虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

「馬頭観音」に、行ってきました!

 村の暮らしには安心感がある。いや、そんなはずはない。村では過疎化も高齢化もすすんでいる。グローバル化していく市場経済は村の経済活動をこわしつづける。そう考えていくと、今日の村ほど不安な社会はないはずなのに、村に暮らしていると不思議な安心感をおぼえる。

           (内山節『「里」という思想』、新潮選書)

 

■ここを訪れ、いにしえに思いを馳せる人は、結構いるのではないか 

 山笑う季節、野福峠にあるほのぼのとした癒し系のすてきな看板に魅かれて、シリナシの「馬頭観音」へ行ってきました。ウグイスがのどかに鳴いていました。シジュウカラの群れが、わたしを歓迎するかのようにひとしきり舞って飛び去っていきました。

 巨大な岩肌が露出するその下部に掘られた岩やしろの中に、二体の観音像が安置されています。近くに誰かが訪れたのでしょうか。柴とお賽銭がそなえられていました。わたしも跪いて手を合わせました。こころが静まります。

 ここへは俵津財産区の下刈りの際などで何回か来ていますが、一人で来てじっくり見るのは初めてです。二体の像は、左側のものが三面で憤怒の形相をしています。左上には剣でしょうか、斧でしょうか、棒でしょうか金槌のような形をしたものが彫られています。右側のものは、一面でなぜだか柔和なお顔をされています。手は、ものの本には人差し指と薬指を伸ばして馬口印(ばこういん)を結んでいると言われますが、はっきりしません。本数は8本などのものもあるとききますが、ここの像は両方とも2本です。馬頭といわれる馬の形をした冠は、長い間の風雪で削られたのか馬容は確認できませんでした。

 引き返して、入口にある市が設置した案内板を見てみます。

 西予市指定有形文化財(石像美術)

所在地 西予市明浜町俵津

指定  昭和62年10月7日

 江戸時代、俵津と宇和の村々を結ぶ主要な道として、野福峠越え、野田・伊賀上越え、根笹(ねざさ)越えの三つのルートがあった。そのうち、野福峠越えと野田・伊賀上越えの道は、現在も馬道(うまみち)と呼ばれており、年貢米、蔵米、藩政に必要な物資等を積んだ牛や馬が、俵津大浦の津出倉(つだしぐら。船に積む荷物の倉庫。4棟あった。)までの一里三十丁(約6・3㎞)の道のりを歩いた。

 この馬頭観音像は、嘉永七年(1854)、行き交う牛馬の安全祈願と供養のために建立されたものであり、台座には「寄進俵津野田」と刻まれている。また、俵津庄屋文書には、伊賀上庄屋からの「建立に協力してほしい」という依頼が伝わる。

                         西予市教育委員会

 『明浜町誌』によれば、三つのルートには山道の難所にいくつもの馬頭観音が建てられていたそうですが、現在残っているのはここだけらしいことが書かれています。ルート名も宇和からの視点で名付けられていますが、それは「宇和地方が、宇和島藩の領地であり、この地方の年貢米は、牛馬の背によって」俵津へ運び、宇和島まで海上輸送するしかなかったためと思われます。俵津側から言えば、根笹越えは新田の奥からの爪立(つめたて)ー山田線だろうと思います。町誌には「一般庶民にとっては、交通はいろいろな制限が設けられて、縁遠い存在であった」とありますが、長崎東海の日誌には宇和への診療にこの3路線を利用したことが書かれてありますので、彼の時代には庶民も頻繁に往来していたのでしょうか(東海は文久3・1863年生まれで、明治35・1902年に俵津へ来て、昭和3・1928年まで生きた)。

 ちなみに、「津出倉」ですが、これは浜田の醤油屋跡に現在も残っている二棟の、あの川を挟んだ南北に長い建物がそれに当たると、聞いたことがあります。俵津は歴史の町なんですね。

 ところで、この道を歩いていた馬に、わたしはひとつのイメージを持っています。わたしが小学生だったころ(昭和20年代末~30年代初め)に、馬はまだ俵津にいました。黒澤明の映画や西部劇に出てくるようなカッコイイ馬ではありませんでした。いかにも荷を運ぶのに相応しい足の太い大きなのろそうな感じのする馬でした。引いている人は、とても馬に情愛を感じている様子でした。馬と人と自然とが織りなす豊かな時間が流れていた俵津がかつてあったのです。

 みなさんも一度ぜひ訪れてみてください。いにしえの人々と馬たちが行き交った情景が目に浮かび、豊かな時間を過ごせること請け合いです。

※ YouTubeにも、動画がアップされています!ご覧あれ!

※ 【夢提案】 野福峠を除く二つのルート(シリナシ・野田線と爪立・山田薬師線)、今はもう草木が生い茂り、通行はできないでしょうね。これを刈払い、復活させることはできないでしょうか。復活させて、子供から年寄りまでがこぞって歩いてみることができたら・・・。そこから、何が生まれるのかはわかりませんが、おもしろいことが待っているような気がします。

 わたしが子供の頃、4月8日の花まつりの日には、祖母に連れられて山田薬師へよく行ったものでした。ニッキ水やひょうたん菓子を買ってもらえるのが、とてもうれしくて、よく覚えています。人生において、暮らしそのものの中で一生忘れない思い出をつくることも、とても大切なことだと思います。

  そして、思う人(個人・家族・グループ・会社など)は、この道に、自分(たち)の新たな「馬頭観音」像を建てたらいかがでしょうか。新しい俵津と宇和の交流街道が出来上がります。

 

■もう一つの「馬頭観音

 ところで、馬頭観音に関して、面白い話を読みましたので、書いておきます。この文章のはじめに掲げた内山節さんの本からです。

 「馬頭観音は、馬を使って荷を運んでいた時代に、事故にあって馬が死んだ場所や、馬が集まる場所に馬の安全を祈って建てられた供養塔である」のに、内山さんが住んでいる群馬県上野村の住民の一人が、「その馬頭観音の話は少し違う、と話しはじめた」そうです。

〈山の中には、時空の裂け目とでもいうべきものがいくつもある。それは、この世とあの世を結んでいる裂け目でもあり、私たちの世界と魔界、あるいは原始の世界を結んでいる裂け目である。この裂け目はだれかが命をささげなければ埋まることはない。人間たちが山で死ぬのは、きまってそういう所で、ところが人間にはこの裂け目がみえない。

 自然界の動物たちはこの裂け目がみえるから、そんなところに落ちることはないし、なかにはかつてのオオカミのように、この裂け目を利用して、異なる時空を移動していた動物もいた。そして、馬もまた、この時空の裂け目をみつけることがあった。ほうっておけば、いつかだれかが命を落とすだろう。そう考えた馬は、自らその裂け目に命を投げだし、人間の身代わりになった。馬が「事故死」するのはそういうときで、そのことに気づいた村人が、その場所に馬頭観音を建てた〉

 まるでSFのようであり、しかも悲しく切ない話です。

 内山さんのコメントは、こうです。「この解釈は私には面白かった。馬頭観音が建立されていった一般的な歴史からみれば、この解釈は異端である。しかし、たとえごく少数であれ、そう理解することによって馬頭観音に手を合わせてきた人々がいるとすれば、その人々にとっては、馬頭観音はそう解釈された世界のなかに存在してきたことになる。」「日本列島に暮らした人々の歴史が、民衆史にも、日本という国史にもなる」が、「民衆史として歴史と関係すれば、民衆史としての日本の歴史が存在」する。「一人の村人にとっては、馬頭観音が、あのような物語として存在していたように」。

 非常に深い思想が語られているような気がしますし、この様な話を一方で伝える村社会は、多面的・重層的でとても豊かであるように思えます。

※ 内山節(うちやま たかし)さんは、1950年生まれ。哲学者。1970年代に入った頃から、東京と上野村との二重生活をしているそうです。立教大学大学院で教鞭をとられていましたが、現在はNPO法人・森づくりフォーラム代表理事など。

 (それにしても、内山さんのような方に、深い思索を促すことができる上野村ってスゴイ村ですね。わが俵津はどうでしょうか。)

                        (2021・5・10)