2023-09-01から1ヶ月間の記事一覧
地域が見える「東海日誌」 冨永 泰行 “明浜の赤ひげ”こと長崎東海先生について10回にわたり述べてきた。1901(明治34)年から昭和初期までの「東海日誌」が残されていたおかげである。日記資料というのは個人の記録であり主観的なものであるが、その人の…
政治家・長崎東海先生 冨永 泰行 中国の故事に「小医は病を医(いや)し、中医は人を医し、大医は国を医す」と。現代においても医師でありながら、政治家になり「世直し」をめざす人は少なくない。長崎東海先生は「中医」「大医」をめざしたのだろうか。 土…
「貧病人は銭取らず」 冨永 泰行 山本周五郎の「赤ひげ診療譚」では新出去定(にいできょじょう)先生は、大名や富豪からは高い医療費を取り、貧乏人からは取らなかった。 “明浜の赤ひげ” 東海先生はどんな対応をしていたのか。「南予案内」(1910年刊)…
東海先生の外科的治療 冨長 泰行 医療技術の進歩の歴史は一般的には記されても、ある地域・ある時代の住民が実際にどんな医療を受けられたのかは、あまり語られてこなかった。 明浜の赤ひげと言われた長崎東海先生は、愛媛に来る前の土佐時代から乳がん手術…
東海先生のあくなき分院構想 冨長 泰行 明浜への野福峠のトンネルを抜けると宇和海が一望できて心が洗われる思いだ。春にはつづら折りの道沿いに見事な桜が咲き誇る。遠くに戸島、日振島が一望できる。俵津から法華津湾岸を西に行けば、高山と大崎鼻には元ハ…
伝染病と対峙する東海先生 冨長 泰行 明治期、コレラ・赤痢等伝染病の隔離のために県内に避病舎(隔離病舎)を500以上設置したことは先述した。いかに運営していたか疑問であったが、東海日誌でその疑問は解けた。 1911(明治44)年9月18日早朝、往…
いつでもどこでも往診 冨永 泰行 “俵津の赤ひげ” 長崎東海先生の医療活動で一番驚かされるのはいつでもどこでも往診を請われれば出かける姿勢だ。 往診の範囲は、俵津から法華津湾岸を西に、渡江、狩浜、高山、田之浜、そして大崎鼻を回り北上すれば三瓶方面…