虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

「虔十公園林」を読む。

 「虔十公園林」。わたしが「宮沢賢治」に初めて触れたのが、この作品でした。小学校六年の時、学研の月刊誌「6年の学習」に挿し絵入りで全文が載っていたのです。物語はこんなです。(できるだけ原文を使って、十分の一くらいに要約してみます。)

 「少し足りない」と思われていた「虔十(けんじゅう)はいつも縄の帯をしめてわらって杜の中や畑の間をゆっくりあるいているのでした。雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたゝいてみんなに知らせました。」「風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもううれしくてうれしくてひとりで笑えて仕方」ありませんでした。でも、そんな虔十を子供たちはばかにして笑っていました。

 ある時、家の人達に虔十は云いました。「おらさ杉苗七百本、買ってけろ。」「虔十の家のうしろに丁度大きな運動場ぐらいの野原がまだ畑にならないで残っていました。」地味のわるい「杉植えても成長しない処」でした。お母さんと兄さんは反対しましたが、お父さんは「買ってやれ、買ってやれ。虔十ぁ今まで何一つだて頼んだごとぁ無ぃがったもの。買ってやれ。」と云って買ってもらったのでした。兄さんに手伝ってもらって虔十は「実にまっすぐに実に間隔正しく」植穴を掘り植えて行ったのでした。

 「杉は五年までは緑いろの心がまっすぐに空の方へ延びて行きましたがもうそれからはだんだん頭が円く変わって七年目も八年目もやっぱり丈が九尺ぐらいでした。」ところが、そこは子供たちの遊び場に一変したのです。「全く杉の列はどこを通っても並木道のようでした。それに青い服を着たような杉の木の方も列を組んであるいているように見えるのですから子供らのよろこび加減と言ったらとてもありません。みんな顔をまっ赤にしてもずのように叫んで杉の列の間を歩いているのでした。」

 ある年の秋、虔十は「チブスにかかって死にました。」次の年村に鉄道が通り、瀬戸物の工場や製糸場ができました。「そこらの畑や田はずんずん潰れて家がたちました。いつかすっかり町になってしまったのです。その中に虔十の林だけはどう云うわけかそのまゝ残って居ました。」虔十の家の人たちが「こゝは虔十のたゞ一つのかたみだからいくら困っても、これをなくすることはどうしてもできない」と云って売らなかったのです。

 「虔十が死んでから二十年近く」なって、「ある日昔のその村から出て今アメリカのある大学の教授になっている若い博士が十五年ぶりで故郷へ帰って来ました。」杉林で遊ぶこどもたちの姿を見て、校長さんに事情を聴いた博士は言いました。「ああそうそう、ありました、ありました。その虔十という人は少し足りないと私らは思っていたのです。いつでもはあはあ笑っている人でした。毎日丁度この辺に立って私らの遊ぶのを見ていたのです。この杉もみんなその人が植えたのだそうです。あゝ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。たゞどこまでも十力の作用は不思議です。こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでしょう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するようにしては。」「さてみんなその通りになりました。」「『虔十公園林』と彫った青い橄欖岩の碑が建ちました。」

 「昔のその学校の生徒、今はもう立派な検事になったり将校になったり海の向こうに小さいながら農園を有ったりしている人たちから沢山の手紙やお金が学校に集まって来ました。」「虔十のうちの人たちはほんとうによろこんで泣きました。」「全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂い、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本当のさいわいが何だかを教えるか数えられませんでした。」「そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみじかい草にポタリポタリと落としお日さまが輝いては新しい奇麗な空気をさわやかにはき出すのでした。」(ちくま文庫版全集6)

 小学生のわたしは、(いまでも筋を覚えているくらいですから)、この童話がいたく気に入ったのです。

 わたしも田んぼの土手に寝転んでぼんやり空の雲を見ているような子供だったので、虔十に親近感を持ったのです。共感したのです。

 それから、人から「足りない」と思われていた虔十が、実に規則正しく杉苗を植えたことや植える土地をわざわざ指定して植えたこと、木が大きくならないことが肝要なこと。そしていつかは村の子供たちが歓喜して遊ぶ場所になる未来を見通していたのではないかと思われる企画力・構想力・実行力を備えていたことに唸ったのでした(虔十はホントは天才だ!)。

 そして何より、虔十の無償の行為が、そのまま自然と大きな「まちづくり事業」になっていたこと、に感激したのでした。(もちろんこういう言葉で当時のわたしが「気に入った」理由を説明できたはずはありませんが)。

 今回は、たったこれだけのことを言うためにだけ、「虔十公園林」を取り上げました。

 でも、いまこの作品を読み返してみると、それだけではないことをわたしたちに教えてくれているような気がしてきました。

 農業や農村の魅力。虔十のような者を包摂する家族や地域のあたたかさ。自然に感応し、共感し、対話・交感することの素晴らしさ。人は誰でもが人を感動させることができること。その感動や共感が人々の協力や資金を呼び込み、なにものかを作り上げること。つまりは、「本当の幸い」のありかを示しているように思われるのです。

 賢治は虔十にたしかに自分を重ねています。「雨ニモマケズ」の詩で自らを「デクノボウ」と呼んでいますが、そこに綴られた願望を心底からもっていたのでしょう。文中「十力(じゅうりき)の作用の不思議」という言葉がありますが、仏(菩薩・如来)が人々を救うために使う十種の力のいづれかが虔十にも備えられていたと確かに言えます。

                          (2021・3・5)