虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

寄稿エッセイ

            森発言に思う

                         胡瓜

 世界の人種差別人権侵害などの報道などに関して言えば、森発言などそれほど特異なことであると、私的には、取り上げるほどのことではないと思うが、世界の潮流はそうではないのであろう。

 その世界の潮流からみれば甚だ看過できない発言であり許されない言動であると言えるのであろうが、この年代の老人の持っている体質として、女性蔑視とか差別以前の体に染みこんだ女性観からでた、何気ない一言だったのではないかと思う。

 この発言をスクープしたニューヨークタイムスの記者もこの森発言にいたる背景を今少し取材し記事にしていたならば、随分と世間の間で、とりわけそういう問題に敏感な人たちの受け取り方も違っていたのではなかろうかと、思うのである。

 私は別に森元総理を擁護する気持ちもないし、ましてやその発言自体を是とするものではない。

 最近よく言われる言葉にジェンダーという言葉があるが、これなどそもそも生物学的に男女を分けた言葉である。しかしその中間の性を表現する言葉がないので、一義的にジェンダーという言葉を使用しているのであろうが、ホモとかレズとか日陰の印象の強い言葉ではなくもっと気の利いた表現を、どなたか発明していただきたいものである。

 縄文弥生の時代のように食物を得ることが生きることであり、生きることが食物を得ることに直結していた時代から、社会の発展と生存環境などの変化によって徐々に人間の心の中に中性という概念が、醸成されていったのだろう。

 それを裏付けるように中間の性の存在は今に始まったことではなく、昔からあったものである。ちょっと意味合いはずれるかもしれないが、戦国大名・寺院などでは色目のいい少年を小姓としてそばに置き稚児愛と称し、彼らを愛でていたものである。

 本能寺で信長とともに果てた森蘭丸なども、そうであった。

 当時十八歳であったらしいが月代をそることも許されずその生涯を少年のいでたちで終えなければならなかった蘭丸の忠義にあるいは忠誠心に、武士の一分を見る思いがする。

 話が横道にそれた感があるがこんなことを書いたのは、森発言はそのようなところにまで意識した発言ではなかったのではと言うことと、蘭丸の無念さに顧みて「あわれ蘭丸」とそれが言いたかっただけである。

 私から言うとすっと聞き流しておけた発言が、森委員長解任に至るまでの騒動になるとは、森氏自身も思わなかっただろうし全国のみなさんもそう思われた方が、多かったのではないかと思う。

 森氏個人の発言であるにもかかわらず、立場が立場だから仕方がないところがあるかもしれないが、それを組織の体質的な問題だと事柄をすり替えられて、挙句の果てに日本人は女性の人権を無視し女性蔑視の国柄であると、あちらこちらから批判される始末である。

 そんな批判にあおられ聖火ランナーを辞退したりボランティアを辞退したりと、まったく腑に落ちない行動の続出に私は、違和感を抱かざるを得なかった。

 何が違和感であるといっても森氏の世間で言われている女性蔑視発言が、なぜ聖火ランナー辞退と結びつくのかわからないことが、違和感として胸の内に浮かんできたのである。

 東京オリンピックと全く無関係だとは言えないかもしれないが、これらは切り離して対処するべき問題であると思うのである。

 それらの行動は一見正義であるかもしれない。それらしく見えるかもしれない。だとしてまた正義の前には誰も反論できないことを是として、振り上げたこぶしが正義だと誤解して声高に批判するのは正しいと行動することが、正義だと言えるのであろうか。正義はいい迷惑である。言い換えるならばこれらは白を黒と言い換える論理となんら変わらず、詭弁であると言われても仕方のないところである。

 それはあくまでも森氏自身の問題であり組織の問題ではないのである。その結果どういうことがあったのかといえば、女性理事を増やして頭数を整えただけである。

 それで男女平等とか女性の人権尊重などが達成されたと評価している者たちには、今回のことの本質が見えていないと嘆かざるを得ないのは私だけであろうか。

 本質とは何か。組織を運営していくうえで重要なのは能力のあるものがそれを、担うということである。あくまでも能力によって理事は選出されるべきで、そこに男女の差などが入り込む余地などがあってはならないのである。そのうえで男性ばかり女性ばかりとなってもそれはごく自然なことであり、そこに女性蔑視また差別などと言うことは、起こりえないのである。

 それを理事の数を男女同数にしたので男女同権平等などとどこを向いて言っているのか、しらけるばかりである。

 かつて司馬遼太郎は「この国のかたち」という著書で、明治という国家は昭和とは全くべつの国家だと書いていたが、その司馬遼太郎の懸念がいま日本の国民の心身をむしばんでいっているように思う。今一度幾多の犠牲の上になし遂げられた明治開国の原点に立ち返る時が、来ているように思う。

 最後に森元総理には「そんな女の尻に俺は敷かれているんだよな」と一言付け加えておけばこれほど大事にならなかったかもしれないと思うが、いかがであろうか。

 

●morino-shimafukurouからのコメント

 胡瓜さんからご寄稿いただきました。これでやっとわたしのブログが、念願の「交流ブログ」になりました。胡瓜さんありがとうございました。みなさま、どうかご感想などおよせください。また、お原稿などお寄せいただければ、まことに幸甚です。

                     (2021・3・16)