虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

弘法大師と共に、祈る。

 宮崎川にかかる畑岡橋にほど近い、上甲伸介くんのポンカン園の路傍の一角に、俵津集落協定の花壇があります。白いすてきな小柵に囲まれた中に、黄色・赤・白・紫など濃淡様々なビオラと“よく咲くスミレ”(!)が、美しく可憐に咲いています。柑橘類の収穫・出荷等に疲れたこころを癒してくれます。

 

1、

 正月2日のことでした。百姓の大先輩・坂本甚松さんの来訪がありました。「お大師様に、弘法大師の石像を建てるので、碑文を書いてくれ」と言うのです。聞けば、以前にお堂の屋根の吹き替えや入口にスレート葺の庇を造作した時に集めた浄財が残っているのでやることにした、とのこと。

 え、これって、去年と同じ展開?!去年も日越の三ちゃんがやってきて、「坂村真民先生の碑を建てるので、由来の碑文を書いてくれ」ということで、一年がはじまったのでした。一月というのは、人がやはり何かを“発意”する月なのでしょうか。

 そこで、二人が合作しました。

              弘法大師像建立由緒

 大浦地区有志の寄進により建てられた大師堂より献納を賜わり、ここに一同の総意をもって大師像を建立することとなりました。世界の平和と、地域に住む人々の安全・幸福を祈念し、新型コロナウイルス撲滅を願って、弘法大師と共に祈りを拝捧しましょう。

               令和三年一月吉日

                     お大師様管理人代表

                         木崎 真近

                     賛助会員

                         坂本 甚松

                         網干利喜夫

                         網干 秀子

※ 第一次案です。大浦のみんなで話し合って、決定文を作ってください。実際の碑は縦書きで。

 

2、

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が蔓延し、世界中の人たちが困っている時、このような試みは、わたしはまことに時宜を得たものだと思います。わたしに宗教心はありませんが、祈ることの大切さは分かるつもりです。正月や祭礼時には神社にお参りしますし、日常でも神社の鳥居の前を通る時には頭を下げます。大浦地区の人たちの行動に、こころから賛意を表したいと思います。

 ところで、折角の機会なので、「お大師様」についていろいろ書いておこうと思いました。●いつできたのか●誰が建てたのか●動機・きっかけ・だれの発意か●工事者名●建築費●補修・追加建築の時期や費用●お堂の中に安置されている三体の地蔵について等々。

 坂本さんに聞いてみましたが、「よくわからない、資料など残っていないか調べておく」ということでした。そこで、とりあえず、明浜町(当時)が作成したものをさがしてみました。

➊『明浜町誌』の914ページに、「町指定外文化財」とした一覧表の筆頭に、たった一行次の記述がありました。

「名称・回国記念大師堂、種別・社会教育資料、所在地・俵津大浦、管理者等・大浦部落、概説・俵津ー宇和線最初の大カーブの道路上のお堂に安置されている三体の地蔵さん。「お大師様」と呼ばれている。」

➋『明浜町文化財(第1集)』(昭和57年5月1日発行)には、1ページ目に「回国記念大師堂」のタイトルで、以下のような記述があります(三体の地蔵の写真付き)。

「県道宇和-俵津線の最初の大カーブの道路上にお堂があり、そこにはかって枝垂桜の老樹が毎年見事な花を咲かせていましたが、昭和50年8月17日の台風5号の直撃を受けて、枯れてしまいました。

 このお堂には三体の石仏が安置されて、お大師様と呼ばれています。このお地蔵さんの左端の一体が、三好庄七が宝暦7年(1757年)に日本回国を果たした5月21日に、近所の人達によって建立され、中央の一体には「光明神哭百五十万遍経塔、安政元甲寅年7月建立」とありますから、それより約100年後の建立になります。右端の一体は喜八という人が明治4年3月6日に建立しています。」

 

 わたしとしては、当時の人たちの思いが伝わるような説明書きの看板を、お堂の傍ら(もしくは旧道の道端)にぜひ設置していただきたいと思います。

3、

 坂本甚松さんとの共同事業(!)は、実は今回が初めてではありません。10何年くらい前でしたか、大浦地区の南予用水完成記念碑の碑文を一緒に考えたことがありました。それは、田中恒利先生と三人の合作でした。田中先生が、「志水」「友水」「恩水」などの案をまず出され、これにわたしたちが「潤農」「創農」などの熟語を加えることを考え、最終的に「志水潤農」に決定したのでした。田中先生には、ご自分が奔走して実現を見た南水には格別の思いがあったでしょう。南予の農民が志した水、野村ダム建設を快諾し、貴重な水を分けることに同意してくれた野村町の人々の友情や恩への溢れるような思いがあったことでしょう。これにどういう言葉を繋ぐか、二人は悩みましたが、創農という勇ましい言葉よりも、何にも代えがたいありがたい水がしっとりとこの大地とみかん樹を潤している姿をそのまま言葉にした方がいいだろう、と思ったのでした。

 後に、宇和島市高光のハイウエイレストラン宇和島・真珠会館近くの国道端に、「水、この地を潤す」という碑を見つけた時には、ああやはり農家の思いは一緒なのだなあと深く感動し、わたしたちの選字句に胸をなでおろしたのでした。

 ちなみに、脇・新田地区の同碑の碑文は「夢水人輪」、狩江には「民意結集」「人為天恵」などがあります。どれもよく練られた素晴らしい言葉だと思います。地区民の志や思いを集めた事業には、こうしてそれを表す言葉と記録を石に刻んでおくことが、とても大切なことだと、わたしは思います。

 

 とにもかくにも、まず祈りましょう!コロナウイルス退散を!弘法大師と共に!

                          (2021・1・23)