虹の里から

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冨長さんの東海記(6)

        東海先生のあくなき分院構想

                     冨長 泰行

 

 明浜への野福峠のトンネルを抜けると宇和海が一望できて心が洗われる思いだ。春にはつづら折りの道沿いに見事な桜が咲き誇る。遠くに戸島、日振島が一望できる。俵津から法華津湾岸を西に行けば、高山と大崎鼻には元ハンセン病患者の詩人塔和子さんの文学碑がある。ご本人が50年ぶりに里帰りした2007年の除幕式には私も稲葉峯雄さんらとともに参列した。

 ところで1902(明治35)年に俵津に「東和病院」を開業した長崎東海先生(39歳)であるが、土佐時代同様に本院ー分院構想を常に抱いていた。着任時に既に宇和の山田村に「山田分院」の構想を持ち、土佐から山崎修斎医師を招いて年内には開院。翌03年6月8日には開院式を開き60人が参加した。爪立峠を乗馬で行き来したが、長く続かず04年9月には閉院した。

 ところがこの時同時に「卯之町計画」を各方面と相談し、05年4月には医師確保のために上京。伝染病研究所に北里柴三郎を訪ね、そこに勤務する「無二の親友」浅川範彦(土佐出身)に頼み込み、院長として坂田主一(熊本出身)の招聘(しょうへい)に成功する。5月20日には安藤知事に直談判して「卯之町病院」開設について合意を取り付け、7月1日卯之町の明治館を改修して開院された。管理運営には妻・兎苗の兄弟である白石正彦を事務長に据えて臨んだ。

 東海先生は坂田院長にどんなロマンを語り着任してもらったのか不明だが、長続きせずに年末には退職。ついで翌06年1月には梛野馨院長、5月には仲沢好太郎院長に代わり「共同事業」としたとある。白石事務長が退職するのが08年9月であり、ここで東海先生との関係が切れたようである。卯之町病院のその後は日誌からは分からない。

 これに懲りずに東海先生は三島村(三瓶)に「三島病院」を計画して09年5月池田龍一郎を院長として開院した。これも翌年3月池田院長退職で閉院した。そのあとは「蔵貫(くらぬき)医院」として下村重正医師に引き継いだようだ。そしてまた、この年10月には寺尾新医師を迎えて「田之浜診療所」の開業届けを出した。翌年5月「寺尾氏は田之浜人民に信用無きをもって今月末で同地を引き上げる」と記した。

 本院の東和病院は維持しつつも、これほど各地の「分院」構想に挑戦したエネルギーは何であろうか。単に経済的な利益のためだけではない。逆に負債を残したものと思われる。

 東海先生は土佐時代から、患者を待つのでなく、患者の元に出かけて診る姿勢であった。より患者に近い場所での医療提供を考えたのだろうか。医療機器の少ない時代には可能だったのかもしれない。

 東海先生は07(明治40)年東宇和郡医師会の発足時には幹事となり、13年には郡医師会長になっていて、地域の医師からの信望は得ていた。

                     (冨長 泰行・近代史文庫会員)

         2023年(令和5年)8月15日火曜日、愛媛新聞「四季録」掲載