虹の里から

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冨永さんの東海記(7)

          東海先生の外科的治療

                     冨長 泰行

  

 医療技術の進歩の歴史は一般的には記されても、ある地域・ある時代の住民が実際にどんな医療を受けられたのかは、あまり語られてこなかった。

 明浜の赤ひげと言われた長崎東海先生は、愛媛に来る前の土佐時代から乳がん手術を成功させ名を馳(は)せていた。1902(明治35)年に高知病院で外科研修を終えてからは、さらに積極的に外科的治療に取り組んだ。

 その年の5月には、37歳の卵巣嚢腫(のうしゅ)の手術を4時間半かけて実施し、自身初の摘出術に成功。歓喜のあまり思わず万歳と叫んだと記されている。

 愛媛で開業した翌年11月には吉田病院の田村東洋医師の支援を受けて「外科的大手術の共同施行」を3例実施。まず45歳女性の子宮筋腫手術を3時間で施行。翌日は子宮頸(けい)がんの手術をしたものの既に直腸壁に浸潤しており子宮全摘の余地なし。続いて大脱肛(だっこう)のバクレン手術をして午後1時に終了した。

 05年1月には、高山村からの往診依頼に応えて看護婦を従えて出かけ、村医の立ち合いで、緑内障の疼痛(とうつう)激甚患者(77歳)の全眼球摘出術を実施した。

 翌06年4月には、解剖も実施。多年の心臓病(現在エリシペラス)患者の局所解剖であったが、本人の生前の意思に加え家族の承諾も得て行った。医師や看護婦、近親者の見学を許し、葬儀には病院から弔旗、菓子料を送った。医業界の進歩公益への義援金を募集して遺族に慰する予定、と記されている。

 同年9月の筋炎全麻術では、とんだ「大混雑」を起こしたとの記述。これは、手術室が海岸側の窓から誰でものぞけたためであったようだ。東海日誌に「手術真最中、室外より傍観せる者創面に驚き脳貧血を起し、戸外なる海に転倒し前額部及び頭部の二ヶ所負傷、海水中に浮沈す。直ちに村人が海水に飛び込み之を救い応急手当をなさしむ」と記している。今では考えられない事態である。

 結局この年は、64件もの手術を行い、うち「全麻手術」が34件を数えた。

 12(大正元)年10月午後6時過ぎ野福峠越えの伊賀上地区より往診依頼。午後8時騎馬で出発、同10時患家到着。腸嵌頓(かんとん)(脱腸か)と診断し翌日手術と決し、翌日未明俵津に特使を派し、外科器械その他を取り寄せて看護婦を呼び、地元の医師らも立ち合い、午前11時より開腹手術、正午終了。翌朝まで看護婦を付き添いにとどめ、東海先生は術後帰途に就いた。患家での開腹手術には驚かされるし、患家に看護師を付き添わせるのも今では考えられない。

 今では臓器別に専門化している外科治療であるが、東海先生は乳がん、子宮がん、瘰癧(るいれき)、痔核(じかく)、陰嚢、子宮掻爬(そうは)、妊産婦摘出、散弾摘出等多分野にわたり、ある時には在宅でも実施。驚くばかりで、この客観的評価は今の私の範疇(はんちゅう)を越えている。

                     (冨長 泰行・近代史文庫会員)

         2023年(令和5年)8月21日月曜日、愛媛新聞「四季録」掲載