虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

玉井さんの本が届きました!

 とても嬉しいことがありました!

 わたしが畏敬してやまない、というか大ファンの、松山の玉井葵さんから、その著書が送られて来たのです。しかもできたばかりで湯気が立っています。

 A4版・箱入りでオールカラーの大きくてまことに贅沢な素敵な本です。タイトルは、『ぐうたら通信 玉井葵からあなたへ 2020ー2018』。玉井さんがこの40年間出し続けてこられた通信の、最近の三年分を丸ごと一冊にしたものです。しかも通常と逆で新しいものから古いものへと並べられた編集の妙が効いています。ページをめくるだけで楽しい本です。

 このコロナ禍のなかで、みんなが委縮し不平や不満をため込み、ストレスを感じ続けている中で、このような「遊び」(あえて遊びと言わせていただきます)を、軽々と飄々としかも大胆にやってのける玉井さんにウットリ、です。快哉、です。この余裕、こころの大きさ、ほんとうに感激です。一陣の爽やかな風が、頂いた時、私の心の中で吹き抜けるのを感じました。

 玉井さんは、人生の達人です。玉井さんは、好奇心の塊です。全方位、あらゆることに関心を持ちます。玉井さんは、行動家・動く人です。愛車・ダイハツタントの年間走行距離三万キロ、が物語っています。玉井さんは、勉強家です。玉井さんは、話す人です。玉井さんは、食べる人です。また、多芸多才な趣味を持つ人です。陶芸・水彩画・短歌・俳句etc. 

 だから、「本=通信」はそれらの記録です。まず「日々、こんなことあんなこと」が最初のページにあります。世の中というか日本と世界の政治・経済・社会等々のあらゆることが論評・コメントされます。ちょっとタイトルだけ少し挙げてみましょう。●「桜の会」前夜の夕食会への支出があった、ということで・・・●「鬼病」はいつ、どう収束するものか●与島沖の沈没事故で思い出す紫雲丸事故●日本学術会議会員選任拒否の先に見えるもの●核兵器禁止条約を結ばない「唯一の被爆国」●鬼北町の人口が1万人を割った●大坂なおみに拍手、・・・(ああ、タイトルだけでも全部紹介したい!)。その指南力は抜群です。わたしはここから「世界の見方」「ニュースの読み方」を教えてもらっています。

 「松山文化史・明治年表」(城戸八州編から)があります。「ちょっとお出かけ」「伊予の式内社を巡ろう」で神社仏閣を巡った記録が写真入りで紹介されます。「本棚の隅」や「本読(酔)み千鳥足」のコーナーでは、無類の本好きの玉井さんの魅力満載。目くるめく世界が開陳されます。その興味の多方面さ、スゴイの一言です。そして、毎月の行動記録、どこへ行った、誰と会った、何を見た、何を食べた・・・。これが実に楽しい。すべてカラー写真付きだから臨場感たっぷり。(そのほかまだまだ書ききれないくらいの記事がありますが今回はこのくらいに)。

 残念なことは、この本、市販はされていないこと。毎月の「ぐうたら通信」の読者のみの限定本だそうです。

 玉井さんの「プロフィール」です。

 玉井葵(たまい あおい)。1944年満州国哈爾浜省(現・中国東北地方)生れ。松山北高等学校、愛媛大学を経て、愛媛新聞社入社。退社後は現在の悠々自適が。「伊予のぐうたら狸」を自称とのこと。

 著書。①『凡平ー「勇ましい高尚な生涯」を生きて』(2000)

    ②『お袖狸、汽車に乗る』(2003)

    ③『伊予の狸話』(2004)

 すべて創風社出版(松山)。読んでみたいと思われた方は、同社HPから注文してください。http://www.soufusha.jp/

 それでは出血大サービスです。『ぐうたら通信』の中から、丸ごと1ページここに書き写します。是非是非、ご覧あれ!(No.226/2019.08/01-page2 同書106ページ)

明浜通い 40年  

不思議の郷の、不思議な人たち

 梅雨の晴れ間、明浜の高間タエさんを訪ねた。いつものように、原田義徳さん、岡崎憲一郎さんが来てくれて、とりとめない話に時間が過ぎた。話題はまず、カラス。普段は4羽しかいないはずのカラスがある時、何十羽も来て、トンビを巣から追い出してしまった。ビワのなる時期だった。どこからか「出稼ぎ」にきたに違いないという。「出稼ぎ?ビワを摘みに?どこから」「高山か、その辺じゃろ」。

 イノシシ、ハクビシンと登場人物(?)の話が延々と続いて、ちっとも飽きない。私の帰りの時刻が迫っていなかったら、いつまでも続いていただろう。

 こうやって、私は明浜に癒されてきた。

 思い出してみると、この町へ通い始めて40年は経っている。私をそんなに受け入れ続けてくれた人たちが、外にいただろうか。

 明浜は私にとって、不思議な人たちが暮らす不思議の郷なのだ。

 明浜へ初めて出かけたのは、無茶々園を取材した時だ。それははっきりしている。1978年(昭和53年)に特集面の取材班に配属されて、楽しく飛び回っていた時期だ。有機農業をやっている若者グループがあると聞きつけて、出かけた。新聞社の部は基本的に地域割り、縦割りだった。それに縛られない特集面担当に所属していなかったら、行かせてもらえなかっただろう。

 狩江公民館の奥の一室が梁山泊で、片山元治さんたちメンバーがたむろしていた。無茶々園が紙面に載ったのは、その時が初めてだった。

 その狩江公民館の主事をしていたのが原田義徳さんで、彼との付き合いが、すべての始まりだった。彼を紹介してくれたのは、松山の公民館主事のNさんで、主事つながりであったらしい。

 明浜という所は、何もかもが重なり合っていて、原田さんと付き合うと言うことは、原田さんの顔の広さもあって、その地域の各層の人と交わるということだった。岡崎の憲ちゃん、宇都宮氏康さんたちとは篤く付き合っている。無茶々園のメンバーともあらためて顔見知りになった。現在も付き合いのある人たちはみんな、彼の縁だ。

 明浜通いの初め頃に、大きなイベントがあった。80年夏の「燃え狂え!フォークキャンプ・イン・お伊勢山」だ。青年団が主催したが、私たちは「イワちゃんのエイコちゃんへのプロポーズ大作戦」だとはやし立てた。作戦は目出度く成功し、二人は今、後継ぎさんとともに、ミカン農家をしている。

 その後、私は整理部に異動になった。内勤暮らしが面白くなかった。ある日、勤めを終えてから明浜に釣りに出かけた。午前3時は過ぎていた。浜へ着くと、原田さんが待っていてくれた。「まさか」と思った。感激した。

 そういえば、いつだったか、明浜でわいわいガヤガヤやった後、私が帰るのと一緒に、松山へ行くという。「皆さん元気だね」などと言いながら、松山へ帰り着いたら、彼らは明浜へ帰るという。私を送ってきてくれたのだ。感激しないでいられるだろうか。その時の一人、幸地権一さんはその後すぐ、亡くなられた。仲間が彼を偲ぶ文集「幸せ配達人」を出した。その本は今も、書庫にある。拡げると涙が出て仕方がない。

 野村や松山で、メンバーで飲んで歩いたこともある。あれは楽しかった。みんな結構節度があるのだ。飲んで崩れてもめごとになるなどと言うことはなかった。

 役場職員の原田さんが企画したカッパ祭りやさくらまつりは、毎年通った。孫たちが小さい頃で、一族連れての明浜通いは楽しかった。高山の海岸での勇壮なお祭りや、渡江の盆踊りの口説きは、一生に一度は見ておくべきものだ。

 陶芸の高間タエさんとのつながりも、原田さんが付けてくれた。高山の定時制高校から東京の美大に進学するという、ちょっと信じがたいキャリアのタエさんは、スペインでその国の人と結婚し、故郷の高山で窯を焚いていた。彼がつないでくれて、月2回、お稽古に通った。片道2時間半かけて、10年以上通った。真冬は少し厳しかったが。

 ただし、ちっとも上達しなかった。私は何をやらしても上達しない人間で、「それもまたよし」と生きてきた。

 そうそう、高間家の猫、ソノラのことにも触れておきたい。私は猫が苦手なのだが、彼女・ソノラだけは付き合えた。真っ黒のおばあさんは、私が弁当を拡げると足元へ寄ってくる。・どうかすると膝に上がってくる。彼女が亡くなってどれくらい経っただろう。ちょっと懐かしく、切ない。

 明浜など4町が合併して西予市が出来た時、私は「明浜というアイデンティティーはなくなる」と指摘した。それがどうなったかは知らない。が、「明浜は明浜」であり続けてほしいと願っている。

※ 注;「高山の祭り」のカラー写真付きです。

                         (2021・2・26)

 

 

西田エッセイ  第十回  (最終回)

西田孝志・連載エッセイ「私の映画案内」

         「ブレクジット(離脱)」

 

ブレクジット選挙の真実に触れた映画

 映画「ブレクジット」2019年・イギリス。は、極めて興味深く、注意を引く映画です。英国で行われた、EUからの離脱を問うブレクジット選挙は、世界史に残る大事件なのですが、その詳細や内容についてはあまり詳しくは報道されてはいません。この映画を見て、私は始めてブレクジット選挙の、真実に触れた気がしました。ぜひ見て欲しい映画です。

 この映画は、関係者の証言や事実を元に製作された映画で、その内容は信頼に値します。特に離脱派が、どの様な戦略をたて、どの様な技術を駆使し、勝利した結果、何が残りその後何が起こったのかを克明に描いています。それは正に、大衆への高度なマインド・コントロールとでも言うべき選挙戦術の始まりを告げるものでした。

■離脱派を率いたのは、どんな人物なのか、

 離脱派を実質的に率いたのは、政治的にまったく無名の、元首相報道官ドミニク・カミングスと言う人物でした。離脱、残留、共に政府から公式に認められた支援団体が認定されましたが、離脱派団体のトップに立ち団体を率いたのがドミニクでした。彼はどんな人物なのか、一言で言うなら、思想に置いては理想主義者、行動に置いては現実主義者、相反する性格がそのまま内在した様な、とにかく複雑な性格の男と言って良いでしょう。

■離脱派の、大衆へのマインドコントロール選挙戦術とは

 この男が選挙に際し使った、幾つかの革新的な手法は特筆すべきものと言えます。一つは強烈で短いキャンペーン標語の採用です。彼はオバマ大統領の「イエス・ウイ・キャン」を参考にしたと言っています。彼が決めたのは「主導権を取り戻せ!」と言う言葉でした。取り戻す、と言う事は、主導権を失った、と言う事です。英国がEUに加盟した際、何についての主導権を失ったのでしょうか、何も失っていないのです。反対に、人と物の自由な移動に依り得たものの方が多かった筈なのです。しかし、この標語に依り大衆は自分たちの生活の多くの部分がEUに依って奪われたのだ、と感じる様になって行きました。

 次に彼は、一日3億5千万ポンドのEU負担金、と言う出所不明の出鱈目な数字を打ち出し、そんな大金が恰も大衆の懐から流れ続けている、かの様に宣伝しました。まったく事実無根の数字です。だが多くの人々がこれを信じる様になった、額が大きければ大きい程、被害者意識は大きくなるのです。

 移民政策に置いて、彼はもっと巧妙でした。彼の支援団体が反移民キャンペーンの表に出る事は決してなく、離脱派の極右政党幹部を専らメディアに露出させ、人種的な偏見や差別の非難を彼らに引き受けさせたのです。そして彼は、EUに加盟の見込みはないが、英国民が心理的に一番嫌いなトルコを標的にして、EU加盟を続ければ、一千万人のトルコ人が移住して来る、と恐怖を煽ったのです。覚えていますか、ヒトラーの反ユダヤキャンペーンを。恐怖と憎しみは、人間が最も信じやすいものなのです。ヒトラーはこうも言っています、「大衆の理解力は小さく、忘却力は大きい」と。

SNSを駆使した果てに

 そして彼ドミニクが選挙運動の中で最も力を注ぎ、最も成功を収めたのが、SNSに依る国民の情報の不正な取得と、その情報に依る心理操作を伴う、不正な選挙キャンペーンだったのです。この出来事はブレクジット選挙に留まらず、後のアメリカ大統領選にも大きな影響を与えました。

 少し詳しく説明しましょう。彼はまずカナダのアグリゲートIQと言うデータ分析会社に接触しました。そこで彼は人々が日常的に使用しているSNSへの書き込みや閲覧履歴などを、アルゴリズムを使い集約させる事に依り、その人物の趣味や性格、支持政党、投票行動の有無、さらに恋愛中かそうでないか、まで把握できると教えられるのです。アグリゲートIQの代表は、彼の眼の前でいとも簡単に、今まで投票に行った事のない300万人の人々を表示して見せたのです。

 次に登場するのが、ケンブリッジ・アナリティカと言う、選挙のサポートや宣伝、情報分析を行う会社でした。この会社はSNS上に送り出す広告を専門的に扱っていますが、送る相手の個人情報に依って、個人を分析し、その個人の好みにあった広告内容に自在にデザインを変更する事が可能でした。設立者はこの手法を使い、政党の支持率を実際に数ポイント上昇させました。この会社の持ち主が、スティーブ・バノンです。後にトランプ大統領の首席補佐官となる人物なのです。

 ドミニクはこの2社を使い、イギリスのSNSユーザーに対し、選挙期間中に10億件の広告を流しました。その効果が、実際にどれ程のものであったのか、その立証は難しいと思います。しかし、誰もが残留派が勝つ、と思っていたのです。いや世界中がそう思っていたのです。それが覆りました。確かに効果はあったと思います。

アメリカでも同じことが・・・

 選挙後、両社はアメリカへと渡りました。両者をトランプ候補に引き合わせたのは両社と関係のあった、大富豪の実業家、ロバート・マーサーと言う人物でした。彼は大統領選におけるトランプの最大の支援者となり、あらゆる面で彼を援助しました。

 その後、何が起こったのか、ケンブリッジ・アナリティカとフェイスブックの間における8,700万人の個人情報流出問題でした。フェイスブックから個人情報が抜き取られ、ネガティブキャンペーン広告が洪水のように送り込まれることに怒ったユーザー達が訴訟を起こしたのです。

 2018年、フェイスブックマーク・ザッカーバーグアメリカ議会の聴聞会で、個人情報の保護、管理が甘く不適切だった、と謝罪しました。ですが、アメリカの人々はそんな言葉を信じてはいません。なぜならフェイスブックはトランプの選挙キャンペーン事務所で、ケンブリッジ・アナリティカと机を並べて、仕事をしていたのは周知の事実だったからです。

■キャメロンは何故ブレクジット選挙に踏み切ったのか

 最後にキャメロン首相は何故ブレクジット選挙に踏み切ったのでしょうか。離脱の要求は20年前からあり、その声はマグマのように英国の地下に溜まり続けていました。いつか、誰かが実行しなければならなかったのです。議員にあまり人気のないキャメロンが首相に立候補した時、離脱派の議員がブレクジット選挙を条件に、彼を首相にしたのか?あるいはキャメロンが首相になる為に、議員たちに国民投票を持ち掛けたのか?、今となっては分かりません。

■イギリスはカオスの時代を迎えるのか

 いづれにせよ、双方に残されたのは抜き難い不信と敵対心、そして、癒し難い感情の対立でした。事実、選挙期間中に残留派の女性議員が、離脱派の若者に射殺されました。本当に悲劇です。イギリスは最早誰にもコントロールの出来ないカオスの時代を迎えるのでしょうか。今起こっている事は、いつか私達にも起こる事です。眼を開けて時代を見つめましょう。

 それではこの辺で、ゴキゲンヨウ・・・・・。

 

●morino-shimafukurouからのコメント

 2016年には、二つの世界的大事件が起きました。6月の「イギリスのEU離脱」、11月の「トランプ大統領の誕生」。わたしは、残留派が勝つと思っていました。ヒラリー・クリントンが「ガラスの天井」を突き破ると思っていました。わたしの予想は、どちらも見事に外れました。二つの事件の裏側で、このような企て・策動があったとは。驚きです。西田くんの時代を見る目の確かさにただただ敬服するばかりです。

 そしてわたしは、同時にある思いにとらわれて、慄然としました。もし日本で、政府自民党が「憲法改正国民投票」を仕掛けた時、たとえば電通と組んで同様のキャンペーンがなされたならば、同じことが起こるのではないか。・・・

 西田くんの「エッセイ」は、(まことに残念ですが)、今回で終わりです。彼には「俵津ホームページ」で15回、わたしのブログで10回、書いていただき、素敵な「にぎわい」をつくっていただきました。俵津出身者で、このように求めに応じて、気軽に「いいよ」と言って原稿を書いてくれる人がいるという事は、本当に素晴らしいことだと思います。心からあらためてありがとうを言いたいと思います。

 ここで、西田孝志(にしだ こうし)くんのことを少し書いておきます。

 彼はわたしの同級生で、中学2年まで俵津にいて、その後家族で大阪へ引っ越して行きました。無類の映画好きでした。八千代座(若い人は知らないかもしれませんが、かつて俵津にあった映画館です)にかかっていた映画は、当時ほとんど見ていたのではないでしょうか。

 また、無類の「本好き」でした。同級生の女の子たち(みんな、おばあちゃんになってしまいましたが)の間でこんな“伝説”(!)が、今でも残っています。「孝志さんは本を読んでいる時、眉毛を一本一本抜く癖があって、一冊読み終わった時には片方の眉毛が、なななんと、無くなっていた」!!。(笑)

 俵津小・中学校の図書室の本はほとんど読んでいたのではないでしょうか。わたしの記憶にあるのは、中学の時、俵津公民館で借りたと言って、江戸川乱歩全集を読んでいたことです。クリーム色のごっつい本でした。

 社会人になってからは、旅行会社に勤めて、世界中をツアーコンダクターとして飛び回っていました。

 小説を書くのが趣味で、すでに400字詰め原稿用紙1000枚以上書き溜めているとか。「映画エッセイ」も、まだ300回は書けるとか・・・!

 そこでわたしは、彼に「ブログ」の開設をすすめました。余生を毎日それに投じよ!と。「私の映画案内」「私の読書案内」「私の旅案内」「小説」、エトセトラ・エトセトラ・・・。

 近々、彼のブログが立ち上がるかもしれません。楽しくてためになる蘊蓄の数々が読めるといいですね。そのときは、“リンク”することにします。楽しみにして、待ちましょう!

                     (2021・2・13)

西田エッセイ  第九回  (全10回)

西田孝志・連載エッセイ「私の映画案内」㉔

           「アウンサン・スーチー」

 

 先日、NHKの深夜の海外ニュースを見ていたら「スーチー政権の足元揺らぐ」と題して、次のニュースを報じていた。

 ある少数民族の町で、その町の広場に黄金のアウンサン将軍(スーチーの父親・ビルマ独立の父と言われている)の銅像を建てる事になり、少数民族の人々がそれに反対してデモを行った、が結局銅像は広場に建った。住民の一人がマイクに向かって「私達は結局二級市民の扱いしかされていない、次の選挙にはスーチーには投票しない」と言った。

 この報道で、NHKは何を訴えたかったのだろう。スーチー政権の独裁化?それとも政権の私物化?それとも、ロヒンギャの様に少数民族を無視し弾圧を続けるスーチー政権の危険な一面を、報じたかったのだろうか?

 私達はミャンマーについての情報をあまり持たない。だから70年代に起こったミャンマー民主化デモと、軍部の激しい弾圧についても良く知らないし、弾圧の結果、若い学生たちが千人単位で日本へ亡命し、令和の現在も日本で居住し、すでに二世・三世が生まれて生活している事も、あまり知らない。

 では今私達がミャンマーについて知っているのは何だろうか。今現在ミャンマーについて報道されるのは、ロヒンギャについてだけと言って良い。ミャンマーではロヒンギャと言わない、ベンガル人である。世界はこのロヒンギャの問題に対して、一挙にミャンマーと、スーチーに対しての非難を強めた。当初テレビは連日の様にバングラデシュに逃れるロヒンギャの人々を撮し、世界中から彼らへの同情と、反対にミャンマーへの非難の声が寄せられた。

 非難の中には、的外れなものが多かった。例えば、彼女の行為はノーベル平和賞に値しない、剥奪すべきだ、と言うものだ。映画「ザ・レディ・アウンサン・スーチー」、フランス、イギリス。と言う映画を見て欲しい。ノーベル平和賞は危険な軍部から、彼女の身を守る為に、彼女の夫が申請したものなのだ。彼女は最初の民主化選挙の運動中、何度も軍からの妨害を受け、直接銃口を向けられた事もあった。その時、彼女はミャンマーの伝説となる行動を取った。彼女は銃口に向かって歩み続け、銃口の前に一人立ち塞がったのだ。彼女の夫はそれを聞き、いつか妻が殺されるかも知れない、と感じた。ノーベル平和賞候補に名前が挙がれば、まさか間違って射つ事はないだろう、と言う夫の切ない思いから申請された事なのだ。それを剥奪せよ、などと言うのは酷すぎる言い方だ。彼女は今現在も軍部にとって最大のターゲットなのだから。

 考えて見て欲しい、ロヒンギャ問題で、ミャンマー政府や、スーチーが非難され、それによって得をするのは誰なのかを。スーチーが表だって、国籍のないイスラム教徒のロヒンギャへの支持を表明し、援助をすれば仏教界と一般大衆の支持を確実に失うだろう。彼女の政権を実現させ、支えたのは、民主活動家の学生と一般大衆、それに仏教界の僧侶達だ。彼女が人道的に動き、発言すればする程、それらの勢力は彼女から離反しかねない。しかし、かと言って何も発言せず、表向き静観を続ければ、世界中の世論が非難に回り、彼女の今までのイメージをダウンさせ、評判に傷を付ける。それこそが、誰かが常に望みつづけているものなのだ。

 誰かが望み、引き起こさない限り、この様な悲劇的で、大規模な事態は起こり得ないだろう。スーチーがこの事態にどう対処するか、130もいる全ての少数民族は独自に武装し、いざとなれば政府に激しく抵抗する事も辞さない。軍事政権時代に軍は2/3の民族と平和協定を結ぶ事に成功したが、残り1/3との協定には失敗している。ロヒンギャの扱い次第によっては、他の少数民族への火種になりかねないのだ。

 私達は民主的な選挙により、ミャンマー社会主義政権は終わり、完全な民主国家になった、と誤解している所がある。とんでもない間違いなのだ。社会主義政権の当事者である軍はまったくの無傷であり、しかも憲法により、その勢力の維持は保証されている。国内には今だに数千人の政治犯が劣悪な環境の刑務所に収容されているのだ。憲法によって、国軍・国境警備軍・警察軍の三軍の大臣は軍の指名により決定され、政府与党には一切の軍事指導権が存在しない。

 軍は今も少数民族への弾圧や虐殺、レイプなどを行っている。ロヒンギャへの軍の対応は、ある種、ホロコーストを思わせるような酷いものがある。残念ながら、スーチーにそれを止める権限はない。彼女に出来るのは事態の拡大を防ぎ、状態を固定化する事だろう。その上で、自分への非難と引き換えに、軍と大衆を納得させる道を模索するだろう。それは困難な道だが、彼女はきっと遣り遂げるだろう。なぜなら、彼女は15年間の自宅軟禁に耐え抜いた女性なのだから。

 最後に彼女の言葉を一つ。

「私たちの自由の獲得のため、あなたの自由を行使してください」 アウンサン・スーチー。

 それではこの辺で、ゴキゲンヨウ・・・。

 

● morino-shimafukurouからのコメント

 ミャンマー軍がクーデター 、 スーチー氏を拘束」というニュースが1日、突然入ってきました。今回の「西田エッセイ」は、7日の日曜日に掲載するつもりでしたが、急遽今日にすることにしました。これは3年前の文章ですが、みなさんのミャンマー理解の一助になればと思います。

                     (2021・2・2)

  

 

大師の足あと―俵津の空海伝説

 報告です。

 1月24日、大浦のお大師様のお堂の前、二代目枝垂桜の横に、弘法大師像が建立されました。(施工は、宇和町の小野石材)。坂本甚松さんはじめ大浦の人たちの深い祈りが、実を結びました。それにしてもその行動の速さに驚かされます。

 甚松さんから連絡を受けたので、早速行ってみました。お堂の大きさと釣り合いのとれた大師の石像がありました。また一つ祈る場所が俵津にできました。そして、お大師様が本当の意味で「お大師様」になったように思いました。

 わたしは以前から不思議に思っていたのですが、「弘法大師」を感じさせるものが見当たらないお堂や周辺のこの場所が、どうして「お大師様」なのだろう?。疑問が今回解けました。それは正式名称が「回国記念大師堂」と言う事を今回はじめて知ったことにありました。「回国」という言葉を調べてみましたら、「お遍路、回国巡礼という巡礼のための諸国遍歴」とありました。250年前に回国を果たした三好庄七さんは、どのような“回国”をしたのか、四国遍路八十八か所のみを回ったのか、それとも東寺や高野山金剛峰寺や善光寺や川崎大師や成田山新勝寺など弘法大師真言宗ゆかりの寺々をも回ってきたのか、その辺のところはわかりませんが、当時としてはまさに強い信心なしではできなかった「偉業」だったのでしょうね。

 また、三好さんのような人物やお大師様のような建物・場所を生み出したのは、やはり大浦地区に真言宗のお寺・地蔵院(創建は寛永五年・1628年)があったのが大きいと思います。さらには、菅原道真を祀った天満神社(社殿造営は万治二年・1659年)がある開けたところだったということもあるかと思います。

 皆さんも足を運んでみてはいかがでしょうか。

1,

 さて、弘法大師の「足あと」の話です。甚松さんと話していて、突然と言うか急に思い出したのです。足あとは業績という意味の「足跡」(そくせき)ではありません。砂浜を裸足で歩けばつくあのただの足あとです。大師のその足あとが俵津に残っているという話です。

 そのむかし城(砦)があったという古城(ふるじょう)の北側・下の谷は渡江越えの小道の傍らに、左右どちらかわからないが片方の足あとがあり、もう一方がお大師様にある

 言い伝えというか、伝説と言うか、「俵津の空海伝説」はたったこれだけの話なのですが。わたしはこれをいつ聞いたのか知ったのか思い出せませんが、(子供の頃だったのか青年団の頃だったか)、でもとても面白いなと感じたことは覚えています。それで、二十歳前後だったか、行って探してみたことがありました。下の谷側にはそれらしきものがありました!杉の防風林の間に四角な(30センチ角くらいか)暗緑色の平たい石の上に足あとのような凹みのあるものがあるにはありました。それが伝説のそれであったのかどうかはわかりません。お大師様側のものはついに発見できませんでした。

 この「俵津の空海伝説」、何人かに聞いてみました。二人が「それ知っている」と応じてくれましたが、あとは知らないひとばかり。知ってる二人もわたしと同じことしか知らない。つまりこの話はあくまでそれだけの話なのです。上下左右・前後・円球がない。ふくらみがない。物語がない。

 一週間前に、もう一度見てみようと思って下の谷へ行ってみました。下の谷農道の二番目の大カーブに車をとめて、みかん畑の園内道を登って行きましたが、すぐに行き止まりです。茫々たる荒廃園が広がり、3年前の豪雨が深い谷を刻んでいました。50年の歳月は如何ともしようがありません。

 むかし見た足あと(らしきもの)は、確かに踵(らしきもの)が渡江側にあり、指(らしきもの)がお大師様を向いていましたので、空海は下の谷からお大師様へ向けて飛んだ・跳躍した、のでしょうか。1200年前の俵津は奥深くまで海が侵入していたといいますから、あるいは泳いで渡ったのかもしれません。石に跡が残るくらいですから、余程の大男だったのか、踏み込む力が強かったのか。それにしても、空海は何のために俵津に来たのでしょう。ここからどこへ行ったのでしょう。この話は、誰が何を伝えようとしたものなのでしょうか。

2,

 ネット(ウィキペディア)で調べてみました。

 「弘法大師に関する伝説は、北海道を除く日本各地に5000以上あるといわれ、歴史上の空海の足跡をはるかに超えている」、「中世、日本全国を勧進して回った遊行僧である高野聖(こうやひじり)が弘法大師と解釈されたことも有力な根拠である。ただ、闇雲に多くの事象と弘法大師が結び付けられたわけではなく、その伝説形成の底辺には、やはり空海の幅広い分野での活躍、そして空海への尊崇があると考えられる」とあり、弘法大師が発見したとの伝承がある温泉名や由来とされる伝説・伝承の項目が並べられております。その中には、この「足あと」のようなものはありませんでした。

 明浜の郷土史家として名をはせた久保高一先生が、ひょっとしたら何か書き残されているかも知れないと思って、まなびあんと高山公民館図書室へ行ってみましたが、ありませんでした。久保先生には、本になっていない書き物が自宅にたくさんあるそうですが、その中にはあるのかもしれません。遺族の方とか西予市が遺稿集を出してくださるとありがたいですね。

 いつだったか泉鏡花の『高野聖』という小説を読んだことがあるのを思い出しましたが、たしかに彼らは全国を回ってさまざまな物語を衆生に語り聞かせたのだな、これもその一つのバージョンの一部かもしれないと、想像することができました。聖たちは、たしかに俵津へも来たのにちがいありません。

 わけがわからなくても、これだけでも、わが俵津に「空海伝説」がある。それだけでも素晴らしいことだと思います。

3,

 振り返って思えば、「空海」はこの地に遍く在りました。それは「空海空間」と言ってもいいような宗教的アトモスフィアの世界で、それがそう、昭和35年くらいまではありました。

 そんな気がします。わたしが子供の頃、祖母は朝晩真言宗のお経を唱えていました。「門前の小僧」でしたのにその文句はおぼえていませんが、読経の最後に「南無大師遍照金剛」を数回繰り返していたのだけは耳に残っています。どこの家にも、石童丸の物語や地獄の絵本がありました。ひとびとは事あるごとに、宇和の四十三番札所・明石寺(あげっさん、と言っていました)へ行っておりました。四月八日の花まつりには、新田の奥爪立から野田越えでこぞって、宇和の山田薬師へお参りしていました。托鉢の僧もよく来ていました。白装束の修験者の姿もよく見かけました。そして、誰しもが生涯に一度は“お四国回り”をしたいと望んでおり、定年退職などの機会をとらえては、発奮していそいそと出かけていっておりました。

 意識しなくても人々のこころの奥深くには、空海が住んでいたのだと思います。わたしも、よく知らないのに、「空海」の名前はとても好きでした。その響き、その広がり、なんとなく幸せにつながりそうな可能性を感じる明るい名前。わたしは平成の大合併で5町が一つになる時、募集された新しい市名に「空海市」(くうかいし、またはそらうみし)と書いて応募したくらいです。空海を現代に蘇らすことで「まちづくり」をしたらどうかと思ったのです。

 若い時には、宇都宮道有くんとダットサントラックにみかんを積んで、それを売りさばきながら、1,200キロの四国一周の旅をしたことがありました。高知県室戸岬中岡慎太郎像の足元から見る空と海の圧巻に暫し我と時を忘れたのを、いま思い出しました。その時、そこの御厨人窟(みくろど)で空海が修業したこと、そして金星が空海の口に飛び込んできた逸話があることを知っていたら、行って見たのになあと思うと残念でなりません。

 

 ともあれ、坂本さんたちの事業は、わたしに空海のことに思いを馳せるひとときを与えていただきました。ありがとうございました。

                           (2021・2・1)

 

 

 

弘法大師と共に、祈る。

 宮崎川にかかる畑岡橋にほど近い、上甲伸介くんのポンカン園の路傍の一角に、俵津集落協定の花壇があります。白いすてきな小柵に囲まれた中に、黄色・赤・白・紫など濃淡様々なビオラと“よく咲くスミレ”(!)が、美しく可憐に咲いています。柑橘類の収穫・出荷等に疲れたこころを癒してくれます。

 

1、

 正月2日のことでした。百姓の大先輩・坂本甚松さんの来訪がありました。「お大師様に、弘法大師の石像を建てるので、碑文を書いてくれ」と言うのです。聞けば、以前にお堂の屋根の吹き替えや入口にスレート葺の庇を造作した時に集めた浄財が残っているのでやることにした、とのこと。

 え、これって、去年と同じ展開?!去年も日越の三ちゃんがやってきて、「坂村真民先生の碑を建てるので、由来の碑文を書いてくれ」ということで、一年がはじまったのでした。一月というのは、人がやはり何かを“発意”する月なのでしょうか。

 そこで、二人が合作しました。

              弘法大師像建立由緒

 大浦地区有志の寄進により建てられた大師堂より献納を賜わり、ここに一同の総意をもって大師像を建立することとなりました。世界の平和と、地域に住む人々の安全・幸福を祈念し、新型コロナウイルス撲滅を願って、弘法大師と共に祈りを拝捧しましょう。

               令和三年一月吉日

                     お大師様管理人代表

                         木崎 真近

                     賛助会員

                         坂本 甚松

                         網干利喜夫

                         網干 秀子

※ 第一次案です。大浦のみんなで話し合って、決定文を作ってください。実際の碑は縦書きで。

 

2、

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が蔓延し、世界中の人たちが困っている時、このような試みは、わたしはまことに時宜を得たものだと思います。わたしに宗教心はありませんが、祈ることの大切さは分かるつもりです。正月や祭礼時には神社にお参りしますし、日常でも神社の鳥居の前を通る時には頭を下げます。大浦地区の人たちの行動に、こころから賛意を表したいと思います。

 ところで、折角の機会なので、「お大師様」についていろいろ書いておこうと思いました。●いつできたのか●誰が建てたのか●動機・きっかけ・だれの発意か●工事者名●建築費●補修・追加建築の時期や費用●お堂の中に安置されている三体の地蔵について等々。

 坂本さんに聞いてみましたが、「よくわからない、資料など残っていないか調べておく」ということでした。そこで、とりあえず、明浜町(当時)が作成したものをさがしてみました。

➊『明浜町誌』の914ページに、「町指定外文化財」とした一覧表の筆頭に、たった一行次の記述がありました。

「名称・回国記念大師堂、種別・社会教育資料、所在地・俵津大浦、管理者等・大浦部落、概説・俵津ー宇和線最初の大カーブの道路上のお堂に安置されている三体の地蔵さん。「お大師様」と呼ばれている。」

➋『明浜町文化財(第1集)』(昭和57年5月1日発行)には、1ページ目に「回国記念大師堂」のタイトルで、以下のような記述があります(三体の地蔵の写真付き)。

「県道宇和-俵津線の最初の大カーブの道路上にお堂があり、そこにはかって枝垂桜の老樹が毎年見事な花を咲かせていましたが、昭和50年8月17日の台風5号の直撃を受けて、枯れてしまいました。

 このお堂には三体の石仏が安置されて、お大師様と呼ばれています。このお地蔵さんの左端の一体が、三好庄七が宝暦7年(1757年)に日本回国を果たした5月21日に、近所の人達によって建立され、中央の一体には「光明神哭百五十万遍経塔、安政元甲寅年7月建立」とありますから、それより約100年後の建立になります。右端の一体は喜八という人が明治4年3月6日に建立しています。」

 

 わたしとしては、当時の人たちの思いが伝わるような説明書きの看板を、お堂の傍ら(もしくは旧道の道端)にぜひ設置していただきたいと思います。

3、

 坂本甚松さんとの共同事業(!)は、実は今回が初めてではありません。10何年くらい前でしたか、大浦地区の南予用水完成記念碑の碑文を一緒に考えたことがありました。それは、田中恒利先生と三人の合作でした。田中先生が、「志水」「友水」「恩水」などの案をまず出され、これにわたしたちが「潤農」「創農」などの熟語を加えることを考え、最終的に「志水潤農」に決定したのでした。田中先生には、ご自分が奔走して実現を見た南水には格別の思いがあったでしょう。南予の農民が志した水、野村ダム建設を快諾し、貴重な水を分けることに同意してくれた野村町の人々の友情や恩への溢れるような思いがあったことでしょう。これにどういう言葉を繋ぐか、二人は悩みましたが、創農という勇ましい言葉よりも、何にも代えがたいありがたい水がしっとりとこの大地とみかん樹を潤している姿をそのまま言葉にした方がいいだろう、と思ったのでした。

 後に、宇和島市高光のハイウエイレストラン宇和島・真珠会館近くの国道端に、「水、この地を潤す」という碑を見つけた時には、ああやはり農家の思いは一緒なのだなあと深く感動し、わたしたちの選字句に胸をなでおろしたのでした。

 ちなみに、脇・新田地区の同碑の碑文は「夢水人輪」、狩江には「民意結集」「人為天恵」などがあります。どれもよく練られた素晴らしい言葉だと思います。地区民の志や思いを集めた事業には、こうしてそれを表す言葉と記録を石に刻んでおくことが、とても大切なことだと、わたしは思います。

 

 とにもかくにも、まず祈りましょう!コロナウイルス退散を!弘法大師と共に!

                          (2021・1・23)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西田エッセイ  第八回  (全10回)

西田孝志・連載エッセイ「私の映画案内」㉓

       「映画万引き家族に見るリーダーシップ」

 皆さん、お元気ですか。実は私今長年続けていたタバコを止めようとしています。とてもつらいです。特に文章を書いてる時など、タバコがないと頭がおかしくなりそうです。挫折しそうになりながらも、何とか頑張ってます。

 さて、話題の映画万引き家族2018年、日本。遅蒔きながら、取り上げて語りたいと思います。この映画はある一組の家族について、彼らの生活とその生活の為の手段、昔風に言えば彼らの生き様とも言うべき生活実態を描いた映画だと言えます。ですが、彼らには普通の家族とは言えない所があります。大人は各自それぞれ定職を持っていて、普段はその仕事に従事しています、が彼らには血縁がありません。例外を除いて基本的には他人なのです。さらに食う為には、不正な手段、たとえば万引きなども行います。普通ではないと言いましたが、それどころか、とても変わったあり得ない家族と言った方が良いかも知れません。なぜ監督はこんな家族設定をしたのでしょうか。

 私はこの家族を見ていて、ある種異和感の様なものを覚え、それがずっと気になっていましたが突然ある事に気づきました。それはこの家族が、日本的な農耕民として描かれているのではなく、ある種の狩猟採集を行う、遊牧民的な家族として描かれているのではないのか、と言う事でした。なぜ、この映画がヨーロッパの映画祭で受け入れられたか、と考えた時、牧畜や狩猟採集の生活を長く続けた、彼ら白人にとって、この日本人家族の生き方は彼らに馴染み深く、受け入れやすい生き方と写ったのではないでしょうか。同時に、ホモサピエンスが集団生活を営む事によりネアンデルタールを駆逐したように、集団生活を営む利点は彼らのDNAに深く刻まれていると言って良いでしょう。農耕民は種を蒔き、集団で土地を耕し生産を管理しますが、遊牧民や狩猟採集民は全く違う生き方をします。彼らに必要なのは獲物のいる場所や、それを捕る技術を知る人であって、遊牧民なら、地味の肥えた良い牧草のある場所へ導く人なのです。それがリーダーと呼ぶべき人なのです。

 この家族のリーダーとも言うべき男性は正にそう言う人物なのではないでしょうか。彼ら家族一人一人はそれぞれ世間と言う荒波に漂う脆い小船のような存在なのです。その小船が寄り添い寄り集まって、少し大きな家族と言う船になって行ったのです。そんな彼らにとって一番必要としたものは何だったでしょうか。それは船の行き先を決め、家族の結束を保ち、家族を守り、生活の手段と方法を教授してくれる、強い指導者なのです。少し気が弱そうで、お人好しにも見える、この男性は生きると言う事については、すこしのぶれも見せません。現実的で生きる方法を知っています。彼こそがこの集団のリーダーなのです。

 キリスト教社会で、最も良いリーダーとして挙げられる人物は、旧約聖書出エジプト記に書かれた、予言者モーゼです。グレート・エクソダスと言われる出エジプト記は、キリスト教世界に深く根付いており、ほとんど全てのヒーロー伝説や脱出伝説はこの話を大元にしていると言っても過言ではありません。例えば映画で描かれた数多の脱出ものを見てもその事が良く分かります。危機に際し、聡明でかつ賢明な人物が出現し、人々を纏め、困難に対処します。彼は常に最善の脱出ルートを示唆しながら、人々を導き、犠牲を出しながらも、出口へと向かうのです。こう言った映画の主人公は、ユダヤの民を纏めあげ、犠牲を出しながらも彼らを導き、イスラエルの地へと導いたモーゼの姿に重ねられているのです。

 万引き家族のリーダーもそうだ、と言っている訳ではないのですが、この映画にはそれを感じさせるような、神的な視点を映す場面が所所にあります。この映画のカメラの視点は通常の斜め45度の視点ではなく、被写体の傍らに立った人物の肩の高さで見た視点で撮られています。言い換えれば傍らに立った貴方自身が、今起きている事を見つめているのです。その映像が時折り、高い位置から見下ろす視点に変わる場面があります。肩の高さで見るのは貴方の視点ですが、高い場所からの視点は貴方以外の明らかに第三者的、あるいは神的とも言って良い視点なのです。この視点はこの家族が何者かに見守られている、何者とも知れぬ、映画を見る貴方の暖かい心の眼ともとれる瞳に見守られている事、を示している様に思えるのです。言い換えれば、彼ら家族は善き導き手に導かれ流浪の旅をする聖家族のごとく描かれていると言えるのです。それだからこそ、彼ら家族は決して他人を害しません。虐待児童を守る為に同僚に仕事を譲る母親、風俗の仕事をしながら、傷ついた痛ましい魂に寄添う長女、妹の万引きを隠す為自分を犠牲にしょうとする長男。血の繋がりのない家族のこれらの行為を生み出し、導いたのは一体誰なのか、それをこの映画は問うているし示そうとしているのです。

 万引きは決して善の行為とは言えません。しかし浮世に寄る辺なき人々が、身を寄せ合い必死で生き抜こうとするならば、人は賛同せずとも幾ばくかの許容はするのではないでしょうか。その心の象徴が亡くなった駄菓子屋の主人なのだと言えます。彼ら家族の犯罪行為が露見し、取調室で、刑事達が乾いた事務的な口調で、彼らの犯した罪を並べたてて指し示した時、私の中である声がしました。それはマグダラのマリアと民衆の間に立ち「罪なき人のみが彼女を打て」と言ったキリストのその言葉でした。

 彼ら家族は本当は万引きなどしたくなかった。精一杯働いて家族が食べていけるなら、それだけで充分だった。たとえ嘘で固められた作り物の家族であっても、互いに愛情を持ち敬意を示せる間柄であれば、真の家族となりうる事が出来た。本当の家族とは一体何だろう。血の繋がりだけが真の家族なのだろうか、それとも困難で生き難い人生に立ち向かい、互いに助け愛しあう事が出来るなら、例え血は繋がらなくとも、それこそが家族と呼べるものではないのだろうか。最後は散り散りになってしまうのだが、私は心からこの聖家族に祝福を送りたい。彼らはたとえ一時でも真の家族に巡り合えたのだから・・・・・。

 それではこの辺で、ゴキゲンヨウ・・・・。

                      (2021・1・9)

西田エッセイ  第七回  (全10回)

西田孝志・連載エッセイ「私の映画案内」㉒

          「イラン映画へのお誘い」

 皆さん今日は、春ですね!春になると何故か故郷を思い出します。学び舎も人もみんな変わったけど、緑の山々や溢れる光、のたりと波打つ海を渡る、暖かい風、それらは多分変わっていないでしょう。遠くに有りて、いつも思っております。

 さて、今回は皆さんに三本のイラン映画をご紹介したいと思います。なぜ今イラン映画なの?と疑問に思われる方も多いか、と思いますが、色々説明するよりも、まず映画を見て欲しい、と言うのが一番の気持ちです。とても優れた良い映画なのです。見ればイラン人に対する見方が一変します。と言っても私の一方的な思い込みかも知れませんので、簡単に内容を説明して、ご判断を仰ぎたいと思います。3本の映画の題名です。1本目「セールスマン」アカデミー賞外国語映画賞受賞作品です。2本目「彼女が消えた浜辺」。3本目「ある過去の行方」フランス、イタリア、イランの合作映画ですが、オールイラン人キャストの映画です。3本の映画に共通して描かれているのは、ごく普通で、当たり前の生活を送る、普通の人々です。彼らの普通の生活を通して、彼らに起こるさまざまな事件や出来事が描かれています。この事には一つの理由があるのです。イランでは政治や宗教上の戒律に反する事象を描く事は出来ません。ムスリムの教えは絶対であり、批判することや偶像崇拝に繋がる事は描けないのです。これらはタブーであり、ゆえに描けるものは限られてきます。その一つが普通の人々と言う事になります。私は基本的に映画とは、人間を描くものだと思っています。一人の人間がある選択を行う、なぜその様な選択をして、どの様な結果が生じ、それをどう受け止め、受け入れるか、一連の行動を貴方に変わり、描くのが映画なのです。人間の行動には常に原因と結果があります。イラン映画では常に原因と選択、その結果が明確に描かれます。そして何よりイラン映画の素晴らしい点は、提示された結果に対し、謎解きのように原因の追及が行われていく点にあります。それはまさに上質な推理小説そのものなのです。

 いづれの映画も、まず事件の結果が提示され、係る人々が描かれます。「セールスマン」ではまず一人の妻です。彼女は夫と共に新居へ引っ越ししますが、男に新居へ侵入され、レイプされます。しかし、彼女はその事を夫に告げません、言えないのです。ムスリムの戒律では夫以外の男性との交渉はいかなる事情があろうとそれだけで即離婚となります。これは余談ですが、ユーゴのコソボ紛争の時、ムスリムの女性が集団でレイプされたのはこれが一因でもありました。彼女の夫は自分の妻に何かが起きた事を悟ります。そして少ない手掛かりから徐々に真実に近づいて行きます。しかし真実を知り、それを公にすれば夫婦は終わります。知ってはならない、でも知らずにはすまされない真実なのです。人間として貴方ならどうしますか、重い問いかけです。

 2作目の彼女が消えた浜辺では、一人の若い女性が浜辺から失踪します。失踪後、彼女には婚約者がいて、彼に無断で浜辺に来ていた事が判明します。これは重大な戒律違反なのです。婚約者の許可なく、未婚の女性が旅行する事など出来ないのです。それなのになぜ彼女は浜辺に行ったのか、理由が徐々に明かされて行きます。そこには、人間の持つ優しさや、親切心、同性への同情や労い、など諸々の善とも言える感情が存在するのですが、それらこそがこの悲劇の原因となるのです。そして、事態は収斂し、最終的に誰を悪者にするのか、誰を最も不名誉な立場に立たせるのか、選択を迫られるのです。貴方なら、どの様な選択をするのでしょうか。

 3作目「ある過去の行方」。この映画は少し特異な視点を持った映画と言えます。妻との離婚をする為に、イランからフランスに来た男性の目を通してある出来事とその結果が語られます。彼がフランスに来てみると、妻はすでに他の男性と公然と付き合っていました。フランスにしばらく滞在する事になった男は、そんな妻や同居する自分の娘の言動に何か不穏で徒ならぬものを感じ、彼なりに原因を突き止め、解消しょうと動きます。ミステリー小説の様にさまざまの事象の原因がある一点の事件に集約されていきます。この謎解きの過程は実に見事です。そして最後に実はこの映画は、人間の不信や裏切りを扱った映画なのではなく、人間の真の愛情の映画なのだと教えてくれるのです。男と女は別れますが、そこに不信や怒りは有りません、赦しと癒しが後に残ります。人間を見つめた素晴らしい作品です。

 いづれの作品も、人間を見つめ、探求し人間の原因を探ろうとした秀作な映画だと思います。イランの映画レベルはとても高く、映画への深い愛と歴史を強く感じさせてくれます。イラン革命以降、革命の持つ熱気と混乱の中で、この国は他者から見ても明らかに誤りと言える、多くの失敗を犯しました。アメリカ大使館占拠事件に依り、国際的に孤立し、テロ国家の印象を世界に植付けました。周辺アラブ諸国シーア派住民に対して、イスラム革命への参加を呼び掛け、湾岸諸国や、とりわけ住民の60%がシーア派である、隣国イラクに多大な脅威を与えました。この対立はシーア派スンニ派の宗教対立となり、アラブ諸国シーア派住民への迫害や弾圧を引き起こし、最終的に、イラン・イラク戦争へと繋がって行くのです。戦争は8年続き、双方で150万人の死傷者を出しました。イランは今現在もなお戦後復興の途上なのです。そのイランは現在アメリカからテロ支援国家に指定され、経済制裁を受けています。一方的にやっと決まったはずの原子力協定から離脱し、テロ国家だと決め付ける事が国際的に正しい事なのでしょうか。どうかせめてもイランの人々が、どんな人々で、どんな生活をして、どんな考えをしているのか、それらを少し知って判断しても遅くはないと思うのです。

 それではこの辺で、ゴキゲンヨウ・・・・。

                     (2021・1・8)