虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

【話し合い資料】内田樹さんの「人口減少社会の病弊」

 7月9日、老人クラブの「1日遠足」で高知へ行ってきました。NHKの朝ドラ「らんまん」ブームで人気の牧野植物園目当てです。他に桂浜の坂本龍馬記念館と大豊町の国の特別天然記念物・樹齢3000年の日本一の大杉を見てきました。

 龍馬記念館で展示品を見ているとき、リョーマの声が聞こえてきました(!)。

「21世紀のおまんらあの国は、どげんかい?どもこもならんことなっちゅうんじゃなかか。今一度 “せんたく” せんといかんのじゃなかか。わしの “船中八策” のような未来構想を立てんといけんぜよ。」

 (やはり、リョーマさんにはときどき逢いに行かんといけんぜよ!)

 

「シン・二ホン」、やはり、創らなくていけない時代になってきているのではないでしょうか。つくづく思う今日この頃です。

 どこから手を付けたらよいのでしょうか?やはり日本の賢者・内田樹さんにご登場願いましょう!内田さんのブログのこの文章から読みましょう!長いので半分くらいの抜粋文とさせていただきましたが、ぜひ原文をお読みください。「内田樹の研究室」(http://blog.tatsuru.com)です。

 

 

■ 人口減少社会の病弊             内田樹

 

(前略) 

 人口減に対して、私たちが採り得るシナリオは原理的には二つしかない。一つは資源の「都市集中」、一つは資源の「地方分散」である。日本人は過去において「地方分散」の成功経験は持っているが、「都市集中」についてはそもそも経験がない。

 私は保守的な人間なので、「過去に成功体験をがあった場合はその事例を参照する」ことにしている。エドマンド・バークが言うように、「うまくゆく保証のない新しいシステムを導入・構築する」ことに私は警戒的である。

 いずれ日本は人口5000万の国になる。その場合にどういう仕組みが適切であるかを考える時には、「うまくゆく保証のない」都市集中シナリオよりは、実際に日本の人口が5000万人でかつ安定的に統治されていた明治40年代の「地方分散」シナリオを参照するのがことの筋目であろう。違うだろうか。

 明治維新まで日本列島の人口は約3000万人。それが276の藩に分かれていた。それぞれの藩には行政官がおり、軍人がおり、商人がおり、武芸指南役や能楽師や茶の宗匠がおり、固有の方言があり、食文化があり、伝統芸能や宗教儀礼があった。サイズは違うけれども、藩は単立の政治単位であり、原則的には自給自足の経済単位であり、固有の文化共同体であった。これが「地方分散」の基本的なアイディアである。

 明治維新のあと、藩は解体されて、府県制に移行したが、明治政府は東京への資源集中をはかると同時に資源の地方分散にも力を注いだ。

(中略)

 全国津々浦々にできるだけ等しく資源を分配するということが明治から昭和にかけて、日本政府の基本方針であり、国民の悲願でもあったことは事実である。少なくとも日本の歴史を顧みて、都市部だけが栄え、地方は衰退することを積極的に「めざす」というような政策が国民的な支持を得て、実施された事例を私は知らない。

 だとすれば、人口5000万人日本の社会モデルを構想するなら、「明治40年の日本」を基本にして、それをどうモディファイして、「2100年仕様」にするのかを議論するのが最も合理的であると私は思う。

 しかし、現実はそうなっていない。

 人口減局面において選択するシナリオが「資源の都市への集中」であるということについてはすでに政官財において既定方針となっている。

 日本政府は東京を中心とする首都圏だけに資源を集中し、それ以外の土地は人口が減るに任せ、最終的には無住地化するというシナリオをすでに採択しており、実施している。ただ、それを国民の同意を得る手間を省いて、黙って実施しているのである。「地方を見捨てる」ということは既定方針だが、それを公言することは差し控えている。当たり前だけれど、そんな政策を公約に掲げたら自民党は地方での議席を失って、政権与党の座から転げ落ちることが確実だからである。だから、粛々と「都市集中」「地方消滅」シナリオを実現しながら、それについては何も言わない。そもそも「二つのシナリオのどちらを採択するかという問題がある」という事実そのものを政府は隠蔽している。そのことが国民的な議論になることそのものを回避しようとしている。そして、ある日、地方の過疎化・無住地化が後戻り不可能のところまで進行した時点で、「都市集中シナリオ以外に日本の生き延びる道はありません」と重々しく宣言する。そういう段取りである。見てきたようなことを言うなと言われそうだが、公開資料からでもこれくらいのことは誰でも推理できる。

 人口減問題は国民的な議論を通じて対策を決定すべき事案であるけれども、現に国民的な議論は行われず、国民的な合意形成もめざされていない。そのような議論がなされ、同意形成が必要だということさえ政府は決して口にしない。

 ただ勘違いして欲しくないが、私は別に日本政府や財界やメディアの人々が邪悪な意図を以て、国民の目の届かないところで「陰謀」を企んでいると言っているのではない。彼らだって何も考えていないのである。ただぼんやりと「人口減に対処するには資源の都市集中しかない」と思っているだけなのである。誰一人「地方分散シナリオ」について語らないので、その可能性について考える必要を感じないでいるのである。思考停止しているという点では政治家も国民も変わりはない。

 というのは、「人口減には都市集中で対処する」というのは何らかの政治的立場からする要請ではなくて、資本主義からの要請だからである。

 

 資本主義はいついかなる場合でも経済成長を志向する。それによって地球環境が劣化しようと、人類が棲息できなくなろうと、経済成長を志向する。SDGsとかWoke Capitalismとかが出てきて「あの・・・人類が滅びると、資本主義も滅びてしまうんですけど」とおずおずと申し立てているが、もちろん資本主義はそんなことを意に介さない。資本主義はただのシステムであって、生物ではないからである。資本主義には生存戦略というものがない。ある日地球環境が破壊され、人類が過度の収奪によって滅びて、資本主義も終わるのだが、「それでは資本主義の立場というものがないでしょう」と言っても無駄なのである。先方は生き物じゃないので、自己保存の本能もないし、もちろん「立場」などというものもない。資本主義は「大洪水」が来るまでひたすら暴走し続ける。その暴走の余沢に浴して私腹を肥やそうとする「せこい」人間たちを巻き込んで暴走し続ける。

(中略)

 韓国を見ればわかるように、人口減局面で資本主義は必ず都市一極集中を選択する。私はそれを「シンガポール化」というふうに呼んでいる。都市一極集中そのものは資本主義経済システムの要請であるけれども、国土の大半を無住地化にして、「山河」を破壊し、国民に帰るべき田園がない未来を押し付けるということになると、政治システムの改変も連動せずにはおかないからである。

 存じの方はあまりいないかも知れないが、シンガポールの「唯一最高の国家目標」は「経済発展」である。これが国是なのである。だから、すべての政策は「経済発展」に資するか否かを基準に適否が判定される。

 シンガポール一党独裁の国である。国会はあるが、人民行動党が1968年から81年までは全議席を占有しており、81年にはじめて野党が1議席を得た。2011年の総選挙で野党が6議席取った時に、「歴史的敗北」の責任を取ってリー・クアンユーは政界から引退した。労働組合は事実上活動存在しない(政府公認の組合のみスト権をもち、全労働者の賃金は政府が決定する)。大学入学希望者は政府から「危険思想の持ち主でない」という証明書の交付を受けなければならないので、むろん学生運動も存在しない。「国内治安法」があって逮捕令状なしに逮捕し、ほぼ無期限に拘留することができるので、政府批判勢力は組織的に排除される。野党候補者を当選させた選挙区に対しては徴税面や公共投資で「罰」が加えられる。新聞テレビラジオなどメディアはほぼすべてが政府系持ち株会社支配下にある。リー一族が政治権力も国富も独占的に所有しているという点では北朝鮮の「金王朝」と似ている。そして、地図を見ればわかるように、シンガポールには「地方」はない。都市しかない。それでも経済活動はきわめて効率的である。

 現在の自民党がめざしている政治改革はシンガポールの政体を模範にしている。反政府的な野党勢力に国会議席を与えず、労働組合を抱え込み、メディアを支配下に置き、「世襲貴族」たちが権力の座を占有して、政権との親疎がそのままキャリア形成に直結するネポティズム政治である。この10年の自民党政治はまさに「シンガポール化」と呼ぶにふさわしいであろう。

 シンガポールは国民監視システムをパッケージで中国から輸入している。中国政府の発明になる「社会的信用システム」は政権に批判的な市民の信用スコアを下げて、海外旅行を禁止したり、列車やホテルの予約がとれないようにして、行動を制限する精密な仕組みである。

 この国民監視システムを自民党は日本にも導入したいと思っているのだが、さすがに中国からじかに買うわけにはゆかず、しかたなく自前で整備しようとしたのがあの不出来なマイナンバーカードシステムである。めざしているところは中国やシンガポールと変わらない。

 人口減社会の「病弊」があるとすれば、それは人々がうるさく言い立てるように財源がないせいで、年金制度や社会保障が立ちいかなくなるというような話ではなく、日本の国のかたちが劇的に変わりつつあるにもかかわらず、「人口5000万人になった日本社会」のあるべきかたちについて議論することそれ自体が制度的に抑圧されているという病的な現実のうちにある。

 人口減社会の病弊とは、人口減社会について、国民全体が(政官財の指導者も、国民も)一様に思考停止に陥っているという事実のことであり、それ以外にはない。

                                                                                                             (2023.06.26)

 

                         (2023・7・19)