虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

「九段の母」と「故郷」と

 「ひと筋入った 横丁で/昭和を覗いて みませんか/男の背中にゃ 色気(いろ)があり/女の背中にゃ 艶がある/そんな時代が ここにある/居酒屋「昭和」の/居酒屋「昭和」の 出会い酒」

(唄:八代亜紀; 作詞:中山正好/八代、作曲:大谷明裕/八代)

 わたしのつれあいが歌っているのを聞いて、しぜんに覚えた八代亜紀の『居酒屋「昭和」』を口ずさんでいると、母(96歳)が「二葉百合子の「九段の母」知っちょるか」と言い出しました。「知らん」「・・いい歌やったがのお」。「歌ってみて」「・・もう忘れてしもおた」。

 ユーチューブで調べて聞かせてやると、懐かしそうに聞いていました。「やっぱり、二葉百合子はええのお」。―

上野駅から 九段まで/かって知らずの じれったさ/杖をたよりに 一日がかり/せがれ来たぞや 逢いに来た」

「空をつくよな 大鳥居/こんなりっぱな お社に/神とまつられ もったいなさよ/母は泣けます うれしさに」

「両手あわせて ひざまずき/拝むはずみの お念仏/はっと気づいて うろたえました/せがれ許せよ 田舎者」

「鳶が鷹の子 生んだよで/今じゃ果報が 身にあまる/金鵄勲章が 見せたいばかり/逢いに来たぞや 九段坂」

(作詞・石松秋二、作曲・能代八郎)

 何回か聞いているうちに覚えて、わたし自身も歌っているうちに、やがて“歌詞”のほうに関心が向くようになりました。

 この母の気持ち、ほんとうなのかなあ?・・・。別にたかが歌謡曲、問題にするようなことではないとは思うものの、つい引っかかってしまいました。もっと違う悲しみ方があるんじゃないの、もっと息子を殺した国家に対して怒りをぶつけていいんじゃないの。何が「こんなりっぱなお社」よ、何が「神とまつられ、もったいなさよ」と。「お念仏」だっていいじゃないの。「鳶が鷹の子生んだ」なんて言わなくていいんじゃないの、何が「果報」よ、「金鵄勲章」が何だっていうの、と。

 わたしに(この歌を聞いた者に)こんな気持ちを抱かせるということは、これ「反戦歌」じゃないのか、とも考えましたが、どうなんでしょう?

 抗いようがない国家権力の前に、ほとんどすべての国民が「戦争」へと向かった時代。文化人たちも戦争賛美の言葉を書き連ねました。こんな歌があるといいます。「母こそは み国の力 おの子らをいくさの庭に 遠くやり なみだ隠す おおしきかな 母の姿」(母の歌)。わたしはこの歌を内山節さんの書評集・『内山節と読む世界と日本の古典50冊』(農文協)の中の『日本唱歌全集』(井上武士 編)を取り上げたページで知ったのですが、この歌は「九段の母」を必然的にまねいているというか、一直線につながっているように思います。

 ロックもフォークもなく、ボブ・ディランビートルズ岡林信康高石ともやもいなかった時代で、仕方なかったのか「九段の母」。「一億総懺悔」などと言って、あの戦争をやり過ごしてきた象徴のような歌だなあ、と思ったことでした。

 せっかくですから、上記の内山節さんの『日本唱歌全集』批評を少し紹介しておきます。

・「文部省唱歌」は、国家のための人間づくりを柱の一つとして編纂され、子どもたちにくり返し歌わせてきたのである。この文脈のなかでは、男子は子どものときからおくにのために「兎追いし」の子どもでなければいけなかったし、お国のために働く人間としてふるさとを捨てる人間でなければならなかった。ただし気持ちはいつもふるさとを思っている。ふるさとは暮らす場所ではなく、思いを寄せる場所になった。

・「文部省唱歌」は・・罪深いと私には思えてくる。何のこだわりもなく子どもたちにお国のために働く尊さを教え、ふるさとを捨てる生き方を立身出世と絡めて教えていくのだから、である。はっきりしていることは、そういう歌とともに、明治以降の日本の近代化は展開していったということである。

・明治以降の日本は、日本的なものを根底から否定、破壊しようとしていったのである。そのためには、音楽的感性をも変えてしまう必要があった。学校教育で人間をつくりかえることによって、国家のために生きる人間を創造しようとした。それが明治からの日本であったということを、いま私たちは「文部省唱歌」からも知ることができる。

 内山さんはいろいろな唱歌をとりあげて例証していますが、その中の一つに「故郷(ふるさと)」があります。「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて  忘れがたき故郷/如何にいます父母 恙なしや友がき 雨に風につけても 思いいずる故郷/こころざしをはたして いつの日にか帰らん 山はあおき故郷 水は清き故郷」という誰でも知っている唱歌です。

 内山さんは「故郷」はほのぼのとした牧歌的な歌ではないと言います。この歌の「兎追いしかの山」というのは、寒冷地での戦争に勝つために軍服の襟のところにつける毛皮が大量に必要になったため、国は軍事産業として狩猟を育成するようになった(このときにつくられたのが「大日本猟友会」)。学校でもしばしば生徒たちが兎の追い込み猟をした。「東亜のまもりをになうのは 正しい日本の子どもたち」(数えうた)として頑張っている光景をうたったものだというのです。

 またこの歌は「ふるさとを捨てる歌だ」とも。捨てる理由は、「み国にやくだつ人となれ」(数えうた)という明治政府の立身出世観。都市に出て成功し、故郷に錦を飾るというあれ。「故郷の空」や「故郷を離るる歌」なども同じ、といいます。「生まれ育った村で暮らそうという歌は一曲もないのである。」とまで言っています。

 もう一曲だけあげておきます。「われは海の子」。この曲の最後の7番は、「いで大船を乗り出して 我は拾わん海の富 いで軍艦に乗り組みて 我は護らん海の国」。

 こんな歌を毎日学校で歌わされていたら、それはもう軍国少年が出来上がるのは火を見るより明らかでしょう・・・。

 故郷が寂れていくのは、明治時代からの、はるかなはるかな以前からの、必然だったのですね。

◆ 

 ふるさとを創る歌を歌わなくては。そして、創らなくては。

 松山の城山ロープウェイに乗っていると、こんな言葉が書かれているのが目に入ります。「恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい!」(桂綾子さん)。

 この言葉をコンセプトにした歌が、昨年亡くなった新井満さんの「この街で」です。この国にはじめて、ふるさとを捨てない歌、ふるさとに生きる歌が誕生したのです。

「この街で 生まれ/ この街で 育ち /この街で 出会いました/あなたと この街で」

「あの雲を 追いかけ/夢を 追いかけて/よろこびも かなしみも/あなたと この街で」

(中略)

「この街で いつか/おじいちゃんに なりたい/おばあちゃんに なったあなたと/歩いて ゆきたい」

 もう「ふるさと」を捨てなくていいのです。もう泣かなくていいのです。もう戦争にいかなくていいのです。もう「ふるさと」を創っていいのです。

                     (2022・1・23)

 

西村仁さん追悼文集  6

             特別の人

                        原田義徳

 

 時の過ぎていく早さを感じます。同時に何も出来ない自分に苛立ちを感じています。君からの手紙をもらい、何かを書かなくてはと思いながら半月が過ぎました。西村仁さんは、私にとっても特別の人でした。君が、早速、みんなに追悼の言葉を寄せてもらっているということで早く早くと思いながら時間だけが過ぎてしまいました。

 仁さんは、何故か何時も身近にいるような感じの人でした。会うと安心出来る。大きく包み込んでくれるような、そして心を弾ませてくれる。そんな大きな力のある人だったと思います。

 私が、いま強く心に残っているのは、どんぶり館への柑橘の出荷が農協に独占されていたのを個々の生産者の個人出荷を可能にしたことです。

 どんぶり館、農協、行政の関係者に交渉し何人かの生産者の意見も聞きながら個人出荷を可能にしていきました。その取り組みの鮮やかさには感服しました。数々の地域づくりに取り組んできた仁さんですが、私の心の中には、そのことが強く印象に残っています。

 私、個人としても仁さんの生き様を1つの形として残していきたいと思ってはいますが、どこまで出来るか分かりません。人を大事に、友を大事に生きて来た仁さんです。多くの人達の言葉の中に大きな背中を残して去った、西村仁さんの生きて来た姿がそのまま蘇ることを望んでいます。

 「お前は、これからどう生きるがぞ」

 そんな声が聞こえてきそうです。無気力になりそうな自分を叱ってくれる。もう少しだけ頑張ってみるか。

 そう自分に言い聞かしている今日です。仁さんの生き様を思いながら。

 そして、

 私の出発点の1つが『自由庵』からです。あのころの君は私にとっては異次元の存在でした。私の生きる空間、世界観を広げてくれた人でした。今でもそうですが。

 コロナが落ち着けば大いに語り合いたいですね。人生、最後で最大の大討論会。48時間の激論会。そして何か形にしていきたいですね。

 君のますますの活躍を期待しています。

                     (2022・1・19)

 

西村仁さん追悼文集  5

            西村仁君のこと

                         永山福重

 

 西村仁のあだ名は「段取り仁」である。困ったことがあると、彼に相談すると解決を図ってくれるのである。頼もしい限りではあるが私が段取りに取り込まれて、とんでもない立場に追い込まれたのは再々である。「周りを見廻して誰も居らん時には我がやらんといけん」「相手がうんと言うまで待つ」「どんな選挙も死に物狂いになる者が10人おれば勝てる」(これは先人からの言葉)というのが彼の持論である。

 私のほうが彼とは3つ年上である。学校で一緒に活動したこともないし、たまたま公民館で卓球したぐらいで、むしろプロパンボンベを宮崎旅館の窓から投げたとか、果樹同志会の研修旅行のバスの中で「歌を歌うためにここに居るがじゃない。」と言ってタオルを窓から捨てたのを見たり、聞いたりして余りいい印象を持っていなかった。それが親しくなったのは田中恒利先生である。70年~80年代、先生を国会へ送るために微力ではあるけれど、俵津の若者が全力で突き進んだ時代である。果樹同志会、明浜町の青年の交流会15日会、町会議員選挙、町長選挙、国会議員選挙、選挙違反事件、LPG基地反対運動、俵津ソフトボールリーグ、俵津海外派遣協会、剪定クラブなど、彼と一緒に行動を共にして彼の人となりを知った。彼が,人前で歌を歌ったことがないのを知ったのはこの頃である。

 タオルを投げた意味が理解できた。彼の歌声を聞けなかったのは残念無念。

 大谷伊予柑の穂木を売って青年部の選挙資金にしたこと、町長選挙応援演説の「好むと好まざる発言」、町会議員選挙事務長時のギブアンドテイク作戦、海外派遣協会の会長としての資金獲得、勾留護送車でのアイスクリーム獲得方法、警察署で印鑑を忘れたときの対処方法、腰縄をつけ、手錠をはめられて警察の階段で中学時代の恩師に出会った時の挨拶の仕方など色々と彼流のやり方には感心させられた。

 そんな彼であるが、自分の段取りになると他人のことほど上手くない。むしろ下手と言っても良いくらいである。彼はどうして運の悪い立場に追い込まれたのかわからないと、こぼしていたけど、歯痒い思いをしていたことは私も知っていたし、わかってもいた。

 西予市になって市長選挙があった。初めて彼と異なる立場になったが、俵津では孤軍奮闘に近い状態のなかで彼の陣営は勝利を収めた。今思えば、映画タイタニックでレオナルド. ディカプリオがタイタニックの舳先に立って叫んだ心境であったろうと思う。彼の周りには10人の死に物狂いの仲間が居たのだろうとも思う。

 お別れの祈りの時、軒号の戒名がそれ以上に見えた。

                     令和4年 1月16日

西村仁さん追悼文集  4

               仁チャン

                       坂本甚松

 

仁チャン!

いろいろと夢をあたえてくれてありがとう。

そして希望をくれてありがとう。

又いろいろと「だんどり」(指導)をしてくれてありがとう。

私ごとですけど、42年前の選挙には、大変お世話になりありがとう。

そして「故」田中恒利先生の選挙では、お互い頑張りましたね。ご苦労様でした。

もう少し「仁チャン」スマイルを見たかったなあ。さみしいなあ。

おつかれさまでした。

ごくろうさまでした。

やすらかにおねむりください。

合掌。

 

                    (2022・1・12)

 

●morinoshimafukurouから

 西村仁さんへの「追悼文」をお送りくださった皆様、ほんとうにありがとうございます。

 引き続き「募集」を致しておりますので、まだの方、よろしくお願いいたします。

謹賀新年!

 明けましておめでとうございます。

 今年もよろしくお願い申し上げます。

 

 水面をのんびりと泳ぐアヒルを思わせるわたしの好きな数字・2が三つも入っている2022年が始まりました。いい年になってほしいものです!

 「コロナ禍」で身動きがとれなくなって始めたこのブログも3年目に入ります。(「俵津ホームページ」に月一で連載した「自由庵憧鶏の俵ランド物語」から数えれば、10年目になります)。読者の皆様の励ましのおかげで、ここまでやってこれました。本当にありがとうございます。あらためてお礼を申し上げます。今後ともどうかよろしくお願い申し上げます。

 このブログ、今年も俵津(明浜町西予市)で見たこと・聞いたこと・思ったこと・考えたこと等々を綴っていきます。わたくし、俵津の書記になります!・・と気張ってはいるものの、何しろ情報不足、知識不足、・・・、どうか皆様どんなことでもいいですからわたしにお教えください。よろしくお願いいたします。

 「俵津ホームページ」のことです。

 昨年12月からアドレス(URL)が変わるという告知があったので、見てみました。(右横の「リンク」から入ってみてください。新しいアドレスを入力しておきましたので見れます。)ある「期待」がありました!新しい担当者によるリニューアルされたサイトが見られるのではないか、と。残念ながらそれはありませんでした。これからに期待したいと思います。

 わたしは今でも俵津における「まちづくり」において、「俵津ホームページ」の果たす役割は大きいと思っています。全国にいる俵津出身者や俵津と縁を結んでくださっている方々に喜んで見てもらえるHPを一日も早く作っていただきたいと願っています。若いテクノエンジニア・デザイナーよ出でよと・・。

 その俵津ホームページに、「2021/12/23『笑顔が繋がる場所』ゲストハウス開設応援プロジェクト開催のおしらせ info>> 」という見出しがありましたので、開いてみました。(皆さんもinfo>>を押してみてみてください)。

 驚きました。わたしが以前から注目していた片岡君たち4人組の「クラウドファンディング」の募集サイトだったのです。そこにこんなことが書いてありました。

 

 今回僕たちが目指すのは、明浜町に訪れた人達が気軽に宿泊ができるゲストハウス作りです!

『海の見える家 10~TEN~』

 10~TEN~の由来

 『10』という数字には【あなたに新しい始まりがある】という意味があります。このゲストハウスをきっかけに明浜町を訪れる人だけでなく、明浜町自体にとっても、何か新しい始まりになってくれたらいいなと思い、『10』と名付けました。(中略)

 自分たちだけで突っ走るのではなく、明浜町の人たちと力を合わせ、地域全体で明浜を盛り上げようー」

 

 そしてそこには、すでに借り上げた古民家で訪問者を受け入れた記録の写真も掲げられています。こう改造したいのだという夢も載っています。素晴らしいではありませんか!

 わたしはさらに、彼らのホームページ「天晴農園」も見てみました。(右の「リンク」欄にあげておきましたので見てください。半年前に了解を取っていたのですが遅くなってしまいました)。彼らの意気軒昂たる「天晴農園誕生のストーリー(趣意)」を紹介します。

 

 明浜地域は昔から柑橘栽培が盛んな地域でしたが、地域の高齢化が進むと共に、みかん農家の人口も減少しました。今では明浜地区のみかん農家の人口の7割が高齢者です。このままでは僕たちの愛媛県産『明浜みかん』が後世に残らない!僕たちの大好きな明浜が衰退してしまう!と思い、若手みかん農家4人で地域の活性化と若者が帰ってきやすい場所づくりに、取り組んでいます。そして、僕たちの明浜みかんを通じていろんな人との出会いを大切にしています。

 

 4人の名前を紹介しておきます!あっぱれな4人です!

・片岡 星也くん(30歳)

・片岡 正嘉くん(32歳)

・上甲 信輔くん(39歳)

・宇都宮 晃仁くん(26歳)

 彼らの素晴らしいところは、それぞれがみごとな自園経営をしているところです。そのうえで、自分たちの利益だけではなく「地域づくり」にまで視野をもっているということです。

 彼らは昨年明浜共選から離脱して自立しました。明浜共選は昨年玉津共選と合併したのですが、そのことが彼らに自立を促したのでしょう。わたしはその時、彼らのような優秀な農家に離脱をさせるような共選に失望しました。共選は、若い優秀な農家に夢や希望を与えることができなかった。

 本来なら共選こそが、ゲストハウスのようなものを作らなくてはならないのでは、と思います。全国の消費者に、「明浜へ行ってみたい!」と思わせる運営・活動をやらなくてはいけないのでは、と思います。持っている施設・資金をフルに活用して・・。共選は、明浜の「まちづくり」のやはり一つの大きな中心なのですから。その視点を見失っている共選は、やはり能力ある若者を引き留めることはできないのでしょう。

 最近、「Z世代」という言葉を知りました(完全にわたしは遅れてます)。1990年後半から2000年代に生まれた人を指す言葉だそうです(現在の年齢にして10~21歳の層。現在日本の人口の14%程度)。ちなみに1960~70年代に生まれた人をX世代、80~90年代に生まれた人をY世代(ミレニアム世代)というそうです。

 Z世代は、「高度なインターネット社会で育ち、スマホを使いこなすデジタルネイティブ世代で、彼らの情報源はすべてネット」とか。彼らが注目されるのは「新たな流行を生み出し、今後の消費活動の中心を担う層」だからです。

「彼らは人とのつながりを重視する傾向が強く、その延長として社会とのつながりにも高い関心を持ち、社会貢献活動やSDGsにも積極的にかかわっていこうという考えをもっている。購買行動もマスコミ情報より、友人や知り合い、フォローするインフルエンサーの口コミ情報を信頼する傾向が強い。」(朝日新聞「経済気象台」H氏、2022・1・5)

 まさに、わたしたちがこれから相手にするにふさわしい世代であると思います!ミレニアム世代の天晴農園の面々には、そこまで視野が届いているように感じます。おもしろい時代になりそうです!

 昨年のクリスマスの頃です。軽トラで湾岸道路を走りながら思いました。「湾岸の空き地(農協の駐車場か宇和島自動車の駐車場か浜の広場か魚市場跡地の公園予定地あたりか)に、一本のモミの木を植えたらどうか」と。10メートルくらいの三角のツリーに相応しい木に電飾をほどこして俵津の新しいシンボルにするのです。

 わたしには、湾岸がどうにも寂しいのです。湾岸が殺風景に見えてしょうがないのです。しまりがないのです。わたしはミーハーでしょうか?

 松岡正剛さんの『日本文化の核心』(講談社現代新書)でこんな文章を見つけました。

「日本人は「柱を立てる」ということを大事にしてきたのです。村をおこすときも、その中心あたりに先駆者たちが最初に一本の柱を立てました。村の中の一本の立派な木を柱に見立てることもある。これを「村立て」と言います。」

 一本のクリスマスツリー木が、「村立て」になるような気がふとしたのです。おおげさでしょうか。

 「コロナの第六波」の襲来です。第五波から間がありましたので、少し安心していたのですが・・。

 今度の(オミクロン株)は、とにかく感染力が桁違いに強いらしい。重症化はしないそうですが。WHOは「軽症・軽症とは言わない方がいい」と警鐘を鳴らし始めております。

 わたしも油断は禁物だと思います。むしろ今回のが一番怖いのではないかとさえ思います。感染力が強ければ医療体制の崩壊を招きますし、わたしたち高齢者や基礎疾患のあるものにとってはやはり脅威であることに変わりはありません。無症状が多いということであれば、なおさらの拡大を招きます。心配なのは、上気道から上、とくに脳に後遺症を残すという点です。記憶力や思考力を弱め、倦怠感を起こさせる。3年目に入って、わたしたちは、より根本的・本質的に「コロナ」と向き合わなければいけない時期に来ているような気がします。

 「ウィズ・コロナ」ということがよく言われるようになりましたが、どうすることなのか?わたしにはいまいち分かりません。ワクチンや治療薬も間に合わない。PCR検査体制も整っていない。政府のコロナに対する認識力も甘い。そんな中で「コロナと共に生きよ」と言われても、どうしたらいいのですか?

 いや、その必要性は分かるのです。そうしなければ、わたしたちの社会が崩壊するからです。また、すでに、フランスではオミクロンとは別の新株が発生しているように、新型コロナウイルスの進化(?)はとどまるところを知らないようですから、「ウィズ・コロナ」はこれからのわたしたちの重要課題であることは間違いありません。

 オミクロンが弱毒化しているというのは、ウイルスが人類との共存を指向し始めた(?!)とも取れなくはないようにも思いますが・・・。しかし、生物でなく脳もないウイルスにそうする能力があるとも思えませんし・・・。

 昨年暮れ、松山の友達にみかんを送ったらこんなハガキが来ました。

 

「先日はたくさんのミカンありがとうございました。甘味と酸味の絶妙なバランスのとれた品ですね。

 新型コロナウイルスパンデミックにより交流できない状態で二年経過しようとしていますね。ウイルスの変異株がまたたくまに世界中に広がるさまをみていると、人間活動の過剰さを感じます。「新しい資本主義」など言う人がいますが、本質論と程遠いレベルでの議論に終始しており残念です。人類の生存に関わる問題であり、真剣な議論が必要です。ネットからの情報の豊富さに感心させられています。「一億年後の地球」のキーワードでサイトがあり、人類生存の今後の厳しさがわかります。

 個人的には困難を抱えた年でしたが、可能なことを一生懸命に進めていく姿勢でなんとかやってきました。

 今後ともよろしくお願いいたします。」

                     (2022・1・11)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西村仁さん追悼文集  3

              追悼の文

                         片山元治

 

思い出多き友が死ぬと思い出は悲しみに代わる。我々も死と直面する年頃となりました。

老いて何もせず、迫りくる死を漠然として待つだけでは空しくないか。

仁ちゃん!お呼びをかけてくれるのは一寸だけ待ってくだされ。

世界の空は一つ屋根、人類皆兄弟。爺婆が爺婆になって見えてくるものもある。

もう少し、この世で老害をまき散らしたいのだ。

天国で見よってください。

氏康殿、老害を撒いて、撒いて、まき散らしてから仁ちゃんに合流です。

                        (2022・1・3) 

 

西村仁さん追悼文集  2

           ひとっちゃんへ

                         宇都宮道有

 

 「おーい どがいぞ」 水道検針用の道具を下げて、あのニコニコ笑顔でひょこっと現れそうな気がしてならない。

 ひとっちゃんとのまともな付き合いは、青年団からだった。よく深夜まであれやこれや話をしたが、例のちょっと唇を尖らす独特の口調で熱弁を振るい、我々にはない柔らかい発想や視点から話をリードしてくれ、ずいぶん教えられた。何度も酒は飲んだけど、意外に弱く激論の末大の字で豪快に寝る姿も忘れられない。

 町連青主催の駅伝大会には何度も元気に疾走をして、ある大会で『かーぼ行くぞ!』と和久君をケンケンで抜いてやった。とお茶目な一面も見せてくれた。

 先駆者として津島町に山林を開墾しみかんを栽培したりキウイ栽培をして私も何回かお手伝いさせてもらう中で、いつも夢や希望を追いかける輝く瞳のひとっちゃんを見た。とてもうらやましく、負けてはいられんなと励まされた。

 果樹同志会でも、高接ぎ事業で接ぎ師として袋を下げナイフで台木を割り穂木を差し込む意外に真剣な眼差しに新しいひとっちゃんを見つけた。

 グループで資金が必要な時、大谷伊予柑の穂木を集め販売することで貴重な軍資金を作ってもらったりした。『だんどり仁』ぶりを発揮してもらった時である。

 海外派遣協会も設立してもらった。設立総会での未来を見つめる生き生きとした眼差しと、はつらつとした挨拶も忘れられない。

 何よりも、ひとっちゃんの本領を発揮してもらったのは選挙だったと思う。恒ちゃんの選挙、首長選挙、議員選挙。いつも参謀として的確に情勢をつかみ、我々に的確な指示を出してくれ選挙戦を有利に戦わせてくれた。どの選挙でもいるといないとでは大違いだったと思う。その姿は将棋盤に向かう姿と重なる。

 ある町長選挙で区長として「好むと好まざるとに関わらず・・・」とあいさつをした車庫前の風景は今も鮮明だ。柔軟で大胆に、それでいて細かく分析し先を読む姿と行動力は並外れていた。

 たださすがに選挙違反容疑で拘留中に面会に行った時のちょっととまどったようなはにかんだような顔も思い出される。ご苦労かけたなと思っている。

 PTA役員が決まらなくてどうしようもない時に、親分肌を発揮して助けてもらったこともあった。感謝、感謝である。

 

 最後に言い訳。

 容態が悪いことは知っていました。コロナ禍もあり、私の体調もありしばらく疎遠になっていて、突然見舞ったら「こいつ別れのあいさつに来たな」と思われそうで、そのことでひとっちゃんの命を縮めてもいけんなとか考えてしまい、なかなか勇気が出ずにとうとうお別れに行きそびれてしまいました。申し訳ありません。

 行き詰ったとき「ひとっちゃんならどうするやろ?どう考えるやろ?」と考えることがよくあります。これからもそうしながら残りの人生を歩いていこうと思います。

 

 本当にお世話になりました。ご苦労さんでした。ゆっくりお休みください。

                    (2021・12・28)