虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

紙芝居・「長崎東海ものがたり」が作られます!

 ある日のことでした。

 長崎東海研究会(山下重政会長、会員6人、会員募集中)のお世話をして頂いている西予市役所の浅井裕史さん(スポーツ・文化課)から、会員に次の様なメールが届けられました。

 

各位

お世話になっております。

皆様にお願いがございます。

「長崎東海さん」の紙芝居を本年度予定しています。

「よみきかせ あけはま座」の協力も得ており、私たちの会としては「8~12のコマ・エピソード」を提供したいと思います。

あけはま座では、明浜小学校で毎週月曜日8時から15分の読み聞かせを行っています。

現在、明浜の紙芝居「狩浜のたこ伝説」「高山のかっぱの恩返し」2つ作っています。3本目として「東海さん」を!

※つきましては、おひとり2~3の一押しエピソードを提示いただければと思います。

 ①生誕 ②俵津へ ③医療・人助け ➃ずっこけ ⑤あかひげ ⑥ラジオ ⑦かご   ⑧宴会 ⑨交通 ⑩海路 ⑪自然・災害 ⑫借金(人助け)

 想定は、小学生向け。場面とその内容をお願いします。

よろしくお願いします。

 

 わたしたちの研究会も、やっとここまで来ました。西予市役所には絵のうまい職員さんがおられるそうです。出来上がる日が楽しみです。

 試みに、わたしも「①生誕」を書いてみました。

 

《長崎東海ものがたり

 みなさん、こんにちは。

 明浜・紙芝居の第三弾は、“俵津の赤ひげ先生”こと長崎東海先生のものがたりです。明浜小学校には、東海先生の残した学校の門柱や碑があるので、知っているひともいると思います。

 長崎東海先生は文久三年(1863年)、高知県高岡郡松葉川村七里(旧窪川町、現四万十町)に、お父さん・長崎美五郎、お母さん・友の長男として生まれました。

 ペリーの黒船が来てから10年後、歴史が江戸時代から明治時代に変わった明治維新の5年前、世の中がおおきく動いていた頃でした。

 東海先生は、子供の頃から、なんにでも興味を持つ好奇心旺盛な人でした。生家の近所には市川病院があり、窪川には明治維新で活躍した谷干城(たに たてき/かんじょう)の一族の一人が開いていた病院などもあって、中でもとりわけ、お医者さんへの思いが強かったのでしょうか、高知県立医学校で学び、19歳で卒業しました。

 その後、破傷風血清療法を確立して世界的に有名だった北里柴三郎博士が起こした東京北里研究所で修行して、明治23年、生まれ故郷の松葉川七里で医院を開きました。

 東海先生は、内科はもとより外科にもりっぱな腕を持っていて、数々の難病と言われる患者の手術をして全快さしたことが多かったので、地元はもちろん周辺のあちらこちらからも沢山の患者さんがやって来て、名医の名をとどろかせました。

 明治35年に俵津にやってくるまで、高知の人たちに尊敬されながら、おおくの患者さんの病気を治してきたのでした。

 

 どうでしょうか?

 文章が固すぎますか?長すぎますか?絵になる文章になっているでしょうか?「生誕」の項(コマ・ページ)でこのように高知時代を一括してよいものでしょうか?東海が医者を志した理由として、明浜の子供たちの心を揺さぶるようなキョーレツなエピソードがあれば、この最初のページとしていいのですが、なにせ俵津へくるまでのこと、とくに少年時代のことはよくわからないのです。少年時代、どんな子供だったのか、それが書き入れれれば一番いいのですが‥。

 わたしは、会員のみならず俵津のひとたち・市役所のひとたちが、12項目ひとつひとつに文章を出し合い、知恵を出し合い、ここはこうしよう、ここにはこんな言葉を入れよう、などと話し合いながら1コマ1コマを作っていけたらと思っています。声に出してみて、文章が読みやすい、聞き取りやすい、流れがよいということも大事なことですから、みんなで朗読しあってみることも必要だと思います。あまり子供たちに迎合しすぎる(?!)のはよくないと思いますが・・。

 いずれにしても、市役所のみなさん!お世話かけます。ありがとうございます。

 こどもたち、俵津のみなさん!期待して待っててください!

                         (2021・7・17)