虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

わたしの初夢

 公民館に隣接する空き家と空き地が、老人会に無償提供された。どうも、漏れ聞くところによると、わたしのブログの以前の記事(2022・02・19「空き家と廃園は「コモン」に」)が影響を与えたらしい。

 老人会では、早速会議を開き、これをありがたく拝受することにし、利用計画(改造・リホーム計画)を次の様に決めた。

①入口に土間(三和土)をつくり、真ん中に「薪ストーブ」を置き、炊事施設を備える。薪ストーブの周りには椅子を並べる。

②「囲炉裏」の間をつくる。天井は剥ぎ、梁をむき出しにする(①も)。囲炉裏には自在鉤を吊り、鉄瓶をかける。

③「カラオケ・ルーム」をつくる。もちろん完全防音室だ。

④外の空き地は、やわらかい土を入れ、芝生を貼る。財産区間伐材を利用したテーブルと椅子を置く。

⑤空き地の端には「カマド小屋」を建てる。

 直ちに資金集めの活動が開始された。老人会会員、俵津有志、東京と大阪の俵津会会員、友愛の精神を持つ俵津の支援者等々のみなさんから3千万近い資金がすぐに集まった。

 そして、俵津の建築関係者、一般住民のボランティアの方々の八面六臂の活躍で、3か月も経たないうちに、それは出来上がった。

 毎日二人が朝8時から夕方5時までつめる。月60人体制だ。これで年間回していく。仲良し二人がいれば、その友達や知り合いが集まって来るだろう 。話に花が咲くだろう。人が集まれば、番の二人も時間は自由になる。用があれば途中で帰ってもいい。みんなが無理なく自由に楽しく使えるようにしたらいい。

 薪ストーブや囲炉裏で、もちを焼こうか、めざしを焼こうか、焼き芋しようか、あれをつくろか、これもつくってみようか、という話になるだろう。長い昭和を生きてきた老人たちの独壇場の世界が繰り広げられるだろう。

 面白がって、若い人たちも寄ってくるかもしれない。子供達をつれたお母さんたちも来るかもしれない。

 5時以降は予約制にして、集まりたい人がやればいい。酒盛りも大いに結構だ。

 マキ(焚き木)は、解体された家の廃材や大工さんの作業場から出るハギレをもらえばいい。杉やヒノキの枝打ち材をもらってもいい。間伐したミカンの木でもいい。そのような話は人が集まれば必ずオラが持ってくる、わたしも持ってくる、という話になるもんだ。

 土間や囲炉裏の間は利用価値が高い。正月飾りの稲わら細工をしてもいい。竹細工、カズラ細工などもできる場になる。あれやこれや話して、小遣い稼ぎのできる方策を編み出せるかもしれない。

 お金を稼げるようになれば、みんなで食事に出かけたり、一泊旅行も楽しめるようにもなるだろう。俵津老人の世界がぐ~んと大きく広がってくる。

 子供に温かい燃える火を見ながら昔話を聞かせる場にもなる。演出効果は抜群の舞台となる。

 むかし、俵津には「はなし」のうまい人たちが大勢いた。佐藤深志さん、宇都宮英利さん、田中恒利さん、綿木史郎さん、・・・こうした「語り部」とも言える人たちの存在は地域にとって貴重だ。今もきっといるに違いない。

 ここは何より、話しの場、なのだ。はなしをしなければならない。俵津の歴史、さまざまな人物伝、滑稽な話、子供の頃の話、青年団時代の話、恋した話、昔話、苦労した話、金儲けの話、世の中の話、年金の話、生活防衛・やりくりの話、趣味の話、病気をした話、戦争の話、まちづくりの話、子や孫の話、ご先祖様のこと、農業のこと、真珠のこと、人生のはなし、この町の行く末の話・・・エトセトラ、えとせとら。

 たとえば、こんな話題も出るかもしれない。南海トラフ地震による津波で、俵津の建物が根こそぎもっていかれた時(そういうことのないことを祈るが)、次に備えるために巨大な何メートルもあるような防潮堤を築くべきか否か?東北大震災で被災した多くの海岸の町が、それを建設しているのを見てどう思うか?わたしなら宮城の女川町のように築かない道を選ぶが(海の見えない俵津のくらしは、わたしには考えられない)、みんなはどうなんだろう?。(国や県から強制された時、NOと言える主体は日頃から話しておかなくては作れないようにわたしには思えてならない。)

 カラオケルーム。ゴルフ・パチンコ・サテライトでの競輪、競艇、競馬・・などなど遊びは様々あるが、最も手軽でお金のかからないのがカラオケだろう。喉や肺を鍛え、健康にいいのも魅力だ。ストレス解消にもなる。友達作りにもいい。ここで、大いに声を張り上げてほしい。(カラオケに飽きたらファションショーをやったり、仮装大会をやったり、漫才や講談などいろいろな楽しみ方を開発したらいいと思う。)

 もちろん「通信カラオケ」を備える。利用料はやはり取った方がいい(1回200円くらいでいいのではないか。)。飲み物・食べ物は各自の持ち込みで。自主的・自律的にやろう。

 カマド小屋。むかし子供の頃、竈で炊いたご飯はうまかったねえ。あの味が忘れられない。特に鍋底にできる焦げメシは絶品だった。今の子供たちにも食べさせてやりたい。年寄りたちも懐かしい思いを持っているだろう。

 飯を炊く竈2つとも一つ、大鍋でお茶などを煎るおおきな竈がほしい。

 これらは災害時に停電した時にも役立つ。

 芝生の庭。ゆったりと仲間と語りながら、お茶しませんか。寝そべって、深呼吸しませんか。

 年寄り、もうあんまり働くのやめましょう。10時や3時には山にいても、降りてきて休みましょう。

 シマトネリコの木も5本植えた。夏にはカブトムシがわんさかやって来るだろう。親子連れでわんさか人が来るだろう。

 

 そんなこんなで、俵津が変わった夢を見た。たわらづライフがとてもとても愉快になった夢を見た。

 朝の光が差し込んでわたしの顔をまぶしく照らした。目が覚めた。夢だった。

 

                       (2024・1・31)

 

あんなこと こんなこと

 2024年(令和6年)は、「辰年はゆれる」と言われるその言葉通りに大激震から始まった。元日の能登半島地震、2日の羽田空港の航空機事故。まさかこんなことが・・・。

 厳寒の能登地震は悲惨だ。一瞬にして人命と暮らし(衣・食・住・仕事・・)を奪われた能登の人たち。その辛さ・苦しさは、いかばかりだろう。あの日から1カ月になろうとしているが復興支援の手は充分に届いているのだろうか。わたしの目には、石川県も政府もなぜか、どこか、対応が鈍いように映る。

 政治家も「裏金作り」に勤しむ暇があったら、身一つで能登へ出かけたらどうか、とさへ思う。

 そして、わたしが切実に思ったのは、「これは他人ごとではない。これは明日のわたしたち自身の身の上だ。」ということだ。南海トラフ地震が起これば、全く同じことが起こる。山は崩れ、道路は寸断され、家屋は倒壊し、津波に跡形もなくもっていかれ、・・・。俵津は孤立するだろう。間違いなくそうなる。さらに、伊方原発が被害を受ければ、事態はこの上なく深刻なものになるに違いない。あの原発「避難計画」などはまさしく「絵に描いた餅」になることが明確化した。

 よりいっそう少子高齢化・人口減少が進んだ将来では、もはや支援の手も届かなくなっているかもしれない。

 能登半島地震は、わたしたちに、この国の恐ろしい現実と未来の姿を突きつけた。

 

※ もし、お暇でしたら、わたしの以前の記事読んでいただけませんか(2020・04・01「俵津は、滅びない!」)。

 大地動乱の時代の南海・東南海・東海・首都直下の広域にわたる大地震の予測と対策について、地震学者の石橋克彦氏が描かれた雑誌記事を抜粋したものです。この「対策」を日本がとれば、過疎や消滅危機に苦しむ地域は滅びないし、日本も新しいステージに飛躍できると思って取り上げたのでした。

 今回の政府や石川県の地震対応を見ている限り、政府には「政策」を変える気は全くないことが分かります。能登は見捨てられるのではないか?そんな気さえわたしにはします。つまるところそれは、全国の俵津のような津々浦々の小さな町も、ということでしょう。わたしたちは今こそ、深く考えなければ、と思います。

 ずいぶん長いご無沙汰でした。申し訳ありません。

 後期高齢者になったわたしには、昨夏からの半年間は身も心もなかなかに “たいへん” な期間でした。夏の「沸騰」する猛暑(しかも少雨)。母の終末期の看取りと葬儀。まったく経験したことのない秋の(「大」の字をを付けてもいいような)旱魃(秋ひでり)。カン水作業に追われる毎日(クーラーのない園地の柑橘樹は枯死寸前でした)。さすがのわたしも体調不良をおこしてしまいました。体力・気力の減退・・ヒロウコンパイです。そして、迎えた収穫の季節。ホント忙しかったです。(まだポンカンの収穫が終わってないようなテイタラクです。)

 トシには勝てませんなあ。体調はすっかり良くなりました。またボツボツ、ブログ再稼働します。おつきあいください。

 俵津の「まちおこし」に動きがありました。以前このブログで紹介しておりました「ゆめさく」の “夢起こし” がいよいよ始まったのです!(2022・12・13に書いた「“ゆめさく”の夢よ、咲け!」をご覧ください。)

 まずは、昨秋、彼女たちが書き、全戸配布した文書から読んでください。

 

                                                                                ゆめさくからのお知らせVol.1

俵津地区の皆様へ

 現在、旧JA明浜支所を皆様が集まれる場所に改築しています。

 一階にお年寄りが身体を動かせるジム、そして喫茶店。二階に大人のジム、そして子供達の遊びを通して体力を作るジム。街の人達が気軽に品物を出せるミニ道の駅。

 そんな人と人が交流できる場所に今、生まれ変わらせようとしています。

 何もない俵津にこんな場所が出来たら少しでも楽しくなるのではないか?そして、体力を付ける事が健康で長生きをサポートし、病気にもなりにくい、病院代もかからない、子供たちにもこれから先、生き抜く力を養わせたい、そんな思いを皆んなで持ちました。そして今に至っています。来年にはオープンする予定です。

 皆様にも色々ご協力願うと思いますが、何卒よろしくお願いいたします。

 PS、また写真が撮れましたら掲載させて頂きます。

                         ゆめさく屋

 

 すでに、屋根の防水工事を終え、内装工事も着々進展しています。「年寄り向けのジム」には、「ヘルストロン治療器」を10台ほど置くそうです。あの宇和の「気さくなスーパー木村チェーン」前の以前激安酒店だった所にある評判のあれです。現在俵津からもかなりの人が毎日通っておりますので、出来たあかつきには結構人が集まりそうです。彼女たち、なかなかいい所に目を付けたなと思います。

 海側の駐車場だった所は様相一変、公園になっております。スマイルとの共同事業です。花畑の囲いのブロックには小中学生と市民が描いた絵が華やかに彩られています。人を寄せる工夫がすみずみまで計算されています。

 ここを起点に、俵津がすこしでも発展する事を祈ります。

 12月22日、今冬最初の雪(けっこう大雪といっていい雪でした)のあと、車が通れるようになった時、友人二人と宇和の市役所横に新しくできた「ゆるりあん」へ行って来ました。二階の飲食店で“ブリの照り焼き定食”を食べ、城川郷の銘酒“尾根越えて”を飲みながら(両方とも格別の味でした)語り合いました。そこを出た後は隣のカフェでコーヒーを注文し、テーブルと椅子がたくさん置かれた憩いのスペースで話の続きです。師走のひととき、都合3時間ほどほっこりと気持ちのいい心豊かな時間を過ごしました。

 「ゆるりあん」はわたしはじめての体験。いい所が出来たな、と思いました。何年か前、東京練馬の区役所を訪れたことがありましたが、そこはまことに区民のための楽園の様なところでした。一階はホールになっていてグランドピアノが置かれ、区民が演奏会をやっておりました。障がいを持つ人たちが経営するカフェ(軽食堂)があり、会議室がいくつもある、もちろん最上階には展望のいい食堂がありました。今、公共建築の設計思想はこのようになっているんだなといたく感心させられたことでした。西予市もその流れに乗った(規模は小さくても)施設をつくったのだなと了解したのでした。

 12月20日、藤本義男くんが亡くなりました。わたしより一つ下で、享年74。無茶々園俵津支部の仲間でした。ハワイも一緒に行きました。寂しい限りです。こころから冥福を祈ります。

 1月7日。俵津老人クラブの新年会が宮崎旅館で行われました。コロナの第10波は広がっていますが、みんなもう恐れなくなりました。やはり仲間と飲む酒はいいものです。二次会には「うきな」へ行きました。そこで、前会長の永山福重さんが「四月の総会の余興で〈カラオケ会〉をやろうじゃないか!」と言い出しました。趣旨はこうです。

・今まで総会の余興は、文化協会(俵津支部)にお願いしていたが、協会が著しい人数減少でやれなくなったので、老人クラブが自前でやらざるをえなくなった。

・誰かに何かをやってもらって、それを見て楽しむという旧来の老人(クラブ)のありかたを見直す時期に来ているのではないか。今の老人は若く元気で自分でやって自ら楽しむ能力を十分持っている。老人自ら舞台に上がって自分で楽しむスタイルをつくろうじゃないか。

・自分が会長の二期4年間は、コロナで総会がやれなかった。今年は何としてもやってもらいたい!盛り上げるための起爆剤をつくろう!また、年々総会参加者が減っている中で、一人でも多く参加者を増やす手立てもいる。それがこの「カラオケ会」だ。

・そして、もっともっと楽しい老人クラブをつくろう!もっともっと役員や会員同士が仲良くなろう!

 熱い前会長の言葉にみんな感動したのでした。うららの春、面白いことが起こりそうです。たわらづライフ、ますます楽しくなりそうです。

 

 そういうわけで、今年もよろしく。

                      (2024・1・24)

 

 

 

 

 

80のばあちゃんが娘になった!今年の「じじばばー」は—

10月8日に行った「じじばばスーパー演芸会・2023」について書いておきます。プログラムを見ながら、順を追って。

                   ◆

❤「来賓祝辞」。今年は「公民館」が「地域づくり活動センター」になった記念の年です。センター長の濱田直浩氏にお願いしました。

❤あけはま座の「長崎東海・俵津ものがたり」。これは前回触れました。

❤オープニング「皆の衆」の役員全員合唱。これは9月20日の役員会で発案された企画です。これで、役員全員が出演参加できるかたちをつくれたこと、とてもよかったと思います。明るい法被を着て舞台と会場通路に分かれて並び、うちわで手を叩きながら観客と一緒に尾下キクミさんに唱和する。と、そこに、大ハプニングが。なんと、去りかけたあけはま座の面々が舞い戻り、会場前面に並んで踊り始めたのです!役員もつられて通路を踊り歩く。いやはや、思わぬ賑やかで華やかなオープニングになりました。

❤カラオケ。今年は昨年より歌い手が13人も減りました。年寄りになると体調からなんから色々と事情が出て来るもんなんです。それで、フルコース歌っていただくことにしました。

❤さあ、「あじさい娘」の登場です!片岡春江さん・尾下容子さん・永山ナカ子さん・川端捷代さんの役員4人が結成したグループです。「血液ガタガタ」という歌に合わせて、それぞれA型・B型・O型・AB型に扮した4人が自ら振り付けた滑稽な踊りを踊っていくのです。そこにそれぞれからむ男性2人(伊勢富雄さん・網干利喜夫さん)。会場は大爆笑。演じた4人のばあちゃんは、頬を紅潮させ一気にむかしの娘さんになっていました。いやいやいや、こんなのがいいのです!いいのです!

 ちなみに、「あじさい娘」というグループ名はわたしがつけさせていただきました。「俵津あじさいロード」を作るために献身的に活躍されてきた彼女たちにはこの名がふさわしいのではないかと、敬意をこめて。

❤婦人会の出し物。今年は川崎美里婦人会長に無理を言って、参加していただきました。様々な出し物に酔いしれ、笑い転げたあとの緊張をときほぐす「ちょこっと体操」をやっていただきました。ほんとうにありがたいことです。来年もおねがいします。

                   ◆

10分間の休憩の後はいよいよ第2部です。

❤今年もゆめさく一座はやってくれました!「水戸黄門」パート2です!脚本は昨年の宇都宮末夫さんのものを踏まえ、宇都宮由美子さんが書いてくれました。真珠の横流しを企む悪代官と悪徳商人越後屋の悪を懲らしめる黄門様ご一行の物語です。役者ぞろいの一座に今年はセンター職員の伊藤夕子さんも加わっていただき花を添えていただきました。

ゆめさく一座、ますます快調です!一座のみんなは、「うきな」で“うちあげ”もやったそうです。チョー盛り上がって、もう1回やるそうです!

❤今年は、宇都宮末夫さんのギター演奏のほかに、新たに西村初美さんが「オカリナ演奏」、山下省三さんが「尺八演奏」を披露してくれました。こういう新しい演目が次から次と出てくるようになるのは本当に嬉しいものですね。

❤中学3年生の佐藤歌さんの「フラダンス」。ほんとうに素晴らしかった!彼女が小学生の時に演じた時も見ましたが、より洗練されたみごとなダンスになっていました。佐藤茂直さんのお孫さんです。茂直さんによると、歌さんは福島のあの「フラガール」になりたいと言っているそうです。わたしも見た蒼井優主演の映画『フラガール』、あの世界へ!です。彼女には才能を感じます。是非実現させてください。

 こういうふうに才能ある、将来ある若者に発表の場を提供できることも、「じじばばー」の役割であり、老人クラブの役割であることに思いをいたせることができること、わたしたちの喜びであり誇りです。

❤永山福重前会長が昨年、「俵津を元気にしたい!俵津を活性化したい!」と言われておりましたが、微力ながらそこへ向けての老人パワーを発揮できたのではないでしょうか。

 公民館、いや俵津地域づくり活動センターにみんなが集まり、そこを中心にして老若男女が力を合わせて“たわらづパラダイス”を創っていけたら!と思います。

                  ◆

 伊勢富雄副会長が、こんなことを言っていました。

「町民運動会がやれなくなって、他の行事もだんだん縮小傾向にある中で、この「じじばば」は俵津地区民の大事な行事になってきつつあるんじゃないか。これを大事に地域全体のイベントにしていくことが俵津地区発展の活性化につながっていくのではないかと思う」。

 来年も、もしやれるとしたら、老人クラブ会員だけでなく全戸に案内状を配って、年寄りも若いもんも子供も、みんなに来てもらって賑やかにやりたいですね。

 芸ごころあるとわたしがにらんでいる天晴農園の面々にも出てもらいたい。千葉から移住してきた山下夫妻にも。その他のみんなにも「じじばばー」を開放したい! 

 夢が、広がります!

 今日は俵津の秋祭りの日です!絶好の祭り日和です!

                     (2023・10・22)

「じじばばー」に東海先生登場!

 10月8日の「じじばばスーパー演芸会・2023」、あけはま座「朗読劇」・プロジェクター紙芝居の2年目には、『長崎東海・俵津ものがたり』をやっていただきました。紙芝居製作が成った今年、俵津の人たちに東海先生を知っていただく絶好の機会だと思ったからです。

 あけはま座の登場の前に、長崎東海研究会会長の山下重政くんが「東海先生紹介」をしました。その際、会場に配布した資料をここに掲載しておきます。山下くんが中浦靖二くんと二人で作ったものです。

 

          『赤ひげ先生』長崎東海

ながさき とうかい   文久3年 昭和3年

長崎   東海    (1863~1928) 医師

 

高知県高岡郡仁井田村松葉川(元窪川町 現四万十町)出身。明治35年に俵津に東和病院を開業し卯之町、山田、皆江、等様々な地域に開院。

『巧言して患者を迎えず、去る者は追わず、来るものは拒まず、貧乏人は銭取らず』を実践し村内はもとより郡内外の人々に慕われた。

豪放な性格と相まって外科医術に優れ、北里柴三郎に師事して年に一度は北里研究所での上京研修を怠らなかった。また政治・芸術・殖産等多方面に置いても多才な人物であり地域の発展に寄与している。特に生涯を明浜地域の医療に尽くし昭和3年2月25日、64歳で没した。

住民の手により俵津(大浦)を一望できるお大師様近くの墓所にて俵津を見守るかの様に静かに眠っている。

 

 皆さん牧野富太郎(まきのとみたろう)博士を知っていますか?高知県佐川町に1862年(文久2年)に生まれ、1957年(昭和32年)に94歳で亡くなった植物学者です。前月迄放送されていたNHKの朝ドラ『らんまん』の主人公槙野万太郎(まきのまんたろう)のモデルとなった人物で独学で植物の知識を身につけ植物分類学の研究に打ち込み新種や新品種など1500種以上の植物を命名し、日本植物分類学の基礎を築いた一人として知られています。

 今日は奇しくも同県の佐川町より南西に約60㎞位離れている松葉川で文久3年11月29日に生まれた長崎東海先生の話です。ほぼ同年代にて高知で幼少青年期を過ごしています。俵津人にとっては長崎東海先生は牧野博士に引けを取らないほどの偉人です。

私の小さい頃、『昔長崎と言う偉いお医者さんがシンタの沼地を埋め「長崎新田」を作った』と聞かされました。

 後年「明浜町誌」が発行され40歳で俵津に来て「東和病院」を開業され亡くなるまで続けられました。

 病院の創立10周年を記念して大浦にあった俵津尋常小学校に門柱を寄贈され、昭和41年明浜町教育委員会の要請により明浜東中に移転、さらに明浜中学校に統合されると昭和61年俵津小学校に、平成29年小学校の統合により明浜小学校になるや門柱を廃棄する事になりました。

 そこで私の同級生4人(プラス故酒井節子/宇都宮氏康/日越三雄)が中心となり門柱存続の寄付を募り、俵津地区及び関係者の協力を得て明浜小学校の裏門に平成29年9月24日に門柱と記念碑を設置する事が出来ました。

 その折、高知市在住の長崎家の御子孫を探し出す事が出来ご臨席頂く事が出来ました。その時に東海先生の日誌が存在する事がわかりました。それから日誌は西予市に寄贈され「長崎東海日誌研究会」(愛媛医療史研究者/冨長泰行・宇都宮氏康・市職員/浅井裕史課長・市学芸員別宮博明・山下重政・中浦靖二)を発足し日記の翻刻から始め現在に至っています。

 日誌は医療日誌であること等から『他人には見せるな』と書いていますが医療史の観点からはとても重要な資料だと思われます。一部参考までに、医療行為(診察地域)としては俵津を中心に旧東宇和郡全域、旧吉田町全域、三瓶町全域に渡っています。

 特に俵津地区は私が見る限り現住民の1/3は関係があるかなと思います。その為日誌全文の公表は難しいと思われます。

 この日誌には、医療の他、天気、天災(地震等)、産業、文化、交通等多岐に渡って記されています。従ってこれらをどの様に残して行くかが大切な事だと思います。

 それでは、固い話はこれくらいにして長崎東海先生のエピソードたっぷりの紙芝居をお楽しみ下さい。

 

morino-shimafukurouから

 ・東海先生は、あの牧野博士とほぼ同年(1年違い)に生まれていたんですね。なん  でここに牧野富太郎が、と思いましたが二人の苦心の発見!ですね!。

 ・長崎東海先生を知らない人、知ってても名前くらいで詳しく知らない人は、この俵津で確実に増えています。日本で数少ない「医療日誌」を残した人物として全国区になりうる東海先生は、わたしたちが誇れる人です。もっともっと普及活動をしていきたいですね。

 ・長崎東海研究会は、これから「日誌」の出版を目指す段階を迎えます。が、これは容易なことではありません。気の遠くなるような手間とお金がかかります。まさに大事業です。みなさまのご理解とご支援を何卒宜しくお願い致します。

                       (2023・10・20)

今年もやったぜ!われらの「じじばばー」!

 10月8日(日)、俵津地域づくり活動センター・大ホールにて、「じじばばスーパー演芸会・2023」を開催しました。

 この日は、まことに残念ながら、雨。しかも、冬が来たかのように寒かった。「秋日照り」かのような天気がずっと続いていたのに、なんということでしょう。この日だけ、こんな天候になるとは(おお神よ!)。これでは年寄りは見に来れない。

 観客数は昨年の半分くらいでしたが、熱気は変わらず、熱いパフォーマンスが繰り広げられました。

 以下にプログラムとスタッフ表を掲載しておきます。エンドロールは、今も回っています。

                   ❤

 

              2023・10・8

        「じじばばスーパー演芸会・2023」プログラム

                            主催・俵津老人クラブ

                      協力・俵津地域づくり活動センター

                                ゆめさく一座

                                 あけはま座

                                 俵津婦人会

・開会の辞   門家久子(司会)

・会長=実行委員会委員長あいさつ  市川以世男

・来賓祝辞   濱田直浩 様(「センター」長)

 

                 第1部

 

あけはま座「朗読劇」・プロジェクター紙芝居「長崎東海・俵津ものがたり」

 おまけ♡ずっこけサザエさんダンス(・酒井千昔・浅井裕史・脇本美千代・市川京子・平野恵子・大塚英子・河野美紀・中川裕子、+「東海先生の紹介」山下重政)

オープニング  「皆の衆」(村田英雄) 尾下キクミ&役員全員の合唱

カラオケ

1、山下省三  「望郷じょんがら」(細川たかし

2、宇都宮英美 「女の海峡」(都はるみ

3、加賀城一郎 「九頭竜川」(五木ひろし

4、中村ひずる 「はぐれ草」(香西かおり

5、宇都宮重郎 「さすらい」(小林旭

6、三好節子  「女のブルース」(藤圭子

7、三好富雄  「夜桜」(山川豊

8、東 新三  「絶唱」(舟木一夫

9、高月信夫  「友禅流し」(牧村三枝子

 

あじさい娘(片岡春江・尾下容子・永山ナカ子・川端捷代、+伊勢富雄・網干利喜夫)「血液ガッタガタ」ブルース(バラクーダ)

 

10、樫本宏子 「酒よ」(吉幾三

11、宇都宮頼男 「風蓮湖」(山内惠介

12、伊勢富雄  「ネオン川」(バーブ佐竹

 

婦人会による「ちょこっと体操」(麗しき愉快な仲間たち6人)

 

                〈休憩10分〉

 

                 第2部

 

ゆめさく一座、芝居「水戸黄門

 (脚本・宇都宮由美子。配役➡・門家久子(水戸光圀)・小島理世(助さん)・宇都宮由美子(格さん)・酒井一喜(八兵衛)・片岡清美(お銀)・中山知哉(弥七)・清家真知子(ばば様)・宇都宮重郎(おみつ)・網干利喜夫(悪代官)・濱田直浩(越後屋)・藤本美保(ごろぞう)・上甲文代(子分)・伊藤夕子(おゆう))

舞踊

 島原糸美  「すみだ川慕情」

オカリナ演奏

 西村初美  「カッコー」

ギター演奏

 宇都宮末夫 「北の旅人」(石原裕次郎

尺八演奏

 山下省三  「津軽平野」(千昌夫

カラオケ

1、宇都宮敦  「思い出の渚」(ザ・ワイルド・ワンズ)

2、門家久子  「越佐海峡~恋情話」(真木柚布子)

3、酒井由紀  「おんな舟」(泉ちどり)

4、西岡 真  「親子船」(鳥羽一郎

5、中村重直  「はぐれコキリコ」(成世昌平

6、小浜節子  「襟裳岬」(島倉千代子

 

フラダンス

 佐藤 歌  「タヒチアンダンス」

 

7、宇都宮通吉 「長崎の女」(春日八郎)

8、藤本美保  「酔歌」(吉幾三

9、西本宏和  「残照」(山内惠介

10、山下由紀江 「潮騒みなと」(椎名佐千子

11、中山廣繫  「運河」(吉幾三

 

・閉会の辞  門家久子(司会)

閉会のあいさつ  伊勢富雄 (副会長)

 

※ 「景品」があります!閉会後、出口でお受け取り下さい。

  本日はありがとうございました!!

 

 

                 ❤

    「じじばばスーパー演芸会・2023」役員「諸係」分担表

 

1、実行委員長  ・市川以世男

2、会計   ・尾下容子

3、音響係  ・市川以世男

4、事務局  ・宇都宮氏康

5、体温チェック&手指アルコール消毒指示係(4人。1階玄関およびエレベーター付近)➡・宮崎渡・西田初敏・川端捷代・永山ナカ子

6、受付・会場係(8人)➡・中村久・佐藤茂直・日越長子・三好節子・尾下容子・水井ミズエ・片岡春江・西村初美

7、タイトル書き係(1)➡・役場職員or永山福重

8、マイク・緞帳係(3)➡・網干利喜夫・山下省三・中山廣繁

9、「景品」渡し係(8)➡6に同じ

   ➡手が空いている人は全員で手伝いましょう!!

10、司会(2)➡・門家久子・尾下容子

11、花係(2)➡門家久子

12、大・小道具係(4)➡・中山廣繁・中山知哉・宇都宮勝義・宇都宮通吉

13、連絡係(2)➡・伊勢富雄・宇都宮氏康

14、写真係(1)・高月信夫

15、照明係(サイドライト)➡・西田初敏

16、総務➡・永山福重

 

※ 協力➡センター・ゆめさく一座・あけはま座・俵津婦人会

 

※手薄なところへ、応援してください!

                      (俵津老人クラブ・実行委事務局)

 

                        (2023・10・14)

 

 

 

冨長さんの東海記(10)

          地域が見える「東海日誌」

                       冨永 泰行

 

 “明浜の赤ひげ”こと長崎東海先生について10回にわたり述べてきた。1901(明治34)年から昭和初期までの「東海日誌」が残されていたおかげである。日記資料というのは個人の記録であり主観的なものであるが、その人の行動や思いがどんな時代背景の中で起こっているのかを考えるのは重要な研究である。近年県内では川東竫弘先生による「高畠亀太郎日記」「岡田温日記」等の翻刻がある。

 「東海日誌」は地域の第一線医療の記録として外来、往診、入院、手術、伝染病への対応等詳細に記録されている。こんな医師日記はあまり見られない。

 同時に東海先生は郡議や村議であり、郡制や地方政治もよく分かる。郡制は愛媛では1897(同30)年に施行され、1923(大正12)年に廃止となる。東宇和郡役所は卯之町に置かれ、郡長、郡議、郡役所職員がいた。日露戦争後の道路・港湾改修事業や宇和海航路の拡充に奔走した足跡がよく分かる。東海先生は郡議1期で軸足を医療活動に置くが、10(同8)年には郡議に再登板している。

 村議は「1級選挙」「2級選挙」の記載がある。調べると、納税額が多い者から納税総額の半分以上にあたる者が半数の村議を、残りの者が半数を選出した不平等な仕組みであった。また、東海先生は毎年正月の学校での拝賀式に参列し、天長節新嘗祭(にいなめさい)などの天皇制確立期の諸行事を先頭に立って担った。明治天皇大喪の礼大正天皇即位式、それに関する村の動きも分かる。日露戦争では出征兵士を「天皇陛下万歳」と送り出し、旅順陥落などの後は村長・校長・吏員らと祝宴。他方、戦死者の「遺骨葬送式」を挙行し、医師としては近親者の戦士で狂乱する女性の診察も・・・。

 第1次大戦でも青島陥落を祝い、日章旗を立てて船を出し「遊山会」、青年たちは提灯行列で祝った。まさに村から支える戦争国家への道が垣間見える。

 村の生活様式や民俗の研究にも有意義だ。和霊祭に宇和海浦々から船を連ねて向かう姿や、山田薬師祭、法華津湾の村祭りの様子もうかがえる。テレビ・ラジオのない時代に、村に訪れる壮士芝居や相撲興行。「初老宴」や還暦祝い、「尚歯会」(老人会)、亥(い)の子、「八日吹き」、電信電話の開設、養蚕の繁忙期の様子。大崎鼻での第2鶴島丸沈没事件(12年)、初のカレーライス(17年)などなどー。

 東海先生は年に何度か上京するが、その旅の事情も興味深い。07年4月2日、娘の進学のための上京には、俵津から宇和島を経て八幡浜ー川之石ー三崎、そして別府に1泊。そして長浜ー高浜ー今治多度津ー高松を経由して神戸着。大阪で1泊の後、汽車で新橋に着いたのは何と7日の午前であった。この長旅、この時間感覚に驚くが、一面豊かさも感じられる。四国新幹線が叫ばれる今日から見て。

                     (冨永 泰行・近代史文庫会員)

         2023年(令和5年)9月12日火曜日、愛媛新聞「四季録」掲載

 

●morinoshimafukurou から

 「冨長さんの東海記」は今回で終わりです。

 長崎東海、まさに一代の傑物というにふさわしい人物だと思います。冨長さんに東海の全体像が分かる記事を書いていただいて、心からありがとう!を申し上げたく思います。

 わたしは今、「移住者」についてよく取り上げておりますが、東海さんこそその俵津移住者の代表的存在と言えるのではないでしょうか。東海さんは俵津で自分の生を大きく花開かせた。生ききった。俵津を活かしきった。そして、俵津を創った。わたしたちが東海さんから学ぶことは実にたくさんあるのではないでしょうか。

 さて、わたしたちの「じじばばスーパー演芸会・2023」。いよいよ一カ月後に迫りました。そこでは、あけはま座のみなさんが「プロジェクター紙芝居・長崎東海ものがたり」を演じてくれます。長崎東海研究会会長の山下重政くんがまず「東海先生」の紹介をし、その後浅井裕史くんたちが紙芝居、そして最後にはダンスまでもある?!という大スペクタクル(!)・・・とか。どんな展開が待っているのでしょうか。楽しみです。みなさん!ぜひ来て見てください。10月8日、ごご1時からです!

                        (2023・9・13)

冨長さんの東海記(9)

          政治家・長崎東海先生

                     冨永 泰行

 

 中国の故事に「小医は病を医(いや)し、中医は人を医し、大医は国を医す」と。現代においても医師でありながら、政治家になり「世直し」をめざす人は少なくない。長崎東海先生は「中医」「大医」をめざしたのだろうか。

 土佐から明浜に移転開業して5年目の1907(明治40)年、法定の郡市医師会が設置されることになった。3月に東宇和郡医師会の結成総会が卯之町で開催され19人が参加した。岡芳太郎会長と3人の幹事が選ばれ、東海先生は幹事の一人となった。13年から4年間は郡医師会長に選任され、14年7月の県医師会の結成にも参加した。

 医師会役員としては、伝染病の予防や医療の交流、会員の身分を守る司法関係などがあるが、とりわけ看護婦・産婆養成の活動は注目される。

 愛媛における看護婦養成は日赤が1894年に看護婦養成所を設置し、以後郡市医師会にも広がっていった。

 長崎東海は、1908年に「海浜産婆看護婦養成所」を立ち上げて実績をつくり、11年には郡医師会主催で「簡易産婆講習会」を、東部(野村)、中部(卯之町)、海岸(俵津)の3カ所で開催。いずれも夜間講習で自身連日のように講義した。以後も講習会は続けられ、13年「海岸産婆業組合」結成に結実。こうした地域における人材育成への貢献は貴重な実績だ。

 また、東海先生が政治活動に一歩踏み出したのは07年ごろ。この年9月には郡会議員となり、翌年俵津村会議員にもなった。日露戦争の「戦後経営」が政策課題となり、教育振興や道路事業が論点の時代であった。

 東海先生は翌年開校される農蚕学校の開設場所や道路拡張事業では俵津線等に尽力した。郡会の当初議会では1~2週間卯之町に「出張」、病院も大変。

 土佐自由党の系譜からか政友会の立場で、08年の衆議院選挙ではその当選のため奔走した。当時の県内選挙区は松山市(定数1)、郡部(7)。東海先生は郡部の大選挙区で渡辺修、武市庫太の当選を期した。

 また、船による移動が主流の時代。08~09年に東海先生は宇和海沿岸の定期航路の充実のために精力的に動いた様子がある。結果、11年に宇和島運輸八幡浜宇和島の定期航路ができて吉田湾・法華津湾・三瓶湾等をつなぐことができた。

 政治活動に熱心な東海先生であったが、11年の政友会の「県議候補者」に推薦されながら、家政・業務・脳症の障害があるとして固辞した。この年2期目の群議にも出なかった。この時点で軸足を町医者に置いて生きる決意をしたように思われる。しかし以後も、原敬政友会総裁の演説会(13年松山)、「憲政の神様」といわれ普選運動をすすめた尾崎行雄(13年卯之町)や労働農民運動の指導者賀川豊彦の演説会(27年宇和島)に参加している。政治熱は続いた。

                      (冨永 泰行・近代史文庫会員)

          2023年(令和5年)9月4日月曜日、愛媛新聞「四季録」掲載