虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

お、金持ちが変った?

 小春日和のある日、わたしはみかん山で美しい宇和海の景色を眺めながら、弁当(もちろん愛妻弁当です!)を食べていました。食べ終わってふと、弁当を包んでいた古新聞の記事が目に留まりました(朝日新聞、2020年6月5日)。「新型コロナ 富豪が憂える資本主義 〈インタビュー〉」とあります。金持ちが何を憂えるんだろう?金持ちは何を考えているんだろう?

 金持ちといえば、わたしはマイクロソフトビル・ゲイツフェイスブックマーク・ザッカーバーグくらいしか知りません。何昔になるかわかりませんが、かつてならアメリカの鉄鋼王のなんとか・カーネギーか日本の電器王・松下幸之助、知ってるのはそのくらい。

 ここでとりあげられているのは、「起業家・ベンチャーキャピタリスト、ニック・ハノーアーさん」(知らないなあ)。どのくらいの金持ちなんだろう?

 ―コロナ危機は世界的な株価急落を招きました。富裕層のあなたもさすがにこたえたのでは。(と言う記者の質問に)。「いいえ。私も、金持ちの仲間たちも全く問題ありません。数百億円以上の資産をいったん築いてしまえば、株価が急落しようが、不動産バブルがはじけようが、心配ない。最も裕福な人たちは今も富を増やしています。私は飛行機も持っていますし、使えるお金に限りがないのは楽しいものです」だと。言うじゃありませんか。その富は、アマゾンの最初の出資者になって巨利を得てから今日まで約40社の起業や経営に携わって得たとか。

 で、その彼が、どう変わったのか。

 ―シアトルの最低賃金を時給15ドルに引き上げる運動を主導しました。経営者のあなたがなぜ?「もう十分稼いだし、商売も極めました。これからは政治や市民社会にエネルギーを注ごうと決めました。米国社会が抱える最大の問題が格差です」。(ウーム・・・)

 彼の話を、さらに、聞きましょう。

・「みんなの賃金が上がれば、我々のお客の懐も潤う。誰もが購買力を備えた経済の方が、ごく少数が全てを握る経済よりも成長するはずなのです」

・「米国には、コロナとは別の『ウイルス』がはびこっていました。約40年かけて深まった新自由主義です。税金を減らし、賃金を低く抑え、企業への規制を緩める。富裕層が富めば、いずれ庶民にしたたり落ちる。そんなトリクルダウンの考え方が政治や経済を支配していました。政府の役割が軽んじられた結果、格差という病巣が広がり、社会のあらゆる側面がウイルス危機に無防備になっていました。政府が最も必要とされているいま、『政府は常に有害だ』と主張し続けてきた新自由主義者たちが政府を牛耳っている。その帰結が目の前の惨状です」

・「極端な格差は社会を壊し、いずれは富裕層の暮らしすら維持できなくなります。フランス革命のように人々が蜂起するだろう」

・「新自由主義が力を得た1970年代後半から、独占を防ぐ規制や規範が骨抜きにされました。以前はどの地方都市にも地場のスーパーや百貨店がありましたが、最近は大型チェーンばかり。大企業なら好待遇が期待できるはずなのに現実は労働条件が搾取的です。利益は大都市が吸い上げ、地方は廃れました。手を打たなければその傾向が強まりかねません」

 まるで日本の話のようです。

 ―で、どんな手がありますか。「累進課税ならぬ『累進規制』です。大企業ほど高い最低賃金や厳しい労働規制を課します。地方都市が恩恵を受けますし、規模の小さい企業が有利になり、寡占を食い止める効果もあります」

・「想像を超えた雇用崩壊は、需要が干上がったことで起きました。今回、資本主義経済で本当に雇用を生み出しているのは、1%の金持ちでもCEO(最高経営責任者)でもなく、99%の普通の米国人だったことが明白になりました。そこに向けた政策をねらなければなりません」

 そして、5か月後の大統領選挙に向けて、民主党に「中道政党たれ」と呼びかけます。

・「共和党よりわずかにマシなだけで、民主党新自由主義のウイルスに侵されてきました。私の言う『中道』は、共和党寄りの民主党員のことではありません。経済を支える99%の人々の利益を代弁する立場です。今より大きく『左』に寄らなければ中道ではない。候補者選びから撤退したサンダース上院議員極左扱いでしたが、『中道』と言えます。高い最低賃金も、国民皆保険も、富裕税も資本主義の枠内で当たり前の賢明な政策であり、大多数の有権者が望んでいるのです」

 

 長い引用になってしまいました。わたしはこういう人の話は、ほとんどが「ポジション・トーク」で話半分だと割り切るようにしておりますが、それでも、午後からのみかん取りに力が入ったことでした。

 今、「金持ち(富裕層)」というのは、どのくらいいるのでしょうか?

・「貧富の差の拡大が世界中で問題となる中、衝撃的な報告が発表された。なんと、世界の最富裕層80人の総資産額が、下層の35億人分(世界の人口の半分)に相当しているというのだ。厳密にいうと、世界の人口の1%しかいない超富裕層が世界の富の48%、残り52%のうち46%を上位20%の富裕層が握っており、その他の層が握る割合は、世界全体の総資産のわずか5・5%にとどまっている。(雑学総研「大人の最強雑学1500」KADOKAWA、2019)

・「キャップジェミニというコンサルティング会社が、2018年版の「ワールド・ウェルス・レポート」を発表した。この調査は、世界に富裕層がどれだけいて、どれだけの資産を持っているのかをしらべたものだ。この調査では、富裕層をHNWI(ハイ・ネット・ワース・インディビデュアル)という概念でとらえている。100万ドル(1億1000万円)以上の投資可能な資産を持つ者のことだ。その数は、2017年に世界全体で1810万人だった。前年と比べて9・5%増えた。そして彼らが保有する投資資産は、70兆ドル(7700兆円)だ。日本のGDPの14倍もの投資可能資産が、世界の富裕層によって保有されているのだ。HNWIの数は、米国人が528・5万人と最も多いが、それに次ぐのが日本人で316・2万人もいるのだ。しかも、その数は前年と比べて9・4%も増えている。日本人HNWIが保有する投資資産は総額で847兆円、1人当たり平均で2億6800万円となっている。これだけ莫大な投資資産を持つ日本人が、この何年かで急増し、いまや300万人以上に達しているというのが、日本の本当の姿なのだ。日本のGDPが世界に占める割合は6%だ。ところが、日本のHNWIの人数が世界に占める割合は17%に及んでいる。つまり、日本は世界に冠たる億万長者大国なのだ。サラリーマンの生涯賃金が2億円と言われる世の中で、これだけの資産を働きながらつくれるはずがない。一体何が起きているのだろうか」(森永卓郎「なぜ日本だけが成長できないのか」角川新書、2018)

・「アベノミクスでこの7年間、大企業の利益と一部富裕層の資産は増えつづけ、富裕層の資産は300兆円に迫っています。内訳は、2017年で超富裕層84兆円、富裕層215兆円です。ここでいう超富裕層とは5億円以上の金融資産を持つ世帯、富裕層は1億円以上5億円未満です。これに該当するのは、全国5372万世帯のうちたった2・3%だけですが、この層はわずか5年で25%(!)も規模を増やしているのです」(黒川敦彦「ソフトバンク崩壊の恐怖と農中・ゆうちょに迫る金融危機講談社+α新書、2020)

 

 このくらいでいいでしょう。あなたは、この中に入っておりましたでしょうか?!

 今回は以上でやめるつもりだったのです。ところが、トイレにたったときにテレビで安倍前首相と菅首相が出ていたので、ちょっとだけ付け加えることにしました。

 この両氏のこの8年間、あれほど喧伝していた「トリクルダウンが起きるから、(両氏のお仲間に)資源と予算の選択と集中を行うという政策」の実現はついにありませんでした。であるとしたら、(心を入れ替えて、覚悟を決めて)少なくとも、前述のニック・ハノーアーさんの線での「改革」に早急に着手すべきなのではないでしょうか。わたしは、そう思います。

   菅首相は「自助・共助・公助」などとのたもうておりますが、お金持ち(や大企業)は、自分のことは自分でちゃんとやれることがハッキリしました!この際、「政治家の覚悟」をもって政策のベクトルを、99%の国民の方へと真逆にすべきでしょう。わたしは、そう思います!

  思うに、アメリカのお金持ちたちはお金の使い方を知り始めたようですが、どうも日本のお金持ちたちはガツガツしていて、国にせびるばかりで、お金の使い方をしらないようです。

    また、G7やG20などでも、共同して各国が、大企業の法人税を上げ、富裕層の所得税等を大幅に上げるようにするべきでしょう。

 

 大富豪、大企業家、と聞いて、わたしはふとかのロバート・オウエンを思い出しました。空想的社会主義者とエンゲルスから揶揄されたひとです。空想的、いいじゃないですか、素敵な言葉です。一握りの富豪が変わっただけでは世界は変わらない、というかもしれません。でも、新型コロナウイルスパンデミックや激しさを増す地球温暖化などの進行する事態を思えば、新しい時代の兆候は、確実に表れ始めていると言うべきなのではないでしょうか。シニシズム冷笑主義)に陥らないことが大切です。

                         (2020・12・24)

 

 

西田エッセイ  第六回  (全10回)

西田孝志・連載エッセイ「私の映画案内」㉑

            「ヒーローと運命」

 皆さん、お元気ですか、私も元気です。この間、前々回に語った「南瓜とマヨネーズ」の原作コミックをツタヤで借りて読みました。ラストがまったく正反対になってました。別れた二人が再会して、また暮らし始めます。彼女は一番欲しいものよりも、一番大事なものを選んだのですね、ちょっと嬉しい。

 さて、今回はクリント・イーストウッド監督の近作「15時17分パリ行き」2017年、アメリカ、を取り上げ、ヒーローと運命と言う観点からこの映画を読み解きたいと思います。この映画は2年前の公開ですから、すでにご覧になった方も多いでしょう。大方の評判は、イーストウッドの作品にしては“平凡”“退屈”“出演者の演技がヘタ”などと言う声が多く聞かれます。私もある面これらの声に、同意はしませんが理解はします。主人公の三人の男性が辿ってきた半生が、幼少期から長々と映されて行き、三人が列車内で、運命的なテロに遭遇し、命懸けでそれを防ぐ。山場となるシーンは、僅かに5分程にすぎません。言い換えれば、サスペンスもスリルもない、只のドキュメント風な映画にすぎないのです。その通りです。この映画で描かれているのは事件に対する批評や批判、考察などではなく只事実のみなのです。この映画は事実のみを単々とドキュメントタッチで、事件の実際の人間を主人公として描かれた映画なのです。そこでなぜ?と言う疑問が起こりませんか。なぜ、イーストウッド監督は、こんな見方に依っては平凡なヒーロー映画を作ったのでしょうか。それはこう言う事だと思います。貴方はヒーローと聞いた時自分のヒーローとして誰を思い出しますか。戦争の英雄、歴史上の英雄や征服者、あるいは数々の冒険者達、又は銀幕のスター。皆実在した、本物のヒーロー達です。彼らは皆人間として生き、人間として実際の苦悩や喜びに満ちた人生を送った人々なのです。そうです。実在の人物こそが真のヒーローなのです。ですが、今現在のアメリカ映画界では、空想上のヒーローやヒロイン達が世界を席捲しています。スーパーマンアベンジャーズ、Xメンなど、アメリカの過去数年間の映画興行収入のベストスリーは、ほぼ全てこれらのスーパーヒーロー達の映画が独占しています。彼らは貴方に変わり、巨大な悪に立ち向かい、貴方の目の前で悪を打ち倒します。その為に破壊と、必要なら殺戮さえもいとわないのです。ビルを破壊し、車を放り投げ、インフラを滅茶苦茶にして文明さえも破壊しかねません。気付いていますか。その事に喝采し、共感すら覚えている、貴方自身の心に。本当にこれでいいのでしょうか。映画の中のヒーローとは本当に、破壊の中にしか存在しないものなのでしょうか。イーストウッドはその事に対して、違う、と異を唱えたのです。だから、この映画を作った、と私は思います。ヒーローとは貴男や貴女の傍らにいて、ごく普通の、当たり前の生活を送り、当たり前の人生を過ごしている、当たり前の青年や当たり前の父親なのだと。だから彼らの人生を幼少期から描いた。一人の人間として。

 さらにイーストウッドの凄いところは、彼らの人生描写にある意味を持たせた事です。それが選択と運命についてなのです。私はこの「映画案内」の第一回目で、階段の上で話す心理学者の話をしました(「さあ、一緒に映画を見ましょう!」平成30年1月2日。http://tawarazuuranet.p2.weblife.me/pg733.html)。彼はこういう意味の事を言いました。“人生に偶然はない、選択の結果があるだけだ”と。そうなんです。貴方が選択した結果、貴方の今の人生があるのです。誰の所為でもない、貴方自身の選択の結果なのです。その事が理解出来れば、イーストウッドの意図する所もお分かり頂けるでしょう。彼らは偶然にテロに遭遇したのではありません。彼らの選択の結果が、彼らをテロに遭遇させたのです。だからイーストウッドは彼らの選択を描いているのです。では、テロそのものは彼ら3人にとって、一体何だったのでしょうか。運命なのでしょうか。イーストウッドと言う監督は、常に冷静で、時に冷徹とも言える眼差しで、あらゆる現実を見つめる、実在の人です。それは映画「許されざる者」で、取り交わされた契約の為に、自らの命を掛ける、流れ者の男の行動に表されています。原因と結果、これが彼の摂理であり、規範でもあるのです。しかし監督は、運命を完全には否定しません。映画「ミリオンダラー・ベイビー」では運命のもたらす悲劇を描きます。あたかもギリシャ悲劇のような不条理で暴力的な悲劇です。運命と言う超自然的な力が彼らの努力を裏切り、彼らの意志が望む世界とは全く違う人生に彼らを突き落とすのです。このような運命の力に人は抗えないのでしょうか。立ち向かい、争い、切り開く事が出来ないのでしょうか。監督のその答えがこの映画なのです。人は運命に立ち向かい、争う事が出来る。何をもって、運命と抗えるのか。それは人間の持つ意志の力であり、自由で何物にも捕らわれない人生の選択こそがそれを可能にするのだと言っているのです。人生は選択の連続です。良い選択もあれば悪い選択もあります。少年時代に彼らは悪い選択をした事もある、しかし彼らの母親は子供を見捨てる事を選ばず、擁護する選択をした。成人してからの彼らは、何かに導かれる様に彼ら自身の意志で、より良い方向への、より賢い選択を繰り返す。主人公の一人は映画の中で言う「大きな目的に向かって、人生に導かれている」と。この三人の人生を、神的なものあるいは霊的なものの導き、と考える人もいるかも知れない。それも有るだろう。しかし、運命と神の摂理は全く別のものなのだ。それを理解するからこそ、イーストウッドは、なぜ彼ら三人が、あの日、あの時、あの「15時17分パリ行き」に乗り、不条理な運命に立ち向かい、勝利する事が出来たのか、その時に到るまでの彼らの人生とその選択にその答を見出したのです。だから彼らの人生と彼らの意志に依る選択を描く必要があったのです。

 映画は目に映るものだけが映画じゃないんですよ。それではこの辺で。ゴキゲンヨウ・・・。

                    (2020・12・17)

西田エッセイ  第五回  (全10回)

西田孝志・連載エッセイ「私の映画案内」⑳

         「映画スプリットと児童虐待

 皆さん今日は、お元気ですか。今回は私の大好きな監督、M・ナイト・シャマランの新作「スプリット」についてお話しします。

 映画「スプリット」2017年アメリカ。すでにご覧になった方も多いかと思います。どう思われましたか。ちょっと複雑な話のホラー映画だと感じられた方も多いかと思います。この映画、複数の視点で作られているので、そう感じられると、思います。内容を少し整理してみましょう。第一の視点は、この映画はホラー、それも古典的なホラー映画である事。この監督には珍しい事です。なぜ古典的かと言うと、誘拐された3人の少女の監禁される場所が地下室であり、そこからの、天井裏や地下通路を使っての脱出劇が古典的なゴシックホラーの様式を取っているからなのです。第二の視点は誘拐犯が解離性同一性障害いわゆる、多重人格である事。それも23重人格、これちょっと考えられないでしょう。でもモデルは実在します。第三の視点が児童虐待。実はこれこそがこの映画の中で監督の最も訴えたかった事なのです。以上の三つの視点からこの映画は作られているので、それについてお話ししましょう。

 第一の視点。M・ナイト・シャマランはホラー映画に対してある種独特の感性を持っています。何気ない平凡な日常の底に隠された、悪意やかすかな変化、その微妙で幽かな変化を感じ取り、それを解釈し、拡大して映画にして行きます。スティーブン・キングの小説に、道路脇のゴミ箱やポストがある日突然に人間を襲い喰い殺す小説がありますが、私はこれはシャマラン監督の感覚と、とても良く似ていると思うのです。この映画で珍しく古典的と書きましたが、シャマランの今までの映画、例えば、第六感を扱った「シックスセンス」、植物が人間を襲う「ハプニング」、最後に思いがけない話に変わる「ヴィレッジ」などいづれも斬新と思えるアイデアでした。今回の映画では多重人格の怪物がそれに当たりますが、怪物以外は普通の人間です。次々と人格が変っていくのは確かに怖いのですが、どの人格も直接的な害はありません。サスペンスとしての、盛り上がりが足らなくなるのです。そこで監督はこの映画では、古典的なゴシックホラーの形を取ったのだと思います。映画の最後に突然ブルース・ウィルスが出て来ますが、なぜでているのかは「アンブレイカブル」と言う映画を見ていただくと分かります。

 二番目の視点は多重人格です。この映画のもとは、30年くらい前にアメリカで出版された「23人のビリー・ミリガン」(名前違ってたらゴメン、記憶だけで書いてる)と言う本です。この本は実在の23重人格の、診断と治療、分析に当たった医師が書いたレポートをもとにしています。出版されると、アメリカを始め世界中でベストセラーになり、大きな反響を呼びました。それまでジキルとハイドの二重人格ぐらいしか知らなかった人々に、それを上回る多重人格が存在している、という事は社会に取ってもとても衝撃的な事でした。映画の中で女性医師が語った事や、多重人格の人物の行動、例えば普段は広間の様な場所で椅子に座っている事、ランプ又は照明と称する光を持つ者のみが人格として登場出来る事、などは本に書かれてあった通りだと、記憶しています。本では、人間の脳の持つ特殊な能力についても言及し、そこで人間の脳には、いまだ我々の知りえない計り知れない能力が存在している、とも結論づけていました。ではなぜ、ビリー・ミリガンは多重人格に陥ったのか、どうすればその様な多重人格に人は成るのか、誰しも疑問に思います。その答えが児童虐待でした。

 第三の視点が児童虐待です。映画の中で、犯人が最初の分裂した人格が現れたのは、母親の激しい虐待を逃れる為だった、と回想している様に、本でもミリガンの受けた激しい虐待について書かれています。心理学者は言います。激しい虐待を受けると、子供は自分が一体何者なのか、次第に分からなくなって行くのだと。つまりアイデンティティの揺らぎや喪失です。駄目な子だ自分の子ではないと否定され、厳しい虐待を受ける自我に変わり、超自我とも言うべき存在が新たな人格を形成し、本来の人格に代わって彼が出来なかった事を行うのです。これが多重人格発生の一つのメカニズムなのです。つまり映画の中の犯人は、本当は虐待の被害者であり、彼の犯罪は、彼の中にいるすべての人格を存在させる為に、彼自身にとって、どうしても必要な行為だったのです。殺人を認めるつもりはありません。しかし、突き詰めれば、殺さなければ、殺されると言う事なのです。

 私は虐待は絶対になくならない、と思っています。なぜなら、それを必要とし、それに依存する人間が現実に多数存在するからです。もし貴方が、私は子供に対して理性的で、権威的でもなく、抑圧的でもない、だから私は大丈夫だ、と考えるなら、多分大丈夫でしょう。でもこんな事もあるのです。2000年代の初頭、南半球のオーストラリアの国会で(急増する青少年犯罪への対策の一貫)として次の様な内容の法案が審議されました。“家庭内環境が少年の非行に及ぼす影響を調査する為、全国から家庭に問題のある10万世帯を選び継続調査する。その間該当の家庭から虐待等の通報があっても何も対処しない事とする。”この案に猛烈に反対したのが、ある女性閣僚でした。彼女は“子供は実験動物ではない”“これはれっきとした児童虐待だ”と反対しました。法案は結局廃案になりました。もっとも理性的な立場に立たねばならぬ大人の人間が、明文化された目的と、公共の利益に寄与する為、だけの主旨で、認識せずに児童虐待に加担しようとしたのです。もし貴方が公共の為にも子供はきちんと躾けなければならない、その為には多少の暴力を含む、懲戒権は認めて明文化すべきだ、と思っているなら、貴方はすでに精神的な虐待者なのです。忘れてはなりません。わが国では年間80人にも及ぶ児童が虐待に依り殺されている事を。

 WOWOW でこの映画が始めて放映された時、映画の終了時、解説者の一人が“おなかに傷があって助かるなら、殺された二人も傷を付けたら助かったのに”と言った主旨の発言をした。これはとても愚かで、非常識で、悲しい発言だ。少女のおなかの傷は、性的虐待の精神的な苦痛から逃れる為に、自分で付けた自傷行為の傷なのだ。彼女は誘拐の巻添えになったにすぎない。なぜ、犯人が他の二人を選んだのか、なぜ24番目の怪物が出現し、なぜ二人は喰い殺されねばならないのか、すべて映画の中に示されている。その理由が分かるなら、こんな発言は絶対しないはずだ。シャマラン監督はこう言っているのだ。モンスターは恐ろしい、だが自分の子供を虐待し、モンスターへ作り変える親はもっと恐ろしい、と。それを分かって欲しいと私は思う。

 それではこの辺で、ゴキゲンヨウ・・・・。

                       (2020・12・7)

 

海に、鉄を!

 みかん取りに忙しくしています。早生が終わり、中生(なかて)の南柑20号も最終盤にさしかかりました。今年のこの時期としてはまことに珍しく天気のいい日が続きますので、仕事がどんどんはかどります。

 今年は、8月の猛暑・旱魃で糖濃縮がおこり、近年にない最高の味のおいしいみかんが出来ております。ただ梅雨が長く7月いっぱいもつづいたせいで生理落果がひどく、量的には少ないです(春の花は確かにしっかりとたくさん着いておりました)。「帯に短し、たすきに長し」「彼方立てれば此方が立たぬ」??充分な満足を自然は人間に与えてはくれません。でも、かの「コロナ」以外は台風もなく豪雨もなかった穏やかな一年に感謝しながら、家族で収穫できるよろこびをかみしめながら勤しんでおります。

 20号が終われば、伊予柑・ポンカン・・・が待っていて、来春まで収穫の季節がつづいていきます。

1、

 今日は、俵津(明浜町)の皆さんに「ご相談」です。

 わたしは、「俵津(明浜町)のまちおこし」にとってこれからは、「海」が勝負・決め手になる!と思っています。魚介類がいなくなった(あるいは少なくなった)この海(宇和海)に、もう一度それらを呼び戻すことが出来たら、この町は大きく展望が開けてきます。漁業者に希望が生まれます。後継者もふえるでしょう。わたしたちにも、ニイナほりやヒジキとりなどくらしの楽しみ喜びがもどります。「メガトレンド」の流れに乗って地方移住を考えている都会の人たちが、移住先に俵津(明浜町)を選ぶ決め手を作り出すことにもつながります。そうなると「漁業権」の見直しなどの問題が発生してくるかもしれませんが、「コモン」(共有地・共有物)としての海が新たに立ち上がってくることは確かでしょう!―小春日和の陽光に輝く海を見ながら、みかん摘みをしていてそんなことを思うのです。

 でも、わたしはみかん農家で海のことはあまり知りません。どうしても皆さんのお知恵をお借りしなければなりません!どうしてこの豊かの海から魚介類が消えたのか?今この海はどういう状態になっているのか?どうすれば、この海はよみがえるのか?―それらのことを教えていただきたいのです。一緒に考えていただきたいのです。

2、

 かつてこの海は、「宇和海銀座」と呼ばれたような賑わいを見せていた時代がありました。1970年代ころまででしょうか。イカ釣り船の灯りが海面を埋め尽くしていて、まるで日本一の繁華街・東京銀座のようだということでこの名がついておりました。一夜にして巨大な街が出現したようなその光景は、青年団活動の帰りに野福峠から見下ろすわたしたちに歓喜と希望をもたらしました。その街の真っ只中にはさらなる興奮の叫喚があったことでしょう。

 また、俵津には「魚市場」もありました!今思えば、スゴイ時代だったのですね。

3、

 今はもうなくなったあの塩風呂・「はま湯」によく浸かっていたころのことです。わたしがカピバラのように首までつかっていると、風呂仲間の浜田優くん(新田の宇都宮重郎くんの弟で、高山へ養子に行ったあのまさるくんです)がやってきて、「魚がおらん。今日も午前中のひと網で終わり。これでは従業員の給料も出せん」と言いながら、その巨躯をアルキメデスのようにざぶりーんと豪快に沈めていたのを思い出します。漁師の彼が言うのですから、この宇和海に魚がいないのは間違いないことなのでしょう。彼にもその原因はよくはわからないそうです。(と言っても、取り過ぎ・乱獲がおおきな要因であることは彼にもじゅうぶん分かっている顔はしておりましたが)。

 また、こんなこともありました。無茶々園で飲んでいた時のことです。つまみにでていたジャミ(ちりめん)を見て、たまたま研修に来ていたイギリス人が言ったのです。「こんな小さな魚をとってはいけません。海の生物のシステムが崩れます」。みんなボーゼン・・・。ちりめんは明浜の名物・特産品。それで暮らしを立てている漁業者も多いのですから、何をかいわんやですが、グサリと刺さる一言ではありました。

4、

 さて、実はわたしは「俵津ホームページ」でコラムを書いていた時に、この海の問題を取り上げたことがありました(俵ランド物語vol.22「宮崎川ふるさと計画」2016年3月9日。http://tawarazuuranet.p2.weblife.me/pg650.html)。同じことの繰り返しになる部分がありますので、できましたらまず、そちらをお読みいただければとても嬉しくおもいます。

 たまたまその時、テレビか新聞で見た、宮城の気仙沼湾でカキ養殖をしている畠山重篤さんたちの活動に感動して、畠山さんの著書『鉄で海がよみがえる』(文春文庫)を求めて読んだことを書いたのでした。

 それによれば、現在の海はとにかく「鉄不足」だと言うのです。従って、海に鉄を供給する「森―里山―川―海」のシステムを一体として捉え、回復させることが必要だということでした。

 今回は、畠山さんの師匠筋の北大水産学部教授(当時)・松永勝彦氏の著書『森が消えれば海も死ぬ 陸と海を結ぶ生態学』(講談社ブルーバックス、1996)のお力をお借りします。なぜ鉄か?をもう一度おさらいします。

・「生物が生きるためには、水銀以外のすべての元素が必要であるが、鉄以外はすべてイオンで簡単に生体内に取り込まれる。ここで、イオンとは水に完全に溶けたことを意味している。」

・「海水中では植物プランクトンや海藻を増やさなければ、それに続く貝、魚は増えることができない。」

・「藻類(植物プランクトン)や海藻が(生合成するのに不可欠な成分である海水中の)硝酸塩を体内に取り込むには、先に鉄を取り込まなければならない。なぜなら、体内に硝酸塩を取り込むと、これを還元しなければならず、その還元には硝酸還元酵素が必要であり、鉄はこの酵素に大きく関与しているからである。」

・しかし、「鉄は(海の食物連鎖の元にある)藻類、海藻に不可欠な元素でありながら、大部分これらの細胞膜を通過できない大きな粒子なのだ。」

 それを通過できるイオンに変えるのが、森の腐植土中のフミン酸・フルボ酸ということでした。(しかも「フルボ酸鉄は一度結合してしまうと極めて安定しており、離れることはまずありえない」)。

5、

 今回は、自然のシステムの中にある鉄ではなく、人間が作り出した鉄製品をつかって、それを海中に投与することによって海に鉄イオンを供給できないか、という話です。畠山さんの著書で疑問だったのは、「大きい粒子」の鉄が、はたして「イオン」になるのだろうか、ということでした。その疑問が松永氏の著書で解けました。

・「鉄は海水中の酸素によって酸化されると鉄イオン(Fe2+)が溶け出す。少しむずかしくなるが、この鉄イオンは先に述べた鉄イオンより電子が一つ多い。しかし、この鉄イオンの方が細胞膜を通過しやすい。Fe2+イオンはいずれ海水中の酸素で酸化され粒状鉄に変わる。この鉄イオンの安定性は水温によって異なるが、おおむね一時間は安定している。この鉄イオンがどの程度の範囲に拡散するかを実測したが、少なくとも数十メートルの範囲に広がっているのである。」

 ということで氏は、「海の砂漠地帯に鉄を供給するために鋼鉄製の増殖礁を一九八九年から沈めている。」

6、

 そして、ここまで来て、いよいよわたしの提案です!

 向寒の季節、「ホッカイロ」(使い捨てカイロ)の活躍する季節です。みんなが使うこのカイロ(あれは中身は鉄粉)を集めて宇和海に投げ入れよう!!

 てんぷら油の廃油を市が回収していますが、同様に市の事業としてこれを回収して宇和海に入れてやるようにしたらいかがでしょうか!

 もちろん、これをやるには宇和海を取巻く全市町村、そして大分・宮崎の協力が必要です。国の「特区制度」なども利用できるなら利用しましょう。協力してくれる水産高校・水産大学・県の水産課等々のお力添えも得ましょう。

 壮大な実験海域として世界中の英知も呼び込みましょう!

※ ミカン園のモノレールや支柱などの廃物も投入しても、かまわないかもしれませんね。

7、

 最後になりましたが、松永氏は「森と海をよみがえらすには」としていくつかの事例を挙げられています。

・(前述の)鋼鉄製漁礁の投入

・「鋼鉄の枠の中に自然石をつめた護岸」にする

・「水が滞留するような砂防ダムではなく普段は自然の河川と変わらない状態で災害時だけ機能するダム建設」

・海藻繁茂用に潜堤(海面下の構築物)を造る

・地中に雨水が浸透する舗装道路に改修する

・落葉広葉樹を大規模に植林する

 いずれにしても、最早海は、ひとり漁業者だけのものではなくなりました。俵津(明浜町)の行く末を左右する大事な大事なわたしたちの資産になっているのです。

                           (2020・12・1)

 

 

 

 

  

西田エッセイ  第四回  (全10回)

西田孝志・連載エッセイ「私の映画案内」⑲

       「映画に見る男と女とその時代パート3」

 皆さんお元気ですか。アカデミー賞の授賞式を見ました。ちょっと気になったのが中国系の出演者の多さです。今やハリウッドは中国資本なしでは立ち行きません。だから映画に出演する中国系も多くなります。金持ちには敵わないという事です。

 今回ご紹介する映画は「南瓜(カボチャ)とマヨネーズ」2017年、日本。と言う変わった題名の映画です。原作者は魚喃(なななん)キリコ、同名の女性向けコミックの作者です。正直あまり注目されてもいない(偏見かな)と思われる方もいるかも知れません。ですが、私は近年の日本映画の中で、現代に置ける男女の関係やその心情を、これ程率直でかつ的確、正値に描いた映画を他に見いだせません。暴力的ではなく扇情的でもない、唯坦々と一組の男女の出会い別れを描いている。あたかも現代版の小津安二郎と言った描き方をしている。もし小津が現代に生きていたら、きっとこんな映画を作ったかも知れない。

 映画を見て最初、どうしょうもない閉塞感に襲われた。逃げ道のない閉じ込められる様な感覚にずっと付きまとわれるのだ。これはほとんどの場面が屋内の狭い空間で撮られているからだと思う。屋外場面はあまりなく、あっても人物中心で限定的だ。これも小津と似ている。これらの閉ざされた空間で交わされる会話や行為が、先の見えない閉塞感を生み出していく。そして、そこから生まれる感情がそのまま一組の男女の肉体に持ち込まれて行く。男と女の感情の行き違い、そこから生じる反発や対立、やがて憎しみが生まれ、徐々に破局へ繋がって行く。その間、二人の関係には先の見えない行き場のない閉塞感がずっとつきまとう。

 それにしても何故だろう。何故二人は展望のない閉ざされた関係に落ちてしまうのだろう。女は昼間ライブハウス、夜はキャバクラで働いている。彼女には同棲相手がいた。ミュージシャンで、バンドのギタリストだ。所属していたバンドが解散し、他に稼ぐ場のない男はライブハウスで彼女と出会い、同棲に至っている。だから女は稼がねばならなかった。彼を食わせ、音楽に専念させて、良い音楽を作らせ、成功させたい、それが彼女の働く目的であり夢でもあった。その関係が崩れ始めて行く。手軽に金が稼げる、と中年男に誘われ、彼女は体を売ってしまう。きわめて簡単に、あっさりと。それを知った男は自分で稼ごうとして、バイトを始める。それは寝る間もないようなきわめて厳しいバイトだ。当然二人の生活はすれ違い、同じ部屋に住みながら顔を合わせる事も希になり、会っても互いに無視するか、棘のある言葉を交わすようになって行く。女は自らが作り出したその状況に耐えられず、偶然出会った昔の男とよりを戻して付合いを始める。女は昔にその男の子供を内緒で堕ろしていた。その事を男に初めて告げると、男は「へえー、そんな事あったっけ」と答えた。この二人の関係を同居の男に隠そうとしなかった。彼女はこうなった原因は自分を無視する男の方にある、と考えている。やがて当然の様に、二人の関係は破局する。別れた後、二人はライブハウスで再会するが、最早他人同士の会話だ。そして二人は二度と交わる事のない互いの人生の様に違う道を歩いて行き、映画はそこで終わる。

 この二人の関係をどう捉えれば良いのだろう、何よりも彼らの人生の目的は何なのだろうか。私見だが、私は人間の人生の目的は幸せになる事だ、と思っている。その為に努力し、戦い、築いて行く行為が、人間の人生なのだ、と思っている。幸せの形はさまざまだ。一人で生きる事が、幸せだ、と思う人もいる。だがそれを幸せだと認めてくれる他者がいてはじめて本当に幸せなのだ。幸せは相対的な感念なのだ。他者が存在するからこそ、始めて幸せと感じる事が出来る、と私は思う。この男女にとって、人生で一番大事なもの、一番大切にすべきものは一体何だったのだろう。女性が高学歴となり、経済的に自立し、自己決定権が増え、セックスもほぼ自由となった。その結果、女性が失ったものは本当になにもないのだろうか。価値観は多様化し、選択肢の幅は広がり、愛すらも選択する価値の一つになった。人生を掛ける程のものではない、と。普遍的で絶対的なものは今や何ひとつ存在せず、その為に人は常に迷い続ける。人生と言う川の渡るべき場所を求めて。ゆえに男も女も、互いに相手の気持ちや心情が真実かどうか理解出来ず、常に互いの腹の内を探り合う様な態度や言葉を発する。自分の心情のみを一方的に相手に投げかけ、理解してもらえなければ自分への無視と捉えてしまう。心は通い合わず、自分を見失い、いつしか一番大事であるものが、感情や欲望の対象へとすり替わって行く。50年代のフェミニズムの運動の結末が、本当にこれで良いのだろうか。私は決して懐古主義者ではない。しかし、「プライドと偏見」の時代に貴族が見せた、女性は弱い存在、だから庇護し、保護する、この精神は本当に間違いなのか。「ティファニーで・・・・・・」で見た、互いに相手のものになる、愛が全てを束縛する、と言う事は真実ではないのだろうか。時代と供に人の心も環境も変化する。当然の事だろうし、又そうあるべきだ、とも思う。しかし、失ってはならないものは確かに存在するのだ。それを、時代が変わろうと私達は伝え残して行かなければならない。今を生きる者として。

 それではこのへんで、ゴキゲンヨウ・・・。

                        (2020・11・7)

 

メガトレンドを、つかまえる

 よのなか、ひとつのおおきな流れができつつあるように思います。早速それを伝える、わたしが畏敬してやまない内田樹さんのこの上ない報告を読みましょう(『常識的で何か問題でも?―反文学的時代のマインドセット朝日新書・2018)。

 

■肌で実感する「潮目の変化」

 農村の過疎化が深刻な韓国で農村人口がV字回復している。

 若い人たちの地方移住が増えているのである。

 この20年で50万人が都市から農村部に移住した。移住の主因は都市部における雇用環境の劣化とされているが、それだけではあるまい。

 激しい競争を勝ち抜いて世俗的成功を求める若者たちがいる一方、競争から立ち去り、落ちついた、穏やかな田園での暮らしを求める若者たちが出現してきたのである。当然の流れだと思う。

 日本でも、政府が2014年に実施した世論調査によると、農村などへの定住願望が「ある/どちらかと言えばある」と回答した者は都市住民の31・6%に達した。これは2005年の調査に比べて11ポイントの増。20~29歳の男性では47・3%に達した。

 私が聞いた限りでも、地方移住を支援するある団体では、問い合わせ件数が過去5年で10倍に増えたという。

 ただし、これはあくまで「願望」や「問い合わせ」であって、地方移住の「実態」とは違う。地方移住者の実数についてはまだ確定的なデータがない。2015年に毎日新聞明治大学などとの共同調査結果を発表して、移住者は1万1735人、5年間で4倍以上に増えたことを明らかにしたが、アンケートは網羅的なものではなく、行政の支援を申請せず、自力で地方移住した人たちはそこにカウントされていなかった。

 人口統計だけを見れば、むしろ東京への若者たちの流入増加が続いている。

 私の周囲に限って言えば、ここ数年、あきらかに地方移住者が増えている。地方移住者たちの集まりに呼ばれることも多い。「潮目の変化」が来ていることが肌で実感される。韓国のように、100万人規模の地方移住がこのあと実現する可能性はかなり高いと私は思う。

 今国会では財界の要請に応えて、「高度プロフェッショナル制度」を含む法案が採択される見通しである。これによって労働者の雇用環境はさらに劣化する。

 過労死寸前まで追いつめられた若者たちの中から、賃労働以外の生き方を模索する人たちが出てくるのは自明のことである。

 いずれ、この「働き方改革法案」が「今思えば、あれが地方移住の決定打だった」と回顧される日が来るだろう。(2018年6月18日)

                           (同書、71~73頁)

       ※             ※           ※

 ポスト・コロナ―コロナ禍の後の世界で、わたしはこの傾向はさらに加速されると思います。それを西予市は積極的につかまえることができるか、正念場です。俵津も考え時なのではないでしょうか。

 かつて三大都市圏に向けて、農村人口が大移動をした時期がありました。その頃地方の政治家たちは「農村が過疎化するのは働き口がないからだ」と言って、企業誘致に躍起となっておりました。それが今、逆の流れが出てくるようになったのです。地方移住者は、自分から求めて移り住むというマインドになっています。彼らが限界集落の再生や祭りの復活や有機農業などに取り組む姿は、ときどきテレビなどでも紹介されるのでご存じのことと思います。潮目が変わったのだと認識することが、今わたしたちに必要だと思います。

 内田樹さんは同書の別のところでこんなことも言っております。

「いま地方に移り住む人々の脳裏を領しているのは「金の話」ではなく、「どうすればもっと人間らしく生きられるか」という別のレベルの問題である」(24頁)

「地方回帰する人々は日本がもう経済成長しないことを直感している。だが、現代日本の指導層の人々は誰一人「成長しない社会」を生き延びる術を教えてくれない(考えたことがないのだから当然だが)。ならば、自力でこれからの「長い冬」を生き延びるしかない。その手だてを地方移住者たちは日本の豊かな山河に求めた。その直感を侮るべきではない。」(25頁)

 

 わたしたちにいま必要なのは、移住者たちと日本を語り、世界を語り、共に“まち”と“人生”をつくっていく「体力」を養うことではないでしょうか。

                         (2020・11・3)

 

西田エッセイ  第三回  (全10回)

西田孝志・連載エッセイ「私の映画案内」⑱

       「映画に見る男と女その時代パート2」

 皆さん、寒いですね!今年の冬はほんとに寒い!トランプさんがアメリカ北東部の寒波を受けて、これで温暖化か?!とツィートしてましたが、地球はより寒く、より暑くなる、と警告する学者もいます。地球規模での気候変動は確実に起こっていると思います。

 さて、パート2で取り上げる映画はティファニーで朝食を1961年、アメリカ映画です。主演オードリー・ヘップバーン。誰でも一度は見た事のある映画で、主題曲の「ムーンリヴァー」は大抵の人が口遊んだ事のある名曲です。だれもが知る映画のはずですが、この映画ほど背景の時代を知らないと、映画の内容や、真の意味を理解できない映画は他にないと思うのです。映画は時代を写す鑑とも言われるように、映画が時代を、時代が映画を互いに写し合う事があります。この映画はそう言った意味でも優れた名作と言えるのです。

 映画の原作者は、トルーマン・カポーティアルコール依存症で、ゲイのアメリカ人作家。早熟の天才と呼ばれ、1966年、アメリ現代文学史上に残る名著「冷血」を発表し、新たなルポルタージュ文学と言うジャンルを確立させた人物。彼が「ティファニーで朝食を」を発表したのは1958年でした。この時代、つまり50年代後半から60年代に掛けて、アメリカ全土で非常に大きなムーヴメントが幾つか起こります。その一つが黒人による公民権運動。これにより価値観の変動や、差別を前提にして成り立っていた、白人優位のコミュニティが揺らぎ始めます。もう一つの大きな動きは、ウーマンリブに代表される、フェミニズム運動です。近代以来続いてきたフェミニズム運動はこの時期に最高潮を迎え、後に「20世紀最大の思想的事件」と、呼ばれました。この運動は、女性への差別を制度の中にではなく、男性と女性の関係の中にある問題として捉え、女性の社会的、経済的、性的な、自己決定権の確立を目指したものでした。この思想が映画にも大きく影響を与えているのです。

 映画の主人公、ホーリ―は娼婦で、相手の男性は作家志望ながら、金持ちマダムの若き愛人です。娼婦と若きツバメの恋愛。見方によれば、不道徳で自堕落な二人、の関係とも言えます。この恋愛劇をあたかもピュアなラブストーリーのごとくに仕立てあげるところが、所謂ハリウッドマジックなのです。オードリーが娼婦?出鱈目言うな!とお怒りの方もいるでしょうが、事実です。この映画の出演を最初にオファーされたのは、実はマリリン・モンローでした。彼女は原作を読み、「娼婦の役はやりたくない」と、断りました。多分イメージダウンを恐れたのだと思います。映画が大ヒットし、オードリーの人気がさらに上がっていくのを見て、モンローはどう思ったでしょうね?モンローが拒否した映画ですが、出来上がった映画を見て、皆さん何か感じませんか?実はある映画にとても良く似ています。ホーリーがイライザ、ハリウッドのプロデューサーがヒギンズ教授としたら、貧乏な娘が貴族と結婚する、現代版「マイフェアレディ」と、言えるのです。この筋立てにより、娼婦である女性がいつの間にか、必死に幸せを求め、一人人生の荒波に立ち向かう、健気で強い女性、にイメージが変わって行くのです。こうやってイメージは作られていくのです。

 フェミニズムの運動は、アメリカの多くの人々、男性も含め、を覚醒させたと言って良いでしょう。以前の社会では、女性は時にただ単に性の対象であり、社会的、経済的に男性に支配される劣った感情の持ち主と見なされてきました。映画「プライドと偏見」を思い出してください。女性は結婚し、子孫を残す事が義務とされ、家庭では良き母、夫には良き妻となる事を生涯求められ続けて来たのです。主人公ホーリーはその人生に反逆しました。彼女は夫と、何人かの夫の連れ子を片田舎に残し、新しい人生と、別の何者かになる為、家庭を捨て飛び出したのです。プロデューサーと出会い、知識と教養を身につけ、自立した一人の女として、ニューヨークで一人生きて行こうと決心しました。しかし、ニューヨークでの女性の一人暮らしは厳しく、彼女は結局自分の魅力や若さ、肉体を切り売りする生活を送らざるを得ません。しかし、それでも彼女は希望を捨てません。彼女の辛い現実と見果てぬ野望。それを端的に描いたのが冒頭の有名なシーンです。早朝の人気のないティファニーのショーウインドーの前で、高価なドレスを着て、それを覗き込みながら一人菓子パンを食べるホーリー。理想と野望、残酷な現実が目の前で交差する、極めて意味の深いシーンです。

 この映画のラストシーンはとても有名です。製作者はラストに全ての思いを込めて、映画を作り上げたのでしょう。ラストは雨の中です。映画の中の雨にはどんな意味があると思いますか?二人だけの世界、閉ざされた空間、異次元の別の世界、それらを象徴しているのが映画の雨なのです。映画「七人の侍」の雨中の大乱戦、観客の眼は戦いにのみ集中します。映画「セブン」、降り続ける雨の中、連続して起こる、7つの大罪を模した殺人。降り続ける雨が思考を遮断し、観る者を異様な幻影に満ちた世界へと誘い込む。そして乾燥し、焼け付く様な荒地の上で突如現実が牙を剥いて表れる。雨が降る事で、ニューヨークの街に二人だけの世界が現れます。その雨の中、ホーリーは彼女の猫を車から追い出します。猫は幸せな家や家庭の象徴です。彼女は幸せな家庭を諦めたのです。それを見て、男は女から離れようとします。だが何とか気持ちを伝えたい。「僕は君を愛してる、だから君は僕のものだ」それに対して「私はものじゃない、皆んなそう言って私を束縛する」これウーマンリブのスローガンです。彼は言います「違う、それが愛だ」そして「互いに相手のものになる事、互いに相手を所有し合い、互いに分かち合う事が愛なのだ」と、さらに「それが愛の現実なのだ、現実を見ず、認めようともせず、現実から逃げる君はただの臆病者だ」と。作者は多分こう言いたかったのだと思います。社会の最小単位すら守れず、家庭を壊し、自立と権利を主張し、一人孤独に生きる事が、本当に女性にとって幸せにつながることなのだろうか?と。

 ホーリーは雨の中、猫を探します。冷たい雨の中、凍えて震える猫を見つけ、彼女は抱締めます。これは女性の負けを認めたのでも、表現したのでもありません。互いに分かち合う二人に勝ち負けは関係ありません。彼女は小さいが本当の幸せを手に入れたのだと、言いたいだけなのです。

 皆さんの映画の見方が少しでも変わればいいな、と思ってます。それではゴキゲンヨウ・・・。

                           (2020・11・2)