虹の里から

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冨長さんの東海記(3)

         東海先生、愛媛に移転開業

                      冨長泰行

 

 郷里の土佐・窪川周辺で医療活動をしていた長崎東海先生は1902(明治35)年5月愛媛・俵津村に移転開業した。

 この年2月東海先生は「宇和島地方開業探検」の旅に出た。長い船旅が興味深い。

 14日午前6時半愛馬「叢雲(むらくも)」で最寄りの久礼港に出て、11時半発の「高陽丸」でひとまず高知に向かい高知中学在学の2人の息子らと会った。深夜1時発の「土佐丸」に乗船して四万十川河口の下田に着。そして清水、西泊等を経て午後6時半に宿毛着。同9時40分発の「第三御荘船」で宇和島に着いたのは16日午後1時半であった。

 17日には俵津を訪ねて地元の木崎浜次郎らを仲介として、開業医・岡村文策とも厚情を深め「当夜をもって当地に転業決定をなす」と日記に記した。

 なぜ窪川から俵津移転を決めたのだろうか。第1には土佐西南部と愛媛の南予地方は経済的文化的交流が大きかった。木崎らも行商で行き来していた様子だ。第2に窪川での医療経営は苦戦していた模様であったこと。第3には何より愛媛の方が医師が少なかった。1898年の医師数は高知県847人、愛媛県541人。人口比で高知は愛媛の2・6倍の医師数だ。

 また東海先生は、医学校卒業直後に、後に八幡浜町長も務める上甲廉医師らとともに西宇和地域で「徴兵員として巡検」したと記している。どうも医師として軍務関係に関与していたことがあるようだ。

 医師というものは江戸時代までは誰でもが看板を掲げられたが、明治に入って医師免許制度ができて、81年からは政府による全国統一の医師開業試験が始まった。それが「試験及第」医師だ。その際「従来開業」の医師も時限的に認められた。「大学・医学校卒」は無試験で開業が許可されることになった。官庁や公立病院の「奉職履歴」医師も認められた。

 1905(明治38)年の東宇和郡の医師数は「大学・医学校卒」5、「試験及第」18、「奉職」2、「従来開業」14、合計39人であった。東海先生は数少ない新しい医学を学んだ学卒医師であったのだ。

 俵津に着任した東海先生はこの年満38歳であった。とりあえず伊井旅館を拠点にして借家の契約や開業準備を進めるとともに、早速着任翌日から求められて往診もしている。6月20日には三瀬村長、伊藤郵便局長、岡村医師をはじめ村の主だった人々を招いて開業の一宴をもった。1年ほどたって「東和病院」の看板を掲げ、03年5月末に正式の開院式を120人の参列で行った。6月には山田分院の開院式も60人の参列で開催した。

 土佐時代と同じく、宅診・往診・廻診をはじめ入院も受け入れた。外科的治療にも積極的に取り組んだ。以下に東海先生の特徴的な医療活動や社会活動を見てみたい。

                   (冨長 泰行 ・近代史文庫会員)

               2023年7月24日・愛媛新聞「四季録」掲載

 

■ morino-shimafukurou から

※ 長崎東海は「試験及第」か?とも、掲載後冨長さんからいただいたコピー欄外にボールペンで書かれています。

※ 冨長さんの連載は、全9回の予定。今後は、④いつでもどこでも往診⑤分院づくりと外科治療⑥伝染病に対峙する東海先生⑦医師会長・政治家の東海⑧明治期の旅と航路⑨村から支える日露戦争天皇制。楽しみに待っていてください。

※ その他の長崎東海先生についての記事もお読みください。右の検索欄に「長崎東海」と入力すればズラーっと出て来ます!

                        (2023・7・31)