虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

大師の足あと―俵津の空海伝説

 報告です。

 1月24日、大浦のお大師様のお堂の前、二代目枝垂桜の横に、弘法大師像が建立されました。(施工は、宇和町の小野石材)。坂本甚松さんはじめ大浦の人たちの深い祈りが、実を結びました。それにしてもその行動の速さに驚かされます。

 甚松さんから連絡を受けたので、早速行ってみました。お堂の大きさと釣り合いのとれた大師の石像がありました。また一つ祈る場所が俵津にできました。そして、お大師様が本当の意味で「お大師様」になったように思いました。

 わたしは以前から不思議に思っていたのですが、「弘法大師」を感じさせるものが見当たらないお堂や周辺のこの場所が、どうして「お大師様」なのだろう?。疑問が今回解けました。それは正式名称が「回国記念大師堂」と言う事を今回はじめて知ったことにありました。「回国」という言葉を調べてみましたら、「お遍路、回国巡礼という巡礼のための諸国遍歴」とありました。250年前に回国を果たした三好庄七さんは、どのような“回国”をしたのか、四国遍路八十八か所のみを回ったのか、それとも東寺や高野山金剛峰寺や善光寺や川崎大師や成田山新勝寺など弘法大師真言宗ゆかりの寺々をも回ってきたのか、その辺のところはわかりませんが、当時としてはまさに強い信心なしではできなかった「偉業」だったのでしょうね。

 また、三好さんのような人物やお大師様のような建物・場所を生み出したのは、やはり大浦地区に真言宗のお寺・地蔵院(創建は寛永五年・1628年)があったのが大きいと思います。さらには、菅原道真を祀った天満神社(社殿造営は万治二年・1659年)がある開けたところだったということもあるかと思います。

 皆さんも足を運んでみてはいかがでしょうか。

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 さて、弘法大師の「足あと」の話です。甚松さんと話していて、突然と言うか急に思い出したのです。足あとは業績という意味の「足跡」(そくせき)ではありません。砂浜を裸足で歩けばつくあのただの足あとです。大師のその足あとが俵津に残っているという話です。

 そのむかし城(砦)があったという古城(ふるじょう)の北側・下の谷は渡江越えの小道の傍らに、左右どちらかわからないが片方の足あとがあり、もう一方がお大師様にある

 言い伝えというか、伝説と言うか、「俵津の空海伝説」はたったこれだけの話なのですが。わたしはこれをいつ聞いたのか知ったのか思い出せませんが、(子供の頃だったのか青年団の頃だったか)、でもとても面白いなと感じたことは覚えています。それで、二十歳前後だったか、行って探してみたことがありました。下の谷側にはそれらしきものがありました!杉の防風林の間に四角な(30センチ角くらいか)暗緑色の平たい石の上に足あとのような凹みのあるものがあるにはありました。それが伝説のそれであったのかどうかはわかりません。お大師様側のものはついに発見できませんでした。

 この「俵津の空海伝説」、何人かに聞いてみました。二人が「それ知っている」と応じてくれましたが、あとは知らないひとばかり。知ってる二人もわたしと同じことしか知らない。つまりこの話はあくまでそれだけの話なのです。上下左右・前後・円球がない。ふくらみがない。物語がない。

 一週間前に、もう一度見てみようと思って下の谷へ行ってみました。下の谷農道の二番目の大カーブに車をとめて、みかん畑の園内道を登って行きましたが、すぐに行き止まりです。茫々たる荒廃園が広がり、3年前の豪雨が深い谷を刻んでいました。50年の歳月は如何ともしようがありません。

 むかし見た足あと(らしきもの)は、確かに踵(らしきもの)が渡江側にあり、指(らしきもの)がお大師様を向いていましたので、空海は下の谷からお大師様へ向けて飛んだ・跳躍した、のでしょうか。1200年前の俵津は奥深くまで海が侵入していたといいますから、あるいは泳いで渡ったのかもしれません。石に跡が残るくらいですから、余程の大男だったのか、踏み込む力が強かったのか。それにしても、空海は何のために俵津に来たのでしょう。ここからどこへ行ったのでしょう。この話は、誰が何を伝えようとしたものなのでしょうか。

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 ネット(ウィキペディア)で調べてみました。

 「弘法大師に関する伝説は、北海道を除く日本各地に5000以上あるといわれ、歴史上の空海の足跡をはるかに超えている」、「中世、日本全国を勧進して回った遊行僧である高野聖(こうやひじり)が弘法大師と解釈されたことも有力な根拠である。ただ、闇雲に多くの事象と弘法大師が結び付けられたわけではなく、その伝説形成の底辺には、やはり空海の幅広い分野での活躍、そして空海への尊崇があると考えられる」とあり、弘法大師が発見したとの伝承がある温泉名や由来とされる伝説・伝承の項目が並べられております。その中には、この「足あと」のようなものはありませんでした。

 明浜の郷土史家として名をはせた久保高一先生が、ひょっとしたら何か書き残されているかも知れないと思って、まなびあんと高山公民館図書室へ行ってみましたが、ありませんでした。久保先生には、本になっていない書き物が自宅にたくさんあるそうですが、その中にはあるのかもしれません。遺族の方とか西予市が遺稿集を出してくださるとありがたいですね。

 いつだったか泉鏡花の『高野聖』という小説を読んだことがあるのを思い出しましたが、たしかに彼らは全国を回ってさまざまな物語を衆生に語り聞かせたのだな、これもその一つのバージョンの一部かもしれないと、想像することができました。聖たちは、たしかに俵津へも来たのにちがいありません。

 わけがわからなくても、これだけでも、わが俵津に「空海伝説」がある。それだけでも素晴らしいことだと思います。

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 振り返って思えば、「空海」はこの地に遍く在りました。それは「空海空間」と言ってもいいような宗教的アトモスフィアの世界で、それがそう、昭和35年くらいまではありました。

 そんな気がします。わたしが子供の頃、祖母は朝晩真言宗のお経を唱えていました。「門前の小僧」でしたのにその文句はおぼえていませんが、読経の最後に「南無大師遍照金剛」を数回繰り返していたのだけは耳に残っています。どこの家にも、石童丸の物語や地獄の絵本がありました。ひとびとは事あるごとに、宇和の四十三番札所・明石寺(あげっさん、と言っていました)へ行っておりました。四月八日の花まつりには、新田の奥爪立から野田越えでこぞって、宇和の山田薬師へお参りしていました。托鉢の僧もよく来ていました。白装束の修験者の姿もよく見かけました。そして、誰しもが生涯に一度は“お四国回り”をしたいと望んでおり、定年退職などの機会をとらえては、発奮していそいそと出かけていっておりました。

 意識しなくても人々のこころの奥深くには、空海が住んでいたのだと思います。わたしも、よく知らないのに、「空海」の名前はとても好きでした。その響き、その広がり、なんとなく幸せにつながりそうな可能性を感じる明るい名前。わたしは平成の大合併で5町が一つになる時、募集された新しい市名に「空海市」(くうかいし、またはそらうみし)と書いて応募したくらいです。空海を現代に蘇らすことで「まちづくり」をしたらどうかと思ったのです。

 若い時には、宇都宮道有くんとダットサントラックにみかんを積んで、それを売りさばきながら、1,200キロの四国一周の旅をしたことがありました。高知県室戸岬中岡慎太郎像の足元から見る空と海の圧巻に暫し我と時を忘れたのを、いま思い出しました。その時、そこの御厨人窟(みくろど)で空海が修業したこと、そして金星が空海の口に飛び込んできた逸話があることを知っていたら、行って見たのになあと思うと残念でなりません。

 

 ともあれ、坂本さんたちの事業は、わたしに空海のことに思いを馳せるひとときを与えていただきました。ありがとうございました。

                           (2021・2・1)