虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

「じじばばー」に東海先生登場!

 10月8日の「じじばばスーパー演芸会・2023」、あけはま座「朗読劇」・プロジェクター紙芝居の2年目には、『長崎東海・俵津ものがたり』をやっていただきました。紙芝居製作が成った今年、俵津の人たちに東海先生を知っていただく絶好の機会だと思ったからです。

 あけはま座の登場の前に、長崎東海研究会会長の山下重政くんが「東海先生紹介」をしました。その際、会場に配布した資料をここに掲載しておきます。山下くんが中浦靖二くんと二人で作ったものです。

 

          『赤ひげ先生』長崎東海

ながさき とうかい   文久3年 昭和3年

長崎   東海    (1863~1928) 医師

 

高知県高岡郡仁井田村松葉川(元窪川町 現四万十町)出身。明治35年に俵津に東和病院を開業し卯之町、山田、皆江、等様々な地域に開院。

『巧言して患者を迎えず、去る者は追わず、来るものは拒まず、貧乏人は銭取らず』を実践し村内はもとより郡内外の人々に慕われた。

豪放な性格と相まって外科医術に優れ、北里柴三郎に師事して年に一度は北里研究所での上京研修を怠らなかった。また政治・芸術・殖産等多方面に置いても多才な人物であり地域の発展に寄与している。特に生涯を明浜地域の医療に尽くし昭和3年2月25日、64歳で没した。

住民の手により俵津(大浦)を一望できるお大師様近くの墓所にて俵津を見守るかの様に静かに眠っている。

 

 皆さん牧野富太郎(まきのとみたろう)博士を知っていますか?高知県佐川町に1862年(文久2年)に生まれ、1957年(昭和32年)に94歳で亡くなった植物学者です。前月迄放送されていたNHKの朝ドラ『らんまん』の主人公槙野万太郎(まきのまんたろう)のモデルとなった人物で独学で植物の知識を身につけ植物分類学の研究に打ち込み新種や新品種など1500種以上の植物を命名し、日本植物分類学の基礎を築いた一人として知られています。

 今日は奇しくも同県の佐川町より南西に約60㎞位離れている松葉川で文久3年11月29日に生まれた長崎東海先生の話です。ほぼ同年代にて高知で幼少青年期を過ごしています。俵津人にとっては長崎東海先生は牧野博士に引けを取らないほどの偉人です。

私の小さい頃、『昔長崎と言う偉いお医者さんがシンタの沼地を埋め「長崎新田」を作った』と聞かされました。

 後年「明浜町誌」が発行され40歳で俵津に来て「東和病院」を開業され亡くなるまで続けられました。

 病院の創立10周年を記念して大浦にあった俵津尋常小学校に門柱を寄贈され、昭和41年明浜町教育委員会の要請により明浜東中に移転、さらに明浜中学校に統合されると昭和61年俵津小学校に、平成29年小学校の統合により明浜小学校になるや門柱を廃棄する事になりました。

 そこで私の同級生4人(プラス故酒井節子/宇都宮氏康/日越三雄)が中心となり門柱存続の寄付を募り、俵津地区及び関係者の協力を得て明浜小学校の裏門に平成29年9月24日に門柱と記念碑を設置する事が出来ました。

 その折、高知市在住の長崎家の御子孫を探し出す事が出来ご臨席頂く事が出来ました。その時に東海先生の日誌が存在する事がわかりました。それから日誌は西予市に寄贈され「長崎東海日誌研究会」(愛媛医療史研究者/冨長泰行・宇都宮氏康・市職員/浅井裕史課長・市学芸員別宮博明・山下重政・中浦靖二)を発足し日記の翻刻から始め現在に至っています。

 日誌は医療日誌であること等から『他人には見せるな』と書いていますが医療史の観点からはとても重要な資料だと思われます。一部参考までに、医療行為(診察地域)としては俵津を中心に旧東宇和郡全域、旧吉田町全域、三瓶町全域に渡っています。

 特に俵津地区は私が見る限り現住民の1/3は関係があるかなと思います。その為日誌全文の公表は難しいと思われます。

 この日誌には、医療の他、天気、天災(地震等)、産業、文化、交通等多岐に渡って記されています。従ってこれらをどの様に残して行くかが大切な事だと思います。

 それでは、固い話はこれくらいにして長崎東海先生のエピソードたっぷりの紙芝居をお楽しみ下さい。

 

morino-shimafukurouから

 ・東海先生は、あの牧野博士とほぼ同年(1年違い)に生まれていたんですね。なん  でここに牧野富太郎が、と思いましたが二人の苦心の発見!ですね!。

 ・長崎東海先生を知らない人、知ってても名前くらいで詳しく知らない人は、この俵津で確実に増えています。日本で数少ない「医療日誌」を残した人物として全国区になりうる東海先生は、わたしたちが誇れる人です。もっともっと普及活動をしていきたいですね。

 ・長崎東海研究会は、これから「日誌」の出版を目指す段階を迎えます。が、これは容易なことではありません。気の遠くなるような手間とお金がかかります。まさに大事業です。みなさまのご理解とご支援を何卒宜しくお願い致します。

                       (2023・10・20)