虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

こんなこと、あんなこと・・・。

1、

 わが家の近くを流れる宮崎川のほとりに、源氏蛍を大きくあしらった「ほたる」の幟(のぼり)がたてられました。狩渡橋から畑岡橋までの間に三本。ほたる保存会と俵津スマイルの製作によるものです。いよいよほたるのシーズン。この時点ではまだほんの数匹ですが、川底には蛍のエサとなるカワニナがいっぱいですので、やがて湧くようにホタルが飛び交うようになることでしょう。子供連れの家族がいきかいにぎわうことでしょう。

 このホタル、わたしたちの子供の頃には顔にぶちあたるくらいいて、素手でもつかまえられるくらいだったのですが、まったく見られなくなって久しかった。それをかつての新田こせがれ会の佐藤勇くん(故人)が中心になって、佐藤深志さん(故人)の指導の下長年の増殖活動を続け、ここまでにしたのでした。この町の水面下で、強いこの町への「おもい」を抱いた者たちの営みがありつづけたことに、あらためて深い感慨をもよおします。

 〈佐藤深志〉さんは、惜しくも昨年亡くなられましたが(享年95歳)、実に「村宝(むらだから)」の人でした。俵津の偉人の一人・井上和(いのうえかのう)氏を師と仰いだ農民画家でした。わたしたちがやった「新田ふるさとまつり」の芝居の背景の絵なども描いていただきました(器用な人で、時代劇のカツラや牛鬼の面までも作っていただきました!)。最高傑作は、旧塩風呂の階段の踊り場に掲げられた畳一畳分はあった大作の“河童”の絵でしたでしょう。子供が「コワイッ」と言って怯えたほどの鬼気迫るすばらしい作品でした(こどもがあまりに怖がるので撤去され、今は歴史資料館に眠っていますが)。

 また佐藤さんは非常な物知りでした。ホタルの育て方はもちろんのことですが、村の伝統・歴史からなにからその該博な知識は地域に貢献すること大でした(たくさんの人が教えを請いに日参したものです)。自由に生きたおおきな存在が、また一人いなくなったことは本当に残念です。

2、

 このところずっと取り上げている件(くだん)の「アンケート」のことですが、漏れ聞くところによると回収率が70パーセントを超えているそうです。驚くべき数字です。それだけ俵津住民の関心が高いということでしょう。それに火をつけた公民館や検討委員会の功績も大きいと言えるでしょう。

 何人かの友人が言っておりましたが、「あのアンケート、おらが書こうと思っていたら、早やかあちゃんが書いて出してしもうちょったわい!」。こころをざわつかせるワクワクを感じさせます!

 俵津のひとたちがどのような「危機感」を抱いているのか、どのような「まちづくり」への具体策を持っているのか、「まちづくり」をテーマにこのブログを書きつづけて来た者としてとても興味深いことです。一日も早い“公開”が待たれます。

3、

 俵津の「人口増加対策」。ほんとうに大変でしょうが、あまり大上段に振りかぶったことを考えなくてもいいのではないか、と考えます。なによりムリですから。そうでなく、たとえば、3人以上の家族の移住者をとりあえず10組だけ増やそう!と志向して努力してみる、というようなことが大事なのではないでしょうか。それを、この2~3年で達成するという目標をもってやる!

 達成できれば、俵津はずいぶんと目に見えて変わるような気がします。

4、

 玉井葵さんの『ぐうたら通信』(No.260/2022.06.01)を読んでいたら、こんな記事がありました。引用させていただきます。

「三瓶分校(宇和高校)が来年度、生徒募集を行わないと決定した。24年度で廃校になる。それだけのことだが、地域から学校が消えることの意味は深刻だ。

 三崎高校が出来たばかりの頃、入学志願者が少ないと廃校になるというので、地域が盛り上がって、入学願書を出したのだそうだ。子供だけでなく、その親も。試験は受けに行かないから、入学者は増えないけれど、廃校は免れた。そんな話を、高村さんという先輩が話してくれた。

 そんなことが今も通るかどうか知らないが、地域に熱気がなくなったのだろう。

 受験生が減ったから募集を停止する。数年後には廃校になる。理屈はその通りだが、その衰退に対して、何も手を打たないでいて良いものだろうか。」

5、

 右の「リンク」欄にある「田舎暮らしを楽しもう」HPの月一の「田舎便り」エッセイがおもしろいです!

  その筆者は、この俵津で生き暮らしてきた過去を振り返りつつ、その意味するものへの深い考察を繰り広げ続けています。

 「振り返ればこの数十年でなくなったもの失ったものは、数限りなくある。里山・里海のたたずまい。昆虫たちの生命をはぐくんできた、自然環境。

 善人同士手をたずさえて大地とともに歩んできた暮らし向きも、金融資本主義の前には道端に転がる石ころのようなものなのかもしれない。

 それらは田舎暮らしにおいて安心安全それに利便性の追求の代償であると言えばそうなのであろうが、過疎の大波に人はさらわれ、ゆく手を阻まれた善人たちの未来は、もしかすると昆虫たちのたどった道であるのかもしれない。」

 この筆者のような「営み」が今とても大切なのだとおもいます。歴史の表面にはあらわれないかもしれないこのような思い・記録・考察が、わたしたちの人生を豊かにしてくれます。俵津を薄っぺらな町でなく深い魅力的な町へと導いてくれます。

6、

 同じ「リンク」欄の「西田孝志・私の映画案内」の筆者も、新しい試みを始めました!曰く、「獺祭の徒然なるままに」。

 彼の沸騰して横溢する映画だけにとどまらないさまざまの熱いテーマたちへの想念が満を持したのでしょう。カワウソが、とらえた魚を河の中の平たい大きな石の上に並べて神に供える祭事のようにして、彼の脳内を高速で行き交う各テーマに対して分析・考察する。それが激しい怒りであれば、該博なアーカイブから極めて説得的な引用を試みて持論を展開する。めくるめく彼の新しい世界にわたしたちはただ立ち尽くしてながめるばかり。

 

 おたがいに「老い」をかかえて生きてはおりますが、知人・友人たちのさまざまな試行や発言に日々勇気や生きる力をもらっているわたしです。いつか、コロナが去りし日、まだ見ぬあこがれの焼酎・“獺祭”に舌鼓をうちつつ語り合える日がおとづれることを。

                        (2022・6・6)

 

 

 

 

 

新しい「たわらづ」の始まりの予感

 わが家では今、ジューシーフルーツ(河内晩柑)の収穫出荷の最盛期を迎えています。一般の農家ではほとんどがその時期を終えているようですが、完熟果出荷が原則の無茶々園では今がその時。初夏の陽光を浴びた透き通るようなゴールドの果実を見るとこころが浮き立ちます。

 「アンケート」や「地域づくり活動センター」のことが、あれからずうっと気になっています。

 いろいろな「声」が聞こえてくるようになりました。集落センターを「カラオケルーム」にしたら!、というのもその一つです。俵津文化協会が地区の有志の浄財を募って購入したカラオケ機器一式があるのだから、個人個人がDVDを持ち寄って自由に歌いあえる場所にしたらいい、というのです。いいですね!

 公民館利用法の意見ではありませんが、「キッチンカーを使った移動喫茶店」というのはどうか、と提案する人がおります。その行き先行き先が人の集まる場所・交流の場所になるのでは、という発想です。彼はまた野福峠の中腹のあのさくらの植林数の最も多い、しかも空間に余裕のある場所に喫茶店を設けてはどうか、とも語ります。展望テラスもおおきく張り出して、絶景宇和海を見ながら飲むコーヒーはさぞかし美味しいだろう。評判になるだろう、俵津の知名度も増すだろう。というのです。

 いやあ、いいですねえ!こうした「案」達が湧きたってくるのもあの「アンケート」効果でしょうね!新しい「たわらづ」が始まりつつある予感のようなものを感じるようになりました!

 件の「アンケート」は、まだ集計結果が公表されていませんが、今回のことは俵津の「まちづくり」の画期になることは間違いないでしょう。やはり、行政が動いた時が、大きな契機・転機です。

 わたしの「希望」・「ねがい」みたいなものを以下箇条書きにしてみます。

1、「センター」の専従者に、3~40代の若いバイタリティーのある方がきてくれるといいですね。

2、「シンポジウム」が開かれるといいですね。検討委員の方々の熱弁を聞かせてください。

3、「会報」を出していただけるとありがたいです。

4、「俵津ホームページ」の役割がますます大きくなります。早く新しい製作者集団(3人以上)をつくっていただいて、地域のひとだけでなく、全国にいる俵津出身者や俵津応援団の方々に向かって情報発信していただきたく思います。

5、一般住民も常時、センターへ意見や案(や「イイね!」)を出せるSNSのシステムをつくれないものでしょうか。ガラケースマホも持たないわたしはSNSについて何も知りませんが、たとえば、住民の「ツイート」がセンターに直接届く・集約される、そしてそれが閲覧される・できる・・、というようなものの構築はできないものでしょうか。(フェイスブックやインスタグラムやその他も・・)。

6、公民館に常設の「投書箱」を置いてもいいですね。

7、「使えるお金」の一覧表をつくっていただけないでしょうか。たとえば前回書いた俵津葬祭組合の300万のようなものです。俵津にはいろいろな所にいろいろな“埋蔵金”がありそうです。これがあればさらに直接的にさまざまいい案が出るでしょう。出せるでしょう。(お金、今この時に集中して使い切りましょう!「生き金」にしましょう!)。

 とりあえず、これくらい。いづれにしても、「センター」が船出するまでのこれからの一年間は、われわれにとって極めて大切な一年になると思います。「俵津百年の大計」をたてるチャンスです。えっ、百年後に人がおるか?って!大丈夫、一人いれば何とかなります。その一人が配偶者を見つけて、アダムとイブになって、イザナミイザナギになって、また新たにことを始めればいいのです。俵津はいつだって永遠です!

 青年団に入りたての頃を思い出しました。夜更けてみんなが大言壮語をおらびはじめる酒の席です。先輩が若いもんに言うのです。「いいか、おまえら。モノを言う時はのお。自分が町のいちばんエライもんになったつもりで言え。町長になったつもりで言わんといけんぞ。わかったか。エ、オイ。コラ。」

 いやあ、怖かった・・・。でも、そんな人がいて、今でも若者にそんなふうに言ってほしいですねえ。

 もうひとつ、思い出しました。田中清一くんが主事、中村吉三郎先生が公民館長の頃。わたしが酔ったいきおいで生意気にも言ったという話です。「いまのような社会教育をしとって大丈夫ですかねえ。こんなんでこれから俵津が自立してやっていけるようになるんですかねえ。社会教育はもう終わったんじゃないでしょうか。」。(なんというヒドイナマイキでしょう!)。これ、わたしの友人が言うのです。わたしは覚えていませんが、なんか中村館長にひどく怒られたような記憶だけはあります。愛の叱責でしょうが。地域のひとたちが自由にモノを言いあう雰囲気があった豊かな時間のなかでのできごと・・。

 友人は、「社会教育復活論を書け!」とわたしに言います。そんなこと俺にはできん・・!

 でもまあ、コロナが早くおさまって、みんなで酒酌み交わしながら、ああじゃこおじゃと話がしたいもんですね。

                      (2022・5・26)

 

 

 

 

 

まず「喫茶店」づくりから始めてみないか。

 今日は「こどもの日」、ゴールデンウイーク最終盤です。みなさまはこのゴールデンウイークいかがお過ごしでしたでしょうか。わたしはと言えば、タケノコ堀りとかぐや姫探し(妻が「かぐや姫も連れて帰って」というもんですから、竹取の翁になったつもりで目を凝らして竹藪の奥までさがすのですが、まだ光る竹見つけられません)とか、お茶摘みとか・・・。妻が煎って、わたしが揉んでを3回繰り返し、天日に干して乾かしてできあがった新茶はとても美味しいです。

 ところで、前回の終りの方にちょこっと書いた「アンケート」の件です。

 これ、俵津で発せられた文書としてはかなり重要なもの、歴史的にも大きな意味をもつものではないか、と思えてきております。大げさでしょうか。いえ、そうではありません。こんな危機感に満ちたもの、そんなにありませんよね。まず、その「お願い文」を転写しておきます。

 

        ※          ※          ※

俵津地区住民の皆様へ

            ~アンケート記入のお願い~

                 俵津地域づくり活動センター検討委員会

 

「365」 皆さんはこの数字なんだかわかりますか?

 この数字は、約30年後の俵津地区の人口推計値です。(西予市HPより抜粋)

2010年(1328人)、2015(1209)、2020(1031)、2025(897)、2030(764)、2035(642)、2040(531)、2045(442)、2050(365)

 俵津の人口は昭和50年頃には約2,000人いたものの、年々減り続け、2021年末についに1000人をきりました。

 こうした急激な人口減少や高齢化による過疎化が進展し、担い手不足による集落活動の衰退や暮らしの利便に関する不安が増大しており、一律的な行政サービス・既存の仕組みでは対応できない時代に直面しています。

 西予市では、公民館のあり方を見直し、市民の多様なニーズに沿ったまちづくりや地域の主体的な活動を進めていくため、令和5年4月1日から市民と行政の協働の場となる地域づくり活動センターを実現するための計画を進めております。

 そこで、当委員会では、俵津公民館が地域課題解決や人口減少社会に立ち向かうことのできる活動の拠点とするため、アンケートを実施することといたしましたので、ご理解・ご協力のほどお願いします。

(俵津地域活動センター検討委員)

・山下秀一 ・日越三雄 ・伊井望 ・高岡恵 ・伊藤夕子 ・永山福重 ・酒井正人 ・片岡清美 ・宇都宮幸博 ・宇都宮凡平 ・酒井宇之吉 ・安藤芳夫 ・政田光代 ・酒井正馬 ・浅井裕史

 

         ※         ※         ※ 

 アンケートの内容は、俵津公民館・老人福祉センター・集落センターの各部屋をどう使ったらいいか(人が集まるようになるか)?というものです。各館の部屋の見取り図があって、記入欄があります。

 さて、俵津のひとたちはこれにどう答えるのでしょうか?!結果がとても楽しみです!わたしは、このブログにすでに書いた「公民館に集まろうーわたしの公民館使用法・案(その2)」(2021・07・09)をそっくり写して提出しました(よろしかったら、右のアーカイブからご覧になってください)。

 わたしは公民館が「自治センター」という名称になるのだと思っていたのですが、上記の3館あわせて「俵津地域づくり活動センター」になるというのが正解なんですね。

 さて、数多くある部屋、どこからどう手をつけるか、というのは、そんなに簡単なことではないように思います。ましてや今まで以上に人を寄せるというのは、ほんとうに大変なことだと思います。俵津の人口減少を止め、人口を増やし、昔日のように活気のある賑やかな町に再生する、などということが果たしてできるものでしょうか?!(もし、仮に、できるとしても、それには、俵津住民のよほどの意志力と結束力が求められるように思います。)

 まことに勝手なことを言って申し訳ありませんが、わたしは、住民のみなさんに、公民館が変わった、地域が本腰を入れて復興に乗り出す、ということを、鮮烈に意識化してもらい、目に見える形で理解していただくようにすることが必要ではないか、と考えます。そのための今回の提言です。

 正面玄関を入って右側の旧公民館事務所だった所(今は物置になっていますが)を、「喫茶店」にしませんか! そこから始めませんか!

 今度の「センター化」で、最大の変わった点は、施設内で社会教育法の制約を脱した営業活動ができるようになるということだとおもいます。そこに重点を絞った活動にしましょう!

 「喫茶店」といっても、二つのやり方があると思います。

 一つは、コミュニティカフェです。ネット検索で言葉の説明をさせていただきます。

 「コミュニティカフェとは、人と人とを結ぶ地域社会の場や居場所の総称です。長寿社会文化協会(WAC)が定義しました。2000年以降に急速に増え、その運営はNPO法人や任意団体、個人が主体となっています。空き家・空き店舗・自宅などを利用して開設され、毎日開催から週1のまでさまざまなカフェがあります。

 飲食スペースが設けられている他は、イベントやワークショップを行ったり、展示スペースを設けたり、地域の住民の手作り品を販売したり、地産地消の食材を利用した飲食を提供したりと、内容もカフェによって異なります。

 普通のカフェと違い、飲食を第一の目的とせず、地域住民が集い、交流し、情報交換することに重きを置いているのがコミュニティカフェの特徴です。

 利用者は高齢層や子育て世代が多く、障がい者の就労支援においても一端を担っています。」

 

 コミュニティカフェの実際(問題点)も触れられています。

コミュニティカフェはその多くがボランティアによって運営されているため維持していくには課題が多くあります。

 赤字の施設も多いのが現状で、自治体の助成金補助金なしには存続できません。また認知の低さから、決まった顔ぶれになりがちです。男性の利用者数は少なく、女性の利用者が圧倒的多数となっています。

 少子高齢化時代を乗り切るには地域コミュニティの再生が必要であり、その中核としての役割が期待されるコミュニティカフェ。男性の参加率を高め、定年や現役を引退した後の活躍場所であり居場所として活用できるかといった点が大きな鍵となるでしょう。」

※ ネットには、日本全国のコミュニティカフェが数多く紹介されています。ぜひご覧になってください。参考になると思います。

 もう一つは、ハッキリ個人営業の店にすることです。

 といっても、ここでは一人でも俵津の移住者を増やすためのものでなければなりません。移住希望者を見つけ、その人に仕事先を提供するもの、という観点が必要です。できたら家族でここに来てもらい、一人がこの店をやり、あとの妻か夫が他の仕事(たとえば福祉関係)をやるという形。あるいは夫婦でやり、何とかここで食っていけるだけの稼ぎを生み出していただく。

 もちろん、「センター」の方針に理解があり一緒にまちづくりに参加していただく方を探さなくてはなりません。

 住む家も、安い家賃で空き家を提供したいものです。

 どちらにするかは、みんなで話し合って決めたらいいと思います。エキサイティングなその過程こそ「まちづくり」にとっては大事なものなのですから。

 店の改装費(資金)もいります。

 思い切って、俵津葬祭組合が残した300万円をここに投入しませんか。みんながそこでコーヒーを飲んでみたくなるような雰囲気のいい店をつくろうではありませんか。

 いま、ものすごい勢いで進行している「円安」(物価高)のなかで、お金の価値がどんどん目減りしています。個人のお金は別にしても、こういうお金はいまこそ積極的に使うべきだと思います。この危機の時こそ適切に使って、事態を変える、苦境から脱出する、そのことが大事です。(2050年に使っても、何にもならないように思うのですが)。

 

 どうぞ新しいタワラヅが始まりますように。動き出しますように。

 天晴農園の若い人たちに続きましょう!!

                      (2022・5・5)

 

 

  

 

  

 

 

楽しくやろう!俵津農業!―その2

 山が笑っている。

 鳥は歓声を上げて歌っている。蝶も一斉に咲き始めた花から花へと鱗粉をまき散らせながら舞っている。

 与作もよひょうも正助もゴンも、野良に出て鍬打ちをはじめた。女房たちは弁当づくりに腕まくり。子供たちはおっとうやおっかあの周りで大はしゃぎ。村は喜びの輝く輪のなかだ。     

 わたしは前に同じタイトルで書いたことがある(2020・6・11)。その時は、今の若者たちが見せるわたしたちの時代とは異なった新しい息吹を取り出してみた。今回は別の視点から書いてみよう。

 この表題にふさわしい「楽しくやっている」そのものたちは、やはり何といっても「天晴農園」の面々だ。彼らは最初から「俺たちは誰が何と言おうと楽しくやるぜ!」と宣言しているようなやり方でことを始めている。最初に打ち出した“ゲストハウスの建設”ということ自体がそれを語っている。それはわたしたちの度肝を抜くような新しいやり方に違いない。

 無茶々園だってゲストハウス(研修センター)を建てたのは、経営が安定してからのずっと後からのことだった。無茶々園にとっては、常識的な世界の異物としての無農薬の「汚いミカン」をどうやって売るかということが、当初の最大の課題だったからだ。

 ところが天晴農園の彼らはもういきなりだ。素晴らしいことだ。農業と人生は、それこそが目指すべきもの、いや、もうそれそのものでなければならぬ、ということが彼らには体で分かられている、そんな印象を受ける。タワラズにニューエイジが出現した!

 農業の楽しさのなかには、もちろん自然の中で作物(ミカン)をつくることの楽しさがあるが、ひととの交流の中にも大きな部分があることを彼らは本能的・本質的につかんでいる。

 ブルーやライトグレーのツナギのユニフォームもいい。ホームページを創って情報発信する姿勢もいい。メンバーの一人上甲信輔くんなどは、自宅前で5棟のハウスを建て新しいことをやり始めた。こういうチャレンジ精神もいい。

 できあがったゲストハウスで盛大な交流開所式をやるそうだ。“もちまき”までやるとか聞いている。青年男女の素敵な出会いの場にもなることだろう。

 この俵津の天地で思いっきり暴れまわってほしいものだ。

※ 天晴農園の諸君に提案です!

  今の所が手狭になったら、空き家になっている故市川綱太郎・和子ご夫妻の家をお借りしたらいかがでしょうか!あの家なら広いし、改造しなくてもそのまますぐに使えます。広い倉庫もあります。共同での選果・箱詰作業にはもってこいです。また倉庫には、グランドピアノもありますので、ピアノが弾けるゲストが訪れた時などにはコンサートなどもやれます。その他さまざま発想して楽しいことをやったらいかがでしょうか!ご夫妻は、若者たちが集ってくれるのを本当に心から喜んでおりましたので、きっと幸せなトポスをつくれることでしょう。

 むかし、わたしたちの青春の頃までは、農業のイメージはハッキリ言って悪かった。3K(キツイ・キタナイ・キケン)の象徴のような職業。カッコ悪い、ダサい仕事。加えて、農村のイメージも悪かった。貧しい、封建的、ボス支配、女性蔑視社会・・・。

 このイメージを変えようとすることも、わたしたちの課題だった。無茶々園の活動はそのことに大きな貢献をしたと思う。無茶々園は農業をステキな憧れの職業にした。そして都会の優秀な青年たちが就活先に選ぶような職場をつくった。

 わたしも、楽しく農業をやるために、ごく卑近なことではあったが当時考えていたことがあった。

●自分の農園に「名前」をつけること。わたしは自園を「レインボー農場」命名した。トラックに緑色でRAINBOW FARMと描いたりした。あの頃はみんな家の姓を冠した〇〇農園と黒で描いていたものだった。斎藤達文くんが「ポコロコ農園」、川越文憲くんが「ドリーム農園」、などといったところがおもしろい。

●農場化。とりあえず、自園の入り口に看板を建てること。園の中に木のテーブルや椅子を置き、家族や仲間たちと語らう場所をつくること。昔のテレビドラマにあった「ララミー牧場」なんかが頭にあったんでしょうか。(これ結局やれませんでした)

●ファッション化。農作業をカッコイイ衣装に身を包んでカッコよくやろう!(私自身がオトコマエでなかったので、気恥ずかしくてやりませんでしたが)。

 かつて、わたしが所属した組織(グループ)で、仲間たちみんなが楽しくやったことも書いておこう。

 「俵津農業後継者協議会」でみんながやったこと。

●ユニフォームをつくること。まさしく天晴農園の面々が着ているような青のツナギのユニフォームをつくったのだった!

●共同農場をつくった。活動資金を潤沢にするために、仲間たちのキズナを深めるために、共同労働の楽しさを味わうために。酒井吉郎くん(現長山建設会長)が、所有の甘夏園50アールを提供してくれた。完全無農薬の甘夏は、無茶々園が引き取ってくれた。

●婚活交流会。故田中幸恵夫人のお世話で、八幡浜の酒六の女性たちと。これが縁で結ばれた者も。

 「無茶々園俵津支部でみんながやったこと。

●共同農場。佐藤深志さん(昨年逝去)から、ダバの甘夏園30アールを借りた。もちろん、完全無農薬で無茶々園出荷。共同農場には、甘夏が一番むいている。温州みかん伊予柑・ポンカンなど他の品種と収穫作業が競合しない。完全無農薬で作れる唯一の品種で管理が楽。

●「甘夏つくってハワイへ行こう!」運動。もちろん大山町の「梅栗つくってー」にならったのだ(楽しいこと、いいことはどんどんマネしていい!)。憧れのハワイは面白かったなあ!!!楽しかったなあ!

※ わたしたちは、園作業でも、旅行でも、お客でも、すべて夫婦一緒でした。

 「新田こせがれ会」でみんながやったこと。

●共同農場。アカダキの中村権さんの田んぼだった所。(中村さんは、「ワシの山、全部おまえらにやる。好きなように使ってくれ。なんならチリメン事業もやってもいいぞ。」と言っていた!)ここでは芋(紅あずま)づくりをやった。甘く美味しいわたしたちの芋は評判がよく、飛ぶように売れた。

●「新田ふるさとまつり」。ご先祖様の日(旧暦2月9日)に新田集会所で。昔、この日に行われた総会に出席できない青年や主婦たちは、さへやのはまで演芸会をやっていた。そのDNAがわたしたちの体にも残っていた。それを復活させたのだった。百姓というのは山での仕事だけではないのだ。地域に営む暮らしそのものも関わりをもつものなのだ。地域を面白くしなければ、百姓もほんとうには面白くならない。みんなで燃え狂った宴の時は、チョー楽しかった!

●「ロッジせせらぎ」の建設。クラインガルテン開設。

●視察研修、他所での交流会、勉強会、などなど様々やった!面白かったねえ!!

 宮沢賢治は、言った!

「……おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか……」

「芸術をもてあの灰いろの労働を燃せ」

 現代ではもう農業の労働は、そんなに「灰色」ではなくなった。とくに米つくりなどはすべて機械化されサラリーマンでも片手間で遊びごとのようにしてやれるようになった。われらのミカンとても、モノラックができ、選果機があり、フォークリフト、軽トラがあり、クーラーができ、電動剪定バサミ・電動小型チェーンソーが開発され・・でずいぶんと楽になった。近々モビルスーツまで実用化される段階に来た。販売方法も多様化している。いい時代になった。楽しくやれる農業の時代はすでにきている。

 ダイキやコメリなどのホームセンターへ行けば、それはもう星の数ほどの農作業を快適にするアイテム・ツールが陳列されている。それらを上手に使って「心に愛を!唇に歌を!」でやっていこう!!

 賢治のいう芸術や趣味をそれぞれが培いながら、この俵津(明浜・西予)の天地で楽しくやっていこう!!

 さまざまなこの町の課題もきっと解決できるだろう。

 

 俵津地域づくり活動センター検討委員会が、「アンケート調査」を始めている。いよいよ俵津も、地域ぐるみで動きだそうとし始めた。農家の数は往時の3分の一にはなっているが、楽しくやる百姓が果たす役割は決して小さくはないはずだ。

                       (2022・4・24)

 

 

 

 

夢の「核融合」技術に挑む子供たちはいないか?!

 夢を見た。

 人類の夢の科学技術・「核融合発電」の完成を志した少年少女たちが、この町にいた!そして、10年後・2032年。彼らはついに、その実用機を完成させた。彼らは特許のことなど眼中になく、技術(設計図)を全世界に公開し普及促進を図ったので、この発電炉は瞬く間に地球全土に建設された。これにより、人類の悲願ともいうべき「地球温暖化問題」「エネルギー問題」は、解決された。その功績によって彼らはノーベル賞のすべての賞を受賞した。各国の政府も独自の賞を彼らに与えた。・・・

 『世界史の分岐点 激変する新世界秩序の読み方』(橋爪大三郎佐藤優、SB新書、2022・1刊)を読んだ。面白かった!「知の巨人」二人の対話に興奮して眠れなかった。

 中でも、「核融合」を論じ合ったページ(「核融合発電こそ未来である」)にはワクワクさせられた。これを取り上げずにいられようか! で、今回はその紹介。というか、自分への備忘録。よろしかったらお付き合いのほどを!(ぜひ!)

■ 核融合発電とは何か?

橋爪 

 核融合発電は、簡単に言えば、原子核のエネルギー(核力)を、原子核を融合させて、取り出して、発電することです。

 分子量の大きな原子は、分裂すると核力を放出します。人間に有害な、放射性物質も生まれます。これに対して、分子量の小さな原子は、融合すると核力を放出します。放射性物質は出ません。太陽は、水素がヘリウムに核融合して、燃えています。

 核融合発電の場合は、重水素をヘリウムに融合させます。重水素は、原子核が陽子と中性子原子核が陽子2個と中性子三重水素トリチウム)も用います。これが融合してヘリウムになると、高エネルギーの中性子が出てくる。その中性子をキャッチして、熱に変換します。で、発電ができる。ヘリウムは無害です。中性子は、キャッチすれば無害です。熱になるほかに、三重水素も生産されるので、発電しながら核融合の原料がつくれます。

 さて、核融合炉はいつ実用化するのか。原理がわかっているだけで、いまは炉の基本設計ができかけた段階です。重水素三重水素を加速して、高エネルギー状態(1億度)のプラズマにします。このプラズマを閉じ込めると、核融合反応が安定的に起こると予想されます。その装置は、トカマク型といって、電磁石のドーナツみたいです。

 さて、あと何年でこの技術が実用化するのか。諸説あります。数十年、遅くても今世紀中でしょう。

■ その革命的意味とは?

橋爪

・ 核融合炉とは、簡単に言うと、「エネルギーが装置で生産できる」ということです。ふつうエネルギーは生産できないので、エネルギー資源を燃やしたりしていたのが、装置産業になる。産業全体、経済全体が、エネルギーの制約から自由になるのです。

・ しかも、炭酸ガスが出ない。環境への負荷もほとんどない。これがどんなに画期的な意味をもつか、わかりますね。ほかのエネルギー技術とは話が違うのです。

・ 核融合にも、少しの材料は必要です。三重水素核融合炉の副産物として出てくるから問題ない。重水素は海水中にあって、ほぼ無尽蔵です。ということで、石炭や石油のようなエネルギーに依存する時代は終わるのです。

・ 核融合が実用化した世界は、それ以前の世界とどこが違うのか。それまでは、エネルギー資源があった。石油や石炭は、特定の場所に埋まっていた。それを消費地(先進国)に輸送して、発電は消費地で行っていたのです。中東を防衛したり、シーレーンを防衛したり、地政学的な配慮が必要だった。

・ パイプラインもなくなる。だから、世界の軍事的、地政学的、戦略的配置が大きく変わる。中国に石炭があるとか、アメリカが産油国だとか、もどうでもよくなる。

佐藤

・プラスチックなど化学製品の製造にも石油は必要ですが、大半はやはりエネルギーですから、石油の用途、需要は非常に限定的になりますね。

・ 何よりも重要なのは、軍事転用ができないということです。 

■ 問題点は?

佐藤

・ 政治コストなんですよ。核に対する形而上的抵抗感。これは、理屈をわかっているほうからすると迷信に過ぎませんが、迷信であるがゆえに根強いんです。要は政治家が思考停止せずに政治をする、つまり政治的に立ち回って実現させていく気があるのかという問題です。

・ 核融合技術に関しては、一応、形としては国際協力の枠組みがあっても、どこの資本だって抜け駆けしたくなりますから、やはり国際関係の大変動、資本同士の覇権争いにつながっていくでしょう。ただし開発の規模からして、おそらく多国籍企業であっても特定の民間企業の力だけでは難しいと思います。

・ ただ、ここで1つ大きな障害になるのは、ネイション・ステイトだと思います。

・ 「啓蒙的理性」を育てることが必要です。

橋爪

・どの国がいちばん最初に、効率のいい商用炉をつくるか、の競争です。ただ核融合炉は、電気をつくるだけです。従来の送電網にくっつければ終わりです。風力発電とか、砂漠に太陽熱発電所をつくるとかいう、余計な設備投資はしないですむ。再生可能エネルギーは、核融合が実用化するまでの「つなぎ」です。

・ 勝負は、電気代だと思う。どれだけ安く、効率のいい核融合炉ができるか。それは超電導の技術や、磁石の性能やコンピュータ制御のソフトや、そういう総合力の問題になる。この総合力があるのは、アメリカ、中国、EU。あとは日本、ロシア、インド。このへんですね。その中で一番信頼出来て値段の安いものが、世界中の核融合炉を受注することになる。日本はそこに割り込むのがいいです。全部を受注できなかったとしても、超電導コイルは任せてください、みたいに割り込む。つまり、ここにはかなり投資すべきです。

・これ、行く行くは、膨大な雇用をうみだす基幹産業になると思いません?今ある日本の大企業とは、無関係ですけどね。

 この話が載っている第2章「科学技術の分岐点 人類の叡智が、新しい世界を創造する」には、さらに今後20年くらいで現れるであろう「驚くべき新技術(EDT)」についても触れられている。データ、AI、自立システム、宇宙空間の高速移動、量子技術、バイオ、新素材。しかも、これらが組み合わさって、新しい創発効果をうむだろうことまでが。

 わたしたちは「未来」に絶望しなくていい、そんな気持ちにさせてくれる。

 そして、橋爪さんは、この章の最後をこう締めくくる。

・ 産業、経済を育てるには、技術者、経営者、経済学者、政治家、アカデミアの人間などいろいろ社会や人間についてよく理解している人びとが、知恵を出し合っていかないとダメです。日本人がちゃんと給与をもらって、安心して働ける産業を、創造しなければならない。いまある産業は、だいたいなくなっちゃうのですから。

・ 介護とか、サーヴィス業とか、効率化がむずかしく生産性があがりにくい業種がかならずあります。そういう業種の人びともみな、中産階級としてともに暮らしていくためには、生産性の高い新産業を育てて、そこで生み出される付加価値を、みなで分け合う分配の仕組みを築くしかない。日本国内に付加価値の高い新産業を育てる。それしか解決はないのです。日本の既存の大企業は、海外に生産拠点を移し、派遣や非正規を踏み台に、自分だけ生き残りをはかりました。こうした大企業が、これから必要な分配の仕組みを担うのはもう無理だと思います。

佐藤

・ 特にGAFAみたいなものをモデルにして、そこにイノベーションを求めたとしても、雇用は生み出さないですからね。

 以上で長い引用(書き写し)を終わるが、せっかくだから他の章もタイトルだけ記しておく。

・第1章 経済の分岐点 「アメリカ一極構造」が終わり、世界が多極化する

・第3章 軍事の分岐点 米中衝突で、世界の勢力図が塗り替わる

・第4章 文明の分岐点 旧大陸の帝国が、覇権国の座を奪う

 著者二人について

橋爪大三郎氏は、1948年生まれ。社会学者。東京工業大学名誉教授。

佐藤優氏は、1960年生まれ。作家。元外務省主任分析官(ロシア担当)。

 日々報道されるロシアのウクライナ侵攻に憤りが止まらない。いま人類がすべきは戦争(侵略)ではない。両氏が論じたようなことこそ、人類の喫緊の課題だ。

                      (2022・4・14)

 

 

 

老人会長の嘆き・・・!

 今日は、俵津老人クラブの「総会」の日でした。待ちに待ったこの日でしたが、今年もまたにっくき「コロナ」のために出来ませんでした。通常なら、わたしも公民館の舞台に立って酔いに任せてヘタな歌をうたっているはずでしたが(!)・・・。

 今日は、役員会のメンバーが総出で、会員への「弁当配り」をしました。散り始めた桜ではありますが、まだ十分楽しめますので、この弁当をもって個別にでも花見に出かけてほしい―せめてものわたしたちの願いでした。(むかし、4月3日は「俵津の花見の日」でした。地区全体の農休日でもありました。)

 老人クラブ最大のイベントができない辛さ・やるせなさ、それはわたしたち役員の共通の思いではありますが、一番それを感じているのはやはり会長でしょう。「総会資料」冒頭にこんなことを綴っておられます。お読みください。(ハートマークと太字はわたし)。

     ※             ※            ※ 

 野福峠の桜が満開です。会員の皆様にはますます御健勝のこととお慶び申し上げます。

 私が会長を引き受けて3年になりますが、コロナウイルスによって、1度も総会が開かれておりません。先日の役員会で総会をどうするか話し合いました。公民館大ホールでの飲食が禁止されていること。飲食なしでは出席をする会員が少なくなること。会員の健康には換えられないこと。等で今年も総会を中止し、資料と料理の配布で総会に替えることになりました。これで総会が連続3回失われることになります。コロナで已む得ない事とはいえ申し訳ないと思っています。皆様のご理解をお願いいたします。

 昔、田休み、祝言、葬式、秋祭り、法事等で親類、近所、友人が集い自家製の料理で「お客」が開かれていました。一家の主婦にとっては大変な骨折りでしたが、老若男女が料理を作りながらを深める機会でもありました。特に招待客の綺麗に盛られた膳より、手伝い方の料理は鉢に盛られ、賑々しいおしゃべりと一緒にとても旨かったことを覚えています。

 老人クラブにとって総会は1年に1度の「お客」です。221名の会員の「お客」です。亡くなられた方々へのご冥福の黙祷、新入会員の歓迎、事業報告、会計報告を審議、そのあと懇親会(お客)です。来賓の方々との話や会員同士のおしゃべり、コロナによってビデオ通話、SNS、テレワークの技術が進みコミュニケーションに事欠かないにしても、身近なリアルな会話ほど通じ合い、心豊かにするものはないと思います。コロナの今だからこそ人とのスキンシップ的な会話が必要です。

 今年度老人会として取り組みたいこと。役員会未了解ですが

①総会の続き

②老人のための演芸会

③1日遠足

④健康維持の活動(ゲートボール、クロッケー、歩く会ほか)

アジサイの植え付け

 皆様方のご協力をお願いいたします。

                  俵津老人クラブ会長  永山福重

 

      ※            ※           ※

 人一倍深く考える方です。さまざま考えたことを、自分の任期中にやれないことに対する苦衷がにじみ出ている文章だと思います。

 「コロナ」よ、去れ!と声を大にして言いたく思います。老人というのは、言わば時間と勝負しているところがある生き物です。1年1年弱っていく、体力・気力が衰えていく、培った技も錆びていく、美貌・かんばせも・・・その他あれやこれやも・・。

 「ウィズ・コロナ」が、どうしても必要となりました。一説ではこのコロナ、まだ3年はつづく、らしい・・・。どう、日常を取り戻したらいいのか。どう、「コロナ」の間をぬって活動していけばいいのか。ある覚悟のようなものも求められるかもしれませんが、みんなで真剣に考える時期が来た、と思います。

                        (2022・4・3)

 

 

「俵津スポーツ村」村長夫妻という存在

 市川和子先生の訃報に接しました(「広報 せいよ」4月号の「おくやみ」欄)。享年93歳。

 先生は、わたしが俵津小学校2年生の時の担任でした。わたしはいたずらしてはよく先生に叱られていました。はるかな昔の懐かしい話です。

 先生と、先に亡くなられた夫・市川綱太郎さんは、わたしたちにとって忘れられない存在です。わたしたちが立ち上げた「俵津スポーツ村」の村長夫妻として、俵津のスポーツ・文化の振興・発展に大きく貢献していただきました。夫唱婦随=婦唱夫随のおしどり夫婦は、その見事な惚れ惚れするようなコンビネーションプレーで、わたしたちを包み込んで賦活していただきました。

 現在の公民館=老人福祉センターができた昭和60年前後頃の話です。公民館主事は田中清一くんでした。その頃の社会教育のテーマ(俵津まちづくりのテーマでもありましたが)の一つに、「軽スポーツの普及」のステージアップがありました。わたしたちは何度も何度も話し合って、「俵津スポーツ村」を立ち上げることにしたのです。そこで問題になったのは「村長」を誰にやっていただくかということでした。子どもから年寄りにまで慕われる人でなくてはなりません。

 わたしたちが白羽の矢を立てたのが、市川綱太郎さんでした。綱太郎さんは、ご自分のこととして、毎月20日の交通安全の日には農協前の交差点に立って、子どもたちの安全登校を見守っておられました。また、スポーツの面でもお仲間と「百走会(ひゃくそうかい)」をつくり、「百まで元気に走ろう」と健康増進活動をされていました。「元旦走ろう会」なども実行されていました。

 わたしたちのお願いに、綱太郎さんはすこし悩まれたようですが、和子先生の「お父さん、せっかく若い人たちが言って下さるのだから、やりましょう!」の声で、引き受けると言って下さいました。お仲間の佐藤丈郎先生や山下豊一さんなどを引き入れてくださり、スタッフが続々と集まり陣容が整いました。

 田中主事の八面六臂の活躍もあって、実にさまざまの「軽スポーツ」の体験・講習が行われました。が、最終的には当面「レクバレー(レクレーション・バレー)」と「クロッケー」の二つに絞って普及を目指そう!ということになりました。

 それからのことは皆さんご存じの通りです。

 レクバレーもクロッケーも週二日練習会が持たれ、たくさんの方が参加していただきました。季節ごとに開いた「レクバレー大会」には、毎回15チーム以上の参加があり、会場の体育館は熱気でムンムン、快いフィーバー感が充満していました。(いやあ、楽しかったですねえ。人生に充実感がありましたねえ。)

 その大会の後の市川邸で催される「反省会」には、30人ほどの実行委員が集まり、三間ぶち抜きの大広間でまことに盛大な宴会が催されました。市川夫妻のお人柄で何の遠慮もいらない空間は実に楽しい楽園でした。

 市川夫妻は、スポーツ村のロゴ入りのTシャツやタオルまで作られて、わたしたちに配っていただきました。

 市川夫妻の、スポーツ村にそそぐ、かたむける、愛と献身は、わたしたちの想像を超える深いものがありました。

 ◆

 その活動で評価を得た「俵津スポーツ村」と「市川綱太郎」さんは、県の「優良団体・グループ・グループリーダー表彰」を受けました。平成6年度には「俵津スポーツ村」が、同7年度には「市川綱太郎」さんが、「県公連会長賞」を受賞しました。

 「スポーツ村」は今もつづいています。レクバレーは宇都宮道有会長の下で(コロナ禍で休止中ですが)、 クロッケーは酒井千昔会長のもとで(こちらはスポーツ村の名称は冠されていませんが)。

 わたしは今、言葉の本当の意味でのパトロン、つまり芸術家や団体の支援者という意味でのパトロン的存在の重要性を強く感じています。「まちづくり」には、そういう方々が必要なのです。パトロンという言葉で、誰しもが思い浮かべるのは、イタリア・ルネサンスを振興させたメディチ家でしょうが、まさに市川夫妻はわが俵津の文化・スポーツ・人々の健康の面で多大な貢献をされました。

 まちづくりの支援者(パトロン)の必要な要件をあげてみますと、

・「まちづくり」に理解と協力心があること

・自らも実践されていること

・広いこころと愛される人柄をもっていること

・経済力をもっていること

などでしょうか。市川夫妻はそのすべてを持っておられました。

 わたしたち当時の若者は、その下でほんとうに自由でのびのびと活動できたのです。誰にでもできることではないだけに、「新しいまちづくりの時代」の支援者(パトロン)が、市川夫妻につづいて、現れてほしい、と思います。

                      (2022・3・26)