虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

西村仁さん追悼文集  7

       ひとっちゃん(西村 仁)の追悼文

                      岡崎 駒次郎

 

 西村 仁(仁ちゃん)のことは、以前から、岡崎憲一郎より「仁ちゃんは最近体調が悪く、みんなで見舞に行こう」という話があったが、コロナウイルスのこともあるので大勢で押しかけるよりは少人数でということにして、私は個別で見舞することにした。

 仁ちゃんと最後に出会ったのは、2021年、昨年の10月11日だった。

彼の自宅に立ち寄って 声をかけたが返事がなく、仕方がないので帰ろうとしてしていたが、ひょっとして病院でも行っているのかなと思い携帯電話で呼び出したところ話ができて、「今何処にいるのかな?」と聞いたところ「家にいる」と返事があったので早速臥せっている寝室に入り見舞うことにした。

 体調が悪いと聞いていたのであるが、意外と元気な様子であったので、しんどい体とは思いながら仁ちゃんのペースで2時間余り話し合った。開口一番言った事が「駒ちゃんに会いたかったんよ」と言われて大変うれしく思った。

 久しぶりという事もあって、近況やら,昔懐かしい話題と時間のたつのも忘れて話題に尽きなかった。

 私と仁ちゃんの出合いは、時のたつのは早いもので約半世紀になります。

 当時は20代の若さ溢れる時期。その頃のことは、現在の私の頭もボケが始まって記憶も薄れがちの今日であるが、当時俵津青年団長に西村仁、狩江青年団長に原田義徳、高山青年団長に岡崎駒次郎がリーダーとして各単位団で活動していたと思う。明浜町連合青年団を立ち上げようと結成準備会、いわゆる統一実行委員会を立ち上げ、市川嘉國が会長になり活動していたころにさかのぼる年代である。

 その目的の行動の一つに町内駅伝を実施しようではないかという意見があって(その発案は宇都宮氏康ではなかったかな?)町内を駅伝競走大会で団員一丸となって実施しようと、その大会は成功裏に、その後明浜町連合青年団を結成することができた。

 その駅伝大会は今年令和4年で49回に現在まで続いてきた。当初は小学児童から一般団体まで幅広く参加者があったのに、残念なことに今年はなんと3チームのみの大会であったと聞いて少子高齢化の影響はここまで来たかと大変残念に感じている。

 若さ溢れる年頃から今や後期高齢者となった我が身の現在であるが、先に述べたように新しものが好きだった仁ちゃんとの話の中で話題となった情熱的な行動の一つを紹介すると、私から「今愛媛県の方ではミカンの新品種を奨励することの試験栽培的に県下指定農家に新品種が導入されていることをある報道で聞いたよ」と言ったところ、即、西宇和のミカン農家の友人にTEL連絡して穂木の確保ができないか聞いていた。ここでも情報を耳にすると即行動を起こすのが仁ちゃんでした。アメリカ帰りの異色人的な仁ちゃん、考え方も太っ腹なリーダーであった。

 2018年9月16日、私がミカンの摘果中に虫食い果樹に登って作業中に転落、右足大腿骨骨折をして、金属で接続55日間入院生活を余儀なくした時も、わざわざ見舞に来てもらったことがありますが、仁ちゃんの性格は私が思うに、豪放磊落、義理人情に厚く、世話好き、そして、新しものが好き、旅行が好き、その上人脈が広く友人が多いことですね。

 昨年10月に自宅で出会ってからその後、その内に々と思いながら、貧乏暇なしの生活で、12月19日もの言わぬ仁ちゃんの通夜の晩まで会うことがかなわず、誠に申し訳なく思っている。

 後期高齢者になった自分自身、健康でいられることの喜びを思い、これまでの大勢の仲間が一人減り、二人減りこの年齢になると皆さん同様に感ずることであろうと思うが、健康であることの大切さ、生きていける仕事ができることの喜びを感じながら、今思うこと、仁ちゃんは俵津の山でミカンを中心とした夢の楽園を目指して、新品種に取り組んで、大勢の仲間を引き連れて活躍していることと思いをはせながら・・・・・・・・

 旅立った仁ちゃんに心からの冥福を祈ります。安からんことを・・・・・・。

 

                  2022年(令和4年1月)

 

                     (2022・1・24)