虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

「本」にしたいね、東海日誌。

 この島から最初に消え去ったものは何だったのだろうと、時々わたしは考える。

「あなたが生まれるずっと昔、ここにはもっといろいろなものがあふれていたのよ。透き通ったものや、いい匂いのするものや、ひらひらしたものや、つやつやしたもの・・・・・・。とにかく、あなたが思いもつかないような、素敵なものたちよ」

 子供の頃、そんな物語を母はよく話して聞かせてくれた。

          (小川洋子の小説・『密やかな結晶』冒頭部分。講談社文庫)

 

1、

 とうとう、「長崎東海日誌」の解読作業が、終わりました!

 別宮博明さん(西予市城川文書館員)と冨長泰行さん(愛媛医療史研究家、松山在住)、お二人の、驚異的なご尽力によってです。A4用紙上下二段・1000ページにも及ぶ大部なものになりました。

 「解読」というのは、わたしが使っていることばで、東海日誌(東海の自筆原本)は、わたしにとって暗号のようなものですので、要するにわたしたち誰でもが読めるようなかたちにしてもらったということです。これから、「翻刻」(ほんこく。書物を原本のままの内容で再び出版すること―岩波国語辞典。ちなみに、ネットのことば検索では、「古文書、写本、板本など崩し字で書かれた文献を楷書になおして一般に読める形式にすること」、ふつうはこの意味。わたしの「解読」もこれ。)という段階に入ります。と言っても、予算がないので、ちゃんとした本ではなく、ワープロで打ち込みして印刷し簡易どめした冊子程度のものになります。あるいは、会員と関係者だけがネットで共有するという形を、当面とることになるかもしれません。

 ちゃんとした「本」にしたいですね。長崎東海日誌。

 《わたしの希望》。本のサイズは、B5判(182mm×257mm、週刊誌の大きさ)。厚表紙でビニール装。上質紙を使った上下二段組。フォントは年寄りでも読みやすいポイントに。できたら、原本のカタカナを「ひらがな」に。別宮さんと冨長さんの「詳細な注」「解題」「解説」、山下重政・長崎東海研究会会長の「研究」「資料」を附し、写真も可能な限りおさめた各600ページの上下二巻本。

 さて、問題は「資金」!

 一体、いくらかかるか、見当もつきませんが、わたしなりに見込みのありそうなところを、探ってみます。俵津のみなさんも、ぜひ、お知恵を、お貸しください!!かつて京大阪から文楽を導入して文化の里をつくった俵津、今また新しいtawarazuルネッサンスを興そうではありませんか!

①有志の篤志

②「クラウド・ファンディング」

③俵津にある各種埋蔵金??!

西予市の手上げ型「交付金」。

 西予市まちづくり交付金事業で、この出版事業は、ランキングすれば、わたしは必ずベスト3に入るような素晴らしいものになると思います(手前味噌ですかねえ)。こんなことあまり言いたくないですが、マスコミも必ず取り上げると思います。西予市は「洛陽の紙価を高める」ことになると思います。高価な本になるので、あまり売れはしないかもしれませんが、市の文化意識の高さは、必ずや全国から評価・賞賛されることでしょう。

 この「日誌」にどんな価値があるんだ、発刊にどんな意味があるんだ、とおっしゃられる方もあるかと思います。その方はまことにお手数を煩わしますが、どうかわたしの過去3回分の、東海についての記事を読んでくだされば幸甚です。

 なお、そのことについて書かれた別宮さんと冨長さんの「研究ノート」の文章がありますので、以下に掲げます。ぜひ、お読みください(太字強調はわたし)。

 

 

2、

■日誌の内容及び想定される意義      別宮博明

 まずは「地域医療の日誌」としての側面が注目できるが、これについては専門家の評価を仰ぎたい。

 そこで、ここでは「地域の記録」という側面を強調しておきたいと思う。

 東海が俵津へ正式に来村したのは明治三五年五月一九日(六月一六日寄留・開業届)である。これ以降の日誌における東海の視点は、それまでの高知(窪川)から俵津を中心としたものへと変化する。

 東海自身は医者であると同時に村会議員や郡参事会員なども務めていたため、記録の内容は広範多岐に亘っており、対象地域は俵津を中心とした広域なものとなっている。そして何より記述がとにかく緻密である。医療日誌や個人日誌の域を大幅に超えていることがこの日誌の最大の特徴である。以下、いくつか原文を引用して、この日誌の意義について考えてみたい。

●「有名ナル羅漢穴ニ至ル、兼テ用意ノ蝋燭ヲ点ジ、一行ハ脇田氏ノ案内ニテ右風穴、体難クゞリ及左穴等ヲ一覧シタリ、左穴ハ蝙蝠多糞臭アリ不潔ナレトモ、奥二入レバ清潔ニ̪シテ清水アリ(M42・6・16)」。

 これは郡参事会員として「郡内各村地理視察」のため大野ヶ原へ赴く途中で立ち寄った羅漢穴に関する記述だが、現在、西予市が進めているジオパーク推進事業と関連付け、過去の記録からの裏付け、フォローとなり得る。今に活かせる記録である。

●「本日ハ当村神祭ナリ、本年ヨリ新暦十二月十五日ト改メタル次第ナリ、(略)午后神輿門前二見ユ、例二拠リ丑鬼狂暴シ門柱・板塀ノ破損アリ、夜二入リ来客多シ(M41・12・15)」「本日ハ亥ノ子ニテ例二拠リ午后ヨリ子供連頬被リ物ニテ亥ノ子搗二狂フ、門前ノ土穴製造二ハ閉口セリ(M43・11・6)」。

 これは俵津の祭り・行事の記述である。こういった記述は日誌内に多く見られ、民俗学的に恰好の資料となり得る。

「(略)午前十時(略)、新田小谷ニ出火アリ俄村内大騒動トナリ、手術中止ノ上自分ハ現場二馳駆セシ二、折悪シク風力加ハリ、見ル間二近隣六軒ノ草屋根二転火、破竹ノ勢ニテ黒煙天ヲ覆ヒ瞬時二シテ灰燼シタルハ、俵津開村以来ノ大火ト聞ケリ、実二目モ当ラレヌ惨場トナリ、又斯テ午后一時稍鎮火シタルヲ以帰院シタレトモ、出火狼狽ノ為患者来ラズ、(M36・11・5)」

 この情報は町誌には載っていないが、「開村以来」の「大火」を実際に目にした者の生の記録である。。地域にとって重要な事がらは、その情報量が多いほど正確なものを後世に伝えることができる。このような記録はその一助となる。

 「長崎東海日誌」の記録は膨大で、どの記述をとっても今につながる記録となっている。長崎東海の視点という偏りはあるにしても、過去の事実の網羅であることは間違いなく、こういった史実としての記録を蓄積していくことは地域の財産・強みになると考える。そして、幸いにして、この日誌は俵津及び西予市域を舞台にしていることに特に留意していただきたい。まさに地域資料である。

 

3、

■資料紹介・・・南予の町医者・長崎東海先生の見た「スペイン風邪」                                                    冨長泰行

南予の赤ひげ」と呼ばれた長崎東海先生については、『えひめ近代史研究73号』で概要報告している通りである。文久3年土佐生まれの長崎東海は、明治35年に明浜の俵津村に「東和病院」を開業した町医者である。明治34年から昭和3年まで日記を書き残しており、その翻刻作業を地元有志等が行っている。

 大正7年の日記には、「スペイン風邪」のことを「悪性感冒」と称して記録している。長崎東海は、この年10月30日から11月26日まで、学会などのために、関西から東京に上京しており、この時から「悪性感冒」の記載が現れて、11月26日に俵津に帰ってからまとめて書いた記載が興味深い。(翻刻は城川町学芸員・別宮博明さん)

 以下に、一部省略しながら、「悪性感冒」の記載を中心に紹介したい。

 

10月30日

(前略)当時悪性感冒各地に流行し、当村も五六日前より慢延し、工女の如きも五割以上引籠たり云ふ、新聞の報ずる所に依れば、全国に波及し、学校工場等閉鎖せし所多々あり・・・(後略)

11月2日

(前略)午后雨を侵し今西(注・大阪の今西旅館)を辞し梅田に至る、六時頃京都に至りしに、悪性感冒大流行の為車夫欠乏し、要件を急ぐ小松悌堂、松本仙挙両氏方行く能はす、遂に五条大橋弁慶楼旅館に投宿し打電すれとも両氏来らず、此夜は床に就く、(後略)

11月9日

(前略)午后三時半帰館すれば兎苗(注・となえ、長崎東海の妻)手紙来りあり、俵津に於ても悪性感冒流行の為、自分不在中と雖とも八九十名の患者ありて、浜田氏(注・東和病院の勤務医)昼夜多忙なりしの報あり、また啓海(注・東海の養子)、車夫清造も感冒に罹りたりとのことなり、(後略)

11月26日

半晴、朝高浜に入港、自宅に打電せしむ、海上平穏なり、三崎進行中稍動揺せり、夜十時頃吉田に入り上陸す、自宅よりは車夫清造一名来り待つ、又山下三松氏漁業組合会出席の際とて同道帰宅す、感冒の為吉田に車夫欠乏、輝見(注・東海の娘)、山下は徒歩筋帰り同船す。十一時頃海陸無事帰宅するを得たり。

  旅行不在中之記事

当時天候悪しく、曇雨半晴位のことにて、好天気少なく、特に十一月二日は俵津村例の秋祭日なれとも、雨天の為来客少数、一般往来淋しかりしとなり、翌三日は又例の運動会(学校にて)あり、又大浦にちんこ芝居あり、此際より悪性感冒襲来し、患者続々発生、俄然に蔓延、遂に全村一捲りの状態となり、学校工場等を荒し皆一周間十二三日閉場閉校等の不幸を見るに至り、十一月十日頃が中心となり、前後二周間に渉り火花を散し、病院等も最多数患者の日は百六七十名に至り、丁度此頃浜田院医侵され、那須看護婦又松井看護婦、車夫其他藤井等大小之に罹らぬ者なく、為に病院執務渋滞、臨時車夫佐藤喜平次を雇入れ、二日にして之に罹り、同人は之か為遂に死亡の不幸を看、酒井和太吉及水野角次一二等交々雇入れ、調剤の為木崎なみ工女を雇など躊躇狼狽限りなく、浜田氏は避病舎行の義務あり、為に病気を侵し之を往診せしこと数日ありと云ふ、外来は昼夜差別なく押掛け混雑名状す可からずと云ふ、此際二宮より腸チブス一名届出、村医の点に付同氏より希望ありて村長に請求することありきと聞き、其悪手段には一層噴飯す可きあり、常識を以て判断出来さる有様なり、浜田氏数日間の就床にて、二宮氏も非情の多忙を極めたりと云ふ、該感冒約二周間に渉り全村を煩し、自分不在中僅同廿七八日間に死亡者廿六名を出したりしは、之又猖獗(しょうけつ)なりしを証するに足る、狩江、高山玉津又然り、他は推して知る可し。

11月30日

(前略)此日高山村宮の浦清水福市妻の為、宮武百合弥氏より添書を以往診申込あり、依て駕に乗り船に舁き込み、漸く往診に応ず、患者は悪性感冒か原因にて肺炎の重患者なり、診を了し、他患者十数名を診す、(後略)

 

 これによれば、俵津村においては、11月2日の「ちんこ芝居」が開催されたころから、「悪性感冒」が流行し始め、蔓延し、全村に広がった。学校や工場も1週間から12-13日閉鎖され、東和病院でも1日160-170名の患者となることもあった。濱田医師(避病舎の往診をしていた)や看護婦、車夫なども罹患した。この時に臨時車夫として雇い入れた佐藤喜平次は二日にして罹り死亡した。2週間にわたり「常識をもって判断できざる有様」となり、死亡者26名を出したと記されている(大正7年俵津村人口は2490人)。隣の狩江村、高山村、玉津村も「推して知るべし」と言っている。

 村人たちの不安の大きさと東和病院スタッフの並々ならぬ苦労がうかがわれる。こんな状況の中で戦前の避病舎の設置などの意義が分かる。俵津村の避病舎がどこにあったのか未確認であるが、東宇和郡全体で33か所236床整備されている(『愛媛県統計書』)。

                          (2020・9・23)