虹の里から

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冨長さんの東海記(4)

        いつでもどこでも往診

                  冨永 泰行

 

 “俵津の赤ひげ” 長崎東海先生の医療活動で一番驚かされるのはいつでもどこでも往診を請われれば出かける姿勢だ。

 往診の範囲は、俵津から法華津湾岸を西に、渡江、狩浜、高山、田之浜、そして大崎鼻を回り北上すれば三瓶方面まで。南下すれば、玉津村の深浦・白浦・筋、喜佐方村、吉田湾まで。内陸側は峠(野福峠・根笹峠)を越えた宇和地域、時には城川まで足を延ばした。避病舎(隔離病舎)にも往診した。

 宇和海の浦々には伝馬船で向かい、緩急により櫓(ろ)の数を変えた。定期航路ができてからは汽船も利用した。陸地部は乗馬、駕籠、平坦地は腕車(人力車)を使い、車夫を雇い入れた。

 開業した1902(明治35)年大みそか午後10時過ぎに三瓶の皆江地区から危篤症状との往診依頼。早速伝馬船に乗り込んだが、風波が強まり大崎鼻を回るのは困難となり、高山から徒歩で峠越え。午前2時半患家着。同5時患家発、峠で夜明けを迎え、7時半高山から4丁櫓の船に乗り9時に帰院した。

 06(同39)年4月13日宇和の皆田に往診。午前10時患家から派遣された人夫6人駕籠で出発。帰路、東海の体重が重いため駕籠の底が抜け、「駕より医者が漏れたるは噺(はなし)の種なりとて豪笑止まず」、徒歩で帰院した。

 各地に往診に出かけた際には、ほとんど当地の主治医と「対診」して診断・治療を協議している。真摯(しんし)な態度だ。

 07(同40)年1月27日には高山村より急症往診依頼があり、看護婦同伴、患家で柑頓腸堕(脱腸か)の全麻還納術を施すも整復せず。午前3時帰院した。

 同年9月1日明け方馬を借りて根笹峠より山田村の患家に向かった。喀血患者で主治医と対診。午後3時帰院。

 日誌によるとこの年の往診日数は138日、「廻診」(定期往診)日数は186日である。

 こんなこともあった。10(同43)年4月16日、皆江の牛が難産で獣医も手に負えないと往診依頼があり、4丁櫓で高山へ。徒歩で峠を越え午後9時「患家」着。11時半「難産」終了。

 同年10月13日払暁、魚成小学校教員のため往診。徒歩で野福峠を越え、卯之町から腕車で野村へ、そこから馬で魚成へ。到着は午後3時。主治医と「対診」、肋膜(ろくまく)炎の胸水の穿胸術施行。帰宅したのは翌午後3時ごろ。

 13(大正2)年10月5日未明喜佐方・河内に往診し、午前7時帰途に就いた。夜になって患者入院、流産婦にして胎盤残留処置。午後10時再び喜佐方・鳥首に往診、帰宅は午前1時となった。さらに就床した直後に新田の臨産分娩困難患者の往診依頼があり、鉗子(かんし)摘出術を施し、母子健全に安産させた。

 こうした東海先生の往診は、まさに「医業」ではなく「医道」なのであろう。“働き方改革” が問われる今日、単純にまねはできない。

                       (冨永 泰行・近代史文庫会員)

          2023年(令和5年)7月31日 月曜日、愛媛新聞「四季録」掲載