虹の里から

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冨長さんの東海記(2)

        土佐時代の東海先生

                  冨長泰行

 

 “明浜の赤ひげ” といわれた長崎東海先生は土佐の出身。高岡郡松葉川村(現四万十町)七里(ななさと)に生まれ、1884年高知県立医学校を卒業し、90年に地元で開業した。その前後には東京の北里研究所等でも修行。

 明治初期には各地に県立医学校(県立病院)ができ、さながら「一県一医大」のごとき時代であった。東海先生が学んだ高知県立医学校(3年制)は79年に開校するが9年間で閉校となる。西南戦争の戦費拡大もあり松方財政の行革路線が強まり、87年に県立医学校への公費助成禁止の勅令が出たためだ。ちなみに愛媛の県立医学校も83年にできたが4年間で閉鎖している。

 さて、東海先生の残した日誌から土佐時代の診療スタイルがよくわかる。地元松葉川村に本院があり、窪川村と下呉地(しもくれち)(後の仁井田村)に分院を置いて、助手の須藤医師を従えてその3地点に順番に出かけて診療した。診察室にいて来る患者を診るというより、患者に近いところに出かけていって診る姿勢だ。本院・分院での診察室での「宅診」だけでなく、定期的な訪問診察の「廻(かい)診」、求められて出かける「往診」、出かけたついでに診察する「寄診」「転診」等の記述がみられる。

 往診のために愛馬「叢雲(むらくも)」をもち、乗馬で出かけた。四万十川上流の窪川周辺、中流の檮原川の合流周辺、そして時には太平洋に近い中土佐辺りまで出かけた。「窪川町史」には「堂々たる体躯(たいく)を馬上に乗せた姿は医師というより古武士を思わせる風格があった」と記している。

 1901年7月28日には檮原川沿いの中津川に向けて午前11時半出発、点灯の頃にやっと患家に着。診察し投薬して、酒を勧められ患家で就床したのは午後10時半。翌朝5時半離床して患者を一診した後、帰途何人か「寄診」して帰院した。

 ちなみに「往診に酒はつきもの」らしく、ある患家に着くと座敷に通され、集落の長老が待ち受けてどうぞ一杯と勧められ、次々と挨拶があり、宴酣(たけなわ)になったころにこの家の母親がでてき “うちの子の診察はいつになりますろか” と申し出る、という懐旧談が「高知県医師会史」に紹介されている。庶民にとって往診をしてもらうのは “医者を揚げる” と言ったように大層なものであったのであろう。

 また、東海先生は乳がん手術を施し全快させた外科の評判も高かった(町史)が、この年末・年始の2週間高知病院で外科研修に励んだ。野並院長は東大医学部卒でドイツ留学を経た外科医で高知県初の開腹手術をした人。外科研修では舌がん、鼠経(そけい)ヘルニア、腋下(えきか)腺種摘出、小児骨肉腫、卵巣嚢(のう)腫、子宮掻爬(そうは)術、肛囲炎などを見学した。この時出会った田村東洋医師は後に愛媛に移り、吉田病院開設時の院長に就任した。

 在宅医療から外科的治療までの医療活動には驚かされる。

                     (冨長泰行 ・近代史文庫会員)

                     7月17日愛媛新聞「四季録」掲載

 

                       (2023・7・30)