虹の里から

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西村仁さん追悼文集  5

            西村仁君のこと

                         永山福重

 

 西村仁のあだ名は「段取り仁」である。困ったことがあると、彼に相談すると解決を図ってくれるのである。頼もしい限りではあるが私が段取りに取り込まれて、とんでもない立場に追い込まれたのは再々である。「周りを見廻して誰も居らん時には我がやらんといけん」「相手がうんと言うまで待つ」「どんな選挙も死に物狂いになる者が10人おれば勝てる」(これは先人からの言葉)というのが彼の持論である。

 私のほうが彼とは3つ年上である。学校で一緒に活動したこともないし、たまたま公民館で卓球したぐらいで、むしろプロパンボンベを宮崎旅館の窓から投げたとか、果樹同志会の研修旅行のバスの中で「歌を歌うためにここに居るがじゃない。」と言ってタオルを窓から捨てたのを見たり、聞いたりして余りいい印象を持っていなかった。それが親しくなったのは田中恒利先生である。70年~80年代、先生を国会へ送るために微力ではあるけれど、俵津の若者が全力で突き進んだ時代である。果樹同志会、明浜町の青年の交流会15日会、町会議員選挙、町長選挙、国会議員選挙、選挙違反事件、LPG基地反対運動、俵津ソフトボールリーグ、俵津海外派遣協会、剪定クラブなど、彼と一緒に行動を共にして彼の人となりを知った。彼が,人前で歌を歌ったことがないのを知ったのはこの頃である。

 タオルを投げた意味が理解できた。彼の歌声を聞けなかったのは残念無念。

 大谷伊予柑の穂木を売って青年部の選挙資金にしたこと、町長選挙応援演説の「好むと好まざる発言」、町会議員選挙事務長時のギブアンドテイク作戦、海外派遣協会の会長としての資金獲得、勾留護送車でのアイスクリーム獲得方法、警察署で印鑑を忘れたときの対処方法、腰縄をつけ、手錠をはめられて警察の階段で中学時代の恩師に出会った時の挨拶の仕方など色々と彼流のやり方には感心させられた。

 そんな彼であるが、自分の段取りになると他人のことほど上手くない。むしろ下手と言っても良いくらいである。彼はどうして運の悪い立場に追い込まれたのかわからないと、こぼしていたけど、歯痒い思いをしていたことは私も知っていたし、わかってもいた。

 西予市になって市長選挙があった。初めて彼と異なる立場になったが、俵津では孤軍奮闘に近い状態のなかで彼の陣営は勝利を収めた。今思えば、映画タイタニックでレオナルド. ディカプリオがタイタニックの舳先に立って叫んだ心境であったろうと思う。彼の周りには10人の死に物狂いの仲間が居たのだろうとも思う。

 お別れの祈りの時、軒号の戒名がそれ以上に見えた。

                     令和4年 1月16日