虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

さて、俵津は・・・

 前回、無茶々園について語り始めた職員や生産者の紹介をしながら、いろいろな感慨を覚えた。

・取材者の“言葉を引き出す力”が大きいのだろうけれど、それにしても、あんなふうにはわれわれ、とても語れないよなあ。

・無茶々園には、ホントにいい職員が来てくれたなあ。

・それは、無茶々園の魅力が、そうさせたのだろうけれど、それだけではないよなあ。やっぱり狩江とそこの人たちの魅力が、彼らをとらえたのだろうな。

・さて、俵津は、どうなんだろう。あんなふうに味のある豊かな言葉を紡ぎだせる人間が何人いるだろう?(わたしなんか、とてもとてもだめだなあ)。

・俵津に「無茶々園」のようなものを創り出す力が、はたしてあるだろうか。俵津は他所の人をここに住みたい、ここで働きたい、と思わせることができるだろうか。・・・・・

 とまあ、そんなことどもだ・・・。

 俵津は俵津。そんな“対抗意識”(のようなもの)など持たなくていいのではないか。もちろんそうだ。そうではあっても、人が生きるのは、生涯のほとんどを過ごすのは、やはり俵津や狩江が「村」であったころの行政単位としての小邑・字(あざ)だ。一人の人間が責任を持てる範囲というか、住民の仲間たちが何かを共同で熱い共感を保ちながらつくっていける適度な空間の中だ。狩江村の共同体員たちが、長い年月をかけて築きあげてきたものに思いをはせておくことは、俵津のまちづくりにとって無駄ではないだろう。

 何が、狩江をそうしたのだろう?前にも書いたが、永山福重さんは、それは教育の差だという。教育力の差だという。

 確かに狩江はいわゆる学校教育に熱心なところであった。大学までの進学率も高い。それは大きな要因になる。

 もう一つは「地域の教育力」という言葉があるが、それだ。地域が、風土が、それを創った。狩江の人たちは、その歴史の中で、その条件を活かして地区を守り育てる明確な意識を持つようになったのだろう。

 そこに、石灰岩(メッカラ石)の「石垣」の力は、とてつもなく大きく作用しただろう。人が自分の住む地区を守っていかなければならない、という強烈な意識を代々持って伝え続けて行こうとするとき、こういう大規模な目に見えるものがどうしても必要になる。かつて片山元治はそれを「狩江は“化石”が生きる町だ!」と表現した。宇和島市遊子水荷浦の段々畑をみてもそれは分かるだろう。あの見事な石垣段があるからこそ、過疎化がどんなに進んでもそこを守ろうとする“熱い思い”を持った人たちが出現し続けるのだ。

 狩江の段畑にまだミカンが植わってない頃の写真を見たことがあるが、ミカンで石垣が隠れていないそれは素晴らしい広大な白い世界だった。水荷浦の何倍もある圧倒的な斜大地だ。

 いまそこは、「ジオパーク」に認定されて、守るべきものとしてさらなる地平へのぼろうとしている。

 もう一つ、狩江をつくったものがある。「まつり」だ。

 まつりは狩江の生命ともいえる、狩江と狩江人を動かすエンジン・心臓だ。祭りにかける狩江の人たちの思いの強さは、俵津のわたしたちとは次元の違う強烈なものがある。

 それは、神輿は○○地区が、牛鬼は○○地区が、船渡御はどこそこが、踊りはどこそこが、というように受け持ちを決めて、その地区民全員が結束して守り抜いていくことで維持されていく。俵津は、祭りそのものを、青年団に丸投げしてしまっていたので、地区民全員が祭りを作る・維持していくという意識が育たなかった。この差はどうしようもなく大きい。

 かたくなな意地、強烈な誇り、そういうものがなくては、村は維持できない。

 海岸の国道からみるミカンの山々、石垣に植えられたその園地は、どこも荒れていない。しっかりした「風景」が存在している。俵津や他の地区にみられる荒廃園はないのだ。地域の教育力というものの見事な結晶と言わなくてはならないだろう。

 さて、俵津。これから、どうする?

 狩江や無茶々園のマネはできないのだから、俵津独自のやり方を編み出すほかはないだろう。

 課題は、はっきりしている。

・「さくらのまち」をつくる。

・ミカンの荒廃園を元に戻す。

・海に魚介類をあふれさせる。

・人口を増やす。

・人を呼び込む。

・公民館に集まる。

・楽しみを作る。

 中心になるのは、ゆめさく・天晴農園・新こせがれ会・スマイルなどだろう。(われわれ老人会も加えていただこうか。)

 「ゆめさく」(宇都宮由美子代表)が、新しいチャレンジを始めようとしている!あの農協本所だった建物を再利用しようとしているのだ。いま、老人会の「じじばばスーパー演芸会・2022」に芝居で応援参加してくれている中、代表がその構想を語ってくれたが、とても素晴らしいものだ。農協の承諾を取り付け、資金のめども立っているそうだ。2階はこうする、1階はこう、とキラキラ目を輝かせて語る姿は頼もしい。あのあたりと公民館が楕円の二つの中心になって俵津が賑わいを取り戻せば、俵津の可能性の扉が開いていくだろう。いつかこのブログに原稿を書いていただきたいものだ。

 無茶々園のホームページから呼び起こされた感慨を綴ってみた。

                      (2022・9・27)