虹の里から

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冨長さんの東海記(9)

          政治家・長崎東海先生

                     冨永 泰行

 

 中国の故事に「小医は病を医(いや)し、中医は人を医し、大医は国を医す」と。現代においても医師でありながら、政治家になり「世直し」をめざす人は少なくない。長崎東海先生は「中医」「大医」をめざしたのだろうか。

 土佐から明浜に移転開業して5年目の1907(明治40)年、法定の郡市医師会が設置されることになった。3月に東宇和郡医師会の結成総会が卯之町で開催され19人が参加した。岡芳太郎会長と3人の幹事が選ばれ、東海先生は幹事の一人となった。13年から4年間は郡医師会長に選任され、14年7月の県医師会の結成にも参加した。

 医師会役員としては、伝染病の予防や医療の交流、会員の身分を守る司法関係などがあるが、とりわけ看護婦・産婆養成の活動は注目される。

 愛媛における看護婦養成は日赤が1894年に看護婦養成所を設置し、以後郡市医師会にも広がっていった。

 長崎東海は、1908年に「海浜産婆看護婦養成所」を立ち上げて実績をつくり、11年には郡医師会主催で「簡易産婆講習会」を、東部(野村)、中部(卯之町)、海岸(俵津)の3カ所で開催。いずれも夜間講習で自身連日のように講義した。以後も講習会は続けられ、13年「海岸産婆業組合」結成に結実。こうした地域における人材育成への貢献は貴重な実績だ。

 また、東海先生が政治活動に一歩踏み出したのは07年ごろ。この年9月には郡会議員となり、翌年俵津村会議員にもなった。日露戦争の「戦後経営」が政策課題となり、教育振興や道路事業が論点の時代であった。

 東海先生は翌年開校される農蚕学校の開設場所や道路拡張事業では俵津線等に尽力した。郡会の当初議会では1~2週間卯之町に「出張」、病院も大変。

 土佐自由党の系譜からか政友会の立場で、08年の衆議院選挙ではその当選のため奔走した。当時の県内選挙区は松山市(定数1)、郡部(7)。東海先生は郡部の大選挙区で渡辺修、武市庫太の当選を期した。

 また、船による移動が主流の時代。08~09年に東海先生は宇和海沿岸の定期航路の充実のために精力的に動いた様子がある。結果、11年に宇和島運輸八幡浜宇和島の定期航路ができて吉田湾・法華津湾・三瓶湾等をつなぐことができた。

 政治活動に熱心な東海先生であったが、11年の政友会の「県議候補者」に推薦されながら、家政・業務・脳症の障害があるとして固辞した。この年2期目の群議にも出なかった。この時点で軸足を町医者に置いて生きる決意をしたように思われる。しかし以後も、原敬政友会総裁の演説会(13年松山)、「憲政の神様」といわれ普選運動をすすめた尾崎行雄(13年卯之町)や労働農民運動の指導者賀川豊彦の演説会(27年宇和島)に参加している。政治熱は続いた。

                      (冨永 泰行・近代史文庫会員)

          2023年(令和5年)9月4日月曜日、愛媛新聞「四季録」掲載