虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

【寄稿】長崎東海日誌について ㉘

長崎東海日誌について〓

○大正8年日誌

【正月】

(「一大紀念ノ年」の「祝賀会」)

1月1日、東海は午前10時から俵津校で開かれた拝賀式に出席します。元旦の拝賀式への参加は毎年の恒例です。式場で東海は居合わせた宇都宮茂村長と「祝賀会」を開催すべく打ち合わせをしています。この「祝賀会」は、第一次世界大戦の講話が成立し、また「旧暦廃止案出テ一大改革」をする「一大紀念ノ年」でもあるとして、多くの有志とともにこの年の将来に祝意を表そうとするものでした。東海は式辞の際に祝賀会の開催を拝賀式の参列者に提案しています。

東海提案の「祝賀会」は実行に移され、午後4時から村役場で開かれました。しかし、雨天であったことに加えて勧誘活動も不足していたため、脇・新田からわずか18名の参加に留まり、「甚振ハズ、大ニ遺憾トセリ」と失敗に終わったことを残念がっています。また、『自分の不徳であることとこの会に賛同しない村民に対して心を痛めた。ほかでこのような宴会でもあればともかく、(村民が)国家観念に冷ややかなことを遺憾に思う』とも記しています。時代的な背景が垣間見えると同時に、一般村民と村有志との間に意識の隔たりがあることを伺わせるような記述です。

(第七回滑稽婦人大笑会)

翌2日は例年通り滑稽婦人大笑会が開かれています。当年で7回目です。『自分は第10回まで続ける考えで、大いに奨励して、(前年の東京行きの際に)福引用のちょっとした景品なども買って帰ってきた』『木崎喜三郎はこの会に大々的な賛同を示してくれて、特に20個の赤張り吊り行灯を自作して贈ってきてくれた』『招待の婦人連がこの会に期待して喜び勇んで来会してくれるのは自家の栄誉だ』と記しています。東海も有志もこの会の実施にはとても前向きで、婦人連もとても楽しみにしているようすが読み取れます。

この年の大笑会は午後5時~6時頃に始まり、参加者は70~80名ほどでした。「大浦・新田ハ異装シテ乗込ム」とありますので、大浦・新田からの参加者は自宅から仮装しての参加で、気合が入っています。会場は東海本宅二階で、2ヶ所にガス灯を灯し、木崎から寄贈を受けた「釣角行灯」(前述)も設置し、その光景は「頗ル賞観」されたと書いています。メイン会場は大広間でここを「婦人席」とし、「表八畳ノ間」は「男子席」、そのほかの部屋は芸の打合せ部屋としています。舞踏や小唄など各自が得意とする座芸が繰り広げられ、そのようすを「各自競争的ニ〓(して)絶間ナシ」(それぞれが競争して絶え間がない)と記しています。用意された料理は「会席配膳」のようです。途中で休憩時間が設けられ、その際には煮沸消毒

済みの銅貨や銀貨、「陶器ノ七福神」などを餡として入れた「握リ寿司」が配られています(景品付きの寿司?)。「配膳ニ忙シク、又喰フニモ忙シ、大笑シツゝ皆滑稽的ナリ」。前日の祝賀会とは異なって大いに盛り上り、夜1時頃に閉会しています。

翌3日は雪が降り「一面ノ銀世界」となったようです。この日は前日に大笑会を手伝ってくれた人や病院職員などと「雪見且慰労」の宴を開き、三味太鼓に興じています。「昨夜ニ続グ愉々快々ノ間」に1日を終えたと記しています。

 

【養蚕のこと】

この年は、長崎家は養蚕を手掛けていることが日誌から確実に言えます。春蚕(4月下旬~5月下旬)、夏蚕(7月下旬~8月中旬)ともに手掛けています。8月13日付で(自家の)「秋蚕上蔟中」との記述がありますが、これは夏蚕の書き間違いと思われます。秋蚕については記述がありません。

また、5月14日付で「養蚕期一周間、学校休業也」、翌15日付でも「学校ハ半休トナリ、養蚕真最中」との記述が出てきます。14日付の「一周間」は、養蚕期に入っておよそ7日目という意味かと思われます(5月6,7日頃から養蚕期となっています)。学校が14日は終日休業で15日は半休となったということですが、養蚕期に学校が休みになるという記述は東海日誌ではこれが初出です。

 

【納涼会のこと】

大正6年に第1回として開始した納涼会は、この年も8月20日に開かれています。『電灯工事の完成に合わせてもう少し早く開催するつもりだったが、1週間以上待っても工事は完成に至らず、やむを得ずガス灯、ランプ、提灯を以て開催した』ということを記しています(電灯工事については後述)。会場は東海宅2階で、今回も「二階大広間ヨリ仲坐ニ氷塊ヲ吊シ、又桶ニ据付ケ冷ヲ取リ、松ノ緑葉ヲ飾リ、各国旗ヲ張廻シ、坐中ニ西瓜数十ヲ投飛シ」(二階大広間から中座に氷塊を吊るして、桶にも氷を入れて冷を取り、松の緑葉を飾って、国旗を部屋に張回し、スイカ数十個を投げ飛ばす)という大掛かりな意匠となっています。参加者は80名ほどで、夕方6時頃から開かれています。三味線と蓄音機を入れて勝手自由の座芸が繰り広

げられ、夜12時頃に閉会しています。「暑サヲ打忘レ一同快トシ」「主客ノ満足スル所ナリ」。参加者は暑さも忘れてとても満足したようです。

 

【電灯と盆踊りのこと】

(この年の盆について)

当年は閏月が入り、8月8月は旧7月13日にあたり日誌では「第一盆期」と記しています。9月9日は旧閏7月15日で、俵津ではこの日を正式な盆として扱ったようです。

(送電まで)

前々回紹介した送電についてはこの年に大きく動きます。

まず、2月6日付で東海が宇和島入りしたついでに水電社に行った記述がありますが、何をしたかは書かれていません。その後しばらく目立った記述は途絶えます。

6月23日付で「宇和水電会社ノ事務員仲田兼雄氏来訪セリ、電灯架設ニ工夫ヲ連レ来リ、着手セリ」(宇和水電の仲田事務員が来た。電灯架設の作業員を連れて来て、工事に着手した)との記述が出てきます。この日から電灯工事が始まったもようです。24日には「点灯数申込書調査」が行われ、東海は「本宅、部屋、天能園、病院、分病室等」で計26ヶ所の申し込みをしています。25日付では「受負師佐々木某」(7/10付では「電灯工事係」との肩書)の名前が見えます。26日には「病院本宅共電灯取付工事」をし「両方ニテ二十灯」という記述が確認できます。この頃以降仲田、佐々木とも俵津に滞在しています。7月27日付で「本宅附近電灯柱本日立ツ」という記述があり、工事は着々と進んでいることがわかります。8月5日、仲田兼雄

の送別会が福島肴屋で開かれています。この頃に仲田は宇和島へ帰ったようです。

8月18日付で「盆踊奨励ノ為大浦・脇両部落ヘ五円宛寄附ヲナス」との記述が出てきます。これは例年の盆踊りに対する寄付です。ところが、22日付では『「電灯点火式ノ余興」として踊り(盆踊り)を催すこととなり、各部落で盛んに稽古が始まっている』という記述があり、合わせて「多分一周間内ニ点火ノ運トナル見込ミ」と記しています。電灯工事の完成が盆の頃と被りそうなため、例年の盆踊りに加えて「電灯点火式ノ余興」でも踊り(盆踊り)を実施しようと計画したようです。

8月26日夜、東海が伊藤直三郎方に誘われて行くと『「水電ノ山本武平、佐々木外一名」が同席していてともに饗応を受けた』という記述があります。佐々木は前述の電灯工事係です。山本武平は明治44年頃から東海と交流のあることが日誌で確認できる吉田の人です(2人とも書画骨董を趣味としています)。山本はこの記述以降、俵津の「水電」「給電所」の山本として日誌に登場しますので、仲田兼雄と入れ替わりで俵津に入ったものと思われます(大正11年8月に八幡浜に転任となるまで)。

(「送電トナリ点火」)

そして、8月28日。この日の夕方俵津で電灯が灯ります。日誌では「本日午后四時半俵津送電トナリ点火セリ、万才・・・・・」とだけ書いています。この短い文章に東海の感慨が込められているように思います。

(盆踊り)

送電開始の翌日8月29日付で「今夜脇踊届ヲ自分ノ名義ニテ届出デシカ、明夜ニ延期スル事トナル」との記述があります。翌30日付では「当夜脇・大浦両部落ニテ手踊(即盆踊アリ)、自分催主トナリ届出タリ」との記述があります。これらは例年の盆踊りに関する記述で、29日の脇の踊りを翌日に延期して30日に脇・大浦合同で踊りを実施したということです。いずれも東海が催主となっています。

(電灯祝賀会と余興の踊り)

8月31日。この日「電灯祝賀会」が村役場で開かれます。参加者は80名で、宇和水電本社から小倉鎮太郎(支配人)と仲田兼雄が、「当所事務所」(俵津)からは山本武平ほか3名が臨席します。東海は「発企人惣代」として挨拶をしています。祝賀会は夜8時に終わり、その後「片ノ浜埋立地」で「盆式手踊」が行われます。「電灯点火式ノ余興」の踊りです。新田・脇・大浦合併で、踊り手は「五十燭二ヶ、百燭一ヶノ電灯ノ下」(50ワット2個、100ワット1個の電灯の下)で踊ったらしく、「一大壮観ヲ呈シ、スバラシキ〓(こと)」と東海は激賞しています。この日は参観人も多く、「人気盛ニ〓(して)参観人山ヲナシ、殆ンド二千人以上ト見受ケタリ、玉津、狩江ヨリ来場スル船数知レズ」と、2千人を超える見物人があったと記してい

ます。俵津への送電開始という一大事がちょうど盆のころと重なったことで、例年より盛大な盆踊りとなったようです。

日誌ではこの年6月下旬の工事開始から8月末の電灯祝賀会までの動きが大まかに読み取れます。『明浜町誌』にも電気に関する記載がありますが、東海日誌から新しく判明する事実もあるように思います。

 

【再び郡会議員に】

この年9月25日に県議選が実施されます。東海も政友会派として運動し、同派の公認候補が当選を果たしています。その後すぐに東宇和郡議選が実施されますが、この郡議選に東海は村の有志の依頼により出馬することになります。

9月27日、村役場で開かれた郡会議員選挙(9月30日実施)の候補者予選会で東海が公認され、交渉員が東海宅にやって来ます。東海は「熟考ノ上明朝廻答スル」とこの日は回答を保留しています。熟考の結果、翌28日朝に東海は「諾」の返事をします。この段階では俵津村で公認を受けた立候補者は東海一人(政友派)で、当選がほぼ確実でした。ところが29日の朝、突然大浦の某が「大浦ヲ根居トシテ私生的候補者」となり東海の「向ヲ張リ」運動を開始します。この突然の動きに東海派は「警戒、注意ヲ払ヘリ」と記しています。選挙当日の30日付では、「少年輩ハ自転車」で某派の「運動盛ナリ」と記しています。東海は『一人舞台と思っていたところ、某が憲政派を標榜して運動を始めたので捨て置くわけにもいかず、政友派は「

注意的運動」をした。(当日)午前2時頃まで「注意」し、朝になってからも有志や「青年」と警戒した』と書いています。この「注意的運動」や「注意」が具体的にどういった行動なのかは日誌からはわかりません。しかし、某は憲政派と称しているものの公認のようでもなく、また、某には「少年輩」が付き東海には「青年」が付き、というように、若い世代で割れているように読み取れます。投票結果は総数102票の内、東海が64票、某が37票、ほか1票で東海が当選します。東海は当選したものの、『某は何の野心があって突然に出馬したのだろう。自分もこの「抵抗運動」には少なからず苦痛を受け、将来忘れるはずもない恨み事となった・・・』と戸惑いを記しています。

その後、東海は10月29日の臨時郡会に臨みます。この郡会では役員選挙が開かれ、「議長ハ二年交代トシ、初年ヲ緒方陸郎氏、二年目ヨリ向ヲ自分ニ決定ス、以下副議長、参事会員皆二年交代トシ、夫々決定ス」と記しています。議長を2年交代として、初年(初めの2年という意味か)を緒方陸朗(野村)、2年目(続く2年という意味か)からを東海がそれぞれ務めることが決まっています(※)。

選挙時のごたごたはありましたが、東海は明治44年以来8年ぶりに郡議に就任し、この後再び郡議としての活動を展開していきます。

(※)大正10年日誌を調べてみますと、10月30日付で『今日から約束通り自分が議長となるはずも、この頃は病気で務め難く、次の通常郡会まで緒方に継続を頼んだ』旨の記述があり、この時は議長職に就くのを病気のため保留したようです。なお、翌大正11年5月中旬の記述では東海が議長であることを示す記述があります。

 

【道路のこと】

(知事巡視に合わせて「陳述」)

7月7日、この年4月に愛媛県知事に就任した馬渡(まわたり)俊雄が東宇和郡に巡視に来ます。卯之町繭売買所で官民歓迎会が開かれ、東海も参加しています。翌8日、今度は野村の嬉野亭で「知事及東部有志歓迎会」が開かれ、この会にも東海は参加しています。この野村での歓迎会時に東海は芝鉄治(高川村の人。前回参照)と一緒に知事に面談し、「俵津卯ノ町間道路問題」について「陳述」しています。この芝鉄治との陳情行動は前年から引き続くものです。

(「道路法ニ付郡民大会」)

10月4日、卯之町栄座で「民力涵養講演会」が開かれ、東海は参加しています。その後夕方に郡役所で開かれた「道路法ニ付郡民大会」にも東海は参加しています。この大会では「県道編入運動員ト〓(して)路線選定ノ委員八名」を選定しており、東海も委員に選ばれます。また同会では「俵津線モ将来県道ト〓(して)運動ス可キ資格アリ」と決議されており、このことを「大ニ満足セリ」と東海は書いています。

この「道路法ニ付郡民大会」は民力涵養運動(第一次世界大戦後の社会教化運動)の一環で実施されたものと思われます。この郡民大会において、東海が俵津線の県道編入運動員に選ばれたこと、俵津線の県道昇格運動が決定されたことはいずれも留意しておきたい記述です。

(「空気入人力車」と道路事情)

10月23日付で「空気入人力車購求(大阪関原店)、吉田上リニテ、取寄ノ為亀井ヲ派ス、午后ノ鶴島丸ニテ荷物ニ付添俵津上リ、取立完全ナルヲ認ム」との記述があります。大阪の関原店(関原利兵衛)から購入した「空気入人力車」が吉田に到着し、吉田からは亀井(辰見亀井、東和病院の車夫・下男)が荷物(人力車)に付き添って俵津へ到着した、という趣旨の記述です(それまでは明治44年10月に同じ大阪関原利兵衛から購入した人力車を利用していました)。翌24日付では「空気入新調ノ人力車ヲ取組タリ」と書いていますので、到着した人力車は組み立て式のように読めます。27日には新田への求診に「新調空気入自用人力車」の乗り始めをし、「菅別荘」(菅幸松の別荘か)まで試乗しています。

10月28日、新しい人力車を船に積んで深浦へ往診に出かけます。往診後は「玉津道路」を吉田に出て、「吉田・卯ノ町間ノ県道」を迂回して卯之町入りします(翌日の臨時郡会出席のため卯之町入り(前述))。この卯之町入りにわざわざ新調の人力車で向かったのは「車体検査ヲ受クル為」でした。しかし、臨時郡会の翌日(30日)に卯之町警察署へ行き車体検査を申し込んだところ「自用車トシテ検査ヲ要セズ」とのことで、検査を受けずして俵津への帰途に就くことになります。その際の人力車での移動について東海は次のように記しています。「卯ノ町坂ヲ車ニテ越セシ故、二分乗車、八分歩行、大ニ疲労セリ」。28日の「卯ノ町坂」=「吉田・卯ノ町間ノ県道」ルートは人力車に乗って通れたものの、帰りの野福峠は「二分乗

車、八分歩行」(2割は乗車、8割は歩行)で、人力車に人を乗せて通ることのできる箇所がルート全体の2割ほどだったとの記述となっています。まだ改良が進んでいないこの頃の道路事情がわかります。

ちなみに、それまで使用していた人力車は11月11日に玉津の浜田耕吉(医者)に40円で譲っています。

 

【駕籠のこと】

9月26日付で次のような記述があります。「仲屋喜久造氏ハ旧藩主伊達侯ヨリ石崎忠八氏方ヘ譲リアリシ駕ノ買受ヲナシ、当地ニ持来リ、交渉ノ結果之ヲ求ム」。石崎忠八(宇和島の実業家)に譲られていた旧藩主伊達家の駕籠を仲屋喜久造(宇和島丸之内の指物商)が買い受けて、俵津に持って来て東海と交渉した結果、東海がこの駕籠を購入したと書いています。10月16日付では、宇都宮友吉(この頃卯之町在住)と「駕ノ修繕其他小細工」の約束をしている記述があります。この「駕」は9/26付と同じものと思われます。その後11月4日に宇都宮友吉が駕籠の修繕に取り掛かり、7日に修繕を終えた記述があります。

この駕籠については東海日誌研究会の会合で山下会長が指摘され、その後いろいろ調べてみましたが、今のところよくわかっていません。

ちなみに、翌大正9年日誌では1月22日付で「駕修繕成リ落成」した記述があり、この駕籠の可能性があります。その後3月23日付で「横山氏ニ古駕譲渡ノ約束成リ、送リ船ニ托シ仝氏ニ送附ス」との記述があります(横山友郷はこの頃狩浜の医者)。それまで東海が使用していた古い駕籠は狩浜の同業者横山へ譲り、東海は新たに修繕成った(元伊達家のものかもしれない)駕籠を使用した可能性があります。留意しておきたい記述です。

 

【船のこと】

この年は主に鶴島丸が俵津近海を航行しています。第二鶴島丸も俵津に入港していますが、当年日誌で確認できる記述は2件のみです。また、11月9日付以降では鶴丸という船も見られるようになります。いずれも宇和島運輸の船で、東海や家族も利用しています。

地元の船としては、「俵津発動船大漁丸」(前年日誌では「大浦発動船大漁丸」表記)と春洋丸(狩江発動船)が前年に続き航行中です。

瀬戸内海航路では、前年と同じく第十三宇和島丸(神戸→吉田)、第十五宇和島丸(大阪~吉田・宇和島)の記述があります(宇和島運輸の船)。また、高浜→吉田で愛媛丸(大阪汽船)を、三津~宇品では人丸を東海はそれぞれ利用しています。

ほかには、10月2日付で『病院の東隣にある旧校舎を肥料会社として、第十多加丸という船が来た。肥料を積んで臭気を四方に散らして閉口した』という旨の記述も出てきます。これの第十多加丸は荷船のようです。

 

【そのほか】

(革のこと)

大正6年に妻を亡くした革(東海の息子)はこの年再婚します。革は1月下旬に一時帰国し、その後俵津滞在中に「求妻」活動を行い、3月28日に結婚式。4月5日には早々に夫婦でアメリカに向けて出発し、5月28日にはアメリカに到着しています。この流れは大正6年時と同じです。

(「出宇加養」)

東海はこの年秋ごろから体調を崩し、11月25日~12月23日の間宇和島で療養しています。東海の自宅以外での長期療養は初めてのことです。

(医師会のこと)

海岸医会の記述内容は例年と変わりませんが、郡医師会については、11月15日付で東宇和郡医師会が開かれた際に「此度改正医師法ニ付旧会ヲ解散シ新ニ医師会ヲ成立セシメタリ」との記述があります。この年に医師法が改正されて「郡市区医師会と道府県医師会は強制設立とされ,法人格が与えられ」る動きがあるのですが(『日本医師会通史』)、これに合わせた東宇和郡での動向かと思われます。県内の改正医師法に係る動向については『愛媛県史 社会経済6 社会』にも詳しく記載がありますのでそちらをご参照ください。

(本文中敬称略)

                        (2026・7・29)

「議員と語ろう!会」へ行く

 俵津区代表区長の西田初敏くんに誘われて、西予市議会議員さんとの意見交換会に行ってきました。7月9日、19時~20時30分、明浜支所2階大会議室。              行って驚きました。部屋いっぱい50~60人かと思われる出席者がいるではありませんか。しかも若い人たちが多い。にぎやかで明るい雰囲気があふれていました。愛媛新聞が取材に来ていたのにも驚きました。財政危機で全国に知れ渡った西予市、取材するに値すると思ったのでしょうか。

 この日のテーマは「議員定数」についてでした。激しい人口減少が進行する中、議員さんたちにとって最も気になる問題なのでしょうか?会は松本みき議員の司会で進行。最初に宇都宮俊文議員による西予市議会の仕事の内容などの説明があり、その後参加者全員が、「現状維持」・「減らすべき」・「増やすべき」と書かれた3択のボードに自分の思うところにシールを貼っていくという形式のアンケートがありました。結果は、現状のままでいいという人がほとんどで52人。減らすべきは0、増やす派は2でした。(この数字は討議を重ねた後の再度のアンケートでも変わりませんでした)。

 みんな、議員さんに忖度したのでしょうか?それとも、これ以上議員を減らすことに疑問と危機感を持ったのでしょうか。

 会は、それから4つのテーブルに分かれて、台の上に置かれた上記3択項目が書かれた大きな用紙に、10センチ角のノリの付いた紙に選択した自分の意見の理由を書いたものを貼りつけながら、思いを述べ合うワークショップ形式の(1テーブル10数人での)意見交換会がありました(30分ほど)。

 なんと、上記アンケートで増やす派だった2人がわたしたちのテーブルにいたのです!一人は、もちろん!わたしです!(もう一人は狩浜の若者Mくん)。

 わたしの意見はこうです。

 公民館(狩江は幸民館?!)が「地域づくり活動センター」になって3年になります。衰退する地域にとって、無数にある抜き差しならない課題群を解決するために、名称を変えてまで取り組む姿勢を見せた市には最大限の評価をいたしますが、残念ながら「仏作って魂入れず」。地域任用職員を一人増やしたくらいで問題が解決するような生易しい段階に今の地域はない。せめて議員を増やして、センター職員と一致協力して地域課題に強力に立ち向かう体制づくり・システムづくりに取り組んでいただきたい。

 議員の増員は、未来に挑戦する市にとって、最低限の絶対に必要な経費・コストなのです。人口減少を理由に右往左往するような問題とは別次元の問題なのです。

 

 メンバーが一人2~3分もしゃべれば終わってしまうような制限時間では、なかなか議論は尽くせませんが、わたしは高山地区の参加者にも訊いてみました。「明浜では高山地区には議員さんがいない状態ですが、どうでしょう?さびしくありませんか?」。帰ってきた応えは「正直言ってやっぱりさびしい。何か物足りないような気がする」ということでした。やはり明浜でも最低4人くらいは議員がいていいのではないでしょうか。(現在の市政下では、宇和10人、明浜・野村・城川・三瓶は各2人ずつで8人、合計18人。)

 いろいろな意見が出ましたが、わたしが最も印象に残ったのは「議員の ❝質❞ を上げて欲しい。もっと専門性をもってほしい。」というものでした。思い切ったこと言う人いるもんだ!

 4テーブルともに活発な議論が行われていたようでした。物足りなさは残るもののなんだかいい雰囲気だな、と思える会でした。行って良かったと思いました。

 全体会では、狩江の二宮祥子さんが言った言葉が印象に残りました。「狩江では地域おこし協力隊の方の人気が高く、市の方から制限人数に達しているので今後は遠慮して欲しいというようなことを言われましたが、その制限を取っ払っていただいて今後も受け入れが可能なように市に働きかけていただけませんか」。うーん!狩江、やっぱりスゴイ!

 ついでですから、以下この会で言い足りなかったことを書いておきます。

 

 それぞれの地域には、まちづくりに意欲的な住民、無茶々園や笑丸のような町興し会社、優秀な地域おこし協力隊員などの〈希望〉が存在しますが、「議員」もこれからの大きな希望だと、わたしは思います。

 憲法によって(地方自治の本旨として)、国から独立した地方公共団体による住民自治が認められてはいるものの、如何せん1割自治と言われている現状では、国の言うがまま、というところから自治体は抜け出ることが出来ない。その中にあって、微かではありますが自由を、議会と議員は、持っているように思えます。

 だから、希望である議員の数を、減らしてはいけない、絶対に。減らすことは地域の自滅です。

 定数を減らすと、経済的余裕と時間のある人や地域の名門出の人たちばかりが選ばれる可能性が高くなります。しかも比較的高齢の保守的な人が多くなる。女性や若者が進出しにくくなります。地域外から移住してきた人たちが参入する機会も失われます。切実で強烈な問題意識を持った人も出にくくなるでしょう。言いにくいことですが、そういう議会に魅力はないでしょう。市の改革も遠のくでしょう。前々回でしたか、東京から来た上原くんという早稲田大学の建築科を出た(もちろん学歴などわたしは重視しませんが)青年が立候補して惜しくも落選したことがありましたが、彼のような意欲とプランを持った優秀な青年を取り込める市や議会にしていかないと、〈西予市の未来〉は遠のくばかりのような気がしてなりません。

 議員の質の向上、ということがこの会で取り上げられましたが、(失礼ですが)わたしもそう思います。議員さんにはもっともっと勉強をしていただいて市を救っていただきたい。われわれの暮らしも良くしていただきたい。十分な報酬と時間とが与えられている議員さんだからこそ、それは可能なことだと思います。

 

 議員一人一人が〈日本の未来像〉を持っていただきたいと思います。希望の持てるわたしたちの進むべき道をお示しいただきたい。今の政府の持つ未来像では、どうしてもわたしなどは希望が持てません。それとは別の希望(ヴィジョン)を創っていただきたい。逆でも構いません。われわれはこういう地方の未来像を持っている!ということでもかまいません。地方から日本を変える!来年の地方統一選挙では、そういう大きなうねりが起こるといいですね。

 

 もう一つお願いがあります。市が所有するバスで、全議員で1週間くらいの予定で島根県へ行ってくださいませんか。島根には、人口減対策に大きな成果を上げている邑南町や海士町があります。そこへ行って役場の人たちや議員さんたち、地域活動家たちとじっくり話し合ってみてはいかがでしょうか。

また、地域再生に取り組まれている島根県立大学の田中輝美准教授(地域政策学部)がいます(『関係人口の社会学―人口減少時代の地域再生』など著書多数)。一般社団法人持続可能な地域社会総合研究所所長の藤山浩氏がいます(『田園回帰1%戦略』など著書多数)。先生たちの講義を1日ずつみっちり受けて見てはどうでしょうか。きっと西予市の地域再生プランを立ち上げることのできるような成果を得ることが出来ると思います。

 関係構築が出来たら、地区まで降ろして、地区の若者たちにも〈島根詣で〉ができるようにして、地域の人材育成をしていただきたいと思います。

 言いにくいことですが、どうしても言っておかなければならないことがあります。自民党と自民党議員との関係の取り方についてです。

 今の政府は自民党政権ですから、議員の皆さんの大方が、無所属という名の自民党支持者(あるいは自民党員)であられるのはわかります。しかしながら、その関係を見直していただきたいのです。

 このまま自民党政権が続く限り、地方は確実に衰退します。それは戦後80年間ずっと自民党政権だったことで、すでにもう証明できていますね。今の自民党はもうかつての自民党ではありません。田中角栄さんや宮澤喜一さん・大平正芳さんくらいまではまだ何とか地方のことも考える姿勢がありました。でも今の自民党は確実に国民の自民党ではありません。はっきり言えば、統一教会・日本会議・神道政治連盟の党です。それは現在の高市内閣の政治を見れば明らかですね。(みなさんには、詳しい説明はいらないと思います。)

 これから現在のままの政治が続けば、防衛費の増強によって確実に地方交付税交付金や社会保障費や医療介護教育文化生活面、あるいは農林漁業の予算は大幅に減らされることでしょう。責任ある、といいながら無責任極まる積極財政によって円安・インフレは抑えようもなくなって国家財政破綻も起こるかもしれません。国民の生活は間違いなく苦しくなるでしょう。社会も自由が失われ、言いたいことも言えなくなり、国民が委縮するようになるでしょう。地方再生はもはや不可能になることは間違いないと思います。

 ほんとうに10年後には、農業は壊滅状態になっているでしょう。50年後には消滅に近い地方が現れていると思います。そういうことがもう誰にでも予見できる・想像できるようになってきました。

 どうか、議員の皆さんに置かれましては、賢明な態度をお取りいただきますようお願いいたします。

 できれば、全国の地方議員さんたちと手を組んで、自民党政治を変えていただきたい。切に願います。

 欲を言えば、俵津にもう一人議員さんがほしいですね。二人の議員さんがセンターの職員さんたちと一緒に走り回って、地域の課題を解決していく。もちろん、わたしたち住民もワイワイと賑やかに嬉々として参加していく。そんな小気味よい世界を夢見ます。

 運動会を復活させる。集落施設をコミュニティー・カフェやカラオケルームにしていく。ミカンの荒廃園をなくする。人口を増やす。空き家問題を解決する。後継者にパートナーを紹介する。年寄りが暮らしやすい町にするためにあちこちに椅子やテーブルを置く(まちに人があふれ老若男女が集う)。統合後の小中学校の施設を利用して工場や宿泊施設などを入れる。野福峠に展望台や喫茶店を設ける。ボラ小屋と合わせて桜植樹を増強し、日本一の桜の町をつくる。盤石の南海トラフ地震対策をする。「まちづくり基金」口座を開設する。エトセトラ、エトセトラ・・・

 おお!俵津よ!tawarazuよ!愛しのたわらづよ!永遠なれ!!

                                                                                    (2026・7・22)

 

【話し合い資料】ある地方議員の叫び

  • morinoshimafukurouから

 とある日、X(旧Twitter)を見ていたら、こんな文章を見つけました。一読感動しました。胸にグッときました。地方議員の中にもこんな方がいるのか、と思いました。これは日本の最深部からの悲痛な叫び声だと思いました。読者のみなさまにも是非読んでいただきたくここに掲載させていただきます。(一水会の組織誌『レコンキスタ』からということだそうです。)

 

 

地方自治を考える⑳

宮崎県日之影町議会議員 高舘英嗣

 

新自由主義と効率至上主義が共同体を破壊する

 

 天孫降臨の地、宮崎県西臼杵。神話が息づき、八百万の神々に捧げる神楽の笛の音が響くこの地から警鐘を鳴らしたい。それは、単なる人口統計上の「過疎」という言葉では片付けられない、日本人のアイデンティティそのものの崩壊である。

 

 先日、地域で行われた意見交換会の席上、一人の出席者が深い溜息とともに漏らした言葉が、私の耳の奥にこびりついて離れない。

 「結局、成るようになっただけではないか」

 この言葉には、数十年間にわたり国策という名の濁流に翻弄され続けてきた地方住民の血を吐くような諦念が凝縮されている。決して努力を怠ったわけではない。先祖伝来の地を守ろうと抗い、悩み、それでもなお、抗いきれなかった果ての絶望が、この「成るようになった」という短い一言に集約されているのだ。

 その絶望の根源を辿れば、戦後日本がひた走ってきた「効率」という名の幻想に行き当たる。その最たるものが「減反政策」である。

 先祖から受け継いだ土地を守るとともに、一粒でも多くの美味しいお米を子や孫のためにと稲作を行ってきた農家に対し、国家は「作るな」という呪縛を強いた。市場原理という冷徹な数理に基づき、食糧主権を外国に明け渡し、農の現場から誇りと活力を削ぎ落としてきた。

 「作るな」と言われ続けた田んぼが耕作放棄地へと変わり果てていく様は、まさに国家が自らの背骨を叩き折る自傷行為に他ならなかった。農地が消えれば、収穫を祝う祭りは形骸化し、神楽を舞う舞台そのものが消失する。西臼杵をはじめとする地方の荒廃は、人災であり、確信犯的な「農」の切り捨てが招いた必然の結果なのだ。

 

 さらに、この誤った経済政策のツケは、現役世代の「時間」をも奪い去っている。

 夫婦が、共働きで、ようやく子育てが可能となる過酷な所得構造。かつて地域共同体の紐帯であった伝統行事の継承に割くべき時間は、日々の生活維持のための労働へと強制的に転換された。

 少子化の影響は、追い打ちをかけるように「移動の重圧」を招いている。子どもたちの部活動は近隣で対戦相手を見出せず、親たちは週末のたびに数時間をかけて遠征の送迎に奔走する。地域を守るべき世代のエネルギーは、地域の外側へと吸い取られ、伝統文化の練習の灯は一つ、また一つと消えていく。

 所得の低迷、時間の貧困、そして誇りの喪失。これらはすべて地方を「コスト」と見なし、東京一極集中と新自由主義を是としてきた政治の不作為が招いた景色である。これを「成るようになった」と見過ごすことは、日本の死を容認することと同義ではないか。

 

 新年度を迎えるにあたり、我々は問わねばならない。日本はいつまで「数字上の効率」という物差しで地方を裁き続けるのか、もはや、微温的な「地方創生」の掛け声は不要である。必要なのは、国家の根幹を「農」と「地方」に据え直す抜本的な政策転換である。

 第一に、積極財政による農所得の直接補償を断行すべきだ。「減反」という縮小再生産の呪縛を断ち切り、作れば作るほど農家が潤い、地域が豊かになる「食糧安全保障予算」を確立していく事が必要なのではないか。食糧は国防そのものである。若者が農に希望を見出し、共働きに追われずとも子を育てられる所得を担保することこそが、地域及び伝統文化を支える「時間」を取り戻す唯一の道である。

 

 第二に、西臼杵の神楽をはじめとする伝統行事は、単なる地域のレクリエーションではない。

 国家の安寧を祈り、日本人の霊性を守る「祭祀」である。これを住民の自己犠牲に委ねるのではなく、国家の守護神を維持する「公的な勤め」として再定義し、従事する担い手に正当な対価を支払うべきだ。文化を守ることは、国体を守ることそのものなのではないか。

 

 地方の消滅は、統計上の変化ではない。日本という国家の「心臓停止」である。地方が死に神々への祈りが途絶えた先に、真の日本の再生などありえない。

 新年度、我々は経済合理性という空虚な幻想を捨てさり、土を愛し、汗を流し、伝統を繋ぐ者が最も尊ばれる国へと変わる必要があるのではないか。

 

                                                                                    (2026・7・15)

どうやって人を地方にもどすか

 

 前回紹介した無茶々園の50周年記念誌「MUCHACHA  MAGAZINE」に、無茶々園創業者の一人である片山元治が書いている。

 「そして最大の問題は、村の機能を再生するだけの人口。村の人口を増やすのは、ワークシェアリング・ワークショップとインターンシップで、「橘田道間守(たちばなのたじまもり)」守護神を中心に工房興しが急務だ。新しい住民を迎え、昔工房群を未来の食べ物を作る国際チームへ育て直す。村の神々と先祖を大切にしながら、人が戻り、人が増える回路をつくらなければ、故郷は残らないだろう。地域は閉じたままでは守れない。世界へ開き、世界と結び直して、初めて故郷の価値が残る。」

 「私はこの半世紀、新しき村の夢を描き続けてきた」という片山が、ベトナムにおける事業に新しい方向付けをした後、いよいよ明浜に帰還し、〈工房興し〉に着手する段階を迎えようとしている。彼の存在と活動は明浜の希望である。彼の〈構想〉については、このブログの「2024・4・27 片山元治くんがやってきた!」を見ていただきたいが、深刻な人口減少に見舞われている地方がそこから脱出するための方策は、この働く場所の確保である〈工房興し〉が最も有効な手立ての一つであることは間違いないだろう。

 

 広井良典氏の『日本の未来像―地球定常文明のデザイン』(岩波新書 2026)の中にこんな記述がある。

 

 「経済社会」に関しては、これからの時代は「生命関連産業」あるいは「生命経済」と呼びうる領域が大きく発展していくと私は考えている。具体的には、少なくとも以下の五つの領域はそれに該当するだろう。

①健康・医療

②環境(含 再生可能エネルギー)

③生活・福祉

④農業(食)

⑤文化

 こうした領域は従来の産業分野とは若干性格が異なる面を含んでいる。すなわちこれらは概して比較的小規模であり、地域に根差した「ローカル」な性格が相対的に強い。(中略)これからの時代が「ポスト情報化」あるいは「デジタルの先」の発展の時代であるとともに、「ローカリゼーション」が進んでいく時代であるというのは、以上のような生命経済の特質と重なっているのだ。

 

 わたしはこの〈未来像〉に希望を持つ。世界の先端的産業分野のどの領域からも遅れてしまっている日本が、しっかりと自己認識をし、世界に先駆けてこういう分野にシフトするなら、地方の可能性は格段に高まるだろう。

 広井氏の目指すのは、「定常型社会」であり、「創造的福祉社会」である。広井氏はまた「アニミズム」と「鎮守の森」の残っている日本に、そこへ向けての可能性を感じている人でもある。現生人類が誕生した20万年前から今日までの人類の歴史を俯瞰して思考し、人類の未来を探る広井氏の言説には注目したい。

 地域間の格差を解消する均衡ある発展を図った政治・政策の時代もあるにはあっただろう。しかし、新産業都市構想、田園都市構想から全国総合開発計画、コンパクトシティ構想、デジタル田園都市国家構想へと移行する過程で、結局日本は現在のような東京一極集中(あるいは5大都市圏集中)のような国土をつくってしまった。そこから外れる広大な国土はやがて荒廃し無人の地となろうとしている。

 それは資本主義の当然の帰結かもしれない。統治権力の必然の要請かもしれない。効率が何より重んじられ、統治コストを最小化することが金科玉条の世界ではそうなるだろう。でも、果たしてそれでいいのだろうか。

 「人間の生存をできうる限り気持ちのよいものにし」たい(渡辺京二)と思う者にとっては、それは残念でもったいない世界だ。世界的に見てそんなに広くないが、モンスーン地帯の湿潤で豊かな自然を持つこの国土を活かしきって、1億2000万人が分散してゆったりと人生を謳歌して豊かに暮らせる社会をつくったほうがいいのではないか。(本当の幸せは地方にありはしないか?。)

 日本は正念場を迎えているように思う。

 

 どうやって人を地方に戻すか。あらためてこの課題を確認しておこう。これは〈この国のかたち〉を再考する政治課題であり、成熟途上国の住民であるわれわれの未来への構想力が問われている問題である。

 やはり、〈食料自給率を100%にする〉ことを基本に据えて、この国の〈自立〉を図ることが大事だと思う。

 食料の自給が政策目標になれば、自ずと人は地方に戻る。これほど効果が明確な政策はおそらくほかにないだろう。農業人口が増えれば、関連するひとたちの人口も増えていくだろう。

 長い戦乱の歴史を持つヨーロッパ先進国は、食料自給の必要性を骨身にしみてわかっているから、しっかりした農への理解と政策を持っている。安全保障上からも国土全体に農地と農民が分散してあることの重要性を理解している。文化的にも、教会と広場が中心にあって、住民が伝統と自治を守っているしくみを大事にしている。

 現在の日本の農業人口は基幹的従事者だけを見てみれば約111万4千人。全人口の1%に満たない。しかも平均年齢は69.2歳。(食料自給率は、鈴木宣弘氏によると10%未満)。

 食糧はアメリカから買えばいい、という時代はとっくに終わっている。とわたしは思っているのだが。

 〈エネルギーの自給〉も、地方に人をもどす上で決定的に重要だ。

 原発への❝みれん❞を断ち切って、〈再生(自然)エネルギー〉100%、をめざそうではないか。

 再生エネルギー事業は、比較的一つひとつは小規模だ。現在のような10電力がほぼ独占支配する世界から脱却して多くの事業体を立ち上げることができる。多くの個人や小グループが参入できる。日本全国に無数の数が必要だから、地方に人が散らばらねばならない。人が地方に戻らなければならない。関連産業も多いから地方活性化にとってとても重要な役割を果たせる。東京電力のように新潟や福島などの遠隔地に原発を作ったりということをしなくてすむ電力の地産地消ができるから、地域経済にとっても有利な条件が整う。災害にも強い。

 朝日新聞の6月6日のオピニオン&フォーラム欄に再エネ問題が取り上げられていて、社会学者の丸山康司氏がこんなことを言っていた。「環境管理のツールとして再エネを活用することもできます。放置された森林に風力発電施設を建てれば、メンテナンスのための林道が維持されるので、森林管理に利用することもできる。耕作放棄地に太陽光発電パネルを設置すれば、野生動物の侵入を防ぐバッファーゾーンにもなる。洋上風力発電の土台は、魚が集まる漁礁になります。再エネ事業と一次産業が相乗効果を生み出すようなやり方はあるはずです」

 もう一人の論者、経済学者の諸富徹氏はこんな発言をされている。「今回の(ホルムズ)危機で、化石燃料の輸入に多くを依存する脆弱性が現れました。これまでも価格高騰のたびに巨額の国富が海外に流出し、日本経済の足かせになってきました。再エネを増やせば、この構造を改善できます。化石燃料の高騰が続けば、投資が勢いづくでしょう」

 2015年の「パリ協定」で世界の平均気温の上昇を産業革命以前と比べて「1.5°C」に抑える努力目標が掲げられたが、それは達成できずにすでに1.5度を超えているのが現状だという。このままでは今世紀末には4~5度にまで上がりそうだとさえ言われている。まさに再エネ化は人類の喫緊の焦眉の課題である。

近年の再エネ分野の技術革新は急速に進展している。次世代のペロブスカイト太陽電池が話題にもなっている。コストの低減化も著しい。

 日本はいまこそ、〈国のかたち〉を変えるときではないだろうか。変えれば、地方消滅は、かろうじて、防げるかもしれない。

 この他にもいくつか、こうすれば地方の人口増に貢献できるのでは!と思いついたことがあるので書いておく。

  • 「地域おこし協力隊」という国の制度があるが、これの人数を増やして欲しい。

2025年度は8,196人で過去最高だったそうであるが、これをさしあたり10倍ぐらいに増やせないか。

  • いま「県立大学」がおもしろい。静岡県立大学、奈良県立大学、島根県立大学等々にはとてもユニークな優れた先生がおられる。今の時代、大学院を出てもなかなか就職先が見つからないという。日本改革に意欲のある大学院新卒のひとたちを各県は積極的に迎えてはどうか。また学生の学費を無償化してはどうか。県立大学は地域活性化の拠点になるだろう。     内田樹氏がこんなことを書かれている。

「いま、ある自治体で教育についての政策提言をするという仕事をしている。そこの県の県立大学を無償にすることを提案した。全寮制にして、寮費ももちろん無償である。一学年100人くらいだから、たいした財政負担にはならない。無償化すれば、家は貧しいが学問をしたいという向上心旺盛な若者と、自分の進路は誰にも指示されず自分で選びたいという不羈の若者が大学に集まってくる(はずである)。多少扱いに手を焼くだろうが、賑やかなアカデミアになるはずである。この県立大学に全国から元気な若者たちが集まるようなら、他の自治体もそれに続くだろう。だとすれば、世の受験生たちすべてにとって朗報である。」

 わたしはかつてこのブログで、〈「西予・世界農業高校」を夢見る!〉(2021・10・6)を書いたことがあるが、地方自治体は高校レベルでもこのような試みをぜひやっていただきたい。

  • 都市の年金受給者の移住を考えてはどうかということである。

先の広井氏が別の著書でこんなことを言っている。「そもそも年金というものが果たす役割は何か。これには二つあり、「すべての高齢者に一定以上の生活を平等に保障する」という役割(所得再分配機能)と、貯蓄的な機能つまり「現役時代に払った保険料が退職後に戻ってくる」という役割である。私は公的年金が果たすべきもっとも重要な役割は前者であり、このためには基礎年金こそ現在よりも厚く強化し、かつそれは税によって賄われるべきものと考える(これにより保険料の未納問題も解決する)。」(『創造的福祉社会』ちくま新書)

 これだけの引用では誤解されるかもしれないが、厚く強化された基礎年金を持つ高齢者が増えれば地方自治体の対処次第では移住者が増える可能性はあるだろう。

 さて、最後に残る問題があるように思われる。地方に帰る、移住する〈主体〉の問題である。それを受け入れる我々の問題である。哲学者の内山節氏の言葉を掲げさせていただいてこの稿を終えたい。

「雇用場所がないから若者は農山村から離れるという考え方は、雇用を共通の指標にした合理的な考え方であるが、若者が農山村に戻ったり移住してくる理由はむしろそれぞれの思いの方にある。先祖から受け継がれてきたものを自分の代で終わりにしてよいのかとか、子どもの頃の思い出とか、サラリーマンが嫌になったとか、農に魅力を感じたとか、理由は実にさまざまである。そういうけっして合理的ではない思いを受け止める力があるかどうかが、これからの地域づくりには欠かせない。」

                                                                                           (2026・7・1)

【寄稿】長崎東海日誌について ㉗(後編)

長崎東海日誌について〓(後編)

○大正7年日誌

前回に続き大正7年日誌です。

【医会のこと】

医会(海岸医会、郡医師会)に関する記述はこれまでも出てきましたが、この年は少し注意しておきたい動きが見られます。

3月1日付で、臨時郡医師会が郡役場議事堂で開かれ「海岸医会ヨリノ提出案、野村医会場廃止案可決セリ、業務規約改正案モ通過セリ」との記述が出てきます。海岸医会の提出案=野村医会場廃止案なのか、海岸医会の提出案+野村医会場廃止案なのか、解釈が難しいところですが、「野村医会場」がそれまでは別にあったらしく、この臨時会で同会場が廃止されることに決まったことは確実に言えます。野村医会に関しては前回(東海日誌について〓)で少し触れました。当年日誌も合わせて読みますと、東宇和郡医師会の会場が2つあることについて、東海(もしくは海岸医会)がよく思っていなかったようにも解釈できそうです。留意しておきたい記述です。

また、5月12日に春季海岸医会が玉津村の濱田医院で開かれています。この医会でも「自今順番ヲ廃シ俵津ニ一定シ、且事務所ヲ置ク〓(こと)トナシ」との記述があります。それまで海岸医会の開催場所は海岸各村の持ち回りだったのですが、これを俵津に一定させて且つ事務所を置くことも取り決めています。ここでも医会開催場所の一本化が図られています。郡医師会も海岸医会もこの年に組織の強化が図られたのかもしれません。

 

【百ヂイ(大浦の人)】

3月14日付。この日の朝大浦のHが死去します。Hは「九十八才、高齢者ニシテ、百ニ足ラサルハ皆人ノ惜ム所ナリ」と、98歳という当時にしては珍しい高齢でした。東海は廻診ついでに悔みのためH宅へ立ち寄っています。翌15日午後に葬式があり、東海も参列しています。日誌ではHの本名と併記して「又百ヂイト云フ」と書いています。地元では「百ヂイ(百爺(ひゃくじい))」と愛着を込めて呼ばれていたようです。葬式の最中は雨が降って会葬者は困難したようですが、「浄瑠理、芝居好ノ翁トテ、人形ヲ行列セシメシハ美観ヲ呈セリ」(浄瑠璃、芝居好きの爺さんだったからと人形を行列させていたのは美しい光景だった)と記しています。とても印象的な葬式だったようです。百ヂイも喜んだことでしょう。

 

【河崎蘭香死去の報(画家)】

これまで度々紹介した河崎蘭香(東海日誌について〓以降を参照)がこの年3月12日に死去します。東海日誌でも記述があり、3月16日付で「本日河崎蘭香女史(十二日午前三時)死去ノ報ニ接シ、驚キ入リタリ、直ニ悔状ヲ発ス、仝女史ハ爾来上京毎ニ訪問、懇意ノ中ナリシガ、実ニ同情ニ堪ヘサル次第ナリ」(今日、河崎蘭香女史の死去(12日午前3時)の報に接した。驚いた。すぐに悔み状を出した。蘭香女史は以前から(自分が)上京するごとに訪問し、懇意の仲だったが、実に同情に堪えない…)。東海は落胆しています。その後、東京滞在中(前回参照)の11月18日に「午后田端河崎郁女ヲ訪ヒ故蘭香女史ヲ見舞フ」(午後田端の河崎郁(かおる、蘭香の養母)を訪問して故蘭香女史を見舞った)と、東京田端の故蘭香宅へ弔問

に行く記述もあります。

 

【佐藤要蔵(飛行家)】

当時佐藤章(あきら)(本名佐藤要蔵)という人物が居ました。明治27年秋田県生まれの民間の飛行家で、黎明期の日本の航空界で数々の飛行記録をつくった人物です(秋田県美郷町HP参照)。大正7年5月13日には四国一周飛行に挑戦して、成功しています(「名誉館長講話実施報告抄」(2004年3月、秋田県立博物館研究報告第29号)に情報あり)。

当年日誌の5月13日付。この日東海は自身の歯の治療のため夕方から宇和島入りしています。日誌では通常の記述のあとに朱書で次のように特記しています。「本日ハ帝国飛行協会ノモ式第六号飛行機ニテ、佐藤要蔵氏ハ宇和島弁天新田ヲ午后一時出発、吉田、卯ノ町、八幡濱ノ空ヲ見舞ヒ、大洲ニ着陸、当地ヘ飛行機ハ始メテノ事ニテ好評湧クガ如シ」。東海は佐藤の飛行を実際には見ていないようですが、宇和島への初めての飛行機飛来に対する「湧クガ如」くの評判を記しています。

飛行機に関する記述は東海日誌でも度々出てきます。大正5年9月30日には「カーチス式飛行機」を宇和島で見学した記述がありましたが(東海日誌について〓で少しだけ紹介)、今回の佐藤の「モ式第六号飛行機」は実際に宇和島弁天新田から大洲へと飛行したことが記されています。貴重な記録です。ちなみに、大正13年以降は俵津近辺にも時々飛行機が飛来するようになり、東海は目撃するたびに日誌に記しています。

 

【沈んだ金庫】

12月1日付で次のような記述があります。「当日ハ発動船大漁丸誤テ手提金庫ヲ海中ニ落シタリトテ、之ヲ引掲ノ為俗ニモグリ(海士)来リ探ル、同船繋留所ハ見物人多ク人ノ山ヲ成ス、見当ラズトカ聞ケリ(約三百内外ト聞ク)」。この日発動船大漁丸が誤って手提げ金庫を海中に落としてしまったようです。金庫を引き上げるため「海士」(あま、男性)がやって来て探したようで、大漁丸の繋留所は多くの見物人で山をなしていたと記しています。金庫の中身は「約三百内外」、一概には言えませんが今の価値で100~200万円ほどでしょうか。見つけることができなかったと聞いた、と書いています。今も俵津の湾内に沈んでいるのかもしれません。

 

【船のこと】

当年日誌では主に鶴島丸が俵津近海を航行していることが確認できます。その合間を縫うように第二鶴島丸の記述も確認できます。10月1日付では、この年9月に進水した新造船である第五鶴島丸の記述も出てきます。いずれも宇和島運輸の船で、東海は頻繁に利用しています。

なお、1月9日付で三島丸の記述が出てきますが、これは書き間違いの可能性があります(鶴島丸か?)。

地元の船として、日誌では記述が少ないのですが、「狩江発動船春洋丸」や「大浦発動船大漁丸」が出てきます。両船とも東海は利用しています。ちなみに、12月1日に俵津で金庫を海中に落としてしまったのが「大浦発動船大漁丸」です(前述)。春洋丸については『明浜町誌』に少し記載があります。

瀬戸内海航路では、第十三宇和島丸(高浜→八幡浜、吉田→大阪川口)や第十二宇和島丸(神戸→吉田)の記述が見られます。いずれも宇和島運輸の船で、東海も利用しています。

ほかに松江丸という船を八幡浜・宇和島~高浜間で東海は利用していますが、船籍、会社は不明です。高浜~宇品航路では「人丸」「第五相生丸」という船が見られ、これらも東海は利用しています。

 

【養蚕のこと】

日誌では4月28日付以降5月中にかけて春蚕の作業進捗のことを詳しく書いていますが、長崎家が手掛けていたかどうかは日誌からは読み取れません。続く夏蚕については記述がとても少なく、不明です。秋蚕についてもあまり記述がありませんが、9月6日付で「過日来兎苗(筆者注:東海の妻)ハ市川タカ方ニ養蚕子飼ヲナス」との記述や、同月22日付で「自宅晩秋蚕盛期ナリ」との記述がありますので、秋蚕は長崎家でも手掛けていたと確実に言えます。しかし記述がこの2件のみで、詳しい動きが読み取れません。

 

【「養貝」の試み】

東海日誌ではこの年に限らず、東海が度々宇和島の水産試験場へ行って俵津での貝の養殖について相談をしている記述が見られます。明治44年日誌(東海日誌について⑳(後編))で、真珠貝の養殖を試みようとしていたフシがある、ということを紹介しましたが、当年日誌にも同じような記述が出てきます。

9月9日付で「当日水産試験場ヨリ大月菊雄ナル技手来訪アリ、右ハ自分ノ理想ト〓(して)海底利用ノ為適当ナル養貝試ミ度為調査ヲ依頼シアリシ故、水産試験場ヨリ派出セシ次第ナリ」との記述があります。東海が「海底利用」に適した貝を養殖することを目論んで水産試験場技手の視察を要望していたところ、大月技手が俵津に派遣されて来ました。翌10日付では「午前八時清造ヲシテ船ヲ調ヘシメ(宮本ノ船)、大月技手ト共ニ、山下三松及自分等三名ニテ脇・大浦各所ニ迂廻、海水及沿岸ヲ調査シ帰ル、大月氏ハ午前十時半ノ汽船ニテ宇和島試験場ニ帰リ去ル」との記述があり、大月技手と東海、山下三松の3名で脇・大浦辺りの海水と沿岸を調査しています。当年日誌では関係する記述はこの2件のみです。

明治44年の真珠貝のことも、当年日誌の「養貝」のことも、残念ながらその結果は日誌でははっきりと記されていません。しかし、貝類の養殖について東海には何らかの考えがあって実際に動いていたということは言えると思います。留意しておきたい記述です。

 

当年日誌にはほかにも、前回紹介しました電灯関係では、10月20日に所用で宇和島に行った際に「水電会社」に行って「要件」を済ませた旨の記述があります(1件のみ)。また、この年も松本仙挙と頻繁に会っており、特に8月11日夜には東海や仙挙ら10名ほどで魚釣り(魚突)をする記述があります。医者としては、12月26日に「村医手当」(村で感染症が発生した際に期間限定で村の嘱託医を務めたことに対する報酬)370円のうち100円を村の避病舎修繕のために寄付する記述などがあります。

(本文中敬称略)

 

                        (2026・6・27)

【寄稿】長崎東海日誌について ㉗(前編)

 

長崎東海日誌について〓(前編)

○大正7年日誌

【道路のこと(4月、9月~11月)】

道路に関するまとまった記述は大正3年以降しばらくありませんでしたが、当年日誌では4月頃と9月~11月頃に少し動きがあります。

(「ノブク道路」「ノブク峠」視察)

4月26日付で県参事会員が「ノブク道路」「ノブク峠」の視察に来る記述があります。海岸からは三好有明(俵津村長)、濱田七十郎(玉津村長)、東海のほか有志が出迎えています。東海は「先発」として一行より先に現地入りしたようですが、これの意味するところは日誌からは読み取れません。視察者は県参事会員4名と県吏員8名で、国安清治(東宇和郡長)、清水伴三郎(宇和町長)も同行しています。この視察の仲介は芝鉄治(高川村。この頃名誉職県参事会員)のようです。「ノブク店山内房吉方」で双方が会見し、視察を終えています。大正2年日誌(東海日誌について〓を参照)では「本村ト宇和町ニ通ズル道路」の「測量」「概測」をしていましたが、当年の視察はこれに関連するもの(続くもの)と思われます。

その後5月2日付で「本日ハ海岸道路ノ測量ヲナセリ、将来有望ノ道路トナルベシ」との記述が出てきます。これは野福峠のことではないようです。この後しばらく道路関係の記述は途絶えます。

(卯之町俵津間道路)

9月になって、「卯之町俵津間道路」について、東海も含めた関係者間での協議や、上部組織への陳情の記述が見られるようになります。9月21日には俵津村役場で「卯ノ町俵津間道路委員会」が開かれ、県参事会への交渉員として宇都宮茂村長(この年7月に就任)と東海が選ばれます。これを受けて宇都宮村長と東海は同月25日に松山入りし、芝鉄治も加えた3人で県庁へ赴いて大橋技師と面会し(「事務官課長」は出張で不在)、県知事若林賚蔵(らいぞう)にも面会して「村ヲ代表シ来庁ヲ告ケ、道路件ニ付申請」(村を代表して来庁を告げて、道路の件を申請)しています。その後「各方面」にも活動をして退庁しています。翌26日には宇都宮村長は俵津へ帰っていますが、東海は松山に残って芝とともに「道路ニ関シ」運動を行

っています。この頃の東海は郡議でも村議でもなく、「卯ノ町俵津間道路委員会」の交渉員としての立場で大いに活動しています。

その後1ヶ月ほど経った10月29日付で、「村会アリ、道路臨時委員ニ撰定セル旨村役場ヨリ通知アリタリ」(村会で(東海が)道路臨時委員会に選定されたと村役場からの通知があった)との記述があります。このことで芝鉄治から電話があったものの、翌30日に東海は東京へ向けて出発するため(後述)、道路のことはほかの委員へ任せて自身は上京準備に取り掛かっている記述があります。『(俵津のほかの)道路委員は今日卯之町へ行って芝と打ち合わせて郡長に申請しているはずだ』と書いています。一方の東海は、東京滞在中の11月8日に「赤阪桧町」の古谷久綱(明間出身。この頃衆議院議員)から招待を受けて古谷宅を訪問し、「対談数時、東宇和郡内ノ諸件、特ニ卯ノ町俵津間ノ道路ニ付高慮煩シ、其他雑件協議スル所ア

リ」と、特に「卯ノ町俵津間ノ道路」について配慮を得た、と書いています。これは国会議員への陳情で、「道路臨時委員」としての活動と言えます。

道路に関する記述は、当年日誌ではこれで終わっています。

 

【台風と海嘯(かいしょう)(7月)】

7月11日、俵津では午後から大雨となったようです。「雲行急ニ〓(して)天候悪徴ナリ」とも書いています。翌12日付、「暴風雨トナリ、午前十一時頃特ニ甚シク、波高ク荒レ、海嘯ナラント感ジタリ」(暴風雨となり、午前11時頃が特に甚だしく、波高く荒れて、海嘯ではないか?と感じた)。この一文に続いて朱書で次のように特記しています。「朝(潮)流膨張、道路ヲ荒シ、海岸ハ大ニ警戒スル〓(こと)トナリ、床下ヲ浸シ、雪隠海水混入シ、風強ク、樹木ヲ倒シ、十時頃学校ハ放課シ、一時大騒トナル、病院診察室ハ埋立地ナル故器械類ヲ裡室ニ運ビ抔大ニ躊躇、混雑セリ」(潮流は膨張し、道路を荒らして、海岸は大いに警戒するところとなった。床下を浸し、トイレには海水が混入し、風は強く、樹木を倒し、10時頃に学校

は授業を終わらせ、一時大騒ぎとなった。病院診察室は埋立地なので器械類を裏部屋に運ぶなどして大いに躊躇し、混雑した)。続いて通常の筆(墨書)で「午后三時頃漸ク静ニナリ安心セリ、右ニ付患者少数ナリ」(午後3時頃にようやく静かになり安心した。このため患者は少数だった)と記しています。この暴風雨は台風のことと思われ(他県でもこの日被害があったようです)、この時は海嘯も発生したようです。海に面する俵津では特に警戒しないといけない自然災害です。

 

【宇和島米騒動(8月)】

大正7年は、第一次世界大戦の影響や前年の気候不順の影響もあって米価の高騰が続き、県内各地で暴動(米騒動)が起こった年です(『愛媛県史 近代 下』などに詳しく記載あり)。東海日誌で関連する記述を確認してみましたが、意外に少なく、8月18日付で「各地方米価騰貴ニ付騒動起リシ電報、新聞等頻リニ報導アリ」という記述と、8月22日付で「当夜宇和島米騒動アリ、酒精会社焼」という記述があるのみです。特に8月22日の「酒精会社」(日本酒類醸造会社)の焼き討ちは大規模なものでしたが、日誌では前述のようにあっさりと書いています。前日の8月21日付では「旧十五日ニ当リ俗間ノ休業ナリ、取引始ル、本年ハ物価騰貴スレ〓(とも)、金融緩慢ナレバ陽気ナリ」(旧15日で民間は休業。取引が始まる。今年は物価は騰

貴しているが金融緩慢なので陽気だ)と、物価の高騰については記しているもののさほどの危機感が見られません。「金融緩慢なので陽気」の解釈が難しいところですが、宇和島と俵津とでは事情が異なっていたのかもしれません。

 

【盆踊り(8月)】

前年約20年ぶりに再開した盆踊り(前回参照)はこの年も実施されています。

8月20日、東海は「盆踊手続」のことで駐在所を訪ねています。日誌では詳細は書いていませんが、実施の許可を得るためと思われます。8月21日は「旧十五日ニ当リ俗間ノ休業」で、「当夜ヨリ脇・大浦両所ニ盆踊アリ、山下、伊藤氏等ト大浦寺院ニ盆踊アリテ見物ニ行ク、中々盛ナリ」と、前年同様脇と大浦で盆踊りが実施されています。東海は「大浦寺院」(地蔵院)の盆踊りに山下(三松)、伊藤(直三郎)らと見物に行っています。8月22日付、「当夜市川長太郎ト共ニ脇盆踊見物ニ行ク、中々盛ナリシ」。この日の夜は市川長太郎(東和病院関係者。脇在住)と脇へ盆踊り見物に行っています。脇もなかなか盛んだったと記しています。ちなみに、この日の夜に「宇和島米騒動」が起きていますが、俵津ではその頃盆踊りを実施

していました。

 

【納涼会のこと(8月)】

前年第一回として開催した納涼会をこの年も開いています。

8月26日付で『明日納涼会を催すことに決め、いろいろ考案している。今日の夕方は山下(三松)、伊藤(直三郎)、木崎(喜三郎)らの助力を仰ぐため一杯やった』と記しています。東海の独断で開催するのではなく、有志の意見も取り入れたようです。

8月27日、第二回納涼会が開催されます。場所は東海宅2階。前回と同じく、木崎喜三郎、山下三松ら有志が準備の手伝いをしてくれました。今回の「設備」は、部屋一面を「松樹、雑草等」で野原の景色に仕立て、提灯を吊るして、各所に人形を配置する、というものでした。「大浦木崎組」(木崎喜三郎、仲田類、酒井吉太郎、山下松太郎ほか)からは「駕丁」(がてい=駕籠を担ぐ人)の人形が寄付された、と記しています。野原の中を進む駕籠、という風景でしょうか。準備が整い、午後5時過ぎから来客が集まり始めます。30人ほどの参加のようです。今回も卯之町から芸者が2名やって来ています。席では参加者による「坐芸ノ余興」(歌舞、三味、踊り、浄瑠璃、人形遣いなど)が代わる代わる披露され、東海も伊勢音頭など

を踊っています。料理は「氷、西瓜、冷シ素麺、鮮魚等」が提供されており、ほぼ前回と同じのようです。納涼会は夜12時頃に閉会。翌28日には手伝ってくれた人を招いて慰労宴を開いています。

 

【悪性感冒の大流行(10月下旬~11月)】

日本ではこの年8月下旬から「スペインインフルエンザ」(スペイン風邪)の流行が始まり、11月には全国的な大流行となっています(内閣感染症危機管理統括庁HPに詳しいのでご参照ください)。

東海日誌にも関係する記述が見られます。俵津では10月下旬には「悪性感冒」が流行し始めていますが、東海はちょうどこの頃から東京へ旅行に行っており、俵津への「悪性感冒襲来」時は俵津を留守にしています。

(東京行きの目的)

この年の東海の東京行きは太霊道(大正から昭和初期に流行った霊術)を受講するためで、これまでの旅行とは趣が異なっています。太霊道を受講しようとしたそもそもの発端は、9月中旬に所用で広島に行った帰り、滞在先の松山湊町の白石旅館で画家の宮川春江と懇談したことです(9/17付)。この時「太霊道研究」のことを宮川と話し合い、二人とも「実行」を約束し、この日のうちに東京本部に申し込みと送金をしています。なぜ宮川と「太霊道研究」の話題に至ったのかはわかりません。なお、11月17日に受講を終えて以降は関係する記述は日誌では出てきません。

(悪性感冒大流行)

以下に東海の行動と悪性感冒に関する記述を時系列に沿って見ていきます。

10月30日、東海は東京へ向けて俵津を出発します。この日の段階で『この頃悪性感冒が各地に流行し、俵津も5,6日前から蔓延し、工女も5割以上が(家に)引き籠っているという。新聞報道によれば、全国に波及して、学校や工場など閉鎖する所が多くあるとのこと』と、俵津でも10月下旬には悪性感冒が蔓延し始めていることを記しています。

11月2日、東海は京都入りします。例のように松本仙挙(この頃京都滞在中)を訪ねようとしますが、悪性感冒の流行により車夫が不足していたため訪問を断念しています(翌日には会えています)。この日の夜の記述では『今日は俵津の秋祭りの日。不在中は山下三松らに託したが、どうなっているだろうか…』と俵津のことを心配している記述があります。

その後11月4日に東京入りし、17日まで太霊道の講習を受けています。

期間中の11月9日付。この日滞在先の宿に妻の兎苗から手紙が届きます。その内容を『俵津でも悪性感冒流行のため自分(東海)不在でも病院に80~90人の患者があり、浜田氏(※)は昼夜多忙との知らせがあった。また、啓海(息子)や車夫の清造も感冒に罹ったとのこと』と記しており、俵津でも悪性感冒が大流行しているようすを伝えています。((※)浜田堯民。当年3月に宮之浦から東和病院へ入り、東海不在中は病院を守っていました。)

11月11日には山下三松からも手紙が来て、『悪性感冒が大流行し、1日150~160人の患者があり、浜田は大多忙で、死亡者も出ている』と俵津の惨状を伝えています。

11月17日に太霊道の講習が終わってもしばらく東海は東京に滞在しています。この頃、特に20日以降に東海自身も感冒に罹った記述がありますが(22日夜には38.8℃の発熱)、解熱剤を服用して安静にし、23日には「減退」しています。流行中の悪性感冒に罹ったのかどうかはわかりません。この23日付で『夜中に入電があった。明日は自分の症状に関わらず帰宅する決心だ』と記しています。感冒流行に関する俵津からの何らかの急を告げる入電だったのかもしれません。

11月26日夜、東海は無事に帰宅します。この日は吉田でも「感冒ノ為吉田ニ車夫欠乏」だったと記しています。

(「旅行不在中之記事」)

帰宅後、東海は「旅行不在中之記事」を記しています(11/26付)。かなり重要な記述です。

『旅行不在中の記事。この頃(東海不在中)俵津は天候が悪く、曇・雨・半晴程度で好天気が少なかった。特に11月2日は俵津の秋の例祭日だったが、雨天のため来客が少なく往来が淋しかったらしい。翌3日は学校では運動会があり、大浦では子供芝居があったが、この頃より悪性感冒が襲来して患者が続々と発生。俄然に蔓延し、あっという間に全村に広がり、学校や工場を荒らして、1週間~12,3日は閉場や閉校などの不幸を見るに至った。11月10日頃がピークで、前後2週間にわたって火花を散らし、病院は患者が多い日で160~170名となり、ちょうどこの頃浜田医も感冒に侵され、那須・松井看護婦も、車夫も、藤井(末廣。東和病院助手)なども感冒に罹らない者はなく、このために病院の執務は渋滞した。臨時車夫として佐藤喜平

治を雇い入れるも2日目に感冒に罹り、佐藤はこのためついに死亡する不幸を見た。代わりの車夫として酒井和太吉を1日、水野角次を1,2日などと交代で雇い入れて、調剤には木崎ナミエを雇うなど、躊躇狼狽は限りなく、浜田は避病舎往診の義務もあるので感冒を侵して往診したことが数日あったという。外来は昼夜の別なく患者が押しかけ、その混雑は言葉にできないほどだったらしい。(略)浜田は数日間病床にあり、二宮利弥(俵津の医者)も非常に多忙を極めたとか。この感冒は約2週間にわたり全村を煩わして、自分が不在中のわずか27,8日の間に死亡者26名を出したことは、この感冒がいかに猛威を振るったかを証明するに足りるだろう。狩江、高山、玉津も同様で、他所もだいたい想像できる…』

(その後)

東海が俵津に戻った頃には悪性感冒の大流行は落ち着いたようです。その後日誌で確認できるのは、11月30日付で高山へ悪性感冒が原因の「肺炎ノ重患者」を往診した記述、12月1日付で啓海が再び感冒に罹った記述、同月3日付で奥浦の某が悪性感冒のため肺炎を起こして重症となった記述の3件で、これ以降関係する記述は年内は出てきません。

 

【第一次世界大戦の終結(11月)】

大正3年に始まった第一次世界大戦はこの年の11月に終結します。東海日誌にもこの戦争に関する記述が散見されますが、本稿では紹介を省いていました(東海日誌について〓でわずかに言及)。

ドイツと連合国の間で休戦協定が締結されたのは11月11日で、ちょうどこの頃東海は東京に滞在しています(前述)。11月13日付で「独乙休戦条約成リ市中賑フ、市中国旗ヲ掲ケ提灯行列ノ小始メアリ」と、休戦協定を受けて東京では人々が国旗を掲げて提灯行列を始めつつあることを記しています。また、同月21日付では「本日ハ休戦祝賀会ニ〓(して)、日比谷公園ヲ中心トシ、花電車、提灯行列、煙花等ノ仕組ニ〓(して)朝来人気旺盛ナリ、数万ノ人出アルべシ、自分ハ感冒熱アリ午后床ニ入リ静養ス」と記しています。休戦祝賀会のため日比谷公園を中心として数万の人出があったと書いていますが、東海はこの頃感冒で滞在先の宿で静養しています(前述)。『提灯行列に興奮した市民の声で溢れ、靖国神社前や日比谷は言葉では

言い尽くせないほどだと言う。感冒のため見物できないのは遺憾だ』と、感冒のため提灯行列を見物できなかったことを東海は残念がっています。

 

東海の東京滞在中には、スペインインフルエンザ(スペイン風邪)の大流行に第一次世界大戦の終結と、大きな出来事が立て続けに起こりました。ほかにも、11月20日に農商務省農事試験場の緬羊飼育場(茨城県西茨城郡宍戸町)へ視察に行った際の印象深い記述もあるのですが、これは機会がありましたら改めて紹介します。

 

(本文中敬称略)

~つづく~

              

                        (2026・6・26)

自由庵日乗 3(2026、春から梅雨期入口)

1、無茶々園 50周年記念式典

 4月16日、午後2時から狩江笑学校で、無茶々園の50周年記念式典および懇親会がありました。営農を息子に譲った身として果たして行っていいものかどうか案じていましたが、いいということだったので行ってきました。

 むかしの仲間たちに会って話がしたかったのと、若い人たちがどんな夢を持っているのだろう、どんな未来を描いているのだろう、と興味があったからでした。

 開会時間間際に会場の講堂(体育館)に入って驚きました。ひと・ひと・ひと。ホールいっぱいです。300人はいるかなと思いました。あとから聞いたら、北海道から九州までの取引関係者・消費者が200人余、地元のわれわれが100人余ということでした。50年間に培った無茶々園の力というものでしょうか。

 受付で手渡された資料の式次第を見てみると、事務所のリーダーたちによる「無茶々園のヴィジョンミッションを語る」と若い生産者たちの「私はこんな未来をつくりたい 若者のトークセッション」が合計で2時間ちかくも用意されているではありませんか。これはとてもいい企画だなと感じ入りました。これはわたしのこのブログで1回分の記事にさせていただこう!と思ったことでした。ところが残念至極。マイクが悪くて何が語られているのか全くわからないのです。登壇した彼らのいきいき溌溂とした顔と身振り手振りは最後列にいたわたしにも遠望できたのですが。

 最初の会長挨拶から心配していたのですが、結局式典の3時間全体が同様で、だれがどんな発言をされたのかなんにもわからずじまいでした。わたしの席の周囲の仲間たちにも聞いてみたのですが、わたしと同じでわからないと言っていましたので、わたしの耳のせいではないようでした。隣にいたオーディオ趣味歴の長い、機器に詳しい佐藤君になんとかならない?と言ったら彼、前に出てあれこれしていましたが無理でした。せめてイコライザーでもあればなあ、と言っていました。せっかくの大会。無茶々園にとってとても残念に思います。(こんな意外な盲点が露出する式典もあるのですね。)

 さて、もう一つ期待していた懇親会。わたしは前回のブログで書いたような今秋のミカンが心配ですが・・・、というような話を全国から来ていたひとたちとしてみたかったのですが、これもかないませんでした。会場が別に分けられていたからでした。

 もう一つ。俵津の天晴農園(笑丸)の若い人たちも招待されていたのですが(これ自体は嬉しいことです)、彼らも懇親会、わたしたちと同じ席。これから伸びていく彼らが、全国の生協関係者や消費者と話し合って刺激を受ける・情報を得る、というまたとない機会が与えてもらえない。とても残念に思いました。

 ついでにもう一つだけ言っておきましょうか。創業者の、生き残っている二人に対する扱いを、もう少し配慮して欲しかったですね。半世紀を経て、時代が変わっているとはいえ、やはり偉大な二人の生の声をみんなの前で伝える企画が欲しいと思いました。懇親会の席もわたしたちと同じアイランド、やはりメイン会場に送っていただきたかった。二人を知らない人もいるだろう全国から集まった人たちに彼二人のオーラを感じ取ってもらいたかった。

 むかしの仲間たちとの歓談・痛飲(!)はしましたが、なんだかなあ、の一日でした。

  • 無茶々園のみなさん。こんな書き方(伝え方)になってしまいましたが、許してくださいね。無茶々園はこれからも続きますので、やはりここで書いておいた方がいいと思いました。わたし、ホントに期待して胸をワクワクさせながら出かけたのです!

 

2、宇都宮作一くんの来訪

 5月の下旬ころでしたか、宇都宮作一くんが来てくれました。彼自身の〈活動報告〉を、熱く、してくれました。

 彼、5月13日の市の「行政相談」に行って、物申したそう。

①俵津車庫前バス停付近の草刈りをしている人の表彰をお願いした。

②市役所での改善活動の一環として、提案制度を設けては?とも。

 →企業では改善提案で利益を出しています。トヨタが代表例。無駄の排除や効率化を行う事で、予算の削減が出来る。給与を減らすのは対処療法で、恒久的なものにはならない。

③収入を増やす方法の一つとして、56号線の看板掲載と野福峠の展望台の設置で訪問者を増やす。

などを具申したそうです。

ややあって市から返事をもらったそうです。

  • 表彰の件。行う方向で検討するとのこと。
  • 提案の件。名前は異なるが、改善活動は行っている。
  • 見晴台の件。南予用水の上はダメ。タンクに問題が発生したら困るから→この件は引き続き答申しますとのこと。

 この話を受けてもらった観光振興課長さんと今後も申し入れをしていく、と言っておりました。

 

やりますねえ。すごいですね。

 展望台の件で、あのタンクの上が一番見晴らしがいいのだがなあ!と残念がっていました。あそこなら海側タンク前の傾斜がなだらかで支柱が打ちやすいのだが、と。わたしも行ってみましたが、確かにそうではありますね。あそこらあたり、県道との間の空間も広くて心落ち着く雰囲気もあります。いつもだれか車が止まっていてくつろいでいますしね。

 宇和島自動車の車庫前広場の除草作業を自ら買って出て無償でやっている井上さん、海の風公園と車庫前広場のアジサイなどに水やりをしている永山さん。わたしも山の行き返りによく目にしていますので、同じ思いをしていました。よくぞ言ってくれました。

 彼は、自分は遊ぶために俵津へ帰って来た!と言っていました。ヨット、カヌー、俵津は遊べる海がある!こころに響く言葉を残して帰っていきました。

 

3、老人クラブ役員退任です

 4月13日、俵津老人クラブ総会。いつものように、飲んで、食べて、歌っての楽しいイベントです。

 この日で、わたしは5年間やった役員を退きました。9区新田にはあの「新田ふるさとまつり」をやった若いころの仲間たちが大勢控えていて、どんどん老人会に入ってくるようになっていますので早く交代しなければと思っていたのです。

 ただ、「じじばばー」には協力してくれよ!と言われていますので、頑張りたい!と思っております。

 公民館に行く機会は減ってしまいました。すこし寂しくなりました。

 

4、年金友の会総会

 6月6日、俵津地域づくり活動センター(旧俵津公民館)で、東宇和農協明浜支部の「年金友の会」総会が行われました。

 人口減少や俵津から農協金融部がなくなったことで郵便局に振込口座を変えた人達が多くなって、加入者数や金額が東宇和で明浜は最低になったという事でした。こういうことでも地域は少しずつ変わっていっているのですね。

 総会の後、余興がありました。最初は小春さんによる「ものまねショー」。歌は正直いまいちかなと思いましたが、鈴木雅之や谷村新司や松山千春の顔真似はそっくりでした。

 つづいて、カラオケ。「じじばばー」は俵津だけですが、これは明浜各地区のひとが出演。田の浜の若い女性たちの踊り「お祭りマンボ」はキレよくさわやかで大盛り上がりでした。極めつけはやっぱり高山の大塚英子さん。明浜の二大スターの一人(もう一人は同級生の清家悟くん)。この人には何と言っても花(華)があります。抜群の歌のうまさとパフォーマンスで素敵な会場変成力があります。みんなを楽しませてくれました。

 わたしも出ましたよ。狩江の友人、井上君や亀井君も出ました。何とも楽しい3時間でした。

 

5、うきな会・定例会

 6月14日、カラオケ喫茶「うきな」(正式店名は、「うきな&はまゆう」)で、うきな会(正式名称は俵津カラオケクラブ)の定例会がありました。この春、会長の市川以世男さんに声を掛けていただいて、わたしたちは夫婦で入会させていただきました。

 30年やった元区長会夫婦仲間の「昭平会カラオケクラブ」が自然解散してからしばらく空きがありましたが、新しい仲間の皆さんとまた旅路が続けられます。ありがたいことです。

 うきな会は、西予市文化協会明浜支部にも所属していますので、また明浜の大会などにも出る機会があるかもしれません。

 それにしても、「うきな」は俵津唯一の娯楽施設。その存在意義は日に日に高まっていると感じます。俵津をおもしろくする場所の大事な一つ、です。ぜひ、みなさん!行ってみてください。利用してください。

 

6、「長崎東海日誌について」を読む日々

 長崎東海研究会(山下重政会長、会員6人)の会員の一人が、このわたしのブログに「長崎東海日誌について」を連載してくださっています。2024年の9月1日の第1回から2年余。先月末で26回を数えます。この方のご奮闘で、〈長崎東海日誌〉が俵津のわたしたちみんなのものになりました。スマホやパソコンを持っていれば、だれでもが触れることが出来るようになったのです。

 長崎東海とその日誌は、この俵津のまことに大きな財産だと思います。これを活かすことができれば、わたしたちはまちづくりの大きな成果を得ることが出来ます。魅力ある東海の人と行動を知れば、わたしたちの人間理解が深まり、日々を生きる行動指針を自ら獲得できるようになると思います。この地で、誇りをもって、自信をもって、生きることもできるようにもなるでしょう。元気ももらえます。

 わたしは日々「長崎東海日誌について」を読ませていただく幸せを感じています。とくに今回(26回目)のものなどは、東海の魅力が横溢満載でこころが自然と踊って来ます。笑いが湧き出てきます。おおー!とか、ホー!とか、ふふ!とか、ハハハ!とか、声がでてきます。

 明治35年から昭和3年まで俵津で生きた東海。その毎日が今もそこらあたりにあるように思えてくるときがあります。あるいは、俵津は、いまのわたしたちより豊かで充実した生きる喜びにあふれた日常をもっていたのではないかと、ふと思う時もあります。

 あと十数回でしょうか。これからも楽しみにしています。

7、無茶々園の、ヴィジョン

 最後にもう一度「無茶々園」の話題に戻りましょう。やはり、その〈未来〉が気になります。

 50周年記念式典の時にもらった「MUCHACHA  MAGAZINE」という記念誌があります。その最終章に「無茶々園の、ヴィジョン。」がありました!「わたしたちは、50年という節目にこの先の50年、100年に向けて 何に取り組むべきか、何をめざしていくのか、立ち止まり、いま一度じっくり考えてみました。MUCHACHA  MAGAZINE、最終章。これからの無茶々園の道しるべになる思いを、言葉にしてお届けします。」。そう無茶々園は言います。

 彼らはヴィジョンをつくるために考え尽くし、「広がる」のか「広げる」のかと問い、最後にたどり着いたのが「つなぐ」という言葉だったと言います。地方の消滅、日本農業の消滅がいわれる危機の今、まさに真正面からの言葉だと思います。「つなぐ、いとなみを 無茶々園のミッション」として挙げている五つの「つなぐ」をここに写しておきます。

 

1 人と人をつなぐ

一人ひとりの歩幅を大切にしながら、誰もが役割をもち、地域全体で支え合う。違いを認め合い、足りないところを「お互いさま」で補い、誰もが安心し、やりがいを持って暮らせる社会を育みます。

2 地域と地域をつなぐ

共に生きていくための「大きな自給」を築くこと。単なる物の交換ではなく、互いの健やかな暮らしを想い、支え合う。共感し合える他の地域と信頼を築き、対等に助け合える関係を広げていきます。

3 環境と経済をつなぐ

自然を敬い、その循環を確かな実りに変えるものづくりを。目指すのは、自然を守ることが、そのまま地域を潤す仕組みです。食べる人はもちろん、働く仲間の健やかな日々を大切に考え、この地で無理なく稼ぎ続けられる持続可能なモデルを広げていきます。

4 仕事と暮らしをつなぐ

仕事で大切にしている自然への想いを、日々の暮らしにも。食べ物やエネルギー、環境への意識を等身大の行動へと重ね、仕事も生活も分け隔てなく、自然と共にある豊かな生活文化を育みます。

5 過去と今を未来へつなぐ

「今だけ、自分たちだけ」ではなく、100年先を生きる人たちへ。これまでつむいできた物語を大切に受け継ぎ、次世代にこの景色と暮らしをつないでいく。「みんなにとっての幸せ」を問い続けます。

 

  • 「MUCHACHA MAGAZINE」は、とてもよく作られたいい本だと思います。ここには狩浜という里をアルカディア(ユートピア)にした無茶々園の50年の成果が詰まっています。絵もいい。写真もいい。デザインもいい。風景もいい。人たちの顔もいい。紡ぎだされた文章もいい。ここには豊かさの形そのものがあります。

 どうか手に取って見て下さい。まだ残部があるそうなので、無茶々園に電話して見て下さい(右のリンク欄から入って調べてください)。

                        (2026・6・15)