虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

冨長さんの東海記(1)

 愛媛新聞に「四季録」というコーナーというかコラムというか、大学教授など愛媛の識者の方々が書かれる欄があります。

 そこに、わたしたち「長崎東海研究会」のメンバーになっていただいている愛媛近代史文庫会長の冨長泰行さんの、長崎東海さんについての記事が載っています。7月10日より数回にわたって書かれるそうです。

 このブログを見ていただいている俵津のみなさんに、ぜひとも読んでいただきたくて転載の許諾をいただきました。地域のあちこちで話題に供していただければ嬉しく思います。

 冨長さんによれば、東海さんの「日誌」は「一人の医師の書いたものとしては稀有のものであり、全国レベルでみても非常に価値の高いものである」ということです。わたしたちは、そして俵津は、まことに誇っていい「偉人」を持っているということになりますね。

※(原文は縦書きです)。

 

          明浜の赤ひげとの出会い

                      冨長泰行

 6年前の愛媛新聞に「明浜の “赤ひげ先生” 顕彰」というタイトルで、長崎東海医師の顕彰碑が明浜小学校の敷地内に建てられたという報道があった。

 私は県内の医療史に関心を持っていたことから、翌年2月開催された俵津産業文化祭の長崎東海先生資料展を覗いてみた。現地で東海先生を顕彰する運動の中心を担っていた山下重政氏にご案内していただき、顕彰碑や東海のお墓なども見学した。

 東海先生は幕末の1863年土佐生まれで、明治中期から郷里の松葉川村(現四万十町)で開業していたが、1902(明治35)年東宇和郡俵津村に転じて東和病院を開業。南予各地に往診、外科的治療も積極的にとりくんだ。東宇和郡医師会長も担い、政治に関心を持って政友会の郡会議員として活躍した。28(昭和3)年死去、遺言通り俵津に墓地も造られている。

 5年前の4月山下氏らとご子孫を高知に訪ね、長崎東海日誌など資料・写真を紹介いただいた。日誌は01(明治34)年から28年まで(25年は欠)あり、医療活動から政治・社会状況まで含む詳細な記録であった。早速これを借り出して、写真撮影をした(現在西予市に寄贈)。

 そこから東海先生について研究を始めた。明浜の地元メンバーや西予市関係者等と「長崎東海研究会」。この年10月から毎月1回ペースで西予市に集い、24回を重ねた(コロナで2年余り休み)。筆書きされた日誌の翻刻には地元学芸員の力が頼りとなった。愛媛大学山口由等研究室(経済史)にもご協力いただいた。

 さて、「赤ひげ」に明確な定義はないのかもしれないが、山本周五郎の「赤ひげ診療譚」によるものであり、ほとんどの人にはイメージできる。

 小石川養生所の責任者の新出去定(にいできょじょう)医師。口数少なく無骨だが、厳しい現実から決して目をそらすことなく、徒労と知りつつも貧しく不幸な人々の救済を願い、医師として最善を尽くす。「社会の諸悪徳のもとは貧困と疾病にあり、その根源は政治の無策と腐敗にある」とする骨太の理想的医師像とも言える。

 医療生協に勤めていた頃、松山で前進座の「赤ひげ」公演を千人の組合員に観ていただいたこともあった。もちろん黒沢映画では三船敏郎加山雄三が出演し、近年ではNHKドラマで船越英一郎中村蒼が出演した。

 歴史と文学は異なるので、簡単に「赤ひげ」と形容してよいものかどうかは分からない。ネット検索すると「○○の赤ひげ」と呼ばれる医師は各地にいるようだ。しかしお金の有る無しにかかわわらず、困った患者がいればいつでも、どこでも診る姿勢は医師の原点になるものだと思う。東海先生はそんな姿勢を持った医師であったのではないか。二宮敬作の活躍した西予で70年後に活躍した東海先生の足跡を以下に見ていきたい。

                     冨長 泰行(近代史文庫会員)

                        四季録2023.07.10付

 

                       (2023・7・12)