虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

西田エッセイ  第九回  (全10回)

西田孝志・連載エッセイ「私の映画案内」㉔

           「アウンサン・スーチー」

 

 先日、NHKの深夜の海外ニュースを見ていたら「スーチー政権の足元揺らぐ」と題して、次のニュースを報じていた。

 ある少数民族の町で、その町の広場に黄金のアウンサン将軍(スーチーの父親・ビルマ独立の父と言われている)の銅像を建てる事になり、少数民族の人々がそれに反対してデモを行った、が結局銅像は広場に建った。住民の一人がマイクに向かって「私達は結局二級市民の扱いしかされていない、次の選挙にはスーチーには投票しない」と言った。

 この報道で、NHKは何を訴えたかったのだろう。スーチー政権の独裁化?それとも政権の私物化?それとも、ロヒンギャの様に少数民族を無視し弾圧を続けるスーチー政権の危険な一面を、報じたかったのだろうか?

 私達はミャンマーについての情報をあまり持たない。だから70年代に起こったミャンマー民主化デモと、軍部の激しい弾圧についても良く知らないし、弾圧の結果、若い学生たちが千人単位で日本へ亡命し、令和の現在も日本で居住し、すでに二世・三世が生まれて生活している事も、あまり知らない。

 では今私達がミャンマーについて知っているのは何だろうか。今現在ミャンマーについて報道されるのは、ロヒンギャについてだけと言って良い。ミャンマーではロヒンギャと言わない、ベンガル人である。世界はこのロヒンギャの問題に対して、一挙にミャンマーと、スーチーに対しての非難を強めた。当初テレビは連日の様にバングラデシュに逃れるロヒンギャの人々を撮し、世界中から彼らへの同情と、反対にミャンマーへの非難の声が寄せられた。

 非難の中には、的外れなものが多かった。例えば、彼女の行為はノーベル平和賞に値しない、剥奪すべきだ、と言うものだ。映画「ザ・レディ・アウンサン・スーチー」、フランス、イギリス。と言う映画を見て欲しい。ノーベル平和賞は危険な軍部から、彼女の身を守る為に、彼女の夫が申請したものなのだ。彼女は最初の民主化選挙の運動中、何度も軍からの妨害を受け、直接銃口を向けられた事もあった。その時、彼女はミャンマーの伝説となる行動を取った。彼女は銃口に向かって歩み続け、銃口の前に一人立ち塞がったのだ。彼女の夫はそれを聞き、いつか妻が殺されるかも知れない、と感じた。ノーベル平和賞候補に名前が挙がれば、まさか間違って射つ事はないだろう、と言う夫の切ない思いから申請された事なのだ。それを剥奪せよ、などと言うのは酷すぎる言い方だ。彼女は今現在も軍部にとって最大のターゲットなのだから。

 考えて見て欲しい、ロヒンギャ問題で、ミャンマー政府や、スーチーが非難され、それによって得をするのは誰なのかを。スーチーが表だって、国籍のないイスラム教徒のロヒンギャへの支持を表明し、援助をすれば仏教界と一般大衆の支持を確実に失うだろう。彼女の政権を実現させ、支えたのは、民主活動家の学生と一般大衆、それに仏教界の僧侶達だ。彼女が人道的に動き、発言すればする程、それらの勢力は彼女から離反しかねない。しかし、かと言って何も発言せず、表向き静観を続ければ、世界中の世論が非難に回り、彼女の今までのイメージをダウンさせ、評判に傷を付ける。それこそが、誰かが常に望みつづけているものなのだ。

 誰かが望み、引き起こさない限り、この様な悲劇的で、大規模な事態は起こり得ないだろう。スーチーがこの事態にどう対処するか、130もいる全ての少数民族は独自に武装し、いざとなれば政府に激しく抵抗する事も辞さない。軍事政権時代に軍は2/3の民族と平和協定を結ぶ事に成功したが、残り1/3との協定には失敗している。ロヒンギャの扱い次第によっては、他の少数民族への火種になりかねないのだ。

 私達は民主的な選挙により、ミャンマー社会主義政権は終わり、完全な民主国家になった、と誤解している所がある。とんでもない間違いなのだ。社会主義政権の当事者である軍はまったくの無傷であり、しかも憲法により、その勢力の維持は保証されている。国内には今だに数千人の政治犯が劣悪な環境の刑務所に収容されているのだ。憲法によって、国軍・国境警備軍・警察軍の三軍の大臣は軍の指名により決定され、政府与党には一切の軍事指導権が存在しない。

 軍は今も少数民族への弾圧や虐殺、レイプなどを行っている。ロヒンギャへの軍の対応は、ある種、ホロコーストを思わせるような酷いものがある。残念ながら、スーチーにそれを止める権限はない。彼女に出来るのは事態の拡大を防ぎ、状態を固定化する事だろう。その上で、自分への非難と引き換えに、軍と大衆を納得させる道を模索するだろう。それは困難な道だが、彼女はきっと遣り遂げるだろう。なぜなら、彼女は15年間の自宅軟禁に耐え抜いた女性なのだから。

 最後に彼女の言葉を一つ。

「私たちの自由の獲得のため、あなたの自由を行使してください」 アウンサン・スーチー。

 それではこの辺で、ゴキゲンヨウ・・・。

 

● morino-shimafukurouからのコメント

 ミャンマー軍がクーデター 、 スーチー氏を拘束」というニュースが1日、突然入ってきました。今回の「西田エッセイ」は、7日の日曜日に掲載するつもりでしたが、急遽今日にすることにしました。これは3年前の文章ですが、みなさんのミャンマー理解の一助になればと思います。

                     (2021・2・2)

  

 

大師の足あと―俵津の空海伝説

 報告です。

 1月24日、大浦のお大師様のお堂の前、二代目枝垂桜の横に、弘法大師像が建立されました。(施工は、宇和町の小野石材)。坂本甚松さんはじめ大浦の人たちの深い祈りが、実を結びました。それにしてもその行動の速さに驚かされます。

 甚松さんから連絡を受けたので、早速行ってみました。お堂の大きさと釣り合いのとれた大師の石像がありました。また一つ祈る場所が俵津にできました。そして、お大師様が本当の意味で「お大師様」になったように思いました。

 わたしは以前から不思議に思っていたのですが、「弘法大師」を感じさせるものが見当たらないお堂や周辺のこの場所が、どうして「お大師様」なのだろう?。疑問が今回解けました。それは正式名称が「回国記念大師堂」と言う事を今回はじめて知ったことにありました。「回国」という言葉を調べてみましたら、「お遍路、回国巡礼という巡礼のための諸国遍歴」とありました。250年前に回国を果たした三好庄七さんは、どのような“回国”をしたのか、四国遍路八十八か所のみを回ったのか、それとも東寺や高野山金剛峰寺や善光寺や川崎大師や成田山新勝寺など弘法大師真言宗ゆかりの寺々をも回ってきたのか、その辺のところはわかりませんが、当時としてはまさに強い信心なしではできなかった「偉業」だったのでしょうね。

 また、三好さんのような人物やお大師様のような建物・場所を生み出したのは、やはり大浦地区に真言宗のお寺・地蔵院(創建は寛永五年・1628年)があったのが大きいと思います。さらには、菅原道真を祀った天満神社(社殿造営は万治二年・1659年)がある開けたところだったということもあるかと思います。

 皆さんも足を運んでみてはいかがでしょうか。

1,

 さて、弘法大師の「足あと」の話です。甚松さんと話していて、突然と言うか急に思い出したのです。足あとは業績という意味の「足跡」(そくせき)ではありません。砂浜を裸足で歩けばつくあのただの足あとです。大師のその足あとが俵津に残っているという話です。

 そのむかし城(砦)があったという古城(ふるじょう)の北側・下の谷は渡江越えの小道の傍らに、左右どちらかわからないが片方の足あとがあり、もう一方がお大師様にある

 言い伝えというか、伝説と言うか、「俵津の空海伝説」はたったこれだけの話なのですが。わたしはこれをいつ聞いたのか知ったのか思い出せませんが、(子供の頃だったのか青年団の頃だったか)、でもとても面白いなと感じたことは覚えています。それで、二十歳前後だったか、行って探してみたことがありました。下の谷側にはそれらしきものがありました!杉の防風林の間に四角な(30センチ角くらいか)暗緑色の平たい石の上に足あとのような凹みのあるものがあるにはありました。それが伝説のそれであったのかどうかはわかりません。お大師様側のものはついに発見できませんでした。

 この「俵津の空海伝説」、何人かに聞いてみました。二人が「それ知っている」と応じてくれましたが、あとは知らないひとばかり。知ってる二人もわたしと同じことしか知らない。つまりこの話はあくまでそれだけの話なのです。上下左右・前後・円球がない。ふくらみがない。物語がない。

 一週間前に、もう一度見てみようと思って下の谷へ行ってみました。下の谷農道の二番目の大カーブに車をとめて、みかん畑の園内道を登って行きましたが、すぐに行き止まりです。茫々たる荒廃園が広がり、3年前の豪雨が深い谷を刻んでいました。50年の歳月は如何ともしようがありません。

 むかし見た足あと(らしきもの)は、確かに踵(らしきもの)が渡江側にあり、指(らしきもの)がお大師様を向いていましたので、空海は下の谷からお大師様へ向けて飛んだ・跳躍した、のでしょうか。1200年前の俵津は奥深くまで海が侵入していたといいますから、あるいは泳いで渡ったのかもしれません。石に跡が残るくらいですから、余程の大男だったのか、踏み込む力が強かったのか。それにしても、空海は何のために俵津に来たのでしょう。ここからどこへ行ったのでしょう。この話は、誰が何を伝えようとしたものなのでしょうか。

2,

 ネット(ウィキペディア)で調べてみました。

 「弘法大師に関する伝説は、北海道を除く日本各地に5000以上あるといわれ、歴史上の空海の足跡をはるかに超えている」、「中世、日本全国を勧進して回った遊行僧である高野聖(こうやひじり)が弘法大師と解釈されたことも有力な根拠である。ただ、闇雲に多くの事象と弘法大師が結び付けられたわけではなく、その伝説形成の底辺には、やはり空海の幅広い分野での活躍、そして空海への尊崇があると考えられる」とあり、弘法大師が発見したとの伝承がある温泉名や由来とされる伝説・伝承の項目が並べられております。その中には、この「足あと」のようなものはありませんでした。

 明浜の郷土史家として名をはせた久保高一先生が、ひょっとしたら何か書き残されているかも知れないと思って、まなびあんと高山公民館図書室へ行ってみましたが、ありませんでした。久保先生には、本になっていない書き物が自宅にたくさんあるそうですが、その中にはあるのかもしれません。遺族の方とか西予市が遺稿集を出してくださるとありがたいですね。

 いつだったか泉鏡花の『高野聖』という小説を読んだことがあるのを思い出しましたが、たしかに彼らは全国を回ってさまざまな物語を衆生に語り聞かせたのだな、これもその一つのバージョンの一部かもしれないと、想像することができました。聖たちは、たしかに俵津へも来たのにちがいありません。

 わけがわからなくても、これだけでも、わが俵津に「空海伝説」がある。それだけでも素晴らしいことだと思います。

3,

 振り返って思えば、「空海」はこの地に遍く在りました。それは「空海空間」と言ってもいいような宗教的アトモスフィアの世界で、それがそう、昭和35年くらいまではありました。

 そんな気がします。わたしが子供の頃、祖母は朝晩真言宗のお経を唱えていました。「門前の小僧」でしたのにその文句はおぼえていませんが、読経の最後に「南無大師遍照金剛」を数回繰り返していたのだけは耳に残っています。どこの家にも、石童丸の物語や地獄の絵本がありました。ひとびとは事あるごとに、宇和の四十三番札所・明石寺(あげっさん、と言っていました)へ行っておりました。四月八日の花まつりには、新田の奥爪立から野田越えでこぞって、宇和の山田薬師へお参りしていました。托鉢の僧もよく来ていました。白装束の修験者の姿もよく見かけました。そして、誰しもが生涯に一度は“お四国回り”をしたいと望んでおり、定年退職などの機会をとらえては、発奮していそいそと出かけていっておりました。

 意識しなくても人々のこころの奥深くには、空海が住んでいたのだと思います。わたしも、よく知らないのに、「空海」の名前はとても好きでした。その響き、その広がり、なんとなく幸せにつながりそうな可能性を感じる明るい名前。わたしは平成の大合併で5町が一つになる時、募集された新しい市名に「空海市」(くうかいし、またはそらうみし)と書いて応募したくらいです。空海を現代に蘇らすことで「まちづくり」をしたらどうかと思ったのです。

 若い時には、宇都宮道有くんとダットサントラックにみかんを積んで、それを売りさばきながら、1,200キロの四国一周の旅をしたことがありました。高知県室戸岬中岡慎太郎像の足元から見る空と海の圧巻に暫し我と時を忘れたのを、いま思い出しました。その時、そこの御厨人窟(みくろど)で空海が修業したこと、そして金星が空海の口に飛び込んできた逸話があることを知っていたら、行って見たのになあと思うと残念でなりません。

 

 ともあれ、坂本さんたちの事業は、わたしに空海のことに思いを馳せるひとときを与えていただきました。ありがとうございました。

                           (2021・2・1)

 

 

 

弘法大師と共に、祈る。

 宮崎川にかかる畑岡橋にほど近い、上甲伸介くんのポンカン園の路傍の一角に、俵津集落協定の花壇があります。白いすてきな小柵に囲まれた中に、黄色・赤・白・紫など濃淡様々なビオラと“よく咲くスミレ”(!)が、美しく可憐に咲いています。柑橘類の収穫・出荷等に疲れたこころを癒してくれます。

 

1、

 正月2日のことでした。百姓の大先輩・坂本甚松さんの来訪がありました。「お大師様に、弘法大師の石像を建てるので、碑文を書いてくれ」と言うのです。聞けば、以前にお堂の屋根の吹き替えや入口にスレート葺の庇を造作した時に集めた浄財が残っているのでやることにした、とのこと。

 え、これって、去年と同じ展開?!去年も日越の三ちゃんがやってきて、「坂村真民先生の碑を建てるので、由来の碑文を書いてくれ」ということで、一年がはじまったのでした。一月というのは、人がやはり何かを“発意”する月なのでしょうか。

 そこで、二人が合作しました。

              弘法大師像建立由緒

 大浦地区有志の寄進により建てられた大師堂より献納を賜わり、ここに一同の総意をもって大師像を建立することとなりました。世界の平和と、地域に住む人々の安全・幸福を祈念し、新型コロナウイルス撲滅を願って、弘法大師と共に祈りを拝捧しましょう。

               令和三年一月吉日

                     お大師様管理人代表

                         木崎 真近

                     賛助会員

                         坂本 甚松

                         網干利喜夫

                         網干 秀子

※ 第一次案です。大浦のみんなで話し合って、決定文を作ってください。実際の碑は縦書きで。

 

2、

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が蔓延し、世界中の人たちが困っている時、このような試みは、わたしはまことに時宜を得たものだと思います。わたしに宗教心はありませんが、祈ることの大切さは分かるつもりです。正月や祭礼時には神社にお参りしますし、日常でも神社の鳥居の前を通る時には頭を下げます。大浦地区の人たちの行動に、こころから賛意を表したいと思います。

 ところで、折角の機会なので、「お大師様」についていろいろ書いておこうと思いました。●いつできたのか●誰が建てたのか●動機・きっかけ・だれの発意か●工事者名●建築費●補修・追加建築の時期や費用●お堂の中に安置されている三体の地蔵について等々。

 坂本さんに聞いてみましたが、「よくわからない、資料など残っていないか調べておく」ということでした。そこで、とりあえず、明浜町(当時)が作成したものをさがしてみました。

➊『明浜町誌』の914ページに、「町指定外文化財」とした一覧表の筆頭に、たった一行次の記述がありました。

「名称・回国記念大師堂、種別・社会教育資料、所在地・俵津大浦、管理者等・大浦部落、概説・俵津ー宇和線最初の大カーブの道路上のお堂に安置されている三体の地蔵さん。「お大師様」と呼ばれている。」

➋『明浜町文化財(第1集)』(昭和57年5月1日発行)には、1ページ目に「回国記念大師堂」のタイトルで、以下のような記述があります(三体の地蔵の写真付き)。

「県道宇和-俵津線の最初の大カーブの道路上にお堂があり、そこにはかって枝垂桜の老樹が毎年見事な花を咲かせていましたが、昭和50年8月17日の台風5号の直撃を受けて、枯れてしまいました。

 このお堂には三体の石仏が安置されて、お大師様と呼ばれています。このお地蔵さんの左端の一体が、三好庄七が宝暦7年(1757年)に日本回国を果たした5月21日に、近所の人達によって建立され、中央の一体には「光明神哭百五十万遍経塔、安政元甲寅年7月建立」とありますから、それより約100年後の建立になります。右端の一体は喜八という人が明治4年3月6日に建立しています。」

 

 わたしとしては、当時の人たちの思いが伝わるような説明書きの看板を、お堂の傍ら(もしくは旧道の道端)にぜひ設置していただきたいと思います。

3、

 坂本甚松さんとの共同事業(!)は、実は今回が初めてではありません。10何年くらい前でしたか、大浦地区の南予用水完成記念碑の碑文を一緒に考えたことがありました。それは、田中恒利先生と三人の合作でした。田中先生が、「志水」「友水」「恩水」などの案をまず出され、これにわたしたちが「潤農」「創農」などの熟語を加えることを考え、最終的に「志水潤農」に決定したのでした。田中先生には、ご自分が奔走して実現を見た南水には格別の思いがあったでしょう。南予の農民が志した水、野村ダム建設を快諾し、貴重な水を分けることに同意してくれた野村町の人々の友情や恩への溢れるような思いがあったことでしょう。これにどういう言葉を繋ぐか、二人は悩みましたが、創農という勇ましい言葉よりも、何にも代えがたいありがたい水がしっとりとこの大地とみかん樹を潤している姿をそのまま言葉にした方がいいだろう、と思ったのでした。

 後に、宇和島市高光のハイウエイレストラン宇和島・真珠会館近くの国道端に、「水、この地を潤す」という碑を見つけた時には、ああやはり農家の思いは一緒なのだなあと深く感動し、わたしたちの選字句に胸をなでおろしたのでした。

 ちなみに、脇・新田地区の同碑の碑文は「夢水人輪」、狩江には「民意結集」「人為天恵」などがあります。どれもよく練られた素晴らしい言葉だと思います。地区民の志や思いを集めた事業には、こうしてそれを表す言葉と記録を石に刻んでおくことが、とても大切なことだと、わたしは思います。

 

 とにもかくにも、まず祈りましょう!コロナウイルス退散を!弘法大師と共に!

                          (2021・1・23)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西田エッセイ  第八回  (全10回)

西田孝志・連載エッセイ「私の映画案内」㉓

       「映画万引き家族に見るリーダーシップ」

 皆さん、お元気ですか。実は私今長年続けていたタバコを止めようとしています。とてもつらいです。特に文章を書いてる時など、タバコがないと頭がおかしくなりそうです。挫折しそうになりながらも、何とか頑張ってます。

 さて、話題の映画万引き家族2018年、日本。遅蒔きながら、取り上げて語りたいと思います。この映画はある一組の家族について、彼らの生活とその生活の為の手段、昔風に言えば彼らの生き様とも言うべき生活実態を描いた映画だと言えます。ですが、彼らには普通の家族とは言えない所があります。大人は各自それぞれ定職を持っていて、普段はその仕事に従事しています、が彼らには血縁がありません。例外を除いて基本的には他人なのです。さらに食う為には、不正な手段、たとえば万引きなども行います。普通ではないと言いましたが、それどころか、とても変わったあり得ない家族と言った方が良いかも知れません。なぜ監督はこんな家族設定をしたのでしょうか。

 私はこの家族を見ていて、ある種異和感の様なものを覚え、それがずっと気になっていましたが突然ある事に気づきました。それはこの家族が、日本的な農耕民として描かれているのではなく、ある種の狩猟採集を行う、遊牧民的な家族として描かれているのではないのか、と言う事でした。なぜ、この映画がヨーロッパの映画祭で受け入れられたか、と考えた時、牧畜や狩猟採集の生活を長く続けた、彼ら白人にとって、この日本人家族の生き方は彼らに馴染み深く、受け入れやすい生き方と写ったのではないでしょうか。同時に、ホモサピエンスが集団生活を営む事によりネアンデルタールを駆逐したように、集団生活を営む利点は彼らのDNAに深く刻まれていると言って良いでしょう。農耕民は種を蒔き、集団で土地を耕し生産を管理しますが、遊牧民や狩猟採集民は全く違う生き方をします。彼らに必要なのは獲物のいる場所や、それを捕る技術を知る人であって、遊牧民なら、地味の肥えた良い牧草のある場所へ導く人なのです。それがリーダーと呼ぶべき人なのです。

 この家族のリーダーとも言うべき男性は正にそう言う人物なのではないでしょうか。彼ら家族一人一人はそれぞれ世間と言う荒波に漂う脆い小船のような存在なのです。その小船が寄り添い寄り集まって、少し大きな家族と言う船になって行ったのです。そんな彼らにとって一番必要としたものは何だったでしょうか。それは船の行き先を決め、家族の結束を保ち、家族を守り、生活の手段と方法を教授してくれる、強い指導者なのです。少し気が弱そうで、お人好しにも見える、この男性は生きると言う事については、すこしのぶれも見せません。現実的で生きる方法を知っています。彼こそがこの集団のリーダーなのです。

 キリスト教社会で、最も良いリーダーとして挙げられる人物は、旧約聖書出エジプト記に書かれた、予言者モーゼです。グレート・エクソダスと言われる出エジプト記は、キリスト教世界に深く根付いており、ほとんど全てのヒーロー伝説や脱出伝説はこの話を大元にしていると言っても過言ではありません。例えば映画で描かれた数多の脱出ものを見てもその事が良く分かります。危機に際し、聡明でかつ賢明な人物が出現し、人々を纏め、困難に対処します。彼は常に最善の脱出ルートを示唆しながら、人々を導き、犠牲を出しながらも、出口へと向かうのです。こう言った映画の主人公は、ユダヤの民を纏めあげ、犠牲を出しながらも彼らを導き、イスラエルの地へと導いたモーゼの姿に重ねられているのです。

 万引き家族のリーダーもそうだ、と言っている訳ではないのですが、この映画にはそれを感じさせるような、神的な視点を映す場面が所所にあります。この映画のカメラの視点は通常の斜め45度の視点ではなく、被写体の傍らに立った人物の肩の高さで見た視点で撮られています。言い換えれば傍らに立った貴方自身が、今起きている事を見つめているのです。その映像が時折り、高い位置から見下ろす視点に変わる場面があります。肩の高さで見るのは貴方の視点ですが、高い場所からの視点は貴方以外の明らかに第三者的、あるいは神的とも言って良い視点なのです。この視点はこの家族が何者かに見守られている、何者とも知れぬ、映画を見る貴方の暖かい心の眼ともとれる瞳に見守られている事、を示している様に思えるのです。言い換えれば、彼ら家族は善き導き手に導かれ流浪の旅をする聖家族のごとく描かれていると言えるのです。それだからこそ、彼ら家族は決して他人を害しません。虐待児童を守る為に同僚に仕事を譲る母親、風俗の仕事をしながら、傷ついた痛ましい魂に寄添う長女、妹の万引きを隠す為自分を犠牲にしょうとする長男。血の繋がりのない家族のこれらの行為を生み出し、導いたのは一体誰なのか、それをこの映画は問うているし示そうとしているのです。

 万引きは決して善の行為とは言えません。しかし浮世に寄る辺なき人々が、身を寄せ合い必死で生き抜こうとするならば、人は賛同せずとも幾ばくかの許容はするのではないでしょうか。その心の象徴が亡くなった駄菓子屋の主人なのだと言えます。彼ら家族の犯罪行為が露見し、取調室で、刑事達が乾いた事務的な口調で、彼らの犯した罪を並べたてて指し示した時、私の中である声がしました。それはマグダラのマリアと民衆の間に立ち「罪なき人のみが彼女を打て」と言ったキリストのその言葉でした。

 彼ら家族は本当は万引きなどしたくなかった。精一杯働いて家族が食べていけるなら、それだけで充分だった。たとえ嘘で固められた作り物の家族であっても、互いに愛情を持ち敬意を示せる間柄であれば、真の家族となりうる事が出来た。本当の家族とは一体何だろう。血の繋がりだけが真の家族なのだろうか、それとも困難で生き難い人生に立ち向かい、互いに助け愛しあう事が出来るなら、例え血は繋がらなくとも、それこそが家族と呼べるものではないのだろうか。最後は散り散りになってしまうのだが、私は心からこの聖家族に祝福を送りたい。彼らはたとえ一時でも真の家族に巡り合えたのだから・・・・・。

 それではこの辺で、ゴキゲンヨウ・・・・。

                      (2021・1・9)

西田エッセイ  第七回  (全10回)

西田孝志・連載エッセイ「私の映画案内」㉒

          「イラン映画へのお誘い」

 皆さん今日は、春ですね!春になると何故か故郷を思い出します。学び舎も人もみんな変わったけど、緑の山々や溢れる光、のたりと波打つ海を渡る、暖かい風、それらは多分変わっていないでしょう。遠くに有りて、いつも思っております。

 さて、今回は皆さんに三本のイラン映画をご紹介したいと思います。なぜ今イラン映画なの?と疑問に思われる方も多いか、と思いますが、色々説明するよりも、まず映画を見て欲しい、と言うのが一番の気持ちです。とても優れた良い映画なのです。見ればイラン人に対する見方が一変します。と言っても私の一方的な思い込みかも知れませんので、簡単に内容を説明して、ご判断を仰ぎたいと思います。3本の映画の題名です。1本目「セールスマン」アカデミー賞外国語映画賞受賞作品です。2本目「彼女が消えた浜辺」。3本目「ある過去の行方」フランス、イタリア、イランの合作映画ですが、オールイラン人キャストの映画です。3本の映画に共通して描かれているのは、ごく普通で、当たり前の生活を送る、普通の人々です。彼らの普通の生活を通して、彼らに起こるさまざまな事件や出来事が描かれています。この事には一つの理由があるのです。イランでは政治や宗教上の戒律に反する事象を描く事は出来ません。ムスリムの教えは絶対であり、批判することや偶像崇拝に繋がる事は描けないのです。これらはタブーであり、ゆえに描けるものは限られてきます。その一つが普通の人々と言う事になります。私は基本的に映画とは、人間を描くものだと思っています。一人の人間がある選択を行う、なぜその様な選択をして、どの様な結果が生じ、それをどう受け止め、受け入れるか、一連の行動を貴方に変わり、描くのが映画なのです。人間の行動には常に原因と結果があります。イラン映画では常に原因と選択、その結果が明確に描かれます。そして何よりイラン映画の素晴らしい点は、提示された結果に対し、謎解きのように原因の追及が行われていく点にあります。それはまさに上質な推理小説そのものなのです。

 いづれの映画も、まず事件の結果が提示され、係る人々が描かれます。「セールスマン」ではまず一人の妻です。彼女は夫と共に新居へ引っ越ししますが、男に新居へ侵入され、レイプされます。しかし、彼女はその事を夫に告げません、言えないのです。ムスリムの戒律では夫以外の男性との交渉はいかなる事情があろうとそれだけで即離婚となります。これは余談ですが、ユーゴのコソボ紛争の時、ムスリムの女性が集団でレイプされたのはこれが一因でもありました。彼女の夫は自分の妻に何かが起きた事を悟ります。そして少ない手掛かりから徐々に真実に近づいて行きます。しかし真実を知り、それを公にすれば夫婦は終わります。知ってはならない、でも知らずにはすまされない真実なのです。人間として貴方ならどうしますか、重い問いかけです。

 2作目の彼女が消えた浜辺では、一人の若い女性が浜辺から失踪します。失踪後、彼女には婚約者がいて、彼に無断で浜辺に来ていた事が判明します。これは重大な戒律違反なのです。婚約者の許可なく、未婚の女性が旅行する事など出来ないのです。それなのになぜ彼女は浜辺に行ったのか、理由が徐々に明かされて行きます。そこには、人間の持つ優しさや、親切心、同性への同情や労い、など諸々の善とも言える感情が存在するのですが、それらこそがこの悲劇の原因となるのです。そして、事態は収斂し、最終的に誰を悪者にするのか、誰を最も不名誉な立場に立たせるのか、選択を迫られるのです。貴方なら、どの様な選択をするのでしょうか。

 3作目「ある過去の行方」。この映画は少し特異な視点を持った映画と言えます。妻との離婚をする為に、イランからフランスに来た男性の目を通してある出来事とその結果が語られます。彼がフランスに来てみると、妻はすでに他の男性と公然と付き合っていました。フランスにしばらく滞在する事になった男は、そんな妻や同居する自分の娘の言動に何か不穏で徒ならぬものを感じ、彼なりに原因を突き止め、解消しょうと動きます。ミステリー小説の様にさまざまの事象の原因がある一点の事件に集約されていきます。この謎解きの過程は実に見事です。そして最後に実はこの映画は、人間の不信や裏切りを扱った映画なのではなく、人間の真の愛情の映画なのだと教えてくれるのです。男と女は別れますが、そこに不信や怒りは有りません、赦しと癒しが後に残ります。人間を見つめた素晴らしい作品です。

 いづれの作品も、人間を見つめ、探求し人間の原因を探ろうとした秀作な映画だと思います。イランの映画レベルはとても高く、映画への深い愛と歴史を強く感じさせてくれます。イラン革命以降、革命の持つ熱気と混乱の中で、この国は他者から見ても明らかに誤りと言える、多くの失敗を犯しました。アメリカ大使館占拠事件に依り、国際的に孤立し、テロ国家の印象を世界に植付けました。周辺アラブ諸国シーア派住民に対して、イスラム革命への参加を呼び掛け、湾岸諸国や、とりわけ住民の60%がシーア派である、隣国イラクに多大な脅威を与えました。この対立はシーア派スンニ派の宗教対立となり、アラブ諸国シーア派住民への迫害や弾圧を引き起こし、最終的に、イラン・イラク戦争へと繋がって行くのです。戦争は8年続き、双方で150万人の死傷者を出しました。イランは今現在もなお戦後復興の途上なのです。そのイランは現在アメリカからテロ支援国家に指定され、経済制裁を受けています。一方的にやっと決まったはずの原子力協定から離脱し、テロ国家だと決め付ける事が国際的に正しい事なのでしょうか。どうかせめてもイランの人々が、どんな人々で、どんな生活をして、どんな考えをしているのか、それらを少し知って判断しても遅くはないと思うのです。

 それではこの辺で、ゴキゲンヨウ・・・・。

                     (2021・1・8)   

「コロナ」対策・夢想

 新年あけましておめでとうございます。

 コロナ禍の中で、目出たいことなどなにもない、と言う方もあるかと思いますが、やはり一年の最初はこの言葉から始めましょう。今年もよろしくお願いします。

 「コロナ」が猛威を振るっています。昨年暮れには、東京で感染者が1300人を超えた日もありました。南アフリカではより感染力の強い変異種が現れたとか。イギリス・ロンドンではロックダウン。世界が揺れ動いています。日本でも明後日8日、首都圏(1都3県)が「緊急事態宣言」下に。

 俵津も、動きが止まってしまいました。「コロナ」が、どうにかならない限り、なにも始まらなくなりました。そこで、ボソボソと「コロナ」のことを、綴ります。

1、

 緊急事態宣言。国民への補償のないそれは、国民のさらなる困窮とさらなる不況を招くように思えてなりません。昨年春の緊急事態宣言では雀の涙ほどの補償金・給付金がでましたが、それではまったく持ちこたえられませんでした。中小の企業の倒産、個人商店の倒産・廃業はますます拡大するでしょう。国民の困窮はさらに深まります。

 政府に、腰がまったく据わってないのが、事態を深刻にしていると思います。

 わたしはドイツのメルケル首相のファンですが、昨春の彼女の発言(対応)はみごとでした。「これは東西ドイツ統一以来、いいえ、第二次世界大戦以来、この国が迎えた最大の試練です」と、コロナ禍の歴史的意味・深刻度をしっかりと認識し、その上で国民に「外出制限」を課すことで、国民の権利を一時的に制限することの痛みを顔に滲ませながら、言ったのです。「今日このようないつもと違った方法で、皆さんに話しかけているのは、この状況下で連邦首相としての私、さらに連邦政府の同僚たちが、これから何を導こうとしているのか、直接、お伝えしたかったからです。開かれた民主主義にとって必要なことは、私たちの政治的決断を透明にし、説明することです。私たちの行動の根拠をできる限り示して、それをお伝えし、伝達することで、みなさんの理解を得られるように努めなければなりません」。そう言い、この後、国民の生活といのちをどのように守り、経済的、社会的、文化的な損害を押さえるためにできうるすべてのことを実施することを明言したのでした。語ることばの重み、信頼度、迫力がまったく安倍前首相や菅首相とはちがっていました(メルケル首相の言葉は、ドイツ在住の児童文学作家・那須田淳さんの現地レポートから)。

 このコロナ危機時に、菅義偉首相や小池百合子都知事のような人しかトップに持てない日本は極めて不幸だと思います。

2、

 今、自民党で望みうる一番の人物は、わたしは石破茂さんだと思います。好き嫌いで言っているのではありません。石破さんの、「憲法9条第二項を廃棄せよ」という主張に与することはできませんが、石破さんは勉強家です。石破さんなら逃げないで説明責任を果たすでしょう。まともに国民に対するでしょう。誠実に言葉を尽くすでしょう。(「地方創生」も、石破さんの方が優れた考えを持っているように思います。)

 都の方は、宇都宮健児都知事山本太郎副知事(コロナ担当)だったらいいのにな、と思いました。都民はどうして見てくれだけで何のプランも行動も示せない小池さんなんかを知事に選ぶのでしょうか?

 野党の人たちも、まかり間違えば国が亡ぶかもしれない時です。全身全霊をかけて、政策を磨き、力をつけるべき時です。政権交代を勝ち取るくらいの気概をもっていただきたい。

 わたしたちは、ここらで現状を一歩、思い切って、抜け出す必要が、絶対にある、と思います。勇気をもって。変えなければ、「座して死を待つ」という言葉が本当になりそうな気配の漂う事態になってきました。

3、

 「東京オリンピック」。いますぐ、止めるべきだと思います。世界中の誰が見ても不可能なことが分かっているオリンピック、「人類がコロナに打ち勝った証としてやる」などと馬鹿なことを言ってる時ではありません。むしろ、「コロナと敢然と戦う」ためにこそ止めることを、世界に向かって意志表示すべきでしょう。日々失われて行く膨大なオリンピック経費を、「コロナ対策」に回すべきです。国民への補償にむけるべきです。

 そして、たとえば都民全員のPCR検査・抗体検査を実施して、陽性者を新国立競技場に一時隔離するように施設改造したらどうか。その他すでに出来上がっているオリンピック関連の全施設も医療施設として使うようにするべきでしょう。

 また、沖縄の辺野古基地建設なども直ちに止めて、その予算をコロナ対策に振り向けるべきでしょう。トランプからバイデンに変わった米大統領、「人類の未曾有の危機のコロナ対策のためだ」(あまりに悲しいものいいですが)と、ハッキリとアメリカに物言えば、絶好の好機(!)、理解を勝ち取れるのではないでしょうか。何も言わずに「思いやり(忖度)」ばかりしていては事態は一歩も前に進みません。

 これらの行動で、日本の覚悟のほどを見て、世界は諸手を挙げて歓迎するでしょう。

4、

 菅義偉首相は、「内閣人事局」で官僚をがんじがらめにするのではなく、彼らに自由の翼を与えて、彼らのパフォーマンスを最大化するようにしなければなりません。政府批判をした6人の学者を「日本学術会議」から外すなどという事ももってのほかです。キチンと物言う人を遠ざけるような政府は、いつか必ず大失政をして倒壊します。政府が滅ぶだけなら仕方ありませんが、国民が路頭に迷うのです。わたしたちは先の戦争でそのことを経験している筈です。二度と同じことを繰り返してはなりません。

 エッセンシャル・ワーカーとよばれる医療や福祉、小売・販売、公共交通機関、農業などの「社会に不可欠な働き手」が報われるような「政治」を行わなければなりません。

 「トリアージ」(治療の優先順序=いのちの選別)などという悲しい言葉がつぶやかれないように、有り余るくらいの人工呼吸器などの医療資源を用意してほしい。安倍前首相の時に予算計上した「予備費・10兆円」もいますぐそのために使ってほしい。国民への補償の為に使って欲しい。

5、

 第一次世界大戦中の1918年に始まったスペイン風邪パンデミック(21年まで、収束・終息に4年かかりました)では、世界中で2千万人から4千5百万人(一説では1億人)が亡くなり、日本でも40万から50万人が亡くなったといいます(当時の世界人口は20億人)。戦争で亡くなった人(1千万~1千5百万人)よりスペイン風邪で亡くなった人の方が多かったのです。軍隊は三密そのものの世界ですからこうなったということだそうです。そして人(兵士)の移動が感染をパンデミックにしたということです。

 Go To トラベルは、まさにやってはいけない、人の移動を大規模に促進した大失政だった。医療が進歩した現代とはいえ、そして経済は大事とはいえ、わたしたちは余程考え抜かなければならない、と思います。ワクチンが開発され、接種が一部で始まっていますが、対策を誤れば、感染者・死者は今後も増え続けるでしょう。

                          (2021・1・6)

 

雑感・2020。

1、 

 雪が舞っています。大晦日です。「コロナ」で明け、「コロナ」で暮れようとしている2020年。感慨ひとしおです。

 昨年12月、中国・武漢で新型コロナが発生しましたが、その時はまったくの他人ごとでした。「ダイヤモンド・プリンセス号」くらいまででもどこかまだ他人ごとでした。まさか以後、このような展開になるとは予想だにできませんでした。

 わたしたちの俵津でも、すべての活動が止まってしまいました。誰かが言ったように、まさに「共同体の危機」。このくらいのこと(!)で、俵津市民の“連帯”や“絆”が壊れるとは、わたしは思っておりませんが、それにしてもこの「待機時間」はあまりに長すぎます。

2、

 今年の夏は、超が数十個つくほどの異常な“猛暑”でした。(高温と高湿度の夏でも「コロナ」は収まりませんでした)。柄でもありませんが、ホント人類(地球民)何とかしなくちゃ、と真剣にオモイマシタ!

 また、柄でもなくですが、「ホモ・サピエンス」は長くはないな・滅びるな、とも思いました!モア・アンド・モア(もっともっと)の「資本主義」を、人類ここらでやめなきゃ、とも思いました。

3、

 9月、日本の総理大臣が安倍さんから菅さんに変わりました。

 笑ってください。わたしは、この菅さんという人はどんな人だろう、一国の首相としてどんな深い考えを持っているんだろう、と思って、出たばかりの菅さんの本(菅義偉著『政治家の覚悟』文春新書)を買って読んだのです!健気にも(!)夾雑物を排してまっすぐに向き合ってみようと。

 でも、メディアで報道される彼の顔が脳内を占領してしまって、そんな殊勝なことはできませんでした。第一部の「官僚を動かせ」を読んでも、結局自慢話だよなとか、それも「自分の言う事を聞かない者は異動させる(左遷する)」と首相就任時に言い放ったように、強権をもって官僚を脅し上げてやっただけではないかとか思ってしまったのです。

 第二部の中の安全保障問題でも、日米安保体制の強化を言うばかりで、本当に真剣に近隣国(中国・韓国・北朝鮮・ロシア・台湾・香港)と向き合おうとする、それこそ「覚悟」のいる姿勢が見えない。一衣帯水の“近所”と(自分から進んで)仲良くしないで、どうして平和・安全が作れるのでしょう?

 挙句には、2012年に出したという元本から、記録することの大事さ、文書改ざんなど許されない事を書いたと言われる章を外したことを知って、ガッカリしたのでした。

  それにしても、「国民の生命と暮らしを守る」と菅首相が言う時の「国民」とは、いったい誰のことでしょうか?

4、

 1月8日、東京の大切な友人・若尾健一さんが亡くなりました。(享年72歳でした)。

 彼は子供の頃から、貧しいアジア・アフリカの農民に力を貸す仕事がしたいと望み、全国で唯一「熱帯農学科」のあった高知大学に進み、そこで中村(現山下)重政くんと出会いました。重政くんの紹介でわたしは友人の一人に加えていただいたのですが、彼には本当に良くしていただきました。

 わたしは、彼の中に「宮沢賢治」を見ていました。

 諸事情で、結局海外に出ることはありませんでしたが、東京都の職員となり、伊豆七島神津島奥多摩の農業事務所などで都農業の発展に尽力しました。定年退職後は、放送大学に学び、卒業してからは、次第に「戦争の出来る国」になろうとするこの国の行く末を憂い、この国のひとたちに覚醒を促す著作の執筆に全身全霊を打ち込みました。何百冊という文献・資料に当たり、次の三部作を書き上げました。

①「明治中期・後期における仏教の戦争協力の実態と論理について」

②「宗教の戦争協力と天皇制」

③「継承すべき記憶 ~朝鮮人虐殺と戦争犯罪~」

 鬼気迫るその文章は、わたしの魂を揺さぶりました。こんなに思い詰めたら、もともとそんなに強くない彼の体が危ない、と読みながらひしひしと感じました。わたしの予感は当たってしまいました。

 命を削って書いた上記三部作は本当に素晴らしいものです。死の直前まで「やることがある、推敲したい」と言っていたと、妹さんの手紙にありましたが、この三部作、「歴史の中公」といわれる中央公論社あたりが新書化していただけないものか、切に願うわたしです(もちろん、どの出版社でもかまわないのですが)。これからの日本と日本人は、ここから出発し直すしかない、とわたしは痛切に思っております。

 心残りは、「感想を聞かせてくれ」と言っていた彼に、やっと書いた感想文をわたしが発送したのが、彼が重体で入院した日だったということです。

 心から彼のご冥福を祈りたいと思います。

5、

 「コロナ」が拡大して行く3月、わたしはこの「ブログ」を始めました。みなさんに拙文をお読みいただき、励ましていただきました。ほんとうにありがとうございました。

 来年は、わたしの願いの「ブログ連合」が、燎原の火のごとく立ち上がりますことを祈っております。また、わたしのブログへの寄稿もおねがいします。コメント、ツイートも・・。

 わたしたちのかけがえのない俵津(明浜町、そして西予市)が、ますますよくなりますように願って、今年の締め括りにしたいとおもいます。

 みなさま、良いお年を!!

                        (2020・12・31)