虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

西田エッセイ  第八回  (全10回)

西田孝志・連載エッセイ「私の映画案内」㉓

       「映画万引き家族に見るリーダーシップ」

 皆さん、お元気ですか。実は私今長年続けていたタバコを止めようとしています。とてもつらいです。特に文章を書いてる時など、タバコがないと頭がおかしくなりそうです。挫折しそうになりながらも、何とか頑張ってます。

 さて、話題の映画万引き家族2018年、日本。遅蒔きながら、取り上げて語りたいと思います。この映画はある一組の家族について、彼らの生活とその生活の為の手段、昔風に言えば彼らの生き様とも言うべき生活実態を描いた映画だと言えます。ですが、彼らには普通の家族とは言えない所があります。大人は各自それぞれ定職を持っていて、普段はその仕事に従事しています、が彼らには血縁がありません。例外を除いて基本的には他人なのです。さらに食う為には、不正な手段、たとえば万引きなども行います。普通ではないと言いましたが、それどころか、とても変わったあり得ない家族と言った方が良いかも知れません。なぜ監督はこんな家族設定をしたのでしょうか。

 私はこの家族を見ていて、ある種異和感の様なものを覚え、それがずっと気になっていましたが突然ある事に気づきました。それはこの家族が、日本的な農耕民として描かれているのではなく、ある種の狩猟採集を行う、遊牧民的な家族として描かれているのではないのか、と言う事でした。なぜ、この映画がヨーロッパの映画祭で受け入れられたか、と考えた時、牧畜や狩猟採集の生活を長く続けた、彼ら白人にとって、この日本人家族の生き方は彼らに馴染み深く、受け入れやすい生き方と写ったのではないでしょうか。同時に、ホモサピエンスが集団生活を営む事によりネアンデルタールを駆逐したように、集団生活を営む利点は彼らのDNAに深く刻まれていると言って良いでしょう。農耕民は種を蒔き、集団で土地を耕し生産を管理しますが、遊牧民や狩猟採集民は全く違う生き方をします。彼らに必要なのは獲物のいる場所や、それを捕る技術を知る人であって、遊牧民なら、地味の肥えた良い牧草のある場所へ導く人なのです。それがリーダーと呼ぶべき人なのです。

 この家族のリーダーとも言うべき男性は正にそう言う人物なのではないでしょうか。彼ら家族一人一人はそれぞれ世間と言う荒波に漂う脆い小船のような存在なのです。その小船が寄り添い寄り集まって、少し大きな家族と言う船になって行ったのです。そんな彼らにとって一番必要としたものは何だったでしょうか。それは船の行き先を決め、家族の結束を保ち、家族を守り、生活の手段と方法を教授してくれる、強い指導者なのです。少し気が弱そうで、お人好しにも見える、この男性は生きると言う事については、すこしのぶれも見せません。現実的で生きる方法を知っています。彼こそがこの集団のリーダーなのです。

 キリスト教社会で、最も良いリーダーとして挙げられる人物は、旧約聖書出エジプト記に書かれた、予言者モーゼです。グレート・エクソダスと言われる出エジプト記は、キリスト教世界に深く根付いており、ほとんど全てのヒーロー伝説や脱出伝説はこの話を大元にしていると言っても過言ではありません。例えば映画で描かれた数多の脱出ものを見てもその事が良く分かります。危機に際し、聡明でかつ賢明な人物が出現し、人々を纏め、困難に対処します。彼は常に最善の脱出ルートを示唆しながら、人々を導き、犠牲を出しながらも、出口へと向かうのです。こう言った映画の主人公は、ユダヤの民を纏めあげ、犠牲を出しながらも彼らを導き、イスラエルの地へと導いたモーゼの姿に重ねられているのです。

 万引き家族のリーダーもそうだ、と言っている訳ではないのですが、この映画にはそれを感じさせるような、神的な視点を映す場面が所所にあります。この映画のカメラの視点は通常の斜め45度の視点ではなく、被写体の傍らに立った人物の肩の高さで見た視点で撮られています。言い換えれば傍らに立った貴方自身が、今起きている事を見つめているのです。その映像が時折り、高い位置から見下ろす視点に変わる場面があります。肩の高さで見るのは貴方の視点ですが、高い場所からの視点は貴方以外の明らかに第三者的、あるいは神的とも言って良い視点なのです。この視点はこの家族が何者かに見守られている、何者とも知れぬ、映画を見る貴方の暖かい心の眼ともとれる瞳に見守られている事、を示している様に思えるのです。言い換えれば、彼ら家族は善き導き手に導かれ流浪の旅をする聖家族のごとく描かれていると言えるのです。それだからこそ、彼ら家族は決して他人を害しません。虐待児童を守る為に同僚に仕事を譲る母親、風俗の仕事をしながら、傷ついた痛ましい魂に寄添う長女、妹の万引きを隠す為自分を犠牲にしょうとする長男。血の繋がりのない家族のこれらの行為を生み出し、導いたのは一体誰なのか、それをこの映画は問うているし示そうとしているのです。

 万引きは決して善の行為とは言えません。しかし浮世に寄る辺なき人々が、身を寄せ合い必死で生き抜こうとするならば、人は賛同せずとも幾ばくかの許容はするのではないでしょうか。その心の象徴が亡くなった駄菓子屋の主人なのだと言えます。彼ら家族の犯罪行為が露見し、取調室で、刑事達が乾いた事務的な口調で、彼らの犯した罪を並べたてて指し示した時、私の中である声がしました。それはマグダラのマリアと民衆の間に立ち「罪なき人のみが彼女を打て」と言ったキリストのその言葉でした。

 彼ら家族は本当は万引きなどしたくなかった。精一杯働いて家族が食べていけるなら、それだけで充分だった。たとえ嘘で固められた作り物の家族であっても、互いに愛情を持ち敬意を示せる間柄であれば、真の家族となりうる事が出来た。本当の家族とは一体何だろう。血の繋がりだけが真の家族なのだろうか、それとも困難で生き難い人生に立ち向かい、互いに助け愛しあう事が出来るなら、例え血は繋がらなくとも、それこそが家族と呼べるものではないのだろうか。最後は散り散りになってしまうのだが、私は心からこの聖家族に祝福を送りたい。彼らはたとえ一時でも真の家族に巡り合えたのだから・・・・・。

 それではこの辺で、ゴキゲンヨウ・・・・。

                      (2021・1・9)