虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

まぼろしの俵津開発計画―俵津人の見た夢

 ウソかホントかわからない。だれが起案し、どんな経過をたどり、そして潰えたのか、わからない。が、このわれらの俵津にはかつて以下のような計画や構想があったという。(このような話は、一住民のわたしなどのところにはリアルタイムでは届かない。)

 

俵津湾埋め立て。

 おそらく1960年代後半から70年代前半の話だろう。国道56号線付け替え工事で、国=県は宇和ー立間間の十いくつあるトンネル工事で出る廃土の捨て場をさがしていた。そのとき俵津湾が候補に挙がったというのである。

 当時の明浜町の理事者たちや俵津の有力者や住民たちが、これをどう受け止め、どのような議論を展開し、結局受け入れないことになったのか、わたしは知らない。(もう当時を詳しく知る人もいなくなったのではないか。)

 これを受け入れていれば、俵津は広大な平らな土地を手に入れていたことになる。街ができた。商店街ができた。住宅ができた。工場ができた。・・・。しかし・・・。

❷同じ俵津湾の埋め立ての話だが、現在の国道378号線の湾岸道路はまだ20メートル沖へ出るはずだった、ということだ。

 そうであったならば、もっと広い「後背地」ができていただろう。現在、俵津スマイルが旧農協本所前の空き地に公園を作っているが、これなどももっと広い敷地が得られていたことだろう。

伯方塩業誘致は原料岩塩の積み下ろし港建設と一体だった。

 伯方塩業株式会社の誘致は近年にない快挙だった。「環境」が大きく問題になっている時代に、このような優良企業が俵津に来てくれるなどということに住民はみな驚いた。だが、同社が伯方島に去って行った今、われわれは大きな喪失感を抱いている。

 工場の目の前の海に、もし船で運ばれてきた原料塩を荷下ろしできる桟橋が建設されていたら、もうすこし伯方塩業を引き留めていられたのではないかと思うと残念だ。

県道俵津ー三瓶線建設

 これは本当にあった話なのだろうか。確かに俵津新田の最奥部・せびらこ地区に、行きどまった農道があるのはある。これは「準県道・俵津~三瓶線」だと言われていた。わたしなども新田のミカン畑で仕事をしていたとき、乗用車に乗ってきた見知らぬ人から「三瓶へ行くにはこの道でいいか」と尋ねられたことが数回ある。だから確かに計画はあったような気がする。それがいつ終わったのか。

 これができていれば、行き止まりを意味する “ウナギの寝床” と揶揄されていた明浜の入り口の俵津の可能性はおおきく開けていただろう。三瓶・八幡浜が近くなる。九州もそうだ。逆のことも考えられる。そうした地域の人たちがこの俵津を訪れる可能性。狩江・高山もこの道路に向けてトンネルを掘るという可能性だって否定できないだろう。

県道野福線短縮化・二車線化

 この工事は現在90パーセント以上終わっているとみられるが、一部で二車線化ができていないところが見られる。残念なことである。

 それと、実はこの道路もっと短くなる予定であったと聞くと、その残念さはつのる。

 宇和へ1分でも早く行けるようにする。宇和島へ1分でも早く行けるようにする。というのは、俵津まちづくりの要諦である。就業機会が増える。通勤・通学が楽になる。買い物・レジャー等の利便性が増す。車の維持費の軽減にもなる。それはもちろん、八幡浜や大洲など南予諸都市への距離を縮めることであるから、これらの地区に対しても同様の利便性が発生する。俵津の可能性が膨らむのである。

究極の野福トンネル構想

 これは、そうしたことに強い想いを抱いた者たちの構想だったのだろう。現代のわれらから見れば奇想天外とも思えるようなことだが、考えることのできた俵津人がいたのである。

 俵津大浦の尾花(おのはな)から宇和インターあたりへ向けて直線のトンネルを掘るという構想だ。約1000メートル、勾配5パーセント(1000メートルで50メートルだ)。もちろん二車線だ。これだと俵津~宇和間は5分くらいか!

 目がくらむ!

                  ■

 いかがでしょうか。みなさんはどう思われたでしょうか。?!

 生まれた場所は動かせない。その冷厳な事実の中でわれら俵津・俵津人は考えた。構想した。夢見た。ここでのポテンシャルの極限まで。戦後日本の高度成長の時代から1980年代・90年代までの「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とも言われたことのある古き良き時代のことだったのかもしれない。

 もう、そんな時代は30年も前に終わっている。

 わたしがいま、しみじみと思っているのは、チャンスは1回しかないということ。チャンスをつかむ能力みたいなものを養うことの大切さ。「まちづくり」はおもしろい!人生はおもしろい!・・・・そんなことだ。

 これから、われらは、夢を見ることができるだろうか。もしできるとしたら、それはどんなものになるのだろうか。

                       (2023・7・1)