虹の里から

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冨長さんの東海記(5)

        伝染病と対峙する東海先生

                      冨長 泰行

 

 明治期、コレラ赤痢等伝染病の隔離のために県内に避病舎(隔離病舎)を500以上設置したことは先述した。いかに運営していたか疑問であったが、東海日誌でその疑問は解けた。

 1911(明治44)年9月18日早朝、往診患者を腸チフスと診断、俵津村役場と駐在へ届け、午後3時避病舎に収容。避病舎は村の西方の岬にあった。以後毎日往診。また、東和病院の2人の看護婦が隔日で交代勤務した。10月13日には全治の見込みとなり翌日には「付添看護婦本日限り」と村長に通知した。

 また患者の実母が避病舎に加持祈禱を入れる等の伝染病取扱規則に反する行為もあった。東海先生は「自分の娘と言えども村費をもって避病舎に収容している上は、公有患者である。自分勝手の行いはよくよく注意すべき」と懇々説諭した。19日全治届を提出、村役人や巡査が消毒を厳行し退所となった。

 約1カ月間の避病舎入所は公的責任で行われている様子が分かる。入所中は東海先生が「村医」に嘱託され、看護費も村費負担であったものと思われる。

 「スペイン風邪」は18(大正7)年秋から3年間県内でも猖獗(しょうけつ)を極めたが、東海日誌から地域での感染実態がよく分かる。

 東海先生は俵津村での流行初期は出張中で、帰ってから記録している。村ではこの年11月2日に「ちんこ芝居」が開催された頃から「悪性感冒」が流行し始め、全村に広がった。学校や工場も1週間から12、13日閉鎖され、東和病院でも1日160~170人の患者があふれた。避病舎の往診をしていた浜田医師や看護婦、車夫なども罹患(りかん)した。臨時に雇い入れた車夫は2日にして罹(かか)り死亡。「常識をもって判断できざる有様」となり、約1カ月間に村で26人の死亡者を出したと記している(同年の俵津村人口は2490人)。

 トラホームは明治末ー大正初め、児童の20%前後に感染したとされている(県統計書)。東海先生も12(明治45)年11月、検査を実施。検査児童306人のうちトラホームは138人であった。村当局と話し合い、2カ月間は「義侠(ぎきょう)的に」無料で治療、それ以降は半額とすることとした。後に東海先生は深町県知事よりトラホームの無料治療について表彰を受けた。

 06(明治39)年11月、川之石の穀物商の子どもからペストが発生した。県衛生係は技師・看護婦・巡査等職員35人を物々しく派遣、現地の検疫医なども集め検疫事務所を開設した。このペスト騒動では、「東宇和郡予防医」を務めていた東海先生も隣郡の川之石に支援に向かった。

 その他にも、種痘の接種は毎年のように実施。大正期には結核が社会問題化し、15(大正4)年の県結核予防協会発会式にも参加し北里柴三郎志賀潔の講演を聞いている。まさに伝染病との闘いがこの時期の医療の重点の一つであったのだ。

                     (冨長 泰行・近代史文庫会員)

         2023年(令和5年)8月7日 月曜日、愛媛新聞「四季録」掲載