虹の里から

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西田エッセイ  第六回  (全10回)

西田孝志・連載エッセイ「私の映画案内」㉑

            「ヒーローと運命」

 皆さん、お元気ですか、私も元気です。この間、前々回に語った「南瓜とマヨネーズ」の原作コミックをツタヤで借りて読みました。ラストがまったく正反対になってました。別れた二人が再会して、また暮らし始めます。彼女は一番欲しいものよりも、一番大事なものを選んだのですね、ちょっと嬉しい。

 さて、今回はクリント・イーストウッド監督の近作「15時17分パリ行き」2017年、アメリカ、を取り上げ、ヒーローと運命と言う観点からこの映画を読み解きたいと思います。この映画は2年前の公開ですから、すでにご覧になった方も多いでしょう。大方の評判は、イーストウッドの作品にしては“平凡”“退屈”“出演者の演技がヘタ”などと言う声が多く聞かれます。私もある面これらの声に、同意はしませんが理解はします。主人公の三人の男性が辿ってきた半生が、幼少期から長々と映されて行き、三人が列車内で、運命的なテロに遭遇し、命懸けでそれを防ぐ。山場となるシーンは、僅かに5分程にすぎません。言い換えれば、サスペンスもスリルもない、只のドキュメント風な映画にすぎないのです。その通りです。この映画で描かれているのは事件に対する批評や批判、考察などではなく只事実のみなのです。この映画は事実のみを単々とドキュメントタッチで、事件の実際の人間を主人公として描かれた映画なのです。そこでなぜ?と言う疑問が起こりませんか。なぜ、イーストウッド監督は、こんな見方に依っては平凡なヒーロー映画を作ったのでしょうか。それはこう言う事だと思います。貴方はヒーローと聞いた時自分のヒーローとして誰を思い出しますか。戦争の英雄、歴史上の英雄や征服者、あるいは数々の冒険者達、又は銀幕のスター。皆実在した、本物のヒーロー達です。彼らは皆人間として生き、人間として実際の苦悩や喜びに満ちた人生を送った人々なのです。そうです。実在の人物こそが真のヒーローなのです。ですが、今現在のアメリカ映画界では、空想上のヒーローやヒロイン達が世界を席捲しています。スーパーマンアベンジャーズ、Xメンなど、アメリカの過去数年間の映画興行収入のベストスリーは、ほぼ全てこれらのスーパーヒーロー達の映画が独占しています。彼らは貴方に変わり、巨大な悪に立ち向かい、貴方の目の前で悪を打ち倒します。その為に破壊と、必要なら殺戮さえもいとわないのです。ビルを破壊し、車を放り投げ、インフラを滅茶苦茶にして文明さえも破壊しかねません。気付いていますか。その事に喝采し、共感すら覚えている、貴方自身の心に。本当にこれでいいのでしょうか。映画の中のヒーローとは本当に、破壊の中にしか存在しないものなのでしょうか。イーストウッドはその事に対して、違う、と異を唱えたのです。だから、この映画を作った、と私は思います。ヒーローとは貴男や貴女の傍らにいて、ごく普通の、当たり前の生活を送り、当たり前の人生を過ごしている、当たり前の青年や当たり前の父親なのだと。だから彼らの人生を幼少期から描いた。一人の人間として。

 さらにイーストウッドの凄いところは、彼らの人生描写にある意味を持たせた事です。それが選択と運命についてなのです。私はこの「映画案内」の第一回目で、階段の上で話す心理学者の話をしました(「さあ、一緒に映画を見ましょう!」平成30年1月2日。http://tawarazuuranet.p2.weblife.me/pg733.html)。彼はこういう意味の事を言いました。“人生に偶然はない、選択の結果があるだけだ”と。そうなんです。貴方が選択した結果、貴方の今の人生があるのです。誰の所為でもない、貴方自身の選択の結果なのです。その事が理解出来れば、イーストウッドの意図する所もお分かり頂けるでしょう。彼らは偶然にテロに遭遇したのではありません。彼らの選択の結果が、彼らをテロに遭遇させたのです。だからイーストウッドは彼らの選択を描いているのです。では、テロそのものは彼ら3人にとって、一体何だったのでしょうか。運命なのでしょうか。イーストウッドと言う監督は、常に冷静で、時に冷徹とも言える眼差しで、あらゆる現実を見つめる、実在の人です。それは映画「許されざる者」で、取り交わされた契約の為に、自らの命を掛ける、流れ者の男の行動に表されています。原因と結果、これが彼の摂理であり、規範でもあるのです。しかし監督は、運命を完全には否定しません。映画「ミリオンダラー・ベイビー」では運命のもたらす悲劇を描きます。あたかもギリシャ悲劇のような不条理で暴力的な悲劇です。運命と言う超自然的な力が彼らの努力を裏切り、彼らの意志が望む世界とは全く違う人生に彼らを突き落とすのです。このような運命の力に人は抗えないのでしょうか。立ち向かい、争い、切り開く事が出来ないのでしょうか。監督のその答えがこの映画なのです。人は運命に立ち向かい、争う事が出来る。何をもって、運命と抗えるのか。それは人間の持つ意志の力であり、自由で何物にも捕らわれない人生の選択こそがそれを可能にするのだと言っているのです。人生は選択の連続です。良い選択もあれば悪い選択もあります。少年時代に彼らは悪い選択をした事もある、しかし彼らの母親は子供を見捨てる事を選ばず、擁護する選択をした。成人してからの彼らは、何かに導かれる様に彼ら自身の意志で、より良い方向への、より賢い選択を繰り返す。主人公の一人は映画の中で言う「大きな目的に向かって、人生に導かれている」と。この三人の人生を、神的なものあるいは霊的なものの導き、と考える人もいるかも知れない。それも有るだろう。しかし、運命と神の摂理は全く別のものなのだ。それを理解するからこそ、イーストウッドは、なぜ彼ら三人が、あの日、あの時、あの「15時17分パリ行き」に乗り、不条理な運命に立ち向かい、勝利する事が出来たのか、その時に到るまでの彼らの人生とその選択にその答を見出したのです。だから彼らの人生と彼らの意志に依る選択を描く必要があったのです。

 映画は目に映るものだけが映画じゃないんですよ。それではこの辺で。ゴキゲンヨウ・・・。

                    (2020・12・17)