争状態ナリシ」と、不景気とは言いながら父兄は年々美しい服を装って競争状態だ、と書いています。当時の運動会の光景が目に浮かびませんか?
【養蚕のこと】
当年も春蚕を手掛けていることが確認できます。4月下旬から5月中に記述が確認できます。
夏蚕については、8月14日付で「目下夏蚕最中ナリ、本宅ニハ本年夏蚕ヲ止メ秋蚕ノ目的ナリ」との記述があり、長崎家では夏蚕は中止し秋蚕を手掛ける予定だったように読めます。しかしその後養蚕に関する記述が見られず、秋蚕も中止した可能性があります。
【船のこと】
これまで同様、通年で鶴島丸を東海はよく利用しています。5月下旬には東海は母の埋骨式のために高知へと行っていますが、その際には第十二宇和島丸(宇和島→宿毛)を利用しています。これらは宇和島運輸の船です。
俵津近隣の船では、狩江発動船春洋丸が散発的に確認でき、東海も利用しています。高山を拠点とする乕丸、高山丸も当年日誌では1件ずつ記述が確認できますが、東海は利用していません。前年組織された玉津運輸会社の玉津丸はほぼ通年で航行しており、東海も利用しています。
ほかには、扶桑丸(宿毛→久礼)(土佐沿岸汽船)、大分丸(宇和島→吉田)(大阪商船)、御荘丸(宇和島→九州?)(南予運輸)などの船も確認でき、東海や家族が利用しています。
また、8月7日には警察船愛媛丸も俵津に入港していることが確認できます(前述)。
【モーターボート千鳥号】
前年導入した自家用船のモーターボート「千鳥号」は、当年日誌でも5月~10月初旬の間で記述が確認できます。前年と同じく修繕を時々加えながら、往診に利用し、送迎にも利用し、人にも貸しています。北は高山、南は宇和島まで行っているようです。
当年日誌にはほかにも、4月下旬の「宇喜五郡聯合共進会」(宇和島町で開催、東海も見物)の記述、5月下旬の母の高知での埋骨式の記述、7月24日に軍艦(奥浦沖に投錨中の長門と扶桑)を見物する記述、8月1日には宇和島市制が敷かれ山村豊次郎町長に祝電を出した記述などがあります。また、9月2日付で「東和病院組織変更ノ熟考案」を村会に伝える記述があり、この病院組織変更については次年以降で度々日誌に出てくるようになります。
当年日誌は12月に入って文字数が極端に少なくなっており、年末の数日間は記述がありません。また、当年日誌以降は文字数が減少傾向となっていきます。東海の体調が影響しているのかもしれません。
(本文中敬称略)
(2026・9・26)