虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

「九段の母」と「故郷」と

 「ひと筋入った 横丁で/昭和を覗いて みませんか/男の背中にゃ 色気(いろ)があり/女の背中にゃ 艶がある/そんな時代が ここにある/居酒屋「昭和」の/居酒屋「昭和」の 出会い酒」

(唄:八代亜紀; 作詞:中山正好/八代、作曲:大谷明裕/八代)

 わたしのつれあいが歌っているのを聞いて、しぜんに覚えた八代亜紀の『居酒屋「昭和」』を口ずさんでいると、母(96歳)が「二葉百合子の「九段の母」知っちょるか」と言い出しました。「知らん」「・・いい歌やったがのお」。「歌ってみて」「・・もう忘れてしもおた」。

 ユーチューブで調べて聞かせてやると、懐かしそうに聞いていました。「やっぱり、二葉百合子はええのお」。―

上野駅から 九段まで/かって知らずの じれったさ/杖をたよりに 一日がかり/せがれ来たぞや 逢いに来た」

「空をつくよな 大鳥居/こんなりっぱな お社に/神とまつられ もったいなさよ/母は泣けます うれしさに」

「両手あわせて ひざまずき/拝むはずみの お念仏/はっと気づいて うろたえました/せがれ許せよ 田舎者」

「鳶が鷹の子 生んだよで/今じゃ果報が 身にあまる/金鵄勲章が 見せたいばかり/逢いに来たぞや 九段坂」

(作詞・石松秋二、作曲・能代八郎)

 何回か聞いているうちに覚えて、わたし自身も歌っているうちに、やがて“歌詞”のほうに関心が向くようになりました。

 この母の気持ち、ほんとうなのかなあ?・・・。別にたかが歌謡曲、問題にするようなことではないとは思うものの、つい引っかかってしまいました。もっと違う悲しみ方があるんじゃないの、もっと息子を殺した国家に対して怒りをぶつけていいんじゃないの。何が「こんなりっぱなお社」よ、何が「神とまつられ、もったいなさよ」と。「お念仏」だっていいじゃないの。「鳶が鷹の子生んだ」なんて言わなくていいんじゃないの、何が「果報」よ、「金鵄勲章」が何だっていうの、と。

 わたしに(この歌を聞いた者に)こんな気持ちを抱かせるということは、これ「反戦歌」じゃないのか、とも考えましたが、どうなんでしょう?

 抗いようがない国家権力の前に、ほとんどすべての国民が「戦争」へと向かった時代。文化人たちも戦争賛美の言葉を書き連ねました。こんな歌があるといいます。「母こそは み国の力 おの子らをいくさの庭に 遠くやり なみだ隠す おおしきかな 母の姿」(母の歌)。わたしはこの歌を内山節さんの書評集・『内山節と読む世界と日本の古典50冊』(農文協)の中の『日本唱歌全集』(井上武士 編)を取り上げたページで知ったのですが、この歌は「九段の母」を必然的にまねいているというか、一直線につながっているように思います。

 ロックもフォークもなく、ボブ・ディランビートルズ岡林信康高石ともやもいなかった時代で、仕方なかったのか「九段の母」。「一億総懺悔」などと言って、あの戦争をやり過ごしてきた象徴のような歌だなあ、と思ったことでした。

 せっかくですから、上記の内山節さんの『日本唱歌全集』批評を少し紹介しておきます。

・「文部省唱歌」は、国家のための人間づくりを柱の一つとして編纂され、子どもたちにくり返し歌わせてきたのである。この文脈のなかでは、男子は子どものときからおくにのために「兎追いし」の子どもでなければいけなかったし、お国のために働く人間としてふるさとを捨てる人間でなければならなかった。ただし気持ちはいつもふるさとを思っている。ふるさとは暮らす場所ではなく、思いを寄せる場所になった。

・「文部省唱歌」は・・罪深いと私には思えてくる。何のこだわりもなく子どもたちにお国のために働く尊さを教え、ふるさとを捨てる生き方を立身出世と絡めて教えていくのだから、である。はっきりしていることは、そういう歌とともに、明治以降の日本の近代化は展開していったということである。

・明治以降の日本は、日本的なものを根底から否定、破壊しようとしていったのである。そのためには、音楽的感性をも変えてしまう必要があった。学校教育で人間をつくりかえることによって、国家のために生きる人間を創造しようとした。それが明治からの日本であったということを、いま私たちは「文部省唱歌」からも知ることができる。

 内山さんはいろいろな唱歌をとりあげて例証していますが、その中の一つに「故郷(ふるさと)」があります。「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて  忘れがたき故郷/如何にいます父母 恙なしや友がき 雨に風につけても 思いいずる故郷/こころざしをはたして いつの日にか帰らん 山はあおき故郷 水は清き故郷」という誰でも知っている唱歌です。

 内山さんは「故郷」はほのぼのとした牧歌的な歌ではないと言います。この歌の「兎追いしかの山」というのは、寒冷地での戦争に勝つために軍服の襟のところにつける毛皮が大量に必要になったため、国は軍事産業として狩猟を育成するようになった(このときにつくられたのが「大日本猟友会」)。学校でもしばしば生徒たちが兎の追い込み猟をした。「東亜のまもりをになうのは 正しい日本の子どもたち」(数えうた)として頑張っている光景をうたったものだというのです。

 またこの歌は「ふるさとを捨てる歌だ」とも。捨てる理由は、「み国にやくだつ人となれ」(数えうた)という明治政府の立身出世観。都市に出て成功し、故郷に錦を飾るというあれ。「故郷の空」や「故郷を離るる歌」なども同じ、といいます。「生まれ育った村で暮らそうという歌は一曲もないのである。」とまで言っています。

 もう一曲だけあげておきます。「われは海の子」。この曲の最後の7番は、「いで大船を乗り出して 我は拾わん海の富 いで軍艦に乗り組みて 我は護らん海の国」。

 こんな歌を毎日学校で歌わされていたら、それはもう軍国少年が出来上がるのは火を見るより明らかでしょう・・・。

 故郷が寂れていくのは、明治時代からの、はるかなはるかな以前からの、必然だったのですね。

◆ 

 ふるさとを創る歌を歌わなくては。そして、創らなくては。

 松山の城山ロープウェイに乗っていると、こんな言葉が書かれているのが目に入ります。「恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい!」(桂綾子さん)。

 この言葉をコンセプトにした歌が、昨年亡くなった新井満さんの「この街で」です。この国にはじめて、ふるさとを捨てない歌、ふるさとに生きる歌が誕生したのです。

「この街で 生まれ/ この街で 育ち /この街で 出会いました/あなたと この街で」

「あの雲を 追いかけ/夢を 追いかけて/よろこびも かなしみも/あなたと この街で」

(中略)

「この街で いつか/おじいちゃんに なりたい/おばあちゃんに なったあなたと/歩いて ゆきたい」

 もう「ふるさと」を捨てなくていいのです。もう泣かなくていいのです。もう戦争にいかなくていいのです。もう「ふるさと」を創っていいのです。

                     (2022・1・23)