虹の里から

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西田エッセイ  第四回  (全10回)

西田孝志・連載エッセイ「私の映画案内」⑲

       「映画に見る男と女とその時代パート3」

 皆さんお元気ですか。アカデミー賞の授賞式を見ました。ちょっと気になったのが中国系の出演者の多さです。今やハリウッドは中国資本なしでは立ち行きません。だから映画に出演する中国系も多くなります。金持ちには敵わないという事です。

 今回ご紹介する映画は「南瓜(カボチャ)とマヨネーズ」2017年、日本。と言う変わった題名の映画です。原作者は魚喃(なななん)キリコ、同名の女性向けコミックの作者です。正直あまり注目されてもいない(偏見かな)と思われる方もいるかも知れません。ですが、私は近年の日本映画の中で、現代に置ける男女の関係やその心情を、これ程率直でかつ的確、正値に描いた映画を他に見いだせません。暴力的ではなく扇情的でもない、唯坦々と一組の男女の出会い別れを描いている。あたかも現代版の小津安二郎と言った描き方をしている。もし小津が現代に生きていたら、きっとこんな映画を作ったかも知れない。

 映画を見て最初、どうしょうもない閉塞感に襲われた。逃げ道のない閉じ込められる様な感覚にずっと付きまとわれるのだ。これはほとんどの場面が屋内の狭い空間で撮られているからだと思う。屋外場面はあまりなく、あっても人物中心で限定的だ。これも小津と似ている。これらの閉ざされた空間で交わされる会話や行為が、先の見えない閉塞感を生み出していく。そして、そこから生まれる感情がそのまま一組の男女の肉体に持ち込まれて行く。男と女の感情の行き違い、そこから生じる反発や対立、やがて憎しみが生まれ、徐々に破局へ繋がって行く。その間、二人の関係には先の見えない行き場のない閉塞感がずっとつきまとう。

 それにしても何故だろう。何故二人は展望のない閉ざされた関係に落ちてしまうのだろう。女は昼間ライブハウス、夜はキャバクラで働いている。彼女には同棲相手がいた。ミュージシャンで、バンドのギタリストだ。所属していたバンドが解散し、他に稼ぐ場のない男はライブハウスで彼女と出会い、同棲に至っている。だから女は稼がねばならなかった。彼を食わせ、音楽に専念させて、良い音楽を作らせ、成功させたい、それが彼女の働く目的であり夢でもあった。その関係が崩れ始めて行く。手軽に金が稼げる、と中年男に誘われ、彼女は体を売ってしまう。きわめて簡単に、あっさりと。それを知った男は自分で稼ごうとして、バイトを始める。それは寝る間もないようなきわめて厳しいバイトだ。当然二人の生活はすれ違い、同じ部屋に住みながら顔を合わせる事も希になり、会っても互いに無視するか、棘のある言葉を交わすようになって行く。女は自らが作り出したその状況に耐えられず、偶然出会った昔の男とよりを戻して付合いを始める。女は昔にその男の子供を内緒で堕ろしていた。その事を男に初めて告げると、男は「へえー、そんな事あったっけ」と答えた。この二人の関係を同居の男に隠そうとしなかった。彼女はこうなった原因は自分を無視する男の方にある、と考えている。やがて当然の様に、二人の関係は破局する。別れた後、二人はライブハウスで再会するが、最早他人同士の会話だ。そして二人は二度と交わる事のない互いの人生の様に違う道を歩いて行き、映画はそこで終わる。

 この二人の関係をどう捉えれば良いのだろう、何よりも彼らの人生の目的は何なのだろうか。私見だが、私は人間の人生の目的は幸せになる事だ、と思っている。その為に努力し、戦い、築いて行く行為が、人間の人生なのだ、と思っている。幸せの形はさまざまだ。一人で生きる事が、幸せだ、と思う人もいる。だがそれを幸せだと認めてくれる他者がいてはじめて本当に幸せなのだ。幸せは相対的な感念なのだ。他者が存在するからこそ、始めて幸せと感じる事が出来る、と私は思う。この男女にとって、人生で一番大事なもの、一番大切にすべきものは一体何だったのだろう。女性が高学歴となり、経済的に自立し、自己決定権が増え、セックスもほぼ自由となった。その結果、女性が失ったものは本当になにもないのだろうか。価値観は多様化し、選択肢の幅は広がり、愛すらも選択する価値の一つになった。人生を掛ける程のものではない、と。普遍的で絶対的なものは今や何ひとつ存在せず、その為に人は常に迷い続ける。人生と言う川の渡るべき場所を求めて。ゆえに男も女も、互いに相手の気持ちや心情が真実かどうか理解出来ず、常に互いの腹の内を探り合う様な態度や言葉を発する。自分の心情のみを一方的に相手に投げかけ、理解してもらえなければ自分への無視と捉えてしまう。心は通い合わず、自分を見失い、いつしか一番大事であるものが、感情や欲望の対象へとすり替わって行く。50年代のフェミニズムの運動の結末が、本当にこれで良いのだろうか。私は決して懐古主義者ではない。しかし、「プライドと偏見」の時代に貴族が見せた、女性は弱い存在、だから庇護し、保護する、この精神は本当に間違いなのか。「ティファニーで・・・・・・」で見た、互いに相手のものになる、愛が全てを束縛する、と言う事は真実ではないのだろうか。時代と供に人の心も環境も変化する。当然の事だろうし、又そうあるべきだ、とも思う。しかし、失ってはならないものは確かに存在するのだ。それを、時代が変わろうと私達は伝え残して行かなければならない。今を生きる者として。

 それではこのへんで、ゴキゲンヨウ・・・。

                        (2020・11・7)