虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

「長崎東海」を、知る。

 今回は、長崎東海についてです。

 『明浜町誌』第八編・人物の項に、「郷土(俵津)の発展のために礎となった先覚者」が10人挙げられています。文政の孫三郎、井上新三郎、伊井庄五、井上駒次郎、菅吉三郎、山下定次郎、山下五郎、中村重太郎、長崎東海、宇都宮小市の10人です。長崎東海がちゃんと入っております。

 この人は知れば知るほどに魅力が増してくる人です。この人は(不遜な言い方かもしれませんが)確実に「俵津まち起こし」の“資源”になります(とわたしは思います)。

 「資源」にするためには、俵津住民1000人が「共通の東海理解」を持つ必要があります。(『明浜町誌』の記述だけではもの足りません)。ちょうどいい資料があります!今回はそれを掲載させていただきます。

 

【資料1】「赤ひげ先生」長崎東海日誌の概要  山下重政

 長崎東海の日記は、ご子孫の長崎久恵氏が所有され、一九〇一(明治三四)年から亡くなる一九二八(昭和三)年までの日誌です(大正一四年が欠落)。

 日記の記述によると明治二二年から書き始めたとありますが、一三年間が不明です。私的な内容を多く含んでおり、決して他人に見せてはならないと書いてあります。しかし、私たちは幸いなことに、長崎久恵氏(高知市在住)から読む機会を与えてもらいました。昨年(2018年)春以降、長崎東海研究会(仮称)を立ち上げ学習会を重ねています。

 長崎東海(一八六三~一九二八)は高知県に生まれ、高知医療学校を一九歳で卒業、その後故郷で医者をしていましたが、四〇歳の時俵津で医院を開業しました。開業とともに、山田、皆江、深浦に分院を、卯之町卯之町病院を設立したりもしました。医師として優れて特に外科は有名で、東宇和郡はもとより郡外からも患者がたくさん来ました。一方随時郡内外の各地に往診にも出かけています。忙しい毎日の中、川之石のペスト視察、高知病院の手術の研修、東京の北里研究所の講習会に行くなど日々研鑽に努められました。また、貧しい人からはお金を取らず、トラホームが流行したときは児童の診療を無料にしました。さらに、郡医師会の会長として県医師会の設立に尽力をしました。医師の裁判にも弁護士を雇い、強く擁護しました。産婆、看護婦の養成の為講習会を開き大勢の人を輩出しています。俵津に歯科医師がいなかったため宇和島の歯科医の場所を提供しました。

 また、村会議員、郡会議員として、俵津ー宇和線、俵津ー玉津線の実現、海運の開発にも尽力をしました。郡内の地域視察も細かく行っており広い見識でした。晩年には俵津の沼地を埋め「長崎新田」を残しています。政治的には政友会のメンバーとして清家吉次郎氏、古谷久綱氏の選挙運動を行い、見事国会に送り出しています。

 文化的には、本人の趣味もあり書画骨董収集、生け花、さらに地元出身者を中心に画家、書家、彫刻家等のスポンサーとして活躍しています。地域の行事にも関心を示し長い間途絶えていた盆踊りの復興を図りました。浪花節、演劇、映画、相撲等の興行を好み、当時としては珍しいラジオを東京から買って帰り、ニュースを即座に聞けることなどもしています。正月には滑稽夫人大笑い会を開催し、婦人たちの慰労をしています。また、滑稽本を作り洒落心を発揮しています。

 産業的には自ら養蚕に取り組んだり、ミカン栽培をしたり、養鶏・養蜂も行っています。貝類の養殖の研究も始めたり、海運事業にも乗り出そうともしています。

 日記には毎日の天気の記述があり、特別の時には気温、大雨、積雪、地震さらに火事、農産物の被害まで克明に書いています。特に桜島の噴火、関東大震災などは新聞報道を交え記述しており臨場感たっぷりです。

 戦争についても日露戦争、兵隊検査、入隊、連帯の訓練、軍艦の入港帰還兵、戦死者、生徒の訓練などの記述があります。

 人柄的にはあらゆることに興味を示す。特に差別をきわめて嫌い、労働組合賀川豊彦幸徳秋水にも関心を持っていました。

 私達はこの長崎日記をデータ化したいと思っていますが、マンパワー不足で少ししか進んでいません。協力者を募っています。また、長崎家では、この日記と書簡、当時の交流者の住所録等を、西予市に寄贈の意向もあります。文化財に関する関心がこれほどまでに極めて低いことを初めて知り困惑をしています。しかし、長崎東海氏をこのまま埋もれさせることは何とも避けなければなりません。

                           (俵津スマイル前会長)

 

【資料2】長崎東海略年表       (冨永泰行氏作成)

(西暦)(年号) (満年齢)       (長崎東海の動き)

1863 文久3 (0歳)11.29高知県高岡郡松葉川村(現窪川町)で出生。

1884 明治17(21) 高知県立医学校卒業。試験及第。その後東京北里研究所で修業。

1885 明治18(22) 11.24白石兎苗と結婚

1888 明治21(25) 1.1長男・革出生。10.8次男・南外史出生(市川磯との子供)。

1890 明治23(27) 2.18長女・愛香出生。この年松葉川で開業、下呉地窪川に分院。

1891 明治24(28) 2.25次女・輝見出生(市川磯との子供)。8.27家督相続する。

1902 明治35(39) 2.14宇和島地方に開業探検で来訪、5.19俵津に来村、6.16寄留並びに開業届をなす。10.5俵津に東和病院を開設。

1903 明治36(40) 1.24東和病院開設届を提出。2.5門札、5.30開院式には120名参加、田村東洋吉田病院長ら挨拶。

1905 明治38(42) 4.23-5.22卯之町病院の医師確保のため上京、伝染病研究所等訪問、7.1卯之町病院開院(坂田圭一院長)、8.3同開院式

1906 明治39(43) 4.18心臓病の患者の死体解剖、12.1長男・革、渡米

1907 明治40(44) 9.30郡会議員の当選通知

1908 明治41(45) 1.5村会一級選挙で村議に当選。この年東海の招請で安藤謙介県知事の民情視察受入れ 12.2この日から電話使用 12.25産婆看護婦養成所、自宅で開設

1910 明治43(47) 2.25長女・愛香死亡。

1912 明治45(49) 東和病院10周年記念に、長崎東海が、俵津尋常小学校に門石を寄贈。

1913 大正2 (50)  4.20東宇和郡医師会長に当選

1914 大正3 (51)  7.15富士登山 7.24県医師会創立総会に参加 11.14県議選で清家吉次郎を応援

1915 大正4 (52)  3.25衆議院選挙、古谷久綱当選のため応援

1923 大正12(60) この年 「半病・半医」の状態

1925 大正14(62) 10.東京から(当時家一軒の値段の)舶来の「ホーン型ラジオ」を村に持ち帰り、「東京の話がここで聞けるジャー」と驚かす。

1927 昭和2 (64)  12.10宇和島で開催された賀川豊彦演説会に参加

1928 昭和3 (65)  2.25死去。東和病院閉鎖。

2017 平成29 9.24長崎東海先生顕彰碑除幕式、明浜小学校に於て開催。住民有志の建設委員会が同校庭に設置。

※(原年表にはありませんが、東海の「年齢」を記入させていただきました)。

 

※ 僭越ながら、わたしも、東海さんについて拙き文章を「俵津ホームページ」に2回ほど書いております。あわせてお読みいただければ嬉しく思います。

・「俵ランド物語」第28回 「赤ひげ先生の贈り物」(2017・5・25)

・同第39回 「明治35年、俵津に“超人”がいた!」(2018・5・10)

 

                            (2020・5・16)