虹の里から

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西田エッセイ  第五回  (全10回)

西田孝志・連載エッセイ「私の映画案内」⑳

         「映画スプリットと児童虐待

 皆さん今日は、お元気ですか。今回は私の大好きな監督、M・ナイト・シャマランの新作「スプリット」についてお話しします。

 映画「スプリット」2017年アメリカ。すでにご覧になった方も多いかと思います。どう思われましたか。ちょっと複雑な話のホラー映画だと感じられた方も多いかと思います。この映画、複数の視点で作られているので、そう感じられると、思います。内容を少し整理してみましょう。第一の視点は、この映画はホラー、それも古典的なホラー映画である事。この監督には珍しい事です。なぜ古典的かと言うと、誘拐された3人の少女の監禁される場所が地下室であり、そこからの、天井裏や地下通路を使っての脱出劇が古典的なゴシックホラーの様式を取っているからなのです。第二の視点は誘拐犯が解離性同一性障害いわゆる、多重人格である事。それも23重人格、これちょっと考えられないでしょう。でもモデルは実在します。第三の視点が児童虐待。実はこれこそがこの映画の中で監督の最も訴えたかった事なのです。以上の三つの視点からこの映画は作られているので、それについてお話ししましょう。

 第一の視点。M・ナイト・シャマランはホラー映画に対してある種独特の感性を持っています。何気ない平凡な日常の底に隠された、悪意やかすかな変化、その微妙で幽かな変化を感じ取り、それを解釈し、拡大して映画にして行きます。スティーブン・キングの小説に、道路脇のゴミ箱やポストがある日突然に人間を襲い喰い殺す小説がありますが、私はこれはシャマラン監督の感覚と、とても良く似ていると思うのです。この映画で珍しく古典的と書きましたが、シャマランの今までの映画、例えば、第六感を扱った「シックスセンス」、植物が人間を襲う「ハプニング」、最後に思いがけない話に変わる「ヴィレッジ」などいづれも斬新と思えるアイデアでした。今回の映画では多重人格の怪物がそれに当たりますが、怪物以外は普通の人間です。次々と人格が変っていくのは確かに怖いのですが、どの人格も直接的な害はありません。サスペンスとしての、盛り上がりが足らなくなるのです。そこで監督はこの映画では、古典的なゴシックホラーの形を取ったのだと思います。映画の最後に突然ブルース・ウィルスが出て来ますが、なぜでているのかは「アンブレイカブル」と言う映画を見ていただくと分かります。

 二番目の視点は多重人格です。この映画のもとは、30年くらい前にアメリカで出版された「23人のビリー・ミリガン」(名前違ってたらゴメン、記憶だけで書いてる)と言う本です。この本は実在の23重人格の、診断と治療、分析に当たった医師が書いたレポートをもとにしています。出版されると、アメリカを始め世界中でベストセラーになり、大きな反響を呼びました。それまでジキルとハイドの二重人格ぐらいしか知らなかった人々に、それを上回る多重人格が存在している、という事は社会に取ってもとても衝撃的な事でした。映画の中で女性医師が語った事や、多重人格の人物の行動、例えば普段は広間の様な場所で椅子に座っている事、ランプ又は照明と称する光を持つ者のみが人格として登場出来る事、などは本に書かれてあった通りだと、記憶しています。本では、人間の脳の持つ特殊な能力についても言及し、そこで人間の脳には、いまだ我々の知りえない計り知れない能力が存在している、とも結論づけていました。ではなぜ、ビリー・ミリガンは多重人格に陥ったのか、どうすればその様な多重人格に人は成るのか、誰しも疑問に思います。その答えが児童虐待でした。

 第三の視点が児童虐待です。映画の中で、犯人が最初の分裂した人格が現れたのは、母親の激しい虐待を逃れる為だった、と回想している様に、本でもミリガンの受けた激しい虐待について書かれています。心理学者は言います。激しい虐待を受けると、子供は自分が一体何者なのか、次第に分からなくなって行くのだと。つまりアイデンティティの揺らぎや喪失です。駄目な子だ自分の子ではないと否定され、厳しい虐待を受ける自我に変わり、超自我とも言うべき存在が新たな人格を形成し、本来の人格に代わって彼が出来なかった事を行うのです。これが多重人格発生の一つのメカニズムなのです。つまり映画の中の犯人は、本当は虐待の被害者であり、彼の犯罪は、彼の中にいるすべての人格を存在させる為に、彼自身にとって、どうしても必要な行為だったのです。殺人を認めるつもりはありません。しかし、突き詰めれば、殺さなければ、殺されると言う事なのです。

 私は虐待は絶対になくならない、と思っています。なぜなら、それを必要とし、それに依存する人間が現実に多数存在するからです。もし貴方が、私は子供に対して理性的で、権威的でもなく、抑圧的でもない、だから私は大丈夫だ、と考えるなら、多分大丈夫でしょう。でもこんな事もあるのです。2000年代の初頭、南半球のオーストラリアの国会で(急増する青少年犯罪への対策の一貫)として次の様な内容の法案が審議されました。“家庭内環境が少年の非行に及ぼす影響を調査する為、全国から家庭に問題のある10万世帯を選び継続調査する。その間該当の家庭から虐待等の通報があっても何も対処しない事とする。”この案に猛烈に反対したのが、ある女性閣僚でした。彼女は“子供は実験動物ではない”“これはれっきとした児童虐待だ”と反対しました。法案は結局廃案になりました。もっとも理性的な立場に立たねばならぬ大人の人間が、明文化された目的と、公共の利益に寄与する為、だけの主旨で、認識せずに児童虐待に加担しようとしたのです。もし貴方が公共の為にも子供はきちんと躾けなければならない、その為には多少の暴力を含む、懲戒権は認めて明文化すべきだ、と思っているなら、貴方はすでに精神的な虐待者なのです。忘れてはなりません。わが国では年間80人にも及ぶ児童が虐待に依り殺されている事を。

 WOWOW でこの映画が始めて放映された時、映画の終了時、解説者の一人が“おなかに傷があって助かるなら、殺された二人も傷を付けたら助かったのに”と言った主旨の発言をした。これはとても愚かで、非常識で、悲しい発言だ。少女のおなかの傷は、性的虐待の精神的な苦痛から逃れる為に、自分で付けた自傷行為の傷なのだ。彼女は誘拐の巻添えになったにすぎない。なぜ、犯人が他の二人を選んだのか、なぜ24番目の怪物が出現し、なぜ二人は喰い殺されねばならないのか、すべて映画の中に示されている。その理由が分かるなら、こんな発言は絶対しないはずだ。シャマラン監督はこう言っているのだ。モンスターは恐ろしい、だが自分の子供を虐待し、モンスターへ作り変える親はもっと恐ろしい、と。それを分かって欲しいと私は思う。

 それではこの辺で、ゴキゲンヨウ・・・・。

                       (2020・12・7)