ジジババ祭り
団塊小太郎
高齢者とか老人とは一体どのような人のことを、言うのであろうか。最近とみに力にあふれエネルギッシュな人たちの多いことか。目をみはるばかりである。
最近の高齢者の中核をなすのは、いわゆる堺屋太一氏が名付け親の団塊の世代である。この世代は戦後の民主主義の薫陶を受けた、第一世代である。
その後高度成長期には企業戦士として経済の最前線で勇猛果敢に戦い、また安保闘争や大学立法反対など戦後体制の批判・抵抗と反体制活動への運動なども、盛んな世代であった。
田舎暮らし故にみな同じステージを過ごしてきた。生まれたところも同じなら泉下もまた目と鼻の先にある。小学校中学校と互いに机を並べ、互いによく学びよく遊んだ仲である。また戦後の困苦欠乏の時代も互いに芋とカイボシの粗食に耐え、乗り越えてきた世代である。
戦後七十有余年を経て老境に差し掛かりつつある今日、朝露のはかなさに我が身を重ね道辺の花にいとおしさを抱き、泣いているのかと思えるほどの風の音に、心を奪われる。
もう一度青春が取り戻せるならばとはかない夢を見ながら、見上げた雲の何と白いことか。心洗われる気がするが思えば人生は紆余曲折の中にありまた繰り返す蹉跌とともに、あるのであろう。
しかしたとえ青春を取り戻せたとして、果たして何がしたいのであろうか。その解のないこと或いは見つけられず歳を重ねたことこそが、青春なのかもしれない。歳はかさねても気持ちは青春だと言う人は、多いのではないか。中には自分が高齢者だと自覚してない人も、いるのではないだろうか。
その青春をもう一度取り戻し爆発させようとする企画が老人会有志によって開催され、十月九日俵津公民館でかいさいされた。
その可笑しさに加え面白さとは入れ歯を飛ばして笑い転げると言ったほどの、笑いであった。何故そんなに面白かったかというと、会場に入る前から笑い転げてやろうと、皆が心の準備をしていたことに他ならない。何も楽しみのない田舎暮らしならではのことである。
それは数十年前の学芸会が再現されたようで、歌って踊って演劇にと、皆真剣であった。真剣であるがゆえによけいに可笑しさ面白さがふくらみ、青春を謳歌した一日であったであろう。
これは青春ではなく老春だと、言えるかもしれない。いくら意地を張っても残された時間は少なくなるばかりで、野福の桜もあと何度見られるか。棺桶に向かって早足で近寄っているのか、棺桶が寄ってくるのか分からないが、この秋の心地よい日差しと風の中でおおいに老春を楽しんだ一日で、寿命も少しは伸びたことであろう。
このような今までにない初めてのジジババ祭りが開催できたことは、ひとえに団塊世代の既成概念にとらわれない、自由な発想の賜物である。
年に一度と言わずに二度三度と言う声もあったと聞くが、それこそが密かに心身に潜む老人パワーの、源であろう。再びステージの上で可笑しさと笑いが、相まみえる日が来ることを、願うばかりである。老春万歳。
(2022・10・30)