虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

彼らに、言って聞かせる言葉はないか。

 自民党国会議員に、言って聞かせる言葉は、あるだろうか?

 ある。山ほどある。星の数ほどある。鳥取砂丘の砂の粒ほどもある。国民の8割が怒っている、その怒りの言葉が、それだ。怒っていない(と思われる)残りの自民党支持者たちの中にも(声に出しては言えないだろうが)、忸怩として「これではいけない。何かを言わなくては。」と思っている人たちはいるだろう。

 だが、問題は、彼ら自民党国会議員に果たして「聞く耳」があるか、ということだ。ない。誠に残念ながら、ない、とわたしは思う。馬耳東風、馬の耳に念仏、蛙の面に小便・・・(馬や蛙に失礼だが・・)。

 彼らはおそらく「証人喚問」にも「第三者委員会の設置」にも応じないだろう。政倫審(政治倫理審査会)でもう禊は済んだと思っていることだろう。こんなことで許されていいのだろうか。いいはずがない。

 自民党は派閥の政治資金パーティー裏金事件を受け、派閥に代わり党本部として中堅・若手議員教育を来月開始する方針を固めたという。人材養成の党内組織「中央政治大学院」を強化するということだそうだ。

 これって、おかしくないか。誰が「教育」するのだ。犯罪を犯した党のリーダーたちが若手議員に向かって何を言うのだろう。より巧妙なバレない「裏金作りの方法」でも教えるというのだろうか。

 わたしが僅かに期待するのは、前回でも触れた村上誠一郎さんだ。村上さんは「石橋湛山」を師と仰ぐ。範とする。確かに石橋湛山は、それに値する人物だ。かつて自民党の首相を務めたこともある人だったから、村上さんにとっては余計にふさわしく思えるのだろう。

 それはいい。けれども、範とし師とする人は、もう一人いるのではないか。

 孔子、である。『論語』である。「最上至極宇宙第一の書」(伊藤仁斎)、これこそが自民党議員(のみならず政治家全員)の立ち返る場所ではないのか。「聞く耳」を取り戻して、「聞くべき言葉」ではないか。

 『論語』は、政治家の適格性を判断するリトマス試験紙である、試金石である(とわたしは思う)。これを読んで胸を熱くするような人でなければ、政治家になってはいけない。願望を込めてわたしは、そう思う。

 村上さんには、若手50人ほどを引き連れ、新党を立ち上げ、幕末の吉田松陰島津斉彬のような立場(役回り)を演じていただきたい。ゼヒ!

 さて、『論語』。すばらしい訳書、あります! 高橋源一郎さんの『一億三千万人のための『論語』教室』(河出新書。1200円+税)

 二階俊博氏は裏金で3500万円ほども書籍を買ったという。村上さんには、数百部買って頂いて心ある若手議員教育の「テキスト」にしていただきたいと思う。

 折角の機会だから、わたしが読んで感動した条(499条すべてだが)の一つだけ(35)をここに取り上げさせていただこうか(原文の読み下し文は省略して、高橋さんの訳の部分のみ)。

 

 魯の君主、哀公がセンセイにこんな質問をした。

「どうしたら、国民に政府を信頼してもらえるだろうか。ぜひ、教えを乞いたいのだが」

 すると、センセイは哀公に向き合うと、はっきりこうおっしゃった。

「よくお聞きください。大切なことは、行政のトップにウソをつかない人を置くことです。そうすれば、黙っていても、国民は政府を信頼するようになります。その逆に、ウソつきをトップに据えてご覧なさい、政府への信頼は地に落ちて、誰も信用しなくなってしまいます」

 (センセイ、つらすぎて、わたし、この部分を平静な気持ちで訳せません……ちょっと、現代日本に降臨して「喝!」ってやってもらえないでしょうか

 

 どうでしょうか、この高橋さんの訳。太字部分の高橋さんのコメントも絶妙です!

 さあ!政治家の皆さん!この「高橋さん論語」で広大で誇らかな政治の宇宙を切り拓いてください!「仁者」になってください!「君子」になってください!それが今日本に一番必要なものなのですから。

※ 高橋さんは、別な条(76)のコメントでこんなことも書いている。

(『論語』を読んでいると、「修養」や「礼節」ということばから想像される、古めかしい倫理の世界ではなく、そこにはもっと別の世界が存在しているように思えてくる。それは、ソクラテスアリストテレスの哲学にも似ているし、ときには、マルクス唯物論や社会科学的なものにもです。そりゃそうでしょう。なにしろ、センセイの学校は、現実を変革する政治家を養成することを目的とした場所だったんですから。)

 世界の古典の中でせめて『論語』くらいは、生きているうちに読みたいなと思っていた。でも、本屋に並んでいるいろいろな学者の訳の『論語』、わたしにはどうにも難しくて手に取る気がしなかった。そこに、大好きな作家の高橋源一郎さん訳の『論語』が出た、しかも新書で。これだ!と思って買った。読んだ。おもしろかった。

 むかし教科書に載っていた論語の数条でわたしは、「孔子先生の学校はなんか楽しそうだな」という感触だけは持っていた。高橋さん訳でその気持ちはますます高まった。

 

 『論語』で思い出したことがある。中学3年の三学期頃だっただろうか。歴史の先生で二宮先生という人がいて、突然という感じで、『論語』を生徒のわたしたちに語り始めたのである。授業そっちのけ、という感じだった。先生のあの情熱の出何処は何だったのだろう? と今でも時折思う。あの時代は日本が「逆コース」を歩み始めたころで勤評闘争などあって、心ある先生たちはずいぶん悩んでいたのだろう。それが先生を「論語の世界」に向かわせた、とわたしは解釈している。当時先生が話された内容はまったく覚えていないのだが。

 どうにもならない、むなしい、現在の日本の政治の世界を思いながら、希望の言葉を見つけたい思いで今日は書いてみた。

                       (2024・3・26)