虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

日本ランキング

男女平等 日本120位   G7で最下位 「政治」「経済」低迷

 古新聞をゴミに出そうと整理していたら、こんな見出しが目に飛び込んできました。朝日新聞4月1日一面の見出しです。世界経済フォーラム(WEF)が、3月31日発表した「男女格差報告書」の結果です(156カ国中)。「完全な男女平等」を100%として達成度を指数化した数字は65・6%。えー、日本そんなに遅れた国なのかー!驚きです!これでは「希望の国」には、到底なれません。

 このような記事が一面に載るということは、朝日新聞の見識というより、ついこの間の森喜朗東京五輪パラリンピック組織委員会会長(当時)の“女性蔑視発言”があってホットな話題だからだろうと思います。

 今回は、これに触発されて、現在日本の各種ランキングを見てみることにしました。

 わたしに身近なランキングは、毎週発表される「TV視聴率ランキング」です。今日の新聞にも載っていました。1位が「ポツンと一軒家」、2位が「おちょやん」(NHK朝の連続テレビ小説)、3位が「夜7時のNHKニュース」。わたしの好きな「プレバト」は12位でした。

 「ポツンと一軒家」が1位というのは、少々驚きです。どうしてでしょう?様々な鬱屈を抱えたストレス満杯の都市に暮らす人たちが、ひと時の開放感(解放感)を求めてチャンネルを合わせるのでしょうか?都市を脱出して、田舎暮らしを始めたい!と思っている人たちがそんなにも多いのでしょうか?60年前に出てきた田舎を懐かしんでいるのでしょうか?わがパートナーの見方はすこし違います。格差や貧困が深刻になっていく世の中で、みんなは、少しでも自分より貧しい暮らしをしているポツンと一軒家の人たちを見て、優越感にひたっているのではないか、留飲を下げているのではないか、安堵しているのではないか・・。わたしより深い人間理解があるようです。夫婦の会話が弾みます。

 ところで、気になる新型コロナウイルス・ワクチンの接種率はどうなっているのでしょうか。いろいろ調べていたら、内田樹さんがブログで次のようにツイートしていました。

 「ワクチン100人当たりの接種者数で、日本は1・7人。世界116位。ベラルーシよりボツワナよりラオスよりミャンマーより下です。もちろん先進国最下位。この不手際について、日本政府は国民に対してまず「段取り悪くてすみません」と一言謝罪があるべきではないでしょうか。」

 まだ国民の1%にしか接種されていないとか。えっ、これでオリパラできるの??!

 また、今日の新聞で林香里さん(東大大学院教授)が「論壇時評」の中でこんなことを書かれていました。

 「それにしても、コロナ禍はいつになったら収束するのか。ブルームバーグの試算によると、ワクチンが人口の75%に行き渡り、ある程度の集団免疫に達するためには、現在のペースでいくと、アメリカはあと3カ月、ドイツ6カ月、韓国21カ月、オーストラリアは2・2年を要するところ、日本は3・8年かかる試算だ。」

 Oh!No!天を仰いでしまいます!

 内田樹さんの本からの引用もさせてください。

「いずれにせよ、日本の未来についてはまったく楽観的になれません。それは経済指標だけでなく、報道の自由、女性の社会進出、学術的生産力・・・・・といった国力を示す多くの指標が下降し続けていることから当然推論されることです。

 日本の劣化は劇的な速度で進行していますけれど、国民の多くはその事実そのものを知らない。それは、メディアが日本の現状を冷静に報道し、分析し、対策を提言するだけの知的活力を喪失してしまったからです。

 2000年に日本は一人当たりGDPルクセンブルクに次いで世界2位でした。2018年は26位です。日本のGDP の対世界シェア は1995年には約18%でしたが、今は約6%です。世界経済における日本のプレゼンスは20年で3分の1にまで低下したのです。報道の自由度ランキングは、2010年が11位でしたが2019年は67位で先進国最下位となりました。高等教育への公的支出の対GDPも日本は先進国最下位が久しく定位置です。女性の社会進出の指標である女性国会議員比率も先進国最下位です。

 これらの指標を危機的な徴候だとみなして、何とか国運回復のための手立てを講じなければならないというひりひりした危機感は今の日本の官民のどこにも感じられません。五輪だ万博だカジノだ嫌韓だという目先の話題で一日が終わる現状を見る限り、「日本には先はない」と言うほかないです。」(『コモンの再生』2020、文藝春秋

 ・・・心配になって来ました。その他のランキングも少しネットで調べてみます(「社会人の教科書」というのがありました)。

《経済》

・世界の貿易収支ランキング(167位)

《労働》

労働生産性(20位、ワースト1位)・平均給料(22位)・労働時間(22)・最低賃金(11)・出世の意欲(ワースト1)・有給休暇取得率(同)・起業意識(同)

《健康》

・自殺死亡率(ワースト6)・睡眠時間(ワースト1)・自然災害死亡者数(4)

《政府・税》

・政府債務残高対GDP比国別ランキング(ワースト1)・政治民主化度(41)

《安全・平和》

・平和な国ランキング(9)・殺人発生率(168)

《社会》

・幸福度ランキング(58)・報道の自由度(68)

《人口》

・高齢者人口比率(1)・出生率(184)

《生活》

・生活費が高い都市・国(5)

《援助・社会貢献》

・人助けランキング(107)・難民受け入れ(ランク外)

ジェンダー・ハラスメント》

・主婦の家事労働時間(ワースト1)・ジェンダーギャップ指数ランキング(121)・ガラスの天井ランキング(25、ワースト2)・女性議員の割合(165、先進国ワースト1)・ハラスメント(ワースト3)・男女賃金格差(ワースト2)

《学術・研究》

・世界大学ランキング(東大22、京大33)・学術論文数(全分野合計5)

《IT・テクノロジー

・インターネット自由度(65カ国中12)

 このくらいにしておきます。・・・・・

 (・・・う・ううむ・・・。こ、こんなに日本の国力は落ちているのか・・・。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた時代もあったのが、嘘のようです。)

 

 この国で、地方の振興とかまちづくりに取り組んでいくのは、ちょっと大変だぞと考えさせられました。

                         (2021・4・29)

“新田の花見”を、つくろう!

「桜がキレイですねえ!この花の下で、新田の花見をやりたいですね!」

 宮崎川土手の桜が満開の頃、橋の真ん中に立って、隣の茂喜くんが感嘆の声を上げて言いました。

「いいね!やりたいねえ!」

 茂喜くんの構想は、川底に足場を組んで、その上にコンパネを敷いて座敷を作って、そこで新田のみんなが集って宴会をやる、というもの。老人会が植えた桜が、今ではそれはもう見事な大木になって、特に川の中では水面に接するくらいに枝を伸ばして、華やかさがいっそう際立っています。この季節、わたしも時々川に降り立って見上げるのですが、道路から見るのとはまた違った格別感があります。茂喜くんの目の付け所はまさに「いいね!」です!「風流だね!」です!

 ただ、足の悪いお年寄りもいるので、舗装された道路の方も全部使った、この新田の新しくできた空間を利用しきる構想に広げたいものです。かつて「新田ふるさとまつり」に使った折り畳み式の簡易舞台を公民館から借りてきて設置して、カラオケや踊りなどの演芸も楽しみましょう。

 当日は、狩渡橋から畑岡橋までの東側(人家側)の道路を通行止めにしましょう。川の向こう側(西側)にも道があるので大丈夫でしょう(舗装はされていませんが、一日だけです、我慢してもらいましょう)。

 いつが、いいですか?

 それはもう、4月3日です!

 かつて、その昔、その日は「俵津の花見」の日でした!田植えが終わった後の7月の「田休み」の日とこの日は、俵津全体の“農休日”でした。田休みの日には、公民館が企画してソフトボールやレクバレーの大会をやっておりましたが、この日は野福峠やボラ小屋・その他の桜のある所へ地区民こぞって出かけて行って宴会です。子供たちは春休みでもあって、朝からウキウキ・ソワソワで、母親に作ってもらった弁当をさげて近所の子供同士で様々の場所で遊んでおりました。

 俵津の人たちが、4月3日を決めたのは、この日だったら桜の開花状態にブレがないことが一番だったでしょう(おそろしく開花の早かった今年でも、まだ花は充分ありました)。3月に比べて4月の声を聴いた方がどうしたって暖かい感じのすることもあったでしょう。この日は晴れの特異日だったのかもしれません。生活の知恵というのか俵津人のエイチだったのでしょう。

 祝日法が改正されてからというもの、何の日の祝日やら訳が分からなくなってしまった祝日が多い中、(これは国民の祝日ではもちろんありませんが)日はやはり固定した方がいいと思います。その日に特別な思いを重ねたほうが、人間のこころや暮らしは豊かであるように思います。

 いつの頃からでしょうか、これがなくなったのは?また、その理由は?世の中が変わって、農家が少なくなった頃から?それとも、「桜まつり」が開催されるようになったころ?娯楽が増えてそんな日の必要性がなくなったせい?俵津人が余裕を失い、主体性をなくしていったせい・・?

 時代はまた大きく転回しています。毎日が日曜日の年寄りばかりになりました(と言っても、年寄りも結構忙しいのですが)。老人会では、お宮そうじや公衆便所のそうじなど環境整備に奉仕しておりますが、そのようなことは地域のみんなが分け合ってやって、もっともっと楽しいことをつくりませんか。再び地域全体が集まれる条件が出来つつあるのですから。

 新田だけでは、もったいないです。脇も大浦もやりませんか。「4月3日の俵津の花見」を復活させましょう!

 脇の人たちは、同じ宮崎川土手でやりましょう。畑岡橋(上甲さんの倉庫横)から通学橋までの区間も絶好の花見場所です!大浦の人たちは、野福峠の麓に近いところを使ったらどうでしょう(そこなら年寄りが歩いて行けます)。もちろん、どこでやってもいいのです。各地区民入り混じってやっても一向にかまいません。大きな素敵な俵津の全舞台をフルにつかって楽しもうではありませんか。ああ思い出しました。長崎東海さん一行も、峠の麓で盛大な(!?)花見をやっておりました(何本かの桜が、当時でもあったのでしょうね)。

 実はこの案、わたしの同級生の友人がかねてから強く主張してやまない案なのです。彼は、「毎年日が変り、桜が咲いていない時や散ってしまった時もあるような、さらに俵津の人たちが自ら主体的に楽しむことを忘れて、他所の人を当てにした“桜まつり”などにばかり力を注ぐのでなく、昔日のようにやったらどうか。俵津人自ら楽しむ心を取り戻したらどうか。もちろん、地域おこしとしての“桜まつり”は別に大いにやっていただきたいのだが。」と言っておりました。深く傾聴に値する一家言です。時代が俵津人に聞く耳を求めております。

 

 ところがしかし(!?)、あれもこれもみな、にっくき「コロナ」が終わっての話。でも、そういうあれやこれやを考えて置くのが、コロナ期の正しい過ごし方(!!)かもしれません。

                         (2021・4・13)

 

 

 

野福峠に桜を植えた人達はどんな思いで植えたのだろう?

 さあ、春だ、うたったり走ったり、とびあがったりするがいい。風野又三郎だって、もうガラスのマントをひらひらさせ大よろこびで髪をぱちゃぱちゃやりながら野はらを飛んであるきながら春が来た、春が来たをうたってゐるよ。ほんたうにもう、走ったりうたったり、飛びあがったりするがいい。ぼくたちはいまいそがしいんだよ。

               (宮沢賢治「イーハトーボ農学校の春」から)

 ●morino-shimafukurouのつぶやき

 賢治先生のような先生に勉強を習えたらいいだろうなと思います。賢治先生が教えると知識はすべて「楽しい知識」になります。「愉快な知識」になります。「悦ばしい知識」になります。宇和高校・野村高校農業科の生徒のみなさん!農業って素晴らしいですよね!農業の学問は、きっとそのようなものですよね!

 

     ※            ※            ※

 今年は桜の開花が早くて、すでに花見の季節は終わりました。残っていた花は無残にも今日の雨で散って行っています。

 野福峠に桜を植えた人たちの「気持ち」に関心があります。どんな心の“高ぶり”があって植えたのだろう?動機というか思い、です。桜を植えることで、屈指の眺望を、さらなる絶景にしようともくろんだのでしょうか。俵津を桃源郷にしよう、と夢みたのでしょうか。そういうことを書いた、当時の「野福峠桜植樹計画書」とか個人の日記とかいうものが、どこかにないでしょうか。

 俵津人のそうした謂わば主体的動機・積極的動機がわたしは欲しいのですが、植樹を促した外的要因というものは、あるにはあるように思います。一つは、日露戦争(1904~1905、明治37~38年)の戦勝記念植樹があったということです。戦争が終わった翌年から全国で植えられて行き、大正天皇即位記念、昭和天皇即位記念にも大きなエポックがあって、昭和のはじめごろまでその流れは続いたということです。野福峠に桜が植えられたのは昭和5年頃ですから、これにはかからないようにも思いますが、国民の意識の中には消えずに流れとしてあったようにも思います。ちなみに長崎東海の日誌の中にはこのことに関する記述はないようです。

 もう一つは、軍国日本が、教育勅語明治23年10月30日発布)の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の精神を涵養すべく、パッと咲いてパッと散る桜に託した潔く勇ましい死生観を植え付けた、ということが深く関与しているのかもしれないということです。学校の校庭に桜が植えられたのには確実にそれがあると思います。国学の大家、「もののあわれ」を提唱した本居宣長の歌「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山ざくら花」の影響も、日本人精神史には大きいでしょうね。

 でもまあ、それはそれとしておきましょう。

 野福峠の桜は、いつ誰が植えたのか?それを確定しておきましょう。『明浜町誌』にはありませんでした。やっと見つけた資料は、高岡冨士高さんの著『ふるさとの海と山ー俵津村の思い出』です。

 それによると、昭和五年に県道宇和ー俵津線が開通し、その記念に沿道に吉野桜を植えたとのこと。当時の養蚕指導員・宇都宮庄太郎氏(後南米に移住、同地で歿)が、青年団を引率して、村から一千本の桜苗を受け取って植えて行った、とあります。しかも地主の了解は得なかったといいますから、かなり強引な植樹だったようです。宇都宮氏の後を受けて指導員となったのは、中村繁太郎氏、山下吉三氏とありますからこの人たちも植樹に関係していったのでしょう。(『町誌』の年表によれば、県道の開通は昭和七年。高岡氏の記憶違いがあったのかもしれません。)

 ここには、かかわった人たちの肉声の記録はありませんが、時代は1929年(昭和4年)のニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけとして起こった世界的な経済不況(恐慌)下、国内でも農村不況が深刻化しており、俵津も同様だったと思います。その中でこれだけの大植樹をやったということは、そうとうな情動・熱情が感じられてなりません。

 

 さて、時は21世紀。いままた、「俵津桜保存会」や「俵津スマイル」が、「桜」に挑んでいます。その熱い胸の内を、記録して残して欲しいものです!

                          (2021・4・4)

《追記》

 折角の機会です。高岡さんの本に、俵津人を元気にするような一節がありましたので、書き写しておきます。「俵津製糸」のことを記した章の中です。

 「ハゼが洋蠟に押されて、衰退し始める頃、養蚕がポツポツ始まり・・・・」

 「その(俵津製糸の)隣には織物工場もあり、縞織物を製造して遠く高知県や九州の各地へと販路を広げ、両々あいまって盛んな時代をつくりあげた。当村は辺鄙な農漁村であるにもかかわらず、商業的才能に富むものが多く、近隣の村より文化的水準が高かったようである。かなりの村人が、これらの反物をかついで、各地に行商し、あちこちの文化をもちかえったものと思われる。」

 高岡さんの「俵津製糸廃業後の残務整理」を詳細に記録した章は、実に見事です。わたしは圧倒されました。俵津にはこのような優れた知性がいたのですね。

 青年団というのは、わたしの経験では、だいたい15歳から25歳くらいまでの独身者が構成する団体ですから、昭和5年(1930年)で15歳というと大正4~5年生まれで、生きてたら・・いやもう生きてる人いないですよね。俵津で言うと誰だったんでしょうか?尾下正さんは、入っていたでしょうか?

 長崎東海研究会の会員間でも言い合ってたのですが、この会もう10年早く始めていたら、長崎家の人達と付き合いのあった人たちも生きていて話が聞けたのになあ、と残念がることしきりでした。

 今後も、今生きているお年寄りに何か聞いておきたいことがあったら、一日も早い方がいいです、と言っておきたいです。

 

 

 

「コロナ」に思う・・

 至る所、俵津のさくらが満開です。今日は「春の嵐」とか。雨が降っています。美しい花が散らなければいいのですが・・。

 みかんの苗木植え・草刈り・剪定などで忙しくしています。老骨に鞭は打たないことにしておりますが、“なり疲れ”で退色し弱っているみかんの葉が、日々生き生きと緑を取り戻している姿を見るにつけ、習い性となっているのか自然と体が動きます。

 

 それはさておき、「コロナ」が、またいやな感染者数上昇カーブを描き始めました。感染力が従来のものより2倍以上高いという変異株が、世界の各地で猛威を振るい始めています(跳梁跋扈していると言った方がいいかもしれません)。日本国内にもすでに侵入しているといいます。もうこれは、中村時広県知事も言っておりますが“第四波”と位置付けるべきでしょう。そうしないと、対策が後手後手になるからです。

 最近特に思うのですが、「コロナ」は「まちづくり」を壊す。「地方」を壊す。「共同体」を壊す。ただでさえ難しい局面に立たされている地方が、疲弊を加速化させる。ような気がしてなりません。経済・社会・文化・人間関係・・・。

 早い話が、俵津でも、各種団体の会議や事業ができない。地区の運動会やお祭りなどができない。「不要不急」という言葉が連発されてありますが、まさにそれこそが地域を作っているもの、地域を活き活きと成り立たせているものだったと、多くの人が気付き始めています。こういう状態が続けば、事業継承というのではないけれど、これまでに蓄積されたそのための技術や経験などが途絶えます。ますます地域の維持が困難になっていきます。

 わたしたちがやろうとしていた「じじばばスーパー演芸会」なども、演者のさらなる老齢化、体力や意欲の低下、演じる力の衰えなど様々な悪条件が積み重なって行きつつあります。

 

 東京オリンピックパラリンピック聖火リレーが始まりました。プロ野球はじめ各種スポーツのシーズンも開幕です。観光シーズンにもなりました。ゴールデンウイークもすぐそこです。Go To何とかもはじまりそうです。そして7月にはいよいよオリパラ本番。期待のワクチン接種も遅れています。正直言って、わたしは心配です。

 この国は、もう一度改めて根本的に、「コロナ」と向き合うべきではないでしょうか。もちろん経済は大事ですが、「二兎を追うもの一兎も得ず」の格言通りになりそうな予感がします。

 この一年で、やるべきことがハッキリしてきました。それを政府と国民が覚悟をもってやればいい。テレビ・新聞・ネット・週刊誌などを見て得たことを、思い出した順に書き出してみます。

➊ オリパラは即中止にする。(IOCやWHOや外国から言われるのを待つのではなく、一度くらい日本から主体的に言ってもいいのではないでしょうか)。

➋ Go Toキャンペーンはやらない。

➌ 全国民にPCR検査を実施し(もちろん無料)、陽性者を隔離する。それを妨げている厚労省(医系技官)・感染研(国立感染症研究所)・保健所の機能・役割を見直し、民間を活用する。日本製の全自動検査機が各種開発され、輸出までされている現実を見れば、それを使えば一日100万人単位の規模の検査が可能になる。毎日の感染者数発表も、分母を一定にしなければ無意味。

➍ 日本製のワクチンと薬を開発する。製薬会社・大学・研究機関等がオールジャパンで。政府は徹底的な資金援助をする。現在ファイザーなどが開発しているのがmRNAワクチンですが、医者をやってる同級生によれば、日本が開発中(研究中)のものにDNAワクチンというのがあるそうです。これは副作用がなく、管理も簡単だそうです。どうして政府はこれを実現する万全の体制をとらないのでしょうか。

➎ 日本版CDC(疾病予防管理センター)を創設する。なんでもアメリカのまねをする日本が、こういうことだけはやらない。不思議です。

➏ コロナ感染者専用医療機関を設ける。国立病院・JCHOジェイコー(独立行政法人地域医療機能推進機構)・旧国立大学病院などをそれに当て、それ以外は普通の従来通りの診療ができるようにして負担をかけないようにする。

➐ 事業所や国民に手厚い給付金を支給する。

➑ とにかく、政府に腰が据わっていない。覚悟がない。だから、国民の信頼が得られない。だから後手後手になる。結果、コロナが蔓延する。菅首相が得意な「政治家の覚悟」をもって、腰の据わった・逃げないで責任のとれる政権を作る。

➒ 信頼できる政府をつくる。10月までに必ずある「総選挙」で、政権交代を実現させる。あるいは、コロナを終息させるという単一イシューでの連合救国内閣・政権を作るという事も視野に。今度の選挙だけは国民みんな必ず投票に行く(投票率80%実現)。地方も自民党から離脱する覚悟を決める。

➓ コロナを押さえるのにある程度成功している国のやり方を謙虚に学ぶ。ニュージーランド・台湾・中国・韓国・・・。

⓫ 必要ならロックダウンも。

⓬ 医学生看護学生にも協力してもらう体制づくりを。3年生以上ならワクチン接種やPCR検査などの役割分担をしてもらっていいのでは。逼迫している・ますます逼迫していく医療体制を補うために。(オリパラをやれば、1万人の医療関係者のそれへの投入が必要になる。そんな愚かなことをしてはならない。)

⓭ 消費税を、今年と来年の2年間、ゼロにする。(➐と一緒にこれをやれば、国民の政府への信頼感が生まれ、協力しなければ!、という気が生まれて、対策は一気に進むでしょう!)

⓮ 怖いのは、複合災害。首都直下地震、南海・東南海・東海地震、富士山噴火、豪雨災害などが発生すればさらに深刻な事態に。速やかなコロナ収束に努めなければならない。コロナ対策に専念できるように、全原発の運転停止・再稼働禁止も。

⓯ コロナ対策担当大臣は、経済産業相ではなく、厚生労働相にして、優秀な人材を抜擢する。

⓰ マスコミは、ジャーナリズムの原点に返って批判精神を発揮し、恐れることなく勇気を出して、しっかりと政府批判をしなければならない。国を滅ぼさないために。

 

 まだまだあると思いますが・・。こうやって書き出していきながら、気づいたことがあります。それはこの国がこれらのうち何一つ、これまでにやってこなかったということです。あぜん・ボーゼン、・・言葉を失います。

 

 一日も早く、みんなと、ワイワイやりたいですね。うまい酒をみんなと飲みたいものです。野福峠の桜が、どこか淋しそうです。

                        (2021・3・28)

 

 

問いを立て、遊ぼう!!

人類は

もうどうしようもない老いぼれでしょうか

それとも

まだとびきりの若さでしょうか

誰にも

答えられそうにない

問い

              (茨木のり子

 俵津市民1000人が、1000の問いを立て、カンカンガクガク・ケンケンゴーゴーやったら、とてもおもしろい俵津が出現しそうな気がします。(同様に、明浜市民が、西予市民が、人数分の問いを立て、同様にやったら、とても面白い明浜や西予市が生まれそうな気がします)。

 コロナ禍の今は、まことにもって苦難の時期ですが、一面、いろいろと考えて置くにはいい時期です。この時に、どう考えたかで、後の差がでてくるような気がします。ただし、深刻な問いもそうでない問いもここでは、自由な遊びとして思考の翼を思いっきり広げましょう。

 あまり面白くないかもしれませんが、二三❓クエスチョンを出してみましょう。

Q1 野福峠を日本一の桜の名所にできないか?

 さくら町・俵津。野福峠、ボラ小屋、宮崎川土手の桜が、異常なくらい早い開花を迎えています。もう、一本の木全部が満開なのもあります。全体でも三分くらいにはなっているのではないでしょうか。驚きです!この冬大雪が二度も降って、休眠打破が起こったこと、以後極端な寒暖差がなく気温が順調に上昇したことが理由としてあげられるそうです。

 さて、俵津人の誇り、アイデンティティーの拠り所である野福の桜。伊予の八勝の一つ。これをさらに格上げして、全国一の桜の名所に出来ないものでしょうか。俵津に、全国区に名乗りを上げることができるものがあるとしたら、おそらくここだけでしょう。このことだけでしょう。無論そんなヤボな野望(おやじギャグです!サブ―!)など抱かずに、わたしたちだけが楽しむ花と場所でいいのです。だから遊びの問いなのです。

 必要条件は、あります。峠の眼下に広がる宇和海の見事な眺望。山の中の桜はいくらあってもどこか暗い。ここの桜は、この眺望のおかげで、みごとな輝きを放ちます。もう一つは、植栽面積というか植え代がひろいということ。発想を、峠道の両端=沿道に限らなければ、周辺の山々、かんきつの荒廃園なども対象にすれば、植栽本数の点でも優位にたてます。

 ただ、峠ですから、上野公園のような広場、大勢の人が花見をする場所の確保は難しい。ない。駐車場の問題もある。また、麓の集落地まで人を下ろさせて、何らかの経済効果を生む施策も講じにくい。

 この季節、テレビが毎日のように伝える全国の桜の開花情報、そこに俵津・野福峠が毎年当たり前のように出るようになれば・・!そんな夢を見るのです。

 この問題、これ以上は言うのは控えましょう。「保存会」や「スマイル」の人たちが懸命に頑張っているからです。以下に俵津野福峠桜保存会のホームページアドレス、掲載しておきます。見て下さい。

         https://tawarazu.jimdofree.com/

Q2 「ナニコレ珍百景」に応募できるものはないか?

 わたしの好きなテレビ番組の一つに、テレビ朝日系(5チャンネル)の「ナニコレ珍百景」というのがあります。全国のオモシロイコト大好き人間たちが風景や看板などの人工物で、これは珍しい・面白いと思ったものを投稿する視聴者参加型番組です。俵津に応募できるものはないでしょうか?これをあれこれと考えて見るのも面白いのではないでしょうか!ディスカバー・タワラヅ、俵津再発見、にもつながるとおもうのです。

 この番組、昔はジャンルというか対象の「珍百景」の範囲は狭かったのですが、今はもうあらゆることが応募可能になっています。人間のパフォーマンスまでかまわなくなっているのですから、俵津にもありそう?!俵津人にも出来そう?!になってきました。

 人間だれしも景色や天井の節穴や壁板の木目模様などが、人間や動物の顔に見えたりすることは普通にあります。三瓶の寝観音などは典型です。みんなが探せばどこかにきっとあると思うのです。

 ただ、応募して仮に「珍百景認定!」されても全国的に有名になるなどという事は考えてはいけません。あれほど認定作があったらだれも長期間覚えてはいないでしょう。だから、あくまで遊びです。俵津人の自己啓発、脳内ドーパミン(?)発露運動です。

 どうです?!考えて見てもらえません?!

Q3 俵津を舞台に映画を作るとしたら?

 タワラヅ・TAWARAZU、をドーンと表舞台に出したい!どうしたらいいでしょう?

 一つは、「映画」をつくること(?)。

 どんな映画がいいでしょうか?わたしは、オムニバス映画にします!

① まず、1700年前、俵津に弥生人が住み始めた頃の新田は駄場。当時はそこまで海が迫っていた。雄たけびを上げる弥生人。われらの大先祖。「2001年宇宙の旅」のプロローグのように。

②大浦に人が住み始めた平安時代空海がやって来て、法を説く。

③江戸時代。俵津湾に巨大なクジラがやって来て、闘う男たち・女たちの勇壮な物語。若者の恋。

④明治・大正。長崎東海の物語。俵津製糸の物語。

⑤戦争の物語。日清・日露・日中・太平洋 。

⑥「さくら」のものがたり。

 どうです?!

 脚本家よ、出でよ!演出家よ、出でよ!俳優よ、出でよ!カメラマンよ、出でよ!広告マンよ、出でよ!あらゆる才能よ、出でよ!

 

 つがなし・とっぽさくを書きました。一笑に付してください。なにかアイディア、思いつきましたら、教えてください。

                        (2021・3・21)

寄稿エッセイ

            森発言に思う

                         胡瓜

 世界の人種差別人権侵害などの報道などに関して言えば、森発言などそれほど特異なことであると、私的には、取り上げるほどのことではないと思うが、世界の潮流はそうではないのであろう。

 その世界の潮流からみれば甚だ看過できない発言であり許されない言動であると言えるのであろうが、この年代の老人の持っている体質として、女性蔑視とか差別以前の体に染みこんだ女性観からでた、何気ない一言だったのではないかと思う。

 この発言をスクープしたニューヨークタイムスの記者もこの森発言にいたる背景を今少し取材し記事にしていたならば、随分と世間の間で、とりわけそういう問題に敏感な人たちの受け取り方も違っていたのではなかろうかと、思うのである。

 私は別に森元総理を擁護する気持ちもないし、ましてやその発言自体を是とするものではない。

 最近よく言われる言葉にジェンダーという言葉があるが、これなどそもそも生物学的に男女を分けた言葉である。しかしその中間の性を表現する言葉がないので、一義的にジェンダーという言葉を使用しているのであろうが、ホモとかレズとか日陰の印象の強い言葉ではなくもっと気の利いた表現を、どなたか発明していただきたいものである。

 縄文弥生の時代のように食物を得ることが生きることであり、生きることが食物を得ることに直結していた時代から、社会の発展と生存環境などの変化によって徐々に人間の心の中に中性という概念が、醸成されていったのだろう。

 それを裏付けるように中間の性の存在は今に始まったことではなく、昔からあったものである。ちょっと意味合いはずれるかもしれないが、戦国大名・寺院などでは色目のいい少年を小姓としてそばに置き稚児愛と称し、彼らを愛でていたものである。

 本能寺で信長とともに果てた森蘭丸なども、そうであった。

 当時十八歳であったらしいが月代をそることも許されずその生涯を少年のいでたちで終えなければならなかった蘭丸の忠義にあるいは忠誠心に、武士の一分を見る思いがする。

 話が横道にそれた感があるがこんなことを書いたのは、森発言はそのようなところにまで意識した発言ではなかったのではと言うことと、蘭丸の無念さに顧みて「あわれ蘭丸」とそれが言いたかっただけである。

 私から言うとすっと聞き流しておけた発言が、森委員長解任に至るまでの騒動になるとは、森氏自身も思わなかっただろうし全国のみなさんもそう思われた方が、多かったのではないかと思う。

 森氏個人の発言であるにもかかわらず、立場が立場だから仕方がないところがあるかもしれないが、それを組織の体質的な問題だと事柄をすり替えられて、挙句の果てに日本人は女性の人権を無視し女性蔑視の国柄であると、あちらこちらから批判される始末である。

 そんな批判にあおられ聖火ランナーを辞退したりボランティアを辞退したりと、まったく腑に落ちない行動の続出に私は、違和感を抱かざるを得なかった。

 何が違和感であるといっても森氏の世間で言われている女性蔑視発言が、なぜ聖火ランナー辞退と結びつくのかわからないことが、違和感として胸の内に浮かんできたのである。

 東京オリンピックと全く無関係だとは言えないかもしれないが、これらは切り離して対処するべき問題であると思うのである。

 それらの行動は一見正義であるかもしれない。それらしく見えるかもしれない。だとしてまた正義の前には誰も反論できないことを是として、振り上げたこぶしが正義だと誤解して声高に批判するのは正しいと行動することが、正義だと言えるのであろうか。正義はいい迷惑である。言い換えるならばこれらは白を黒と言い換える論理となんら変わらず、詭弁であると言われても仕方のないところである。

 それはあくまでも森氏自身の問題であり組織の問題ではないのである。その結果どういうことがあったのかといえば、女性理事を増やして頭数を整えただけである。

 それで男女平等とか女性の人権尊重などが達成されたと評価している者たちには、今回のことの本質が見えていないと嘆かざるを得ないのは私だけであろうか。

 本質とは何か。組織を運営していくうえで重要なのは能力のあるものがそれを、担うということである。あくまでも能力によって理事は選出されるべきで、そこに男女の差などが入り込む余地などがあってはならないのである。そのうえで男性ばかり女性ばかりとなってもそれはごく自然なことであり、そこに女性蔑視また差別などと言うことは、起こりえないのである。

 それを理事の数を男女同数にしたので男女同権平等などとどこを向いて言っているのか、しらけるばかりである。

 かつて司馬遼太郎は「この国のかたち」という著書で、明治という国家は昭和とは全くべつの国家だと書いていたが、その司馬遼太郎の懸念がいま日本の国民の心身をむしばんでいっているように思う。今一度幾多の犠牲の上になし遂げられた明治開国の原点に立ち返る時が、来ているように思う。

 最後に森元総理には「そんな女の尻に俺は敷かれているんだよな」と一言付け加えておけばこれほど大事にならなかったかもしれないと思うが、いかがであろうか。

 

●morino-shimafukurouからのコメント

 胡瓜さんからご寄稿いただきました。これでやっとわたしのブログが、念願の「交流ブログ」になりました。胡瓜さんありがとうございました。みなさま、どうかご感想などおよせください。また、お原稿などお寄せいただければ、まことに幸甚です。

                     (2021・3・16)

 

 

                           

                           

「虔十公園林」を読む。

 「虔十公園林」。わたしが「宮沢賢治」に初めて触れたのが、この作品でした。小学校六年の時、学研の月刊誌「6年の学習」に挿し絵入りで全文が載っていたのです。物語はこんなです。(できるだけ原文を使って、十分の一くらいに要約してみます。)

 「少し足りない」と思われていた「虔十(けんじゅう)はいつも縄の帯をしめてわらって杜の中や畑の間をゆっくりあるいているのでした。雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたゝいてみんなに知らせました。」「風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもううれしくてうれしくてひとりで笑えて仕方」ありませんでした。でも、そんな虔十を子供たちはばかにして笑っていました。

 ある時、家の人達に虔十は云いました。「おらさ杉苗七百本、買ってけろ。」「虔十の家のうしろに丁度大きな運動場ぐらいの野原がまだ畑にならないで残っていました。」地味のわるい「杉植えても成長しない処」でした。お母さんと兄さんは反対しましたが、お父さんは「買ってやれ、買ってやれ。虔十ぁ今まで何一つだて頼んだごとぁ無ぃがったもの。買ってやれ。」と云って買ってもらったのでした。兄さんに手伝ってもらって虔十は「実にまっすぐに実に間隔正しく」植穴を掘り植えて行ったのでした。

 「杉は五年までは緑いろの心がまっすぐに空の方へ延びて行きましたがもうそれからはだんだん頭が円く変わって七年目も八年目もやっぱり丈が九尺ぐらいでした。」ところが、そこは子供たちの遊び場に一変したのです。「全く杉の列はどこを通っても並木道のようでした。それに青い服を着たような杉の木の方も列を組んであるいているように見えるのですから子供らのよろこび加減と言ったらとてもありません。みんな顔をまっ赤にしてもずのように叫んで杉の列の間を歩いているのでした。」

 ある年の秋、虔十は「チブスにかかって死にました。」次の年村に鉄道が通り、瀬戸物の工場や製糸場ができました。「そこらの畑や田はずんずん潰れて家がたちました。いつかすっかり町になってしまったのです。その中に虔十の林だけはどう云うわけかそのまゝ残って居ました。」虔十の家の人たちが「こゝは虔十のたゞ一つのかたみだからいくら困っても、これをなくすることはどうしてもできない」と云って売らなかったのです。

 「虔十が死んでから二十年近く」なって、「ある日昔のその村から出て今アメリカのある大学の教授になっている若い博士が十五年ぶりで故郷へ帰って来ました。」杉林で遊ぶこどもたちの姿を見て、校長さんに事情を聴いた博士は言いました。「ああそうそう、ありました、ありました。その虔十という人は少し足りないと私らは思っていたのです。いつでもはあはあ笑っている人でした。毎日丁度この辺に立って私らの遊ぶのを見ていたのです。この杉もみんなその人が植えたのだそうです。あゝ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。たゞどこまでも十力の作用は不思議です。こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでしょう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するようにしては。」「さてみんなその通りになりました。」「『虔十公園林』と彫った青い橄欖岩の碑が建ちました。」

 「昔のその学校の生徒、今はもう立派な検事になったり将校になったり海の向こうに小さいながら農園を有ったりしている人たちから沢山の手紙やお金が学校に集まって来ました。」「虔十のうちの人たちはほんとうによろこんで泣きました。」「全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂い、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本当のさいわいが何だかを教えるか数えられませんでした。」「そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみじかい草にポタリポタリと落としお日さまが輝いては新しい奇麗な空気をさわやかにはき出すのでした。」(ちくま文庫版全集6)

 小学生のわたしは、(いまでも筋を覚えているくらいですから)、この童話がいたく気に入ったのです。

 わたしも田んぼの土手に寝転んでぼんやり空の雲を見ているような子供だったので、虔十に親近感を持ったのです。共感したのです。

 それから、人から「足りない」と思われていた虔十が、実に規則正しく杉苗を植えたことや植える土地をわざわざ指定して植えたこと、木が大きくならないことが肝要なこと。そしていつかは村の子供たちが歓喜して遊ぶ場所になる未来を見通していたのではないかと思われる企画力・構想力・実行力を備えていたことに唸ったのでした(虔十はホントは天才だ!)。

 そして何より、虔十の無償の行為が、そのまま自然と大きな「まちづくり事業」になっていたこと、に感激したのでした。(もちろんこういう言葉で当時のわたしが「気に入った」理由を説明できたはずはありませんが)。

 今回は、たったこれだけのことを言うためにだけ、「虔十公園林」を取り上げました。

 でも、いまこの作品を読み返してみると、それだけではないことをわたしたちに教えてくれているような気がしてきました。

 農業や農村の魅力。虔十のような者を包摂する家族や地域のあたたかさ。自然に感応し、共感し、対話・交感することの素晴らしさ。人は誰でもが人を感動させることができること。その感動や共感が人々の協力や資金を呼び込み、なにものかを作り上げること。つまりは、「本当の幸い」のありかを示しているように思われるのです。

 賢治は虔十にたしかに自分を重ねています。「雨ニモマケズ」の詩で自らを「デクノボウ」と呼んでいますが、そこに綴られた願望を心底からもっていたのでしょう。文中「十力(じゅうりき)の作用の不思議」という言葉がありますが、仏(菩薩・如来)が人々を救うために使う十種の力のいづれかが虔十にも備えられていたと確かに言えます。

                          (2021・3・5)