虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

野福峠に桜を植えた人達はどんな思いで植えたのだろう?

 さあ、春だ、うたったり走ったり、とびあがったりするがいい。風野又三郎だって、もうガラスのマントをひらひらさせ大よろこびで髪をぱちゃぱちゃやりながら野はらを飛んであるきながら春が来た、春が来たをうたってゐるよ。ほんたうにもう、走ったりうたったり、飛びあがったりするがいい。ぼくたちはいまいそがしいんだよ。

               (宮沢賢治「イーハトーボ農学校の春」から)

 ●morino-shimafukurouのつぶやき

 賢治先生のような先生に勉強を習えたらいいだろうなと思います。賢治先生が教えると知識はすべて「楽しい知識」になります。「愉快な知識」になります。「悦ばしい知識」になります。宇和高校・野村高校農業科の生徒のみなさん!農業って素晴らしいですよね!農業の学問は、きっとそのようなものですよね!

 

     ※            ※            ※

 今年は桜の開花が早くて、すでに花見の季節は終わりました。残っていた花は無残にも今日の雨で散って行っています。

 野福峠に桜を植えた人たちの「気持ち」に関心があります。どんな心の“高ぶり”があって植えたのだろう?動機というか思い、です。桜を植えることで、屈指の眺望を、さらなる絶景にしようともくろんだのでしょうか。俵津を桃源郷にしよう、と夢みたのでしょうか。そういうことを書いた、当時の「野福峠桜植樹計画書」とか個人の日記とかいうものが、どこかにないでしょうか。

 俵津人のそうした謂わば主体的動機・積極的動機がわたしは欲しいのですが、植樹を促した外的要因というものは、あるにはあるように思います。一つは、日露戦争(1904~1905、明治37~38年)の戦勝記念植樹があったということです。戦争が終わった翌年から全国で植えられて行き、大正天皇即位記念、昭和天皇即位記念にも大きなエポックがあって、昭和のはじめごろまでその流れは続いたということです。野福峠に桜が植えられたのは昭和5年頃ですから、これにはかからないようにも思いますが、国民の意識の中には消えずに流れとしてあったようにも思います。ちなみに長崎東海の日誌の中にはこのことに関する記述はないようです。

 もう一つは、軍国日本が、教育勅語明治23年10月30日発布)の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の精神を涵養すべく、パッと咲いてパッと散る桜に託した潔く勇ましい死生観を植え付けた、ということが深く関与しているのかもしれないということです。学校の校庭に桜が植えられたのには確実にそれがあると思います。国学の大家、「もののあわれ」を提唱した本居宣長の歌「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山ざくら花」の影響も、日本人精神史には大きいでしょうね。

 でもまあ、それはそれとしておきましょう。

 野福峠の桜は、いつ誰が植えたのか?それを確定しておきましょう。『明浜町誌』にはありませんでした。やっと見つけた資料は、高岡冨士高さんの著『ふるさとの海と山ー俵津村の思い出』です。

 それによると、昭和五年に県道宇和ー俵津線が開通し、その記念に沿道に吉野桜を植えたとのこと。当時の養蚕指導員・宇都宮庄太郎氏(後南米に移住、同地で歿)が、青年団を引率して、村から一千本の桜苗を受け取って植えて行った、とあります。しかも地主の了解は得なかったといいますから、かなり強引な植樹だったようです。宇都宮氏の後を受けて指導員となったのは、中村繁太郎氏、山下吉三氏とありますからこの人たちも植樹に関係していったのでしょう。(『町誌』の年表によれば、県道の開通は昭和七年。高岡氏の記憶違いがあったのかもしれません。)

 ここには、かかわった人たちの肉声の記録はありませんが、時代は1929年(昭和4年)のニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけとして起こった世界的な経済不況(恐慌)下、国内でも農村不況が深刻化しており、俵津も同様だったと思います。その中でこれだけの大植樹をやったということは、そうとうな情動・熱情が感じられてなりません。

 

 さて、時は21世紀。いままた、「俵津桜保存会」や「俵津スマイル」が、「桜」に挑んでいます。その熱い胸の内を、記録して残して欲しいものです!

                          (2021・4・4)

《追記》

 折角の機会です。高岡さんの本に、俵津人を元気にするような一節がありましたので、書き写しておきます。「俵津製糸」のことを記した章の中です。

 「ハゼが洋蠟に押されて、衰退し始める頃、養蚕がポツポツ始まり・・・・」

 「その(俵津製糸の)隣には織物工場もあり、縞織物を製造して遠く高知県や九州の各地へと販路を広げ、両々あいまって盛んな時代をつくりあげた。当村は辺鄙な農漁村であるにもかかわらず、商業的才能に富むものが多く、近隣の村より文化的水準が高かったようである。かなりの村人が、これらの反物をかついで、各地に行商し、あちこちの文化をもちかえったものと思われる。」

 高岡さんの「俵津製糸廃業後の残務整理」を詳細に記録した章は、実に見事です。わたしは圧倒されました。俵津にはこのような優れた知性がいたのですね。

 青年団というのは、わたしの経験では、だいたい15歳から25歳くらいまでの独身者が構成する団体ですから、昭和5年(1930年)で15歳というと大正4~5年生まれで、生きてたら・・いやもう生きてる人いないですよね。俵津で言うと誰だったんでしょうか?尾下正さんは、入っていたでしょうか?

 長崎東海研究会の会員間でも言い合ってたのですが、この会もう10年早く始めていたら、長崎家の人達と付き合いのあった人たちも生きていて話が聞けたのになあ、と残念がることしきりでした。

 今後も、今生きているお年寄りに何か聞いておきたいことがあったら、一日も早い方がいいです、と言っておきたいです。