虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

冨長さんの東海記(8)

          「貧病人は銭取らず」

                     冨永 泰行

 

 山本周五郎の「赤ひげ診療譚」では新出去定(にいできょじょう)先生は、大名や富豪からは高い医療費を取り、貧乏人からは取らなかった。

 “明浜の赤ひげ” 東海先生はどんな対応をしていたのか。「南予案内」(1910年刊)掲載の病院広告では、「来るものは拒まず去る者は追わず、貧病人は銭取らず」とあり、病院の看板(大正末以降)には「証明ある貧民は無料」とされている。日記にはどう記されたか。

 1902(明治35)年6月には膝関節炎手術をしたが「これは窮民(きゅうみん)にして無料救療患者なり」と記した。

 11(同44)年8月には白浦地区の患者を往診したが「同家は赤貧者にして見受ける所生活難なり」と、往診料として差し出された1円のうち50銭を見舞いとして返却。大いに喜ばれた。

 12(同45)年3月田之浜の窮民患者某(69歳)の面部シフィリス潰瘍を局麻手術したが、医療費は無料とした。さらに7月には白浦に往診したが「貧家にして救を乞う、之を容れる」と記した。このように貧困者には医療費免除等を実施した。

 さらに16(大正5)年9月には「窮民救療広告紙を、野村・下宇和・貝吹・横林・惣川の五か村役場に送る」と記している。困窮者の医療費免除申請のようなものであろうか。

 行き倒れなどの対応もした。某軒下に行き倒れ人の死亡確認、死体検案したと。

 ところで、明治大正期の医療費はどのようになっていたのか。

 現代日本の医療費は原則として公定価格であるが、健康保険法施行(27年)以前は自由料金制で、各自の医師が料金設定できた(「診療報酬の歴史」)。ただし、06(明治39)年に医師法が成立する頃から各郡市医師会ごとに診療料金表を決めることになったようだ。

 東和病院の医療経営はどうだったのか。医療費の患者負担は盆・暮れの2回払い。旧暦の12月末と7月15日の前後1週間ほどが会計担当が忙しいと例年の日記にある。患者からの徴収と薬屋への支払い等だ。この時期はおのずと患者も減少した。

 日露戦争後、06年1月(旧暦年末)には「薬価(患者負担)の払込みが悪く閉口」「自分の開業以来例なきこと」と記した。

 08(同41)年2月1日(旧暦年末)には「債鬼(さいき)来る、防戦に苦しむ、当年は金融逼迫(ひっぱく)の為病院収入も六分方なり」とある。「債鬼」とは借金取りのこと。

 14(大正3)年1月28日には「薬価の如(ごと)きも平常は八分の集金あるに、本年は漸(ようや)く五分なり」と厳しい状況を記している。決して容易な医療経営のもとでの負担減免ではなかったのだ。

 また、東海先生は差別反対の姿勢も明確だった。05(明治38)年戦勝記念宴で、村人の一人がある看護婦に向かって「エタノ子云々(うんぬん)連呼シ止マズ」、東海は「戯言(ざれごと)にも程がある」とその不都合を譴責(けんせき)した。

                     (冨永 泰行・近代史文庫会員)

         2023年(令和5年)8月28日月曜日、愛媛新聞「四季録」掲載          

                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 また、東海先生は差別反対の姿勢も明確だった。05(明治38)年戦勝記念宴で、村人の一人がある看護婦に向かって「エタノ子云々(うんぬん)連呼シ止マズ」、東海は「戯言(ざれごと)にもほどがある」とその不都合を譴責(けんせき)した。

                     (冨永 泰行・近代史文庫会員)

        2023年(令和5年)8月28日月曜日 、愛媛新聞「四季録」掲載 

冨永さんの東海記(7)

          東海先生の外科的治療

                     冨長 泰行

  

 医療技術の進歩の歴史は一般的には記されても、ある地域・ある時代の住民が実際にどんな医療を受けられたのかは、あまり語られてこなかった。

 明浜の赤ひげと言われた長崎東海先生は、愛媛に来る前の土佐時代から乳がん手術を成功させ名を馳(は)せていた。1902(明治35)年に高知病院で外科研修を終えてからは、さらに積極的に外科的治療に取り組んだ。

 その年の5月には、37歳の卵巣嚢腫(のうしゅ)の手術を4時間半かけて実施し、自身初の摘出術に成功。歓喜のあまり思わず万歳と叫んだと記されている。

 愛媛で開業した翌年11月には吉田病院の田村東洋医師の支援を受けて「外科的大手術の共同施行」を3例実施。まず45歳女性の子宮筋腫手術を3時間で施行。翌日は子宮頸(けい)がんの手術をしたものの既に直腸壁に浸潤しており子宮全摘の余地なし。続いて大脱肛(だっこう)のバクレン手術をして午後1時に終了した。

 05年1月には、高山村からの往診依頼に応えて看護婦を従えて出かけ、村医の立ち合いで、緑内障の疼痛(とうつう)激甚患者(77歳)の全眼球摘出術を実施した。

 翌06年4月には、解剖も実施。多年の心臓病(現在エリシペラス)患者の局所解剖であったが、本人の生前の意思に加え家族の承諾も得て行った。医師や看護婦、近親者の見学を許し、葬儀には病院から弔旗、菓子料を送った。医業界の進歩公益への義援金を募集して遺族に慰する予定、と記されている。

 同年9月の筋炎全麻術では、とんだ「大混雑」を起こしたとの記述。これは、手術室が海岸側の窓から誰でものぞけたためであったようだ。東海日誌に「手術真最中、室外より傍観せる者創面に驚き脳貧血を起し、戸外なる海に転倒し前額部及び頭部の二ヶ所負傷、海水中に浮沈す。直ちに村人が海水に飛び込み之を救い応急手当をなさしむ」と記している。今では考えられない事態である。

 結局この年は、64件もの手術を行い、うち「全麻手術」が34件を数えた。

 12(大正元)年10月午後6時過ぎ野福峠越えの伊賀上地区より往診依頼。午後8時騎馬で出発、同10時患家到着。腸嵌頓(かんとん)(脱腸か)と診断し翌日手術と決し、翌日未明俵津に特使を派し、外科器械その他を取り寄せて看護婦を呼び、地元の医師らも立ち合い、午前11時より開腹手術、正午終了。翌朝まで看護婦を付き添いにとどめ、東海先生は術後帰途に就いた。患家での開腹手術には驚かされるし、患家に看護師を付き添わせるのも今では考えられない。

 今では臓器別に専門化している外科治療であるが、東海先生は乳がん、子宮がん、瘰癧(るいれき)、痔核(じかく)、陰嚢、子宮掻爬(そうは)、妊産婦摘出、散弾摘出等多分野にわたり、ある時には在宅でも実施。驚くばかりで、この客観的評価は今の私の範疇(はんちゅう)を越えている。

                     (冨長 泰行・近代史文庫会員)

         2023年(令和5年)8月21日月曜日、愛媛新聞「四季録」掲載

冨長さんの東海記(6)

        東海先生のあくなき分院構想

                     冨長 泰行

 

 明浜への野福峠のトンネルを抜けると宇和海が一望できて心が洗われる思いだ。春にはつづら折りの道沿いに見事な桜が咲き誇る。遠くに戸島、日振島が一望できる。俵津から法華津湾岸を西に行けば、高山と大崎鼻には元ハンセン病患者の詩人塔和子さんの文学碑がある。ご本人が50年ぶりに里帰りした2007年の除幕式には私も稲葉峯雄さんらとともに参列した。

 ところで1902(明治35)年に俵津に「東和病院」を開業した長崎東海先生(39歳)であるが、土佐時代同様に本院ー分院構想を常に抱いていた。着任時に既に宇和の山田村に「山田分院」の構想を持ち、土佐から山崎修斎医師を招いて年内には開院。翌03年6月8日には開院式を開き60人が参加した。爪立峠を乗馬で行き来したが、長く続かず04年9月には閉院した。

 ところがこの時同時に「卯之町計画」を各方面と相談し、05年4月には医師確保のために上京。伝染病研究所に北里柴三郎を訪ね、そこに勤務する「無二の親友」浅川範彦(土佐出身)に頼み込み、院長として坂田主一(熊本出身)の招聘(しょうへい)に成功する。5月20日には安藤知事に直談判して「卯之町病院」開設について合意を取り付け、7月1日卯之町の明治館を改修して開院された。管理運営には妻・兎苗の兄弟である白石正彦を事務長に据えて臨んだ。

 東海先生は坂田院長にどんなロマンを語り着任してもらったのか不明だが、長続きせずに年末には退職。ついで翌06年1月には梛野馨院長、5月には仲沢好太郎院長に代わり「共同事業」としたとある。白石事務長が退職するのが08年9月であり、ここで東海先生との関係が切れたようである。卯之町病院のその後は日誌からは分からない。

 これに懲りずに東海先生は三島村(三瓶)に「三島病院」を計画して09年5月池田龍一郎を院長として開院した。これも翌年3月池田院長退職で閉院した。そのあとは「蔵貫(くらぬき)医院」として下村重正医師に引き継いだようだ。そしてまた、この年10月には寺尾新医師を迎えて「田之浜診療所」の開業届けを出した。翌年5月「寺尾氏は田之浜人民に信用無きをもって今月末で同地を引き上げる」と記した。

 本院の東和病院は維持しつつも、これほど各地の「分院」構想に挑戦したエネルギーは何であろうか。単に経済的な利益のためだけではない。逆に負債を残したものと思われる。

 東海先生は土佐時代から、患者を待つのでなく、患者の元に出かけて診る姿勢であった。より患者に近い場所での医療提供を考えたのだろうか。医療機器の少ない時代には可能だったのかもしれない。

 東海先生は07(明治40)年東宇和郡医師会の発足時には幹事となり、13年には郡医師会長になっていて、地域の医師からの信望は得ていた。

                     (冨長 泰行・近代史文庫会員)

         2023年(令和5年)8月15日火曜日、愛媛新聞「四季録」掲載

 

冨長さんの東海記(5)

        伝染病と対峙する東海先生

                      冨長 泰行

 

 明治期、コレラ赤痢等伝染病の隔離のために県内に避病舎(隔離病舎)を500以上設置したことは先述した。いかに運営していたか疑問であったが、東海日誌でその疑問は解けた。

 1911(明治44)年9月18日早朝、往診患者を腸チフスと診断、俵津村役場と駐在へ届け、午後3時避病舎に収容。避病舎は村の西方の岬にあった。以後毎日往診。また、東和病院の2人の看護婦が隔日で交代勤務した。10月13日には全治の見込みとなり翌日には「付添看護婦本日限り」と村長に通知した。

 また患者の実母が避病舎に加持祈禱を入れる等の伝染病取扱規則に反する行為もあった。東海先生は「自分の娘と言えども村費をもって避病舎に収容している上は、公有患者である。自分勝手の行いはよくよく注意すべき」と懇々説諭した。19日全治届を提出、村役人や巡査が消毒を厳行し退所となった。

 約1カ月間の避病舎入所は公的責任で行われている様子が分かる。入所中は東海先生が「村医」に嘱託され、看護費も村費負担であったものと思われる。

 「スペイン風邪」は18(大正7)年秋から3年間県内でも猖獗(しょうけつ)を極めたが、東海日誌から地域での感染実態がよく分かる。

 東海先生は俵津村での流行初期は出張中で、帰ってから記録している。村ではこの年11月2日に「ちんこ芝居」が開催された頃から「悪性感冒」が流行し始め、全村に広がった。学校や工場も1週間から12、13日閉鎖され、東和病院でも1日160~170人の患者があふれた。避病舎の往診をしていた浜田医師や看護婦、車夫なども罹患(りかん)した。臨時に雇い入れた車夫は2日にして罹(かか)り死亡。「常識をもって判断できざる有様」となり、約1カ月間に村で26人の死亡者を出したと記している(同年の俵津村人口は2490人)。

 トラホームは明治末ー大正初め、児童の20%前後に感染したとされている(県統計書)。東海先生も12(明治45)年11月、検査を実施。検査児童306人のうちトラホームは138人であった。村当局と話し合い、2カ月間は「義侠(ぎきょう)的に」無料で治療、それ以降は半額とすることとした。後に東海先生は深町県知事よりトラホームの無料治療について表彰を受けた。

 06(明治39)年11月、川之石の穀物商の子どもからペストが発生した。県衛生係は技師・看護婦・巡査等職員35人を物々しく派遣、現地の検疫医なども集め検疫事務所を開設した。このペスト騒動では、「東宇和郡予防医」を務めていた東海先生も隣郡の川之石に支援に向かった。

 その他にも、種痘の接種は毎年のように実施。大正期には結核が社会問題化し、15(大正4)年の県結核予防協会発会式にも参加し北里柴三郎志賀潔の講演を聞いている。まさに伝染病との闘いがこの時期の医療の重点の一つであったのだ。

                     (冨長 泰行・近代史文庫会員)

         2023年(令和5年)8月7日 月曜日、愛媛新聞「四季録」掲載

 

冨長さんの東海記(4)

        いつでもどこでも往診

                  冨永 泰行

 

 “俵津の赤ひげ” 長崎東海先生の医療活動で一番驚かされるのはいつでもどこでも往診を請われれば出かける姿勢だ。

 往診の範囲は、俵津から法華津湾岸を西に、渡江、狩浜、高山、田之浜、そして大崎鼻を回り北上すれば三瓶方面まで。南下すれば、玉津村の深浦・白浦・筋、喜佐方村、吉田湾まで。内陸側は峠(野福峠・根笹峠)を越えた宇和地域、時には城川まで足を延ばした。避病舎(隔離病舎)にも往診した。

 宇和海の浦々には伝馬船で向かい、緩急により櫓(ろ)の数を変えた。定期航路ができてからは汽船も利用した。陸地部は乗馬、駕籠、平坦地は腕車(人力車)を使い、車夫を雇い入れた。

 開業した1902(明治35)年大みそか午後10時過ぎに三瓶の皆江地区から危篤症状との往診依頼。早速伝馬船に乗り込んだが、風波が強まり大崎鼻を回るのは困難となり、高山から徒歩で峠越え。午前2時半患家着。同5時患家発、峠で夜明けを迎え、7時半高山から4丁櫓の船に乗り9時に帰院した。

 06(同39)年4月13日宇和の皆田に往診。午前10時患家から派遣された人夫6人駕籠で出発。帰路、東海の体重が重いため駕籠の底が抜け、「駕より医者が漏れたるは噺(はなし)の種なりとて豪笑止まず」、徒歩で帰院した。

 各地に往診に出かけた際には、ほとんど当地の主治医と「対診」して診断・治療を協議している。真摯(しんし)な態度だ。

 07(同40)年1月27日には高山村より急症往診依頼があり、看護婦同伴、患家で柑頓腸堕(脱腸か)の全麻還納術を施すも整復せず。午前3時帰院した。

 同年9月1日明け方馬を借りて根笹峠より山田村の患家に向かった。喀血患者で主治医と対診。午後3時帰院。

 日誌によるとこの年の往診日数は138日、「廻診」(定期往診)日数は186日である。

 こんなこともあった。10(同43)年4月16日、皆江の牛が難産で獣医も手に負えないと往診依頼があり、4丁櫓で高山へ。徒歩で峠を越え午後9時「患家」着。11時半「難産」終了。

 同年10月13日払暁、魚成小学校教員のため往診。徒歩で野福峠を越え、卯之町から腕車で野村へ、そこから馬で魚成へ。到着は午後3時。主治医と「対診」、肋膜(ろくまく)炎の胸水の穿胸術施行。帰宅したのは翌午後3時ごろ。

 13(大正2)年10月5日未明喜佐方・河内に往診し、午前7時帰途に就いた。夜になって患者入院、流産婦にして胎盤残留処置。午後10時再び喜佐方・鳥首に往診、帰宅は午前1時となった。さらに就床した直後に新田の臨産分娩困難患者の往診依頼があり、鉗子(かんし)摘出術を施し、母子健全に安産させた。

 こうした東海先生の往診は、まさに「医業」ではなく「医道」なのであろう。“働き方改革” が問われる今日、単純にまねはできない。

                       (冨永 泰行・近代史文庫会員)

          2023年(令和5年)7月31日 月曜日、愛媛新聞「四季録」掲載

 

俵津を遊ぶ!—移住者のみなさまへ

 「人間とは、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)である」

                      (ヨハン・ホイジンガ

                   ♥ 

 13日の日曜日は「盆踊り」の日でした。朝から、わが老人クラブ役員大奮闘です。会場中央に立てる竹の切り出しから始まって、そこに短冊等を括り付け、華やかに装い、設置しました。先祖供養の意味のある盆踊り、年寄りがやらねばだれがやる!元気な年寄りと若い人たちの活躍によって素晴らしい会場ができました。夜は、みんな法被を着て踊りの輪に入りました。「炭坑節」「みかん音頭」「明浜音頭」・・・。そして生ビールで乾杯、久しぶりの飲み会付きです!

 子供たちのはしゃぐ姿を見るのはとても元気をもらえることです。そして、関東の方から移住してこられ、地域に溶け込んでおられるMさんたちの踊る姿を拝見できるのは何だか嬉しくなることですね。コロナでしばらくできなかった盆踊り。日常が戻りました。やはりこうでなくてはいけません。(翌日は、さすがにちょっとコタえましたが・・)

 さて今回は、俵津への移住者、またこれから来られる方々(Uターン・Iターン・Jターンいずれでも)に向けて、俵津での楽しみ方・遊び方の提案です!

 

 ここ俵津では、何といっても「海」です!

 釣り、貝堀り、カキうち、アオサやひじきなどの海藻とり、スキューバダイビング、シュノーケリング、海水浴、ヨット、カヌー、ウインドサーフィン、…何でもあります!これほど多様に遊べる世界は他にはないでしょう。

 もちろん、職業としても遊べます。実際に一本釣りで取ってきた魚で、店を出してやっている親子もいます。

 魚や海藻の養殖なども知恵と努力で、かなえることは夢ではないかもしれません。

 ヨットやカヌーなど持っておられる方は、ここをそれらのメッカにしてください!

 魚を増やす、ことに挑戦されてはいかがでしょうか!

 この宇和海は、格好の実験場にできるでしょう。これについては、以前に「海に、鉄を!」の回で書きましたので、そちらをご覧ください。あなたのお知恵をぜひ活かしてください。

 「パン屋」を営んで遊んでください。

 今日本人は一人年間一万円パンを消費する、と言われております。俵津の人口は千人。一千万円?!。と思ってはいけませんが、他の仕事いくつかと組み合わせれば何とかやっていけるのでは。酵母菌やなにか、独自なものでおいしいパンをつくればおもしろいことが待っていそうな気がするのですが・・・。

 居酒屋や喫茶店も、やれるかもしれませんよ。

 俵津が誇るわれらの野福峠で、「喫茶店」をつくる!というのもアイディアではないでしょうか!

 カラオケ喫茶も、できるかも!

 現在「うきな」がありますが、ここは年寄りの店・演歌の店、という感じなので、ポップス中心の若者の店をコンセプトにすればどうでしょう!

 林業に挑戦、してみてはいかがでしょうか!個人の山林や財産区有林の委託、という形を取れば、始められるのでは?!(これも以前に書きました。探して読んでみてください。)

 「文楽」を楽しんでください!

 俵津には県の無形文化財・菅原座の「文楽」があります!「文楽会館」もあります。優れた仲間も大勢います。一緒に文楽の世界に飛び込んでみては、いかがでしょうか。きっと、あなたの世界が広がります。人生が、ちょっと輝きます?!

 ITのフル活用で新しい「テレワーク」の形を、ここで作ってみませんか!

 俵津の一押しは、野福峠の桜。これを増やして日本一の桜の名所、つくりませんか!

 これはやりがいありますよ!知恵と力が莫大にいりますが・・・。

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 演劇クラブ(劇団)、つくりませんか!

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 「演芸の町」、を一緒に作ってください!

 楽しくやりましょう!!

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 YouTubeなどで動画発信を、全国・全世界にしてください!俵津を売り込んでください。

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 小説家・詩人・画家・写真家・・芸術家求めます!

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 野福峠の沿道に地蔵・羅漢・などの彫刻体を並べたい!

 彫刻家求めます!全国の全世界の芸術大学生の参加を求めます!(小生の妄想です!)

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 俵津の「ゆるキャラ」、作ってください!

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 「俵津ホームページ」の製作者が、求められているそうです!

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 あなたの入居された「空き家」を、ユニークに改造・改修してください。(持ち主の了解は得てくださいね)

 あの大建築家・隈研吾さんがこんなこと言ってます。「僕は随分と変わった。東京というキツい場所ではなく、もっと地方で気楽に仕事がしたいと考えるようになった。」「新築ではなく、改修ほど、緊張を感じずに自由にデザインできることも知った。そこにもともとある古い建築は、共同作業の相棒みたいなもので、古い友人とお互いに知恵をしぼりあって改修するという感じになる。そもそも古いものはノイズだらけだから、こちらがどんなノイズを加えても、あるいは住み手がどんなに汚く住んでも、しっかり受け止めてくれて、全然気にならない。」

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 共選(共同選果場)、これの利用方法を考えてください。この大きな建造物を見事に活かしたら、わたしたちの夢がもっと広がるようにおもうのです。(もちろん現在も使われてはいるのですが・・・)

19

 全国、そして全世界と交流することを考えてください。ひとが訪れる町をつくってください。

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 わたしたちといっしょに、「まちづくり」に参加してください!

21

 「山」で遊んでください。山菜取りやみかんつくり・・・。野菜作りも。フィトンチッドの吸収や、瞑想・・・。山は素敵です!

22

「長崎東海研究会」に入って下さい!!

 長崎東海先生は、「遊び」の達人です!もちろん仕事の達人でもありますが、この人は俵津の利点を活かしきって、人生を生ききった人です。究極の「ホモ・ルーデンス」でした。

 

 まだまだ、たくさんあると思いますが、あとはあなたにお任せしましょう。俵津は人生を遊べる町、だと思います。ぜひ来てください!ヨロシク!

                      (2023・8・15)

 

 

 

 

 

冨長さんの東海記(3)

         東海先生、愛媛に移転開業

                      冨長泰行

 

 郷里の土佐・窪川周辺で医療活動をしていた長崎東海先生は1902(明治35)年5月愛媛・俵津村に移転開業した。

 この年2月東海先生は「宇和島地方開業探検」の旅に出た。長い船旅が興味深い。

 14日午前6時半愛馬「叢雲(むらくも)」で最寄りの久礼港に出て、11時半発の「高陽丸」でひとまず高知に向かい高知中学在学の2人の息子らと会った。深夜1時発の「土佐丸」に乗船して四万十川河口の下田に着。そして清水、西泊等を経て午後6時半に宿毛着。同9時40分発の「第三御荘船」で宇和島に着いたのは16日午後1時半であった。

 17日には俵津を訪ねて地元の木崎浜次郎らを仲介として、開業医・岡村文策とも厚情を深め「当夜をもって当地に転業決定をなす」と日記に記した。

 なぜ窪川から俵津移転を決めたのだろうか。第1には土佐西南部と愛媛の南予地方は経済的文化的交流が大きかった。木崎らも行商で行き来していた様子だ。第2に窪川での医療経営は苦戦していた模様であったこと。第3には何より愛媛の方が医師が少なかった。1898年の医師数は高知県847人、愛媛県541人。人口比で高知は愛媛の2・6倍の医師数だ。

 また東海先生は、医学校卒業直後に、後に八幡浜町長も務める上甲廉医師らとともに西宇和地域で「徴兵員として巡検」したと記している。どうも医師として軍務関係に関与していたことがあるようだ。

 医師というものは江戸時代までは誰でもが看板を掲げられたが、明治に入って医師免許制度ができて、81年からは政府による全国統一の医師開業試験が始まった。それが「試験及第」医師だ。その際「従来開業」の医師も時限的に認められた。「大学・医学校卒」は無試験で開業が許可されることになった。官庁や公立病院の「奉職履歴」医師も認められた。

 1905(明治38)年の東宇和郡の医師数は「大学・医学校卒」5、「試験及第」18、「奉職」2、「従来開業」14、合計39人であった。東海先生は数少ない新しい医学を学んだ学卒医師であったのだ。

 俵津に着任した東海先生はこの年満38歳であった。とりあえず伊井旅館を拠点にして借家の契約や開業準備を進めるとともに、早速着任翌日から求められて往診もしている。6月20日には三瀬村長、伊藤郵便局長、岡村医師をはじめ村の主だった人々を招いて開業の一宴をもった。1年ほどたって「東和病院」の看板を掲げ、03年5月末に正式の開院式を120人の参列で行った。6月には山田分院の開院式も60人の参列で開催した。

 土佐時代と同じく、宅診・往診・廻診をはじめ入院も受け入れた。外科的治療にも積極的に取り組んだ。以下に東海先生の特徴的な医療活動や社会活動を見てみたい。

                   (冨長 泰行 ・近代史文庫会員)

               2023年7月24日・愛媛新聞「四季録」掲載

 

■ morino-shimafukurou から

※ 長崎東海は「試験及第」か?とも、掲載後冨長さんからいただいたコピー欄外にボールペンで書かれています。

※ 冨長さんの連載は、全9回の予定。今後は、④いつでもどこでも往診⑤分院づくりと外科治療⑥伝染病に対峙する東海先生⑦医師会長・政治家の東海⑧明治期の旅と航路⑨村から支える日露戦争天皇制。楽しみに待っていてください。

※ その他の長崎東海先生についての記事もお読みください。右の検索欄に「長崎東海」と入力すればズラーっと出て来ます!

                        (2023・7・31)