虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

西村仁さん追悼文集  8

          仁ちゃん早過ぎるぞ

            岡山・金光  藤井(旧姓宮田)喜代秀

 

 西村仁氏の死は、令和三年十二月十七日であった。七十六歳である。亡くなった翌日、私は、寒くなったから、身体に気を付けてと言うつもりで電話して、彼の妻初美さんから前日の死を知らされた。数日前二回程電話して病状を窺っていたが、容態は分からず、二回目の電話では、体を起こして電話に出ているということで多少の安心を得ていた。しかし三回目の電話で知ったのは、彼の急な逝去のことである。葬儀は十二月二十日であった。

 その日は、例年ならば支障日であったが、繰り合わせを得て、葬儀に参列できたことが、せめてもの慰みであった。彼の生前の働きと、人を大切にしてきた姿の表れとして、同級生たちの多くが手伝い、参列していた。また、その頃はコロナの感染拡張が収まり、「家族葬」という身内だけの葬儀にならず、立派な葬儀が出来たことも、仁ちゃん(ひとっちゃん)の人柄のなし得るところと感激した。葬儀で掲げられた写真は、夏服姿で、若々しくバイタリティに富んでいて、まだまだ頑張るぞと思わせる姿であった。

 仁ちゃんは、「みかん農家」の将来に夢を馳せ、若いころに「農業実習生」としてアメリカカリフォルニアで果樹栽培を学んだ。そして後進の育成を願い、「海外派遣協会」を組織し、一人年間一万円の賛助金を募り、その基金で若者をアメリカに送った。その手腕と取り組みの見事さには感心させられ、仁ちゃんのリーダー的資質の面目躍如たるものを知った。私も岡山からではあるが、思いに賛同し、賛助金に応じた。

 仁ちゃんと私(宮田)の関係は、多くは「卓球」「宇和校への山歩きでの登校」「俵津青年団」ではあるが、熱い思いの二人の関係は、中高年になってからも続いた。岡山からの帰郷時には、二人して飲んで地域活性化への夢を語り、その取り組みへの思いを述べあった。

 思い出すままに今少し思い出に触れてみよう。先ず「俵津青年団」である。青年団では、彼が団長で、私が新聞発行などを受け持ち、仲間と共に楽しいひと時を過ごした。我々は当時二十代の若者であったが、仁ちゃんを筆頭に町(地域)を動かす熱意に燃えていて、深夜まで議論をぶつけあった。

 「宇和校への山歩き登校」では、俵津側の小道を登り、バス道に出て、時には宇和行のトラックに乗せてもらうこともあった。砂埃の中、「乗せちゃんないや」と叫んで、その車に乗せてもらう面白さも味わった。帰りは「いつもの寺」に集まり、ピン球野球に興じ、仲間が揃って帰り、野福峠のトンネルの中で「高校三年生」の歌を歌ったりした。

 卓球の取り持つ縁では、時には遅くまで練習して、暗い山道を二人で帰った。また、卒業間際に、二人してそれぞれの彼女と思しき人を呼び出し、「好きだ」との思いを伝えようとしたバカな思い出もある。

 仁ちゃんの豪快さ、どのような状況下にあっても、悩みのない男としての発揮どころを示した事件として、「いりこ買収による検挙事件」が思い出される。(内容が正確か否かは定かでないが容赦願いたい)。聞くところによると、警察がどこからか情報を入手し、山からその買収(袋入りのいりこではあるが)状態を眺め、数人の若者を選挙買収の容疑で捕まえたという事件である。

若者頭の彼西村仁は、警察?に留置され、取り調べに合いながら、警察官の調書に漢字が違うとか、裁判の護送中、暑いので途中キャンディを買えとせがんだりして、容疑者としての深刻さは微塵も見えず、その事態を楽しんでいるかのような様子に、その話を聞く時に、私は大笑いしながらもほとほと感心させられたのである。おまけに、宇和警察から、何かしらの協力を求めて、俵津に行くとの知らせがあった折、「来たら海の中にどばしこむぞ」と言ったとか。彼の豪快さを物語るものとして、私の心の中に深く刻みこまれている。

 私も岡山では、大きな声でハハハハハと笑うので、「黄門様」とか、「竜馬先生」とか呼ばれたりしているが、仁ちゃんの豪快さと胆力にはとても及ばない。

 人は、生きる中で、内面にある性質・性格を隠し切れるものではない。その点で仁ちゃんは、豪快でもあり、面倒見も良く、人柄・生き方にその姿が現れている。その中で私が彼の長所と見る点は、何よりも仁ちゃんの正直で人懐っこいところと常に仲間と共にある点である。地域活性化の夢を熱く語り、ニコっと笑うと歯が覗き人なつっこさが現れる。又羊羹をかじりながら焼酎を飲み、アルコールがある程度入ると、議論の最中でも大の字になり寝る・・・・。憎まれることのない、慕わしい彼の姿である。

 思い出は尽きない。かけがえのない友の早すぎる死が、残念で惜しまれるが、私としては、仁ちゃんと語り合った思い出を胸に、年を重ねながらも仁ちゃんの分まで生きて、「地域社会の活性化」に取組んで行きたいと願っている。

仁ちゃん、ちゃんと見守ってくれよ!!。

                       (2022・2・3) 

※ 原文は、縦書きです。

 

● morino-shimafukurouから

 藤井喜代秀さんから送られてきた「追悼文」の封書の中には、わたしへの手紙も入っておりました。これがわたしたち「まちづくり」を思うものにとって、とてもありがたく心強くなるものなので、ここに併せて掲載させていただくこととしました。藤井さんには心より感謝申しあげます。

 

随分ご無沙汰していますが、、過日は元気なお姿に接し、嬉しく思いました。

私は岡山での生活に追われ、俵津へ帰る機会が少なくなり、また帰ったとしても、ゆっくりする暇もなく帰光しますので、貴兄との交わりもなくなり申し訳ないことです。

お互い年齢を重ねましたが、貴兄はいつまでも若さを失わず、覇気に満ちている様子に、『虹の里へ』の御著を思い、さすがと思わされました。

私は、「俵津青年団」時代の思いそのままに、「まちづくり」に関わり、地域社会への貢献をテーマに熱を失わず生きています。

どの地方でも同様のように、当地も衰退の方向でアクセクしている現状ですが、私としては、出来るところを見つけ、先人たちの積み重ねた成果を改めて掘り起こすという手法で、「まちづくり」を企画し、実行しています。

貴兄の、明浜という地方への問題意識、危機意識にはとても及ばぬことですが、私のモットーとしては、「深い川は淀みなく流れる」というところに、常に問題意識を重ね合わせています。

ところで、西村仁氏の死去に伴う一文をということでしたが、葬儀のあの日宇之吉氏の行為で、黒田新作氏宅で一杯飲んで酔い、肝心の貴兄からの依頼趣旨文を失ったようです。

お話の内容からは、「追悼の一文」と思われ、別紙のような一文を送付することにしました。ご趣旨から外れているようならば、お許し下さい。

また、事実関係において、間違いがあれば正して頂きたく思います。

お互い、文を書くことで、自分の思いを現すということに導かれ、多少なりとも、表現者として生きることが出来る?ということは恵まれたことだと思わされます。私は今、金光教内の全国信徒会誌「あいよかけよ」という冊子の「川柳」の選者を務めていますが、あつかましくも素人です。

なお、貴兄には、関係のない内容でどうかとは思いますが、私が退職後に編集刊行した、『人物点描』、同封いたしますので、お目どうし頂ければ嬉しく思います。

奥様、ご関係の皆様にも、よろしくお伝え頂ければ幸甚に存じます。

    令和四年二月一日                   藤井喜代秀拝