虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

俵津の人口を増やす方法はあるだろうか。  (その1)

「なにかいい話ない?」

「なにもない、です。一切ないです」

「イッサイナイ、か。そりゃご無体な、吉良殿」

「ひとはおらん。小・中・高の子供は減る一方。こんな商売をしてると、ひとがおらんのが一番ひびきます」

「・・とすると、俵津の“店”やってる人、みんなが抱えている問題やね。」

「だと思います。」

「・・・・・・」

行きつけの理容室の主人との会話です。

 というわけで、今回は「俵津の人口問題」(!)です?!。

 

1、

 「俵津の人口を増やす方法はあるだろうか」。

 うーん。・・・・・・。この課題は、むつかしい。わたしの手に負えるようなモノでは、とてもない・・。この問題は、俵津のみんなが総がかりで(さまざまな人たちの協力を得ながら)、時間をかけて、じっくり考えていく以外にはないだろうと思います。

 ここでは、考える糸口を見出すための “あれこれ” を、なんとか探ってみたいと思います。

 と、そうは言っても、さて、どこから手を付けたらよいのでしょうか。仕方がないので、『明浜町誌』から俵津のピーク時の人口を調べてみます。(国勢調査の記録から)昭和25年(1950年)の3355人が、それだったことが分かります。うわあ、すごい。当時は人がごった返していたでしょうね。活気があったでしょうね。わたしは昭和23年の生まれですから、当時の“におい”だけはわかります。小学校入学時には、全校児童が600人近くもいました。

 それから、昭和35年(2738人)、昭和40年(2469人)、昭和45年(2036人)、昭和50年(1928人)、昭和55年(1911人)、昭和60年(1909人)と減って行きます(『町誌』の刊行は昭和61年ですからここまでです)。現在は(『俵津公民館だより』が毎月の人口統計を掲載しておりますが)、6月号時点で1025人。ピーク時の三分の一。ものすごい減り方です。

 欲は言いませんが、各世代がバランス良く、そう1500人くらいは欲しいですね。

 余談ですが、俵津は大浦から始まりました。『町誌』にこんな記述があります。

明浜町における人口等に関するもので、一番古い記録として残っている、俵津浦地蔵院縁記にある、宝亀二年(七七一)は、今から約一二〇〇年前である。その時の俵津浦の戸数は一〇戸とある。平均四人家族として、人口は四〇人と推定される。」「これは空海が生まれる(七七四)三年前である」。

 新田の駄場地区からは、1700年前の弥生後期の素焼きの土師器も出土していますから、この頃から俵津に人は住んでいたのでしょうが、思えばはるかな道のりです。

 と、こう書き出してはみたものの、さて、このあとどう続ければいいのでしょう?早くもここで行き詰ってしまいました。

 

2、

 気分を変えるために、部屋を整理していたら、『広報せいよ』の束が出てきたのでめくっていたら、2019年10月号に「特集・種をまく」があって、「狩江」のことが大々的に載っていました。

 「『かりとりもさくの会』が運営する移住交流体験施設『きたかな』から、今、何人もの移住者が生まれています。」という大きめの文字のリード・コピーが目に飛び込んできました。

 同施設は、旧狩江小学校の校長住宅を全面改装したもので、平成30年2月にオープンしたといいます。「オープンから1年半で、利用者は52人。毎月、ほぼ1組の利用があります。」「『きたかな』利用者のうち、少なくとも11人が市内に移住しています。」これからも「移住者を毎年2人増やしたい」という目標を持っているそうです。

 そこでわかりました。まず、何よりも「目標」を持つこと。地区ぐるみで、しっかりと意志すること。なんですね。そこから、始まるんですね。

 2019年秋に移住を決めた伊藤さんという方の弁。

「なんか居心地が良いなあ、楽しいなあ、こっちで生活するのも悪くないなあと思って。移住なんて全く頭になかったのに、不思議ですよね。『かりとりもさく』の皆さんの『来てくれたら、これから一緒に楽しくできる』『おいでよ』という言葉も大きかったです。新たな土地での生活に不安もあるけど、困ったら助けてくれる人がたくさんいる。地域とのつながりに、背中を押されました」。

 そういえば、わたしにも、こんな経験がありました。狩江の豪農(10haもみかんを作っています)斎藤達文さんの家で飲んでいた時のことです。達文さんの家は、それこそ古民家そのものです。囲炉裏の煙にまぶされた柱も天井も真っ黒。照明も、訪れるまぶしい光が苦手な青い目の人たちにも優しいように落としている。雰囲気抜群。(狩江にはこんな家が多い)。そんな中のことです。たまたま無茶々園に来ていた東京の消費者のおばちゃん(60前後のひとだったか)が、言うんです。「あたし、ここで居酒屋でもやろうかなあ」。都会の人にそんなことを言わせる雰囲気が確かに狩江には、あるんですね。

 

3、

 ほんとに、人をその気にさせるものが、狩江にはある、のでしょうね。そして、Uターンにしろ、Iターンにしろ、Jターンにしろ、人を迎え入れる、準備が出来ている。基本的条件を整えている。ということでしょうか。

➊人が魅力的

➋「四国西予ジオパーク」がある

➌国の「重要文化的景観」に指定された石垣と古くからの建造物群が大量に残っている

➍「無茶々園」という大きな中核的存在が、どっしりとある

➎渡江の盆踊り「歌舞伎くずし」がある

➏まちづくりのセンター「かりえ笑学校」がある

 

4、

 「記事」を、つづけて読みましょう(この記事を書いた人はいいですね。西予市役所にはいいライターがいます)。

 (宇都宮)利治さんは話します。「住民皆で文化的景観の申請を決めて動いてきたけん、うれしいよ。いろんな人に『絶景やなあ』と喜んでもらえるのもうれしいよ。ますます地元に誇りを持てる。やけん、この地の良さを日本国中、世界中に伝えたい。でも一番には、ここで暮らすわしらがどれだけ心豊かに暮らせるか。宝を、どういうふうにまちづくりに生かすか。これからも模索したいんよ」「次は世界遺産を目指したい」

 また、

 宇都宮利治さんは語ります。「人を受け入れる気風も、皆で団結できる力も、当たり前のようにこの地に根付いとる。先人から引き継いどる。今わしらが手にしとる宝は、何十年、何百年も前に先人がまいた種から大きく育ったもの。ありがたいことよなあ。やけんわしらも、次に続く人らのために、種をまかないけん」

 愛媛大学社会共創学部・特任講師、笠松浩樹さんの話(インタビュー)も載っています。

「住民でないのが残念」そう思わせる魅力がある地域

 開けた気風があって、人を受け入れる懐が深い。何より前向き。7年前から付き合いのある狩江地区の皆さんは、人として「いいな」と思える存在です。少子高齢化などの地域課題を前に、時にため息も聞こえてきますが、根っこの部分は皆さん前向き。1人が「こうしたい」と言えば、皆で「やろうや!」と団結して実現しています。その様子を見ていると「ここの住民でないのが残念だ」とまで思ってしまうほど。人に「もし自分が住民なら、こうしたい」「この地でならできる気がする」と思わせる力があるのはすごいこと。大きな可能性を秘めた地区だと感じています。

 

5、

 「俵津は、狩江に負けたのお」

 昭和18年生まれの先輩が、わたしにしみじみ言ったことがあります。「やっぱりこれは、“教育”の差やろのお」。その言わんとするところは、わたしにも十分わかります。俵津の多くの人は、反発するかもしれませんが、狩江と俵津の社会の厚みは、もう歴然と差があります。

 でも、わたしは、(わたしが無茶々園に加入しているせいかもしれませんが)、俵津の隣にそういう町があるということは、素直に喜んだらいいことのように思えます。その上で、俵津の独自色を出すやり方を考えればいいような気がするのです。俵津はたしかに、みんながバラバラで、まとまりがない(様に見える)。その分個々人が自由でしばりがないということも言えるかもしれません。そういう人間たちが、ある時、「俵津の人口を増やす方法はあるだろうか」と自らに問いかけだす時があったら、その時は、ちょっとこれは面白い展開になるのでは、と思います。

 いずれにしろ、あるがままの前提条件の中で、あきらめないで、粘り強く、考えて行きましょう。

 

6、

 最後に、「かりとりもさくの会」と「無茶々園」の方々に、お願いをしておきます。

 毎年、1000人を目標に、ジオパーク重要文化的景観や無茶々園を訪問するお客さんを呼び込む施策を、展開していただけませんか。わたしは、あの魅力的なおっちゃんやおばちゃんがいる今のうちに、日本中から、また世界中から、できるだけ多くの人たちを来させたいと思っています。触れあっていただきたいと思っています。田舎暮らしのしあわせのおすそ分けです。

 以前、狩江のお祭りを見にきていた東京の消費者の方が言っていました。「ここのお年寄りの方たちは、まちがいなく、世界に通用すると思います」

 糞尿とゴミだけが残るような「観光」振興をわたしは好みません。狩江の持つ素材は意志(意思)ある人を自ずと選べるでしょう。

 また、来訪者に、狩江の全無茶々園農家・職員が自宅を宿に提供するシステムを構築することも考えていただきたいと思います。かりとりもさくの会の有志の方々も協力していただきたい。

 新たな「希望」の灯がともりそうな予感がします。

                        (2020・7・13)