虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

「人生の楽園」を夢見つづけて― 西村仁さんのこと。

1。

 わたしが西村仁さんの顔をはじめて見たのは、仁さんが二年間の「派米研修」を終えて俵津へ帰った頃、同級生の坂本甚松さんが音頭を取って開いた「西村仁・派米研修報告会」の席だった。

 そこには、変わった“顔”があった。変わった、と言ってもへんな意味ではない(?!)。わたしたち通常人以上の軒昂たる外へ向かう顔、枠を超える顔とでも言ったらいいのか、何かをやりたくてウズウズしている顔があった。

 堀江謙一が「太平洋ひとりぼっち」のヨットでの冒険をし、小田実が「なんでも見てやろう」の冒険世界旅行をしていた時代ではあったが、この町にはまだ世界に向かう目も心も育ってはいなかった。仁さんはこの町の先駆けをなした人だった。

2。

 早速、仁さんは「青年団」で活動をはじめた。

 当時の明浜町青年団は、活動が下火になっており、かつてあった愛媛県連合青年団(県連青)下の明浜町連合青年団も解散されていて、俵津・狩江・高山・田之浜がバラバラで活動をしていた。

 仁さんは、俵津青年団の団長となり、盆踊りの復活や各地区青年団との交流会など積極的に動いた。その中で、明浜町青年団を再び統一しようという機運が盛り上がり、仁さんはみんなに推されて「統一実行委員会」の委員長となった。全団員への「アンケート調査」などを実施し、“統一”への意思が大半を占めることを知って後は、みんなをまとめ上げ、一気呵成の大奮闘を示した。

 (その時の仲間は、いまも結束が固い。)

3。

 狩江公民館で行われたある日の交流会。ダンスパーティーの夜だった。参加者のなかにひときわ目立つ艶やかな女性がいた。なんと、仁さんはその女性に“ひとめぼれ”したのである。行動が速かった、鮮やかだった。あれよあれよという間に、婚約し、結婚した(その女性こそ初美さんである)。そして、三人の子供をもうけた。その命名がいい。拓生(たくお)、歩(あゆみ)、路子(みちこ)。なんだか彼の人生観・人柄を見るようではないか。 

4。

 アメリカでの広大な大地で営まれる農業を体験した仁さんは、農業の面でも積極的だった。南郡津島に5ヘクタールの山林を買い、開墾し、みかんを植えた(後にはキウイも植えた)。

 俵津や明浜でそういうことを考え、やろうとする農家は全くいなかった。その発想と行動にみんなは驚いた。大勢の仲間が協力し津島もうでをした。仁さんの人柄の魅力がそうさせたのだろう。

5。

 西村仁さんの特筆すべき事績は、「明浜町青年海外派遣協会」の会長としての仕事だろう。

 「アメリカ体験」をした仁さんは、俵津で派米研修に行くものはいないか、一人でも多くの若者に海外を見せてやりたい、と常日頃から言っていた。その仕組みを創ったのだった。資金集めの活動は大変だった。田之浜の端から俵津の端まで、有志を口説いて回った。「明浜の発展のためには、青年の教育が大切なんじゃ。人材をつくらなならんのじゃ!」、決して流暢ではないがその情熱的な話しぶりは若者から年寄りまでを動かした。

6。

 「段取り仁」。それが仁さんの異名、敬愛を込めてのあだ名だった。企画力と行動力は、抜群だった。仁さんが「これをやろうではないか」と声をかけるとき、NONを言うものはいなかった。話はすぐにまとまった。

7。

 「旅行」が好きな人だった。

 同級生との旅行。派米仲間との旅行。家族・夫婦での旅行などなど。わたしとは、愛媛新聞社が企画した中国旅行に応募して、参加したことがあった。

 晩年は、軽トラをキャンピングカーに仕立て、夫婦で旅する夢もみていた。

8。

 ミカンやその他の果物、野菜などの新品種の導入に関心があり意欲があった。中でも、タラの芽の栽培には積極的だった。軌道に乗せて「どんぶり館」出荷にこぎつけた。同時にそこの明浜理事までやった。また、それまでどんぶり館はミカンの販売はしていなかったが、それを認めさせたのは仁さんの功績である。

 全ミカン農家が注目している新品種・「愛媛果試48号(紅プリンセス)」には、特別の思い入れをしていた。「老人会で苗木をたてて、俵津の農家に配布し、産地化をはかろうではないか!」と言っていた。岡崎憲一郎くんから提供してもらった穂木を、今年の春接いで、その時に備えようとしていた。(岡崎くんは、自園で初なりした紅プリンセスを、弔問時に枕元に供えていた。)

 彼の山には、他にも彼が心を尽くしたビワやモモや梅など多様な品種が植わっている。

9。

 「人生の楽園」というテレビ番組が、ことのほか好きだった。最初から全部をビデオにおさめ、繰り返し見ていたという。ああいう世界を夢見ていたのであろう。

 いつだったかわたしに、「野福の県道沿いの畑に小屋を建て、みんなが集まれる場所をつくりたい」と言っていたのを思い出す。

 (テレビ番組では他に、「世界遺産」や「旅行もの」、それに「映画」(クリント・イーストウッドの大ファンだった)などを好んでみていた)。

10。

 おもしろい、奇抜な話やアイディアを出すのが得意な人だった。「俵津湾でクジラを飼ったらどうや」「松下幸之助を俵津に呼ぼう」etc.・・なんでも面白がる人だった。

11。

 有為転変があった。

 田中恒利選挙運動における受難。自宅新築。出稼ぎ(マツダ等)。伯方塩業勤務。病気。・・・次第に体が疲れるようになっていった・・・。

 ※ 伯方塩業では、その調整力を買われて、俵津の従業員のまとめ役・世話役を果たしていた。工場長とは昵懇の間柄になっていて、よく一緒に飲んでいた。

 

12。

 三か月ほど前だった。「農地を誰かに託したいのだが、誰がいいか?」とわたしのところへやって来た。そこまでわるいんだろうか?と、ちょっとショックだったが、わたしはすぐに二人の名前をあげた。後日、そのうちの一人が引き受けてくれたと報告があった。農地のバトンを渡し終えて、心から安心した様子が見て取れた。(よかった。)

13。

 人が好き。集まるのが好き。話が好き。企画を立てるのが好き。構想やアイディアを練るのが好き。

 俵津や西予市に物申す「言うちゃろ会」をつくろうではないか、とわたしに言っていたこともあった。

 みんなが集まる「家」はできなかったが、西村仁さんの存在自体がその「家」だったのではないか、とわたしはおもっている。私利私欲のない彼のもとにはみんなが集まった。

14。

 西村仁さんの言葉から。

・「出されたものは毒でも食え」。わたしたちは、この町のさまざまな人たちの家へよく出かけて行った(来訪を喜ばない人もいただろう)。そこで出されたものは喜んでしかも旨そうに食べよ。嫌いなもの、まずそうなものでも嬉しがれ。そうすれば人の心を溶かすことができる。われわれの言うことを聞いてくれるようになる。ということだろうか。

・「知恵を出せ。知恵のないものはカネを出せ。カネのないものはからだを出せ。」。そうしてこそ、組織は、社会は生き生きと活き活きと動き出す、ということか。

 

 自由に奔放に人生を面白がって生きた稀有のひとが、逝ってしまった。

                  (2021・12・27)