虹の里から

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西田エッセイ  第三回  (全10回)

西田孝志・連載エッセイ「私の映画案内」⑱

       「映画に見る男と女その時代パート2」

 皆さん、寒いですね!今年の冬はほんとに寒い!トランプさんがアメリカ北東部の寒波を受けて、これで温暖化か?!とツィートしてましたが、地球はより寒く、より暑くなる、と警告する学者もいます。地球規模での気候変動は確実に起こっていると思います。

 さて、パート2で取り上げる映画はティファニーで朝食を1961年、アメリカ映画です。主演オードリー・ヘップバーン。誰でも一度は見た事のある映画で、主題曲の「ムーンリヴァー」は大抵の人が口遊んだ事のある名曲です。だれもが知る映画のはずですが、この映画ほど背景の時代を知らないと、映画の内容や、真の意味を理解できない映画は他にないと思うのです。映画は時代を写す鑑とも言われるように、映画が時代を、時代が映画を互いに写し合う事があります。この映画はそう言った意味でも優れた名作と言えるのです。

 映画の原作者は、トルーマン・カポーティアルコール依存症で、ゲイのアメリカ人作家。早熟の天才と呼ばれ、1966年、アメリ現代文学史上に残る名著「冷血」を発表し、新たなルポルタージュ文学と言うジャンルを確立させた人物。彼が「ティファニーで朝食を」を発表したのは1958年でした。この時代、つまり50年代後半から60年代に掛けて、アメリカ全土で非常に大きなムーヴメントが幾つか起こります。その一つが黒人による公民権運動。これにより価値観の変動や、差別を前提にして成り立っていた、白人優位のコミュニティが揺らぎ始めます。もう一つの大きな動きは、ウーマンリブに代表される、フェミニズム運動です。近代以来続いてきたフェミニズム運動はこの時期に最高潮を迎え、後に「20世紀最大の思想的事件」と、呼ばれました。この運動は、女性への差別を制度の中にではなく、男性と女性の関係の中にある問題として捉え、女性の社会的、経済的、性的な、自己決定権の確立を目指したものでした。この思想が映画にも大きく影響を与えているのです。

 映画の主人公、ホーリ―は娼婦で、相手の男性は作家志望ながら、金持ちマダムの若き愛人です。娼婦と若きツバメの恋愛。見方によれば、不道徳で自堕落な二人、の関係とも言えます。この恋愛劇をあたかもピュアなラブストーリーのごとくに仕立てあげるところが、所謂ハリウッドマジックなのです。オードリーが娼婦?出鱈目言うな!とお怒りの方もいるでしょうが、事実です。この映画の出演を最初にオファーされたのは、実はマリリン・モンローでした。彼女は原作を読み、「娼婦の役はやりたくない」と、断りました。多分イメージダウンを恐れたのだと思います。映画が大ヒットし、オードリーの人気がさらに上がっていくのを見て、モンローはどう思ったでしょうね?モンローが拒否した映画ですが、出来上がった映画を見て、皆さん何か感じませんか?実はある映画にとても良く似ています。ホーリーがイライザ、ハリウッドのプロデューサーがヒギンズ教授としたら、貧乏な娘が貴族と結婚する、現代版「マイフェアレディ」と、言えるのです。この筋立てにより、娼婦である女性がいつの間にか、必死に幸せを求め、一人人生の荒波に立ち向かう、健気で強い女性、にイメージが変わって行くのです。こうやってイメージは作られていくのです。

 フェミニズムの運動は、アメリカの多くの人々、男性も含め、を覚醒させたと言って良いでしょう。以前の社会では、女性は時にただ単に性の対象であり、社会的、経済的に男性に支配される劣った感情の持ち主と見なされてきました。映画「プライドと偏見」を思い出してください。女性は結婚し、子孫を残す事が義務とされ、家庭では良き母、夫には良き妻となる事を生涯求められ続けて来たのです。主人公ホーリーはその人生に反逆しました。彼女は夫と、何人かの夫の連れ子を片田舎に残し、新しい人生と、別の何者かになる為、家庭を捨て飛び出したのです。プロデューサーと出会い、知識と教養を身につけ、自立した一人の女として、ニューヨークで一人生きて行こうと決心しました。しかし、ニューヨークでの女性の一人暮らしは厳しく、彼女は結局自分の魅力や若さ、肉体を切り売りする生活を送らざるを得ません。しかし、それでも彼女は希望を捨てません。彼女の辛い現実と見果てぬ野望。それを端的に描いたのが冒頭の有名なシーンです。早朝の人気のないティファニーのショーウインドーの前で、高価なドレスを着て、それを覗き込みながら一人菓子パンを食べるホーリー。理想と野望、残酷な現実が目の前で交差する、極めて意味の深いシーンです。

 この映画のラストシーンはとても有名です。製作者はラストに全ての思いを込めて、映画を作り上げたのでしょう。ラストは雨の中です。映画の中の雨にはどんな意味があると思いますか?二人だけの世界、閉ざされた空間、異次元の別の世界、それらを象徴しているのが映画の雨なのです。映画「七人の侍」の雨中の大乱戦、観客の眼は戦いにのみ集中します。映画「セブン」、降り続ける雨の中、連続して起こる、7つの大罪を模した殺人。降り続ける雨が思考を遮断し、観る者を異様な幻影に満ちた世界へと誘い込む。そして乾燥し、焼け付く様な荒地の上で突如現実が牙を剥いて表れる。雨が降る事で、ニューヨークの街に二人だけの世界が現れます。その雨の中、ホーリーは彼女の猫を車から追い出します。猫は幸せな家や家庭の象徴です。彼女は幸せな家庭を諦めたのです。それを見て、男は女から離れようとします。だが何とか気持ちを伝えたい。「僕は君を愛してる、だから君は僕のものだ」それに対して「私はものじゃない、皆んなそう言って私を束縛する」これウーマンリブのスローガンです。彼は言います「違う、それが愛だ」そして「互いに相手のものになる事、互いに相手を所有し合い、互いに分かち合う事が愛なのだ」と、さらに「それが愛の現実なのだ、現実を見ず、認めようともせず、現実から逃げる君はただの臆病者だ」と。作者は多分こう言いたかったのだと思います。社会の最小単位すら守れず、家庭を壊し、自立と権利を主張し、一人孤独に生きる事が、本当に女性にとって幸せにつながることなのだろうか?と。

 ホーリーは雨の中、猫を探します。冷たい雨の中、凍えて震える猫を見つけ、彼女は抱締めます。これは女性の負けを認めたのでも、表現したのでもありません。互いに分かち合う二人に勝ち負けは関係ありません。彼女は小さいが本当の幸せを手に入れたのだと、言いたいだけなのです。

 皆さんの映画の見方が少しでも変わればいいな、と思ってます。それではゴキゲンヨウ・・・。

                           (2020・11・2)