虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

「長崎東海」を、思う。

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■ 俵津史に輝く東海さん

 俵津の「歴史」に、長崎東海さんがいて、本当によかったと思う。東海さんのいない「俵津史」は、その輝度や熟度が減じていただろう。光量も落ちていただろう。

 東海さんの「存在」を知ったら、あるいは東海さんの「日誌」を読んだら、(もちろん、東海さんが「スゴイひとだなあ!」というのが一番先にやってくる感動だが)、同時に東海さんを包摂したわが俵津に対しても、誇りや名誉や自信やの感動が沸き上がってくるのだ。俵津の「価値」にまで、東海さんはわたしたちの認識を至らせてくれる。そして、わたしたちの精神的な「支柱」にまでなってくれるのだ。

 東海さんが、生粋(はえぬき)の俵津人でなく、他所からやって来た人だというのも、とてもいいことだった。それは、東海さんが、「ここなら、自分の人生をもっと輝かせることができる!」として、俵津を“選んだ”ということだからだ。わたしたちの俵津は、東海さんという「人物」によって選ばれた町なのだ。

 東海さんは「客神」だったのかもしれない、と思う時がある。高山に客人神社があるが、「日本の神々は客神であった」と松岡正剛氏が最近著の『日本文化の核心』(講談社現代新書)で言っている。ユダヤキリスト教唯一神のホストの神ではなく、ゲストの神、「迎える神」だというのである。それは「常世」からやってくるという。東海さんという神を、かつての俵津人はそこから迎えたのではあるまいか。

 

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■東海さんはなぜ俵津に来たのか?

 「長崎東海はなぜ、俵津に来たのか?」は、わたしたちの大きな研究テーマの一つだが、この謎は正解を実証として見つけることはむずかしい。東海自身の宣明がない。東海がこう言っていたと語り伝え伝えする人がいない。記録された関係者の資料がない。

 高知・松葉川の東海の生家には、まだ何かそれを詳らかにするものがあるかもしれない。たとえば、俵津の誰かが「是非とも俵津へ来て欲しい」と書き送った熱いオファーの手紙が虫食いだらけでも残っているかもしれない。未発見の日誌(明治22年から33年の分、大正14年の分)の中にそれらしき記述があるかもしれない。いつの日か、「ああ、そうだったのか!」と、東海の思いが明らかになる日が来るかもしれないから、今は待とう。

 ここでは、わたしの“想像”を書いておくことにしよう。

① まず、高知(松葉川・窪川)での、医者としての仕事や生活が何らかの理由で行き詰っていたのかもしれないということ。人間関係にもなにかあったのかもしれない。精神的に何か物足りないものを感じていたのかもしれない。とにかく、何等か、そういうものが(特定はできないが)あったのは間違いないだろう。脱出・「転移」・飛翔を願う東海が、まず居た。

② 俵津の人たちの強烈な「オファー」があった、こともほぼ間違いないことではなかろうか。交流の中で何か新しい可能性の灯が、東海の心の中にともったのだろうと思う。

 当時、愛媛県南予地方の人々は、高知県西部の高岡郡幡多郡吾川郡等の人々とかなり密な交流があったから、俵津の人たちは医師としての東海の名声を聞きつけていただろうことは容易に想像がつく。東海に手当をしてもらった人もいたかもしれない。その中で東海と深くかかわり、心服した人がきっと多くいたのだろうと思いたい。

③ そういう俵津人に突き動かされて、明治35年、俵津に「探検」と称してやって来た時、東海はきっと「ここだ!」と思ったに違いない。理由はこうだ。

高知市宇和島市八幡浜市等は、すでに医師が足りていて、東海の選択肢にはなかった。

・東海はここで、「海」を発見した。「船」というものの利用価値を発見した。当時は、言うまでもなく陸の国道56号も、俵津~宇和線(県道45号)・俵津~吉田線(国道378号)もない。そんな中で、船を使えば、俵津を起点として、放射状にどこへでも見事にサッと行ける。池の浦・深浦・玉津・法花津・与村井・白浦・筋・花組・奥浦・吉田、そして戸島。渡江・狩浜・高山・宮の浦・田之浜、そして皆江・蔵貫。東海にすれば、すべて指呼の間である。

 余談だが、わが家の大浦(西の岡)のミカン園に、大浦・脇集落そして俵津湾・法花津湾・宇和海が一望できる所があるが、そこから眼下を眺めると、そうした東海の心が読める(ような気がする)のだ。俵津は海岸四か村というかこの圏域のまさに中心地なのだ。東海が目を付けたのはまさにこの点であったに違いない。宇和だって、野福越え、爪立越えで1時間もあれば行けるのだ。

 東海にとって俵津はまさしく「世界の中心」だった。フロンティア=新天地だった。高知・松葉川の山の中の日々を思えば、何という明るさだろう!何という開放感(解放感)だろう!

 宇和島出身の作家・片山恭一に『世界の中心で愛を叫ぶ』という作品があるが、まさしく東海にとって、己が愛(仁)をさけぶことのできる世界の中心がここ・俵津だったのではあるまいか。

・当時の人口も、医業を展開する地として十分だ。東海がやって来た明治35年の人口統計が『町誌』にはないが、記録のある明治23年(俵津・2105人、明浜・8072人)、明治45年(俵津・2408人、明浜・9262人)から推し量れば、この圏域には5万人以上がいたのではなかろうか。

・そして、俵津人の天衣無縫・天真爛漫の底抜けの明るさが、気に入ったのだろう。豪放磊落な自分と同じ生命の波動・波長を持った愉快な人間たちがいるこの地で生きたい、と思ったのだろう。当時の俵津には、前回・前々回に挙げた中村勗・中村重太郎・宇都宮小市をはじめとしてひときわ優れた人材・人物も多くいた。東海は意気投合しておおいに飲んだ。口角泡を飛ばして語り合った。

・俵津の文化度の高さにも、東海は魅力を感じたろう。これについては、前々回の山下の研究から推し量ることができるだろう。

・俵津が「勃興期」だったことも幸いした。人口はどんどん増えている。「一時期従業員四五〇人、生産量四国一位と言われる程の製糸会社」だった俵津製糸は大正四年の創立だが、すでにその機運はあったろう。段々畑も、狩浜のような石垣はないにしても、意気軒高たる農家によってアゴスケが施され、山上まで芸術のように見事に整備されている。漁業も、溢れんばかりの海産資源があって繁盛をきわめている。東海の心も弾んだことだろう。心悸を亢進させたことだろう。

 

※ 高知・松葉川のみなさん、こんな言い方をしてごめんなさい。勝手な東海俵津物語を仕立ててすみません。どうしたって、東海さんの「人物」をつくったのは高知の40年ですよね。でも、窪川郷土史家・辻重憲氏の「窪川人物史」の筆頭に東海さんが挙げられているのを読んで、とても嬉しくなりました。感動しました。

 

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■「長崎新田」に作ろうとしたものは何か?

 東海の多岐にわたる偉大な業績群の一つに「長崎新田」の開発がある。果たせなかったが、そこに東海は何かを建てようとした。作ろうとした。いや、逆にその思いがあったからこそ、新田開発をやった。私費を投じて1.5ヘクタールもの沼地を埋めようとするからには、余程の執念、火のように熱い夢と言えるものがなければならないだろう。

 それは何だったのか?この解明もわたしたちの重要な研究テーマの一つだが、私見を書いてみよう。わたしは、それはいわゆる「公会堂」と「公園」のようなものではなかったか、と思っている。現在の公民館のようなものだ。

 そこで、滑稽婦人大笑い大会をやり、迎えた浪曲師や芝居一座の公演をやり、弁論大会や講演会や政治集会もやり、書画骨董品を展示する。周囲の空き地には土俵をつくり相撲興行をやる。盆踊りをやる。人々が憩う場所にする。・・・そうしたさまざまな、はちきれんばかりの夢や構想が東海の胸の中には渦巻いていただろう。

 

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ヒポクラテスへの思いはあったか?

 「長崎東海物語」の紙芝居をつくれたらいいな、と考えている。

 とりあえず10枚(ページ)くらいの短いものでいい。でも、現段階ではなかなかむずかしい。日誌の解読作業が終わっていないこと。俵津へやってくるまでの消息がわからないこと。つまり、彼の人生の全貌がつかめないからだ。起承転結、10のドラマチック・プロットをどう構成するか、それをまとめて考えることができない。

 ひとつだけは、決まっている。あの東京から買ってきたホーン型ラジオを、自慢げに得意げに俵津の人たちに聞かせているシーンだ。あと9枚、どうするか?

 わたしの夢想する候補の1枚は、少年時代に「おら、日本のヒポクラテスになる!」と、医者になることを決意する立志編のシーン。(それがあったらいいのにな、それを入れたいな)。「わだばゴッホになる!」と言ったあの棟方志功のような。

 ヒポクラテスは、周知のように古代ギリシャの医者・哲学者で、西洋医学の祖と言われている人だ。いかなる理由があっても患者を差別してはならない、という「ヒポクラテスの誓い」で有名だ。今、日本は医療崩壊が懸念される中で、健康保険制度の先行きが心配され、アメリカのような混合診療が導入される心配もある時代。持てる者と持たざる者との間の格差が医療の世界でも露骨に現前化しようとしている。だから、「ヒポクラテス」は最も現代的な医療(者)シンボルだ。ヒポクラテスを目標にした東海像があれば、東海はさらに現代によみがえるのだ。

 

      ※          ※           ※

 長崎東海への思いを、さまざま書いてきた。みなさんも是非それぞれの「東海像」を書いていただきたいと思う。わたしの心からの願いである。

 

  今日も、わたしは、みかん山にいる。大浦の集落を見下ろしていると、100年前の東海さんの姿が目に浮かんでくる。往診の途中のようだ。横には看護婦さんも歩いている。

「東海先生。往診でございますか。」

「おお、〇〇爺。おう、おう、〇〇婆も一緒じゃ。おんしらあは、まっこと仲がええのお。ほんまに今日は、風も気持ち良おて、ええ往診日和じゃけにのお。」

 東海さんの太く明るい声が、俵津の空に反響している。

 

 

                           (2020・6・3)