「貧病人は銭取らず」
冨永 泰行
山本周五郎の「赤ひげ診療譚」では新出去定(にいできょじょう)先生は、大名や富豪からは高い医療費を取り、貧乏人からは取らなかった。
“明浜の赤ひげ” 東海先生はどんな対応をしていたのか。「南予案内」(1910年刊)掲載の病院広告では、「来るものは拒まず去る者は追わず、貧病人は銭取らず」とあり、病院の看板(大正末以降)には「証明ある貧民は無料」とされている。日記にはどう記されたか。
1902(明治35)年6月には膝関節炎手術をしたが「これは窮民(きゅうみん)にして無料救療患者なり」と記した。
11(同44)年8月には白浦地区の患者を往診したが「同家は赤貧者にして見受ける所生活難なり」と、往診料として差し出された1円のうち50銭を見舞いとして返却。大いに喜ばれた。
12(同45)年3月田之浜の窮民患者某(69歳)の面部シフィリス潰瘍を局麻手術したが、医療費は無料とした。さらに7月には白浦に往診したが「貧家にして救を乞う、之を容れる」と記した。このように貧困者には医療費免除等を実施した。
さらに16(大正5)年9月には「窮民救療広告紙を、野村・下宇和・貝吹・横林・惣川の五か村役場に送る」と記している。困窮者の医療費免除申請のようなものであろうか。
行き倒れなどの対応もした。某軒下に行き倒れ人の死亡確認、死体検案したと。
ところで、明治大正期の医療費はどのようになっていたのか。
現代日本の医療費は原則として公定価格であるが、健康保険法施行(27年)以前は自由料金制で、各自の医師が料金設定できた(「診療報酬の歴史」)。ただし、06(明治39)年に医師法が成立する頃から各郡市医師会ごとに診療料金表を決めることになったようだ。
東和病院の医療経営はどうだったのか。医療費の患者負担は盆・暮れの2回払い。旧暦の12月末と7月15日の前後1週間ほどが会計担当が忙しいと例年の日記にある。患者からの徴収と薬屋への支払い等だ。この時期はおのずと患者も減少した。
日露戦争後、06年1月(旧暦年末)には「薬価(患者負担)の払込みが悪く閉口」「自分の開業以来例なきこと」と記した。
08(同41)年2月1日(旧暦年末)には「債鬼(さいき)来る、防戦に苦しむ、当年は金融逼迫(ひっぱく)の為病院収入も六分方なり」とある。「債鬼」とは借金取りのこと。
14(大正3)年1月28日には「薬価の如(ごと)きも平常は八分の集金あるに、本年は漸(ようや)く五分なり」と厳しい状況を記している。決して容易な医療経営のもとでの負担減免ではなかったのだ。
また、東海先生は差別反対の姿勢も明確だった。05(明治38)年戦勝記念宴で、村人の一人がある看護婦に向かって「エタノ子云々(うんぬん)連呼シ止マズ」、東海は「戯言(ざれごと)にも程がある」とその不都合を譴責(けんせき)した。
(冨永 泰行・近代史文庫会員)
2023年(令和5年)8月28日月曜日、愛媛新聞「四季録」掲載
また、東海先生は差別反対の姿勢も明確だった。05(明治38)年戦勝記念宴で、村人の一人がある看護婦に向かって「エタノ子云々(うんぬん)連呼シ止マズ」、東海は「戯言(ざれごと)にもほどがある」とその不都合を譴責(けんせき)した。
(冨永 泰行・近代史文庫会員)
2023年(令和5年)8月28日月曜日 、愛媛新聞「四季録」掲載