虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

冨長さんの東海記(10)

          地域が見える「東海日誌」

                       冨永 泰行

 

 “明浜の赤ひげ”こと長崎東海先生について10回にわたり述べてきた。1901(明治34)年から昭和初期までの「東海日誌」が残されていたおかげである。日記資料というのは個人の記録であり主観的なものであるが、その人の行動や思いがどんな時代背景の中で起こっているのかを考えるのは重要な研究である。近年県内では川東竫弘先生による「高畠亀太郎日記」「岡田温日記」等の翻刻がある。

 「東海日誌」は地域の第一線医療の記録として外来、往診、入院、手術、伝染病への対応等詳細に記録されている。こんな医師日記はあまり見られない。

 同時に東海先生は郡議や村議であり、郡制や地方政治もよく分かる。郡制は愛媛では1897(同30)年に施行され、1923(大正12)年に廃止となる。東宇和郡役所は卯之町に置かれ、郡長、郡議、郡役所職員がいた。日露戦争後の道路・港湾改修事業や宇和海航路の拡充に奔走した足跡がよく分かる。東海先生は郡議1期で軸足を医療活動に置くが、10(同8)年には郡議に再登板している。

 村議は「1級選挙」「2級選挙」の記載がある。調べると、納税額が多い者から納税総額の半分以上にあたる者が半数の村議を、残りの者が半数を選出した不平等な仕組みであった。また、東海先生は毎年正月の学校での拝賀式に参列し、天長節新嘗祭(にいなめさい)などの天皇制確立期の諸行事を先頭に立って担った。明治天皇大喪の礼大正天皇即位式、それに関する村の動きも分かる。日露戦争では出征兵士を「天皇陛下万歳」と送り出し、旅順陥落などの後は村長・校長・吏員らと祝宴。他方、戦死者の「遺骨葬送式」を挙行し、医師としては近親者の戦士で狂乱する女性の診察も・・・。

 第1次大戦でも青島陥落を祝い、日章旗を立てて船を出し「遊山会」、青年たちは提灯行列で祝った。まさに村から支える戦争国家への道が垣間見える。

 村の生活様式や民俗の研究にも有意義だ。和霊祭に宇和海浦々から船を連ねて向かう姿や、山田薬師祭、法華津湾の村祭りの様子もうかがえる。テレビ・ラジオのない時代に、村に訪れる壮士芝居や相撲興行。「初老宴」や還暦祝い、「尚歯会」(老人会)、亥(い)の子、「八日吹き」、電信電話の開設、養蚕の繁忙期の様子。大崎鼻での第2鶴島丸沈没事件(12年)、初のカレーライス(17年)などなどー。

 東海先生は年に何度か上京するが、その旅の事情も興味深い。07年4月2日、娘の進学のための上京には、俵津から宇和島を経て八幡浜ー川之石ー三崎、そして別府に1泊。そして長浜ー高浜ー今治多度津ー高松を経由して神戸着。大阪で1泊の後、汽車で新橋に着いたのは何と7日の午前であった。この長旅、この時間感覚に驚くが、一面豊かさも感じられる。四国新幹線が叫ばれる今日から見て。

                     (冨永 泰行・近代史文庫会員)

         2023年(令和5年)9月12日火曜日、愛媛新聞「四季録」掲載

 

●morinoshimafukurou から

 「冨長さんの東海記」は今回で終わりです。

 長崎東海、まさに一代の傑物というにふさわしい人物だと思います。冨長さんに東海の全体像が分かる記事を書いていただいて、心からありがとう!を申し上げたく思います。

 わたしは今、「移住者」についてよく取り上げておりますが、東海さんこそその俵津移住者の代表的存在と言えるのではないでしょうか。東海さんは俵津で自分の生を大きく花開かせた。生ききった。俵津を活かしきった。そして、俵津を創った。わたしたちが東海さんから学ぶことは実にたくさんあるのではないでしょうか。

 さて、わたしたちの「じじばばスーパー演芸会・2023」。いよいよ一カ月後に迫りました。そこでは、あけはま座のみなさんが「プロジェクター紙芝居・長崎東海ものがたり」を演じてくれます。長崎東海研究会会長の山下重政くんがまず「東海先生」の紹介をし、その後浅井裕史くんたちが紙芝居、そして最後にはダンスまでもある?!という大スペクタクル(!)・・・とか。どんな展開が待っているのでしょうか。楽しみです。みなさん!ぜひ来て見てください。10月8日、ごご1時からです!

                        (2023・9・13)