とても嬉しいことがありました!
わたしが畏敬してやまない、というか大ファンの、松山の玉井葵さんから、その著書が送られて来たのです。しかもできたばかりで湯気が立っています。
A4版・箱入りでオールカラーの大きくてまことに贅沢な素敵な本です。タイトルは、『ぐうたら通信 玉井葵からあなたへ 2020ー2018』。玉井さんがこの40年間出し続けてこられた通信の、最近の三年分を丸ごと一冊にしたものです。しかも通常と逆で新しいものから古いものへと並べられた編集の妙が効いています。ページをめくるだけで楽しい本です。
このコロナ禍のなかで、みんなが委縮し不平や不満をため込み、ストレスを感じ続けている中で、このような「遊び」(あえて遊びと言わせていただきます)を、軽々と飄々としかも大胆にやってのける玉井さんにウットリ、です。快哉、です。この余裕、こころの大きさ、ほんとうに感激です。一陣の爽やかな風が、頂いた時、私の心の中で吹き抜けるのを感じました。
玉井さんは、人生の達人です。玉井さんは、好奇心の塊です。全方位、あらゆることに関心を持ちます。玉井さんは、行動家・動く人です。愛車・ダイハツタントの年間走行距離三万キロ、が物語っています。玉井さんは、勉強家です。玉井さんは、話す人です。玉井さんは、食べる人です。また、多芸多才な趣味を持つ人です。陶芸・水彩画・短歌・俳句etc.
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だから、「本=通信」はそれらの記録です。まず「日々、こんなことあんなこと」が最初のページにあります。世の中というか日本と世界の政治・経済・社会等々のあらゆることが論評・コメントされます。ちょっとタイトルだけ少し挙げてみましょう。●「桜の会」前夜の夕食会への支出があった、ということで・・・●「鬼病」はいつ、どう収束するものか●与島沖の沈没事故で思い出す紫雲丸事故●日本学術会議会員選任拒否の先に見えるもの●核兵器禁止条約を結ばない「唯一の被爆国」●鬼北町の人口が1万人を割った●大坂なおみに拍手、・・・(ああ、タイトルだけでも全部紹介したい!)。その指南力は抜群です。わたしはここから「世界の見方」「ニュースの読み方」を教えてもらっています。
「松山文化史・明治年表」(城戸八州編から)があります。「ちょっとお出かけ」「伊予の式内社を巡ろう」で神社仏閣を巡った記録が写真入りで紹介されます。「本棚の隅」や「本読(酔)み千鳥足」のコーナーでは、無類の本好きの玉井さんの魅力満載。目くるめく世界が開陳されます。その興味の多方面さ、スゴイの一言です。そして、毎月の行動記録、どこへ行った、誰と会った、何を見た、何を食べた・・・。これが実に楽しい。すべてカラー写真付きだから臨場感たっぷり。(そのほかまだまだ書ききれないくらいの記事がありますが今回はこのくらいに)。
残念なことは、この本、市販はされていないこと。毎月の「ぐうたら通信」の読者のみの限定本だそうです。
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玉井さんの「プロフィール」です。
玉井葵(たまい あおい)。1944年満州国哈爾浜省(現・中国東北地方)生れ。松山北高等学校、愛媛大学を経て、愛媛新聞社入社。退社後は現在の悠々自適が。「伊予のぐうたら狸」を自称とのこと。
著書。①『凡平ー「勇ましい高尚な生涯」を生きて』(2000)
②『お袖狸、汽車に乗る』(2003)
③『伊予の狸話』(2004)
すべて創風社出版(松山)。読んでみたいと思われた方は、同社HPから注文してください。http://www.soufusha.jp/
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それでは出血大サービスです。『ぐうたら通信』の中から、丸ごと1ページここに書き写します。是非是非、ご覧あれ!(No.226/2019.08/01-page2 同書106ページ)
明浜通い 40年
不思議の郷の、不思議な人たち
梅雨の晴れ間、明浜の高間タエさんを訪ねた。いつものように、原田義徳さん、岡崎憲一郎さんが来てくれて、とりとめない話に時間が過ぎた。話題はまず、カラス。普段は4羽しかいないはずのカラスがある時、何十羽も来て、トンビを巣から追い出してしまった。ビワのなる時期だった。どこからか「出稼ぎ」にきたに違いないという。「出稼ぎ?ビワを摘みに?どこから」「高山か、その辺じゃろ」。
イノシシ、ハクビシンと登場人物(?)の話が延々と続いて、ちっとも飽きない。私の帰りの時刻が迫っていなかったら、いつまでも続いていただろう。
こうやって、私は明浜に癒されてきた。
思い出してみると、この町へ通い始めて40年は経っている。私をそんなに受け入れ続けてくれた人たちが、外にいただろうか。
明浜は私にとって、不思議な人たちが暮らす不思議の郷なのだ。
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明浜へ初めて出かけたのは、無茶々園を取材した時だ。それははっきりしている。1978年(昭和53年)に特集面の取材班に配属されて、楽しく飛び回っていた時期だ。有機農業をやっている若者グループがあると聞きつけて、出かけた。新聞社の部は基本的に地域割り、縦割りだった。それに縛られない特集面担当に所属していなかったら、行かせてもらえなかっただろう。
狩江公民館の奥の一室が梁山泊で、片山元治さんたちメンバーがたむろしていた。無茶々園が紙面に載ったのは、その時が初めてだった。
その狩江公民館の主事をしていたのが原田義徳さんで、彼との付き合いが、すべての始まりだった。彼を紹介してくれたのは、松山の公民館主事のNさんで、主事つながりであったらしい。
明浜という所は、何もかもが重なり合っていて、原田さんと付き合うと言うことは、原田さんの顔の広さもあって、その地域の各層の人と交わるということだった。岡崎の憲ちゃん、宇都宮氏康さんたちとは篤く付き合っている。無茶々園のメンバーともあらためて顔見知りになった。現在も付き合いのある人たちはみんな、彼の縁だ。
明浜通いの初め頃に、大きなイベントがあった。80年夏の「燃え狂え!フォークキャンプ・イン・お伊勢山」だ。青年団が主催したが、私たちは「イワちゃんのエイコちゃんへのプロポーズ大作戦」だとはやし立てた。作戦は目出度く成功し、二人は今、後継ぎさんとともに、ミカン農家をしている。
その後、私は整理部に異動になった。内勤暮らしが面白くなかった。ある日、勤めを終えてから明浜に釣りに出かけた。午前3時は過ぎていた。浜へ着くと、原田さんが待っていてくれた。「まさか」と思った。感激した。
そういえば、いつだったか、明浜でわいわいガヤガヤやった後、私が帰るのと一緒に、松山へ行くという。「皆さん元気だね」などと言いながら、松山へ帰り着いたら、彼らは明浜へ帰るという。私を送ってきてくれたのだ。感激しないでいられるだろうか。その時の一人、幸地権一さんはその後すぐ、亡くなられた。仲間が彼を偲ぶ文集「幸せ配達人」を出した。その本は今も、書庫にある。拡げると涙が出て仕方がない。
野村や松山で、メンバーで飲んで歩いたこともある。あれは楽しかった。みんな結構節度があるのだ。飲んで崩れてもめごとになるなどと言うことはなかった。
役場職員の原田さんが企画したカッパ祭りやさくらまつりは、毎年通った。孫たちが小さい頃で、一族連れての明浜通いは楽しかった。高山の海岸での勇壮なお祭りや、渡江の盆踊りの口説きは、一生に一度は見ておくべきものだ。
陶芸の高間タエさんとのつながりも、原田さんが付けてくれた。高山の定時制高校から東京の美大に進学するという、ちょっと信じがたいキャリアのタエさんは、スペインでその国の人と結婚し、故郷の高山で窯を焚いていた。彼がつないでくれて、月2回、お稽古に通った。片道2時間半かけて、10年以上通った。真冬は少し厳しかったが。
ただし、ちっとも上達しなかった。私は何をやらしても上達しない人間で、「それもまたよし」と生きてきた。
そうそう、高間家の猫、ソノラのことにも触れておきたい。私は猫が苦手なのだが、彼女・ソノラだけは付き合えた。真っ黒のおばあさんは、私が弁当を拡げると足元へ寄ってくる。・どうかすると膝に上がってくる。彼女が亡くなってどれくらい経っただろう。ちょっと懐かしく、切ない。
明浜など4町が合併して西予市が出来た時、私は「明浜というアイデンティティーはなくなる」と指摘した。それがどうなったかは知らない。が、「明浜は明浜」であり続けてほしいと願っている。
※ 注;「高山の祭り」のカラー写真付きです。
(2021・2・26)